- ナノ -


全部もってけよ



 人間とその他の生物との違いとは何だろうか。などと言って簡単な話だ。言語を生んで、それも御大層なことにも国ごとに多種の。もちろん鳴き声だって言葉の一つだろうけれど、圧倒的知能と文化を誇る人類が言語を生み落として今尚当たり前の顔で扱っているのは、きっと偉大なことであるのだろうとは思う。
 だけど、統一言語を持たず、自分達の生きる土地のみで通ずる言語で生活する私達は、されどその言語のみで十分な交流が出来ているのかと言えばきっとそうではないのだ。だって人間には、生き物には、感情が宿っているのだから。優秀な頭脳が言語を操ったところで、脳が持つ感情という機能には時折匹敵しない。心と感情がどこに宿っているのかなんて歴史でさらっても終わっていない論争だが、早い話、感情と言葉は表裏一体である。

「何を考えている?」

 素肌をなぞる指先が、私を咎めるように粗雑に働いた。くっ、と首を曲げれば、露わになった喉元にすかさず噛みついてくる。

「……貴方のこと」
「それは嬉しいな」

 嘘。本当は明日の仕事が面倒だなって考えていた。しかしダンデもそれをきっと見抜いているだろうに、そうやって私の嘘に上塗りしたら、盲目な演技をして私にうっそりと笑むのだ。
 体が隙間をなくして密着しているのに、私の中の空白をこれでもかと満たしていると言うのに、どうしてだろう、いつも寂しさが付き纏うのは。曲がりなりにも好きな男と寝ている最中であるのに。だなんて自分に疎い真似をしたところで、結局は、知っているから。この夜が、私達が互いだけを目に映す時間が決して永遠ではないことを。どれだけそれを嘆こうと厭おうと、朝は誰にでも優しく平等であるのだから。
 そして、明日の仕事が面倒だなと思っていたのは当然のこと。夜が明けるまで繋がれた手を離したくない哀れな自分が、この夜を必死に抱え込んだままオフィスへと身を滑りこませ、素知らぬ顔でフロアの人間と真面目な会話をして、自分に課せられた仕事に没頭しなくてはならないのだ。気を抜けばこの肌に触れる熱い体温を思い出してしまうから、私はあの場所では淫らなことを何も知らぬような清廉な女でなくてはならない。
 早くまた欲しいなんて、難しいことを思ってしまいたくない。

「今日は集中できないようだな」
「……そんなことないよ。ずっとダンデのことしか考えてない」

 或いはこれも嘘ではないのかもしれない。結局どこで何をしていようと頭が緩めばダンデの顔が浮かびそうになるし、とびきりの囁きが耳に蘇りそうになるし、ダンデにしか許さない体の空白が埋まっていないことの痛みに泣いてそこが収縮する。ダンデのことを考えないために他の作業に傾倒しているのだから、一概に嘘とも呼べないのでは。
 まったくなんて滑稽なことなのだろう。私達は人間で、男と女で、同じ言語を使っているのに。いつだって口で吐く言葉だけが宙に浮いて乖離している。かといって感情を脇目もふらず晒し合うこともなく。二人の間にあるのは、感情に支配されない都合が良い建前だけの言葉。そして、それに気付いていながら指摘することも、掻き回すこともしなくて。
 その時。また気も漫ろ、と思われたのかもしれない。思い切りよく体の深くを目掛けて大きな衝動を与えられてしまった。あられもない悲鳴が飛び出す。それに満足げに舌を舐め、眇めた金色の鋭さが、また私の中の寂しさをより加速させるようだった。体はこんなに相手のことを求めていて、求められているのに、どうして言葉だけが嘘ばかり重ねていくのだろう。
 好きなのに。こんなにも二人揃って好きでどうしようもないのに。

「……好きだ」
「わたしも」

 嘘、うそ、うそつき。そう思ってしまう私だって罰当たりな嘘つき。そう決めつけておかないといつしか自分が捻じ曲がりそう。予防線を張って、切り捨てられた時に傷付かない準備をしておかないと、いざという時の覚悟を今から保てない。
 ダンデは私だけの物にならない。こうして肌を重ねても、唇を重ねても、言葉を重ねても。チャンピオンという栄えある称号が、いつ私からこの温もりを攫って行ってしまうかも知れない。ダンデを愛していることを誰にも教えてあげられないまま、私の月日だけが無情に過ぎていくばかり。だから未来の話なんて絶対に口にしてはならなかった。
 それでも、こうして抱き合う時間だけは特別なのだ。私の手で捕まえられる唯一の瞬間。朝が来るまでの、限られた行い。
 朝が来たら、ダンデは偉大で誉れ高いチャンピオンの顔で。私も淫らなことを一切知らないような清廉な女の顔で、それぞれの道を歩かねばならない。誰一人にも気取られることなく、証拠を残すこともなく、自分で選んだ道を。

「好きだナマエ……好きなんだ……、」

 これを真実とわかっていながら、どうしても心の内側まで招き入れることが出来ないでいる。ダンデは私の中身など全部見透かせるだろうが、私にそんな技量はない。私ではダンデの心意も真意もわからない。わからない頭の振りをして、いつか今日までの何もかもをなかったことにされてしまうかもしれないと、来るかもわからない終わりを想定して、我が身可愛さにこうして上辺だけの言葉ばかりダンデに告げねばならない。
 明日の約束など出来やしない。約束などしたところで守られる保証もない。果たされないことなぞ私は寛容にも許したくないから、いらない。

「……ダンデ」
「ん……?」
「もっと、もっと乱暴にして」

 ならばせめて、捕まえていられる内に全部ぶつけて欲しいと願うのは、いけないことではない筈。上辺だけの言葉でもなんでもいいから、どうか私に残して欲しい。どうせ朝になればまた空白になる中身だ。ガラルの中でただ一人、栄光と呪いを被るダンデだけが抱える寂しさをもう少しだけ教えて欲しい。今だけでも私の中に置いて行って。
 私の寂しさも持っていってと、そういうことは口に出来ないのにそうして欲張りにも。言語を操る人間でありながら、もうずっと言いたいことは何も言えないままなのに。

 私の願いにダンデは大きく身震いした。夜色の二人きりの部屋の中で、相手を引き寄せながら、その金色の瞳が獰猛に尖る様を目の当たりにした。そういうの、私は好き。せめて夜だけでも、私の中のダンデの為だけにある空白で頭を焦がして善がる貪欲な獣たれ。
 もっと自分で捕まえていると実感するために、逞しい体に腕も足も回してぴったりと寄り添う。本当は、ダンデもまた同じように永遠に離したくないと思っていて欲しくて、許されるなら何もかも忘れてそうして欲しいけれど。
 ああ、夜色のこの部屋が、ずっと朝の光を拒む夜色のままであればいいのにな。


20210311