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まやかし純情-2



 ダンデさんがくれたもので着飾る毎日は、さほど悪いものではなかった。ママと暮らしていた頃よりも身に着けるもののグレードが上がったせいか気分も上がったし、何よりダンデさんが喜んでくれるからだ。レストランに連れて行ってもらった時もレディとして丁寧にエスコートしてくれて、少しばかりドキドキしてしまった。プレゼントもレストランの雰囲気も私が好きなものではないけれど。ママが好きそうなものばかりだけれど、ダンデさんが喜んでくれるからそれで問題はない。
 だって、ふと考えてしまったのだ。ここを放り出されでもしたら私に行く宛などないことを。別に同年代でも一人で暮らす子もいるだろうが、そうするにはまずお金がいる。生きても死んでもお金って必要不可欠なものだから、何を置いても一番に考えなければならない。お金がなければ住む場所だって確保できないのだ。私のような成人前の女が、いや下手をすれば成人したあとだって、まともにお金を稼げない場合だってある。学費だってまだまだかかるし、路上のそういう女の人達を知らないわけじゃなかった。自力で大金を得られるような歳ではない自覚があった。

 だから、なるべくダンデさんの機嫌を損ねないように決めたのだ。前に一度、自分で買ったアクセサリーを着けていたら、ダンデさんが一瞬眉を顰めたこともあった。ダンデさんがくれたものではなく、わざわざ自分で買ったものを着けていたから、どうしてプレゼントしたのに、と思っていたのかもしれないが、単純に私の好みではなかったからプレゼントはジュエリーボックスにしまってあったのだ。それに高価そうなものだったから壊すのも怖くて。
 だけど、ダンデさんが一瞬だけでも気に食わなさそうにしていたのが、私にはちゃんと見えた。瞬きの間に表情を変えてしまったから本当に一瞬だったが、私にはわかったのだ。あくまでも他人のダンデさんと暮らす以上、その機微を具に観察する必要は言わずもがなだろう。何より、十歳の頃に向けられた視線が頭にずっとこびりついていたから。
 それからというもの、自分で買ったものをダンデさんの前で身に着けるのを控えるようにした。ダンデさんがくれた洋服と、アクセサリーと。食事もダンデさんが喜んでくれるものを優先した。そうすると機嫌が良くなるから、私も楽だった。きっとダンデさんの人柄なら突然私を放り出すなんて真似しないだろうが、万が一のこともある。それだけがずっと頭の中で気掛かりだった。

「今日は少し遅くなるから、気にせず寝ていいからな」
「わかりました。お仕事がんばってね」
「ありがとう」

 いつもダンデさんと私はそれなりに適度な距離を開けている。今日も例に漏れずそうで、入り口の前に立つダンデさんと私は人が何人も割り込めそうな間隔があった。ソファでも隣り合って座らないし、お互い無意識なのかあまり物理的な距離を縮めないようにしているみたいだった。ぎくしゃくしているわけではないものの、繰り返すが既知の仲とはいえ私達は他人同士だから、特に可笑しなことではないだろう。
 見送り終えたダンデさんは私に微笑みながら、手を振って仕事に向かった。私は休みだから一日好きに過ごすことができる。遊びに行こうかとも思ったが、ダンデさんが頻繁にプレゼントをくれるお陰で欲しいものはなかったし――正確には私が欲しい、自分の好みにあったもので欲しいものはあるけれど、今は必要ではないから無駄遣いする理由もない。友達もみんなそれぞれ用事があるから一日中手持無沙汰だ。
 暇だし家事を済ませてしまおうと、お利口にそっちの精を出すことにした。洗濯は結局自分の分だけやればいいと言われているので、その通りにしている。さすがに他人の男の人の下着まで洗う趣味はないし、私も自分の下着を洗われるのは嫌だから、いくらお世話になっているとは言え仕方のないことだ。
 洗濯を終えたら掃除をすることにした。とは言ってもダンデさんの家は必要最低限のものしか置かれていないから掃除の手間がない。男の人の一人暮らしってそういうものかもしれないが、広いのにモノがあまりないと寂しく感じる。狭いアパートの部屋で、物もごちゃごちゃしていたママと私の家とは大違いだ。

「あ、連絡しとこ」

 自分の部屋の掃除も終えてしまったから、ダンデさんの寝室も掃除していいか確認した。これは約束事の一つだった。ダンデさんは立場のある人だから関係のない人間に見られてはまずいものもあるだろうし、私の部屋にも無断では入らないから、入りたい時は予め許可を貰わないといけない。十数分過ぎた頃に、掃除という名目だからかすんなりと許可の返事を貰ったので、掃除機片手にダンデさんの部屋にお邪魔した。掃除機をかけるだけだからすぐに終わってしまって、いつもであればシーツを整えたり物をいじったりはさすがにできない。私だってされたら嫌だ。それはダンデさんもわかっている。

 だけど、今日は思惑があった。いい加減はっきりさせたいなと思っていたのだ。無駄に防衛意識を持つのも疲れてしまうし。
 いけないことだとわかっていながら、部屋の壁側にある書斎机らしきものの引き出しを開けた。そこは細々と筆記用具やら便箋があるばかりで面白味もない。でも未開封のコンドームが隠してあったからちょっと笑ってしまった。念のため椅子もずらしてその下を確認したが何もなさそうだ。クローゼットも開けて検分したが特に可笑しなものはない。そうとなればやっぱりベッドかと、躊躇は覚えたものの手をかけた。布団を捲って、枕を持ち上げた。すると、あっさりと発見してしまって拍子抜けした。

「……はは、はぁ」

 写真立てに入れられた、一枚の写真だった。そういう形で大事にしていたのかと、乾いた笑いが零れた。
 あどけない少年と少女が、そこにはいた。満面の笑みの二人だ。私は、それが誰と誰かなんて考えなくてもわかる。
 私が生まれる前のママと、ダンデさんの写真だった。


 
 その日、ダンデさんは夜更けに帰ってきた。私はもう自分の部屋で眠っていたけれど、物音で微かに意識が浮上して、ああ帰って来たのかとまた目を閉じようとした矢先、どんっ、と重たい音がリビングの方からしたのでびっくりして目が覚めてしまった。泥棒とかの可能性が低いと信じられるくらいこの家のセキュリティはしっかりしているから、多分ダンデさんなのだろう。
 念のため恐る恐る確認しにいくと、やはりそこにいたのはダンデさんだけで少し安心した。でもテーブルの足にもたれかかるようにして座り込んでいるから、ぎょっとして慌てて駆け寄った。

「ダンデさんどうしたの?」
「……すこし、酒をのみ過ぎてしまって」
「お水いる?」
「ああ、すまない……」

 珍しくも酔って帰ってきたダンデさんは目も虚ろで、けれど意識はちゃんとあるらしく、ただ力が入らないだけみたいだった。今も椅子を引こうとしたら足がもつれたようだ。
 ペットボトルの水を差しだすと受け取ってくれたが、ぼたぼたと口の端から零してなんだか見ていられなかった。仕方ないからボトルを持って少しずつ口に傾けていくと、大人しく飲んでくれる。水が垂れた首の喉仏が上下する様が、どうしてかやけに目についた。

「シャワーは?」
「あしたにするよ……今日は、ねる」
「立てる?」
「立てる……あっ、と」
「あぶなっ!」

 酩酊したダンデさんを見るのはこれが初めてで、外で食事して酒を呑むことはあったが酔うこともなく、酒に強いのだと思っていたが、ただただ量を抑えていただけなのかもしれない。お酒のことはまだあまりよく知らないからなんとも言えないけれど。
 ふらふらのダンデさんは立てる、と宣言をしておきながらすぐ足を崩してテーブルに手をついてしまったので、また慌ててしまった。仕方なく支えながらダンデさんの寝室まで向かったが、力の入っていない大人の男と私では体格差もあって、支えているなんて誇張もいいところだった。実際はダンデさんがどうにか踏ん張ってくれているだけで、私はと言えば腕を引っ張って誘導してあげるのがせいぜい。でもドアは開けてあげたから、それだけでも十分だろう。

「ダンデさっ、わ」

 体をベッドに向けてあげて腕を引っ張ろうとしたら、とうとうダンデさんの体は倒れてしまって、咄嗟に腕から手を離せなかった私も転んでしまった。ベッドに頭から倒れていったダンデさんと、中途半端にベッドの上で倒れ込んだ私は二人揃って痛みに呻いたが、ダンデさんの方はやっと楽になれたせいかもう意識が朦朧としていた。
 でも、ちょっと、チャンスかもしれないなんて、悪い考えが顔を覗かせていた。素面の時はきっとはぐらかされるだろうから、こういう弱っている時の方が誤魔化されないかなって。悪いことはもう既にしてしまったから、自分の中のストッパーが消えかけている。

「……ねぇダンデさん」
「ん……?」
「ダンデさんって、ママのことが好きなの?」
「ママ……」
「そう」

 体を起こして、ダンデさんの顔の横で囁くように訊ねた。秘密の質問をするみたいに、声を少しだけ潜めて。ママの名前も囁くと、薄っすらと瞼が開いた。潤んで虚ろな瞳の中で小さな光がぐるっとして、ここではないどこかを見ている気がした。

「……すきだ、好きだ、ずっと」
「ずっと?子供の頃から?」
「ああ、初めて会ったときから……ずっと……」
「私はママに似てる?」
「そっくりだ……ほんとうに、そっくりで……」

 ダンデさんが隠していた写真を見る限りだと、自分でもそう思った。私と同い年くらいのママは、今の私と本当にそっくりで、私の中にあるパパの遺伝子なんかかき消したんじゃないのって見えるくらいによく似ていた。きっと私がもっと小さい頃からそうで、だからダンデさんは、あんなに熱の籠った視線を私に向けてしまったのだろう。ちょうど、ダンデさんがママと出会った歳くらいの私を目にして。

「ママにどうして告白しなかったの?」
「しようと思ったときには、もう恋人がいたから……気付いた時には妊娠もしていた」
「パパが消えちゃった後でも、言えば良かったのに。いくらでも言える機会はあったでしょ」
「言えなかった……関係が壊れてしまいそうで、怖くて」
「意気地なしだったんだ」

 それでも、好意を隠したままママに優しくして、助けて、いいお友達に甘んじていたのか。傷付かないポジションを守って、下心を殺して、いつもママと私に笑っていたんだ。そうまでして、ママの近くにいたかったんだ。

「まだ好き?ママのこと」
「好きだ、初恋だったんだ……どうして死んでしまったんだ……どうして……っ」

 急に泣き出したダンデさんは本当に相当酔っているようで、大人の男がさめざめと泣く姿は酷く頼りなさげで、寂し気で、可哀想だった。急に小さくなった男の人に、胸の中がざわざわとして、きゅっと唇を引き結んだ。
 いつも立派に振る舞っているのに、こうして一歩引いてみれば好きな女の人に気持ちを伝える勇気も持っていなかった小さな人だった。なぁなぁに関係を続けていたら横から別の男にかっさらわれて、しかも子供まで作られて。その子供を預かって一緒に暮らすのは、一体どんな気分だったのだろう。
 だなんて、惚けたところで詮無い。変な確信は、もうとっくにあるのだ。

「……ダンデさん、こっち見て」
「?」
「ほら、顔。ちゃんと見て」

 もぞり、と顔を動かして私を見てくれたダンデさんは、いつの間にか至近距離に私の顔が迫っていたことにそこで初めて気が付いて、びっくりして目を見開いていた。咄嗟に顔を引こうとしたから、その頬を撫でて窘めた。

「わたし、ママとそっくり?」
「……そっくり、だ。あの頃の彼女、そのままの」
「今ならキスもできそうだね」

 そう囁くと、あの潤んでここではないどこかを向いていた瞳が、私の唇に向いたのがわかった。ごくりと喉を鳴らすのも。
 冷静になられても困るから、ダンデさんが口を開く前に自分から押し付けた。子供のキスなんて大人からすれば戯れみたいなものかもしれないが、ダンデさんは硬直して、魔法にでもかけられたように動けなくなったようだ。

「……は、」
「もっといいよ。ダンデさんなら、もっと」

 ちゅ、ちゅ、と湿った唇に何度か押し付けたら、初めてダイレクトに感じるお酒の匂いと味がして頭がくらくらした。無防備な肩を押して仰向けにして、動かないのをいいことに舌で唇をなぞったら、ダンデさんの唇がぶるぶると震える。何も咎められないのをいいことに舌でぺろぺろと唇を舐めていたら、突然勢いよく体を引っ張られてしまった。驚く間もなくそのまま体を転がされて、あっという間にダンデさんが横になっていた場所に寝かされて、私に乗り上げたダンデさんが噛みつくようなキスを始める。元彼よりも熱烈で、強烈で、容赦のないキスだった。当たり前に入り込んできたお酒の味の舌がぬるぬるとしていて、しつこく咥内で絡んできて、伝ってきた生温い唾液を呑み込むと多分お酒の名残だろう、苦い味がした。
 処女でもないし。多分消えたパパと同い歳の、一回りは歳上の人と、なんて抵抗感も僅かにはあったけれど、結局保身が勝った。この家にいる限り、ダンデさんの機嫌をとるに越したことはないのだ。


20220121