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アイミスユー


※有名な心理テストのアレです


 前触れのないどん底に出会ってしまった時、人というのは断線してしまったかのように思考を停止してしまう生き物のように思える。事実、少なくとも私が今正に、そうだった。覆しようのない現実に自分の中の何もかもが一切追いつけていないのだ。
 別れを告げることがこんなにも難しいものとは思わなかった。棺の中に納められた愛しい人は、本来ならば口にしたくもない私からの惜別に返事をくれない。もう二度と開かれることのない唇が、是も非も唱えてはくれない。残された私と傍らのこの子に、いつものように愛してると囁いてはくれない。
 夫はどうやら職場でも安定した人間関係を築いていたようで、大勢の人間が別れを惜しみにやって来た。口々に私と娘を心配する言葉を向けてくれるが、何も響いてはこない。予期せぬ事態に頭も心も止まってしまった現状、どう振る舞えばいいのかすらわからない。不思議そうに周囲を見渡している娘に一々現実を砕いて教えることも、どうにもおぞましいこととしか思えなくて、未だに何一つ説いてはいない。

「彼はとても優秀な人でした」

 夫の職場の上司だというその人のことは、もうずっと以前より知っていた。このガラルで知らぬ人間の方が珍しいだろう。彼が夫の職場を改装してしまった当時はあまりにもの大胆かつ情熱的な手腕に驚かされたものだが、夫は彼を快く思い新たな風を歓迎していた。彼の言ってくれた通り夫は優秀と評価されていたらしく、彼の下で働くこととなった折には遣り甲斐が非常にあると楽しそうに笑っていた。

「失礼。わたしはダンデ。彼には大変世話になりました」
「……存じております、ダンデさん。こちらこそ、生前は夫が大変お世話になりました。本日もお忙しい中別れを惜しみにきてくださり、とても感謝しています」
「とんでもないです。そちらは、ご息女ですね」
「はい。まだ、父親がこんなことになったことが、理解できないようで」

 こんにちは、としゃがみ娘に目線を合わせて微笑む彼に、娘はきらりと瞳を輝かせた。テレビで彼の勇ましい活躍を度々目にしてはしゃいでいたから、幼いながらに彼のファンなのである。
 この来月五歳の誕生日を迎える娘に、もう二度と父からプレゼントも愛情も貰えないことがわかるわけがない。大人達は私だけではなく娘にも「可哀想に」だとか「残念ね」などと口を向けてくるが、未成熟な娘には何一つ伝わっていないだろう。彼もまた娘が理解を示せないことを口にするだろうかと少々身構えていたが、彼は優しそうにただ笑って娘の頭を撫でた後に立ち上がった。

「愛らしい娘さんですね。彼にも貴女にも、とてもよく似ている」
「はい。私達の、……私の、宝物、で」
「無理はしないで。突然のことでしたし、まだ整理もつく筈がない。わたしだって同じです」

 あ、と頭が気付くよりも早く涙が流れだしていた。薄く塗ったファンデーションを落とすその熱さは、どんどん溢れ出てきてしまう。なにせ耳を疑う必要もない程に、優しい声音だったのだ。

「こちらへ。人の目に晒されてしまう。今の貴女にそれは酷だ」

 彼は私の肩を咄嗟に抱いてそっと人の目がない場所へと移動させてくれた。私の手に繋がる娘もまた同じく。
 裏手に回って、誰の目もない場所で、彼の前で静かに泣き続ける。娘もそれにあてられたように泣き出してしまった。幼い頭でも異様な雰囲気は感じ取っていたようで、母親たる私のこの有り様にとうとう不安が涙へと変わってしまったらしい。

「……正直、こういう時わたしは、どのような言葉を口にすればいいのか、わかりません」

 泣き続ける親子を前に、彼は心底申し訳なさそうに呟いた。まともに開けていられない瞼を押し留め、どうにか滲んで見える彼を見据える。

「自分で言うのもなんですが、わたしは、多くの人間とは違う場所で生きてきた。高度な交渉術は培ってきても、パフォーマンス技術を磨いてきても、誰かを慰める知性を、未だ持ち併せているとは少々言い難い」

 浮世離れした彼のその本質は少なからず感じていた。こうして顔を合わせることは今日が初めてだったが、彼の言動がテレビ越しでも大衆とは一線を画すようにこの目には映っていたから。夫も同様に、彼の下で働くようになってからというものその片鱗に触れる機会が増えたと苦笑していた。
 それをこうして夫に先立たれた女の前で包み隠さず暴露するのだから、失礼ではあるが、成程確かに私達の目はずっと正しかったらしい。

「ですが、微力ながら力になりたいと思っています」

 彼の懐からパッと見でもわかる、アイロンがけされたグレーのハンカチが出てきたことにはいささか驚いてしまった。この無骨そうな男が嗜みを持っていたことに対してもそうであり、何よりそのハンカチが私の頬にそっと当てられたことが殊更に拍車をかけた。

「先程も申し上げた通り、彼には大変世話になりました。不甲斐ないばかりに苦労も掛けました。彼に報いる為にも、残された貴女方へ援助は惜しみません」

 労わるようにハンカチが頬を滑り、淡く笑みを向けられる。無許可に肩に触れてきたことや、ハンカチを肌に当てられたことも、彼の顔を見てしまえばもうどうだってよくなった。
 真っ暗だった道に、突如として明かりが射したようだった。停止した頭が、心が、少しずつ傾き出す。けれど、それなのに、照らされた先が見えるようになった道を、真っ直ぐには進めない。どうしてだが、道は一本ではなくなっていた。
 もう聞き飽きた「可哀想に」でも、「残念ね」でも、「これから大変ね」でもない。上辺だけの感傷ではなく、初めて具体的な慰めをもたらしてくれた。
 空いてしまった穴に、優しく指を掛けられたような。
 彼だけが、この場で唯一、手を差し伸べて寄り添う素振りを見せてくれた。

「困ったことがあればいつでも連絡を」

 微笑みと共に手渡される綺麗に印刷された名刺を受け取る手が、微かに震えていた。



 私は特段、彼のファンを自負していたわけではない。しかし唯一手を差し伸べてくれた人だからか、それからというもの彼の影を追ってしまう自分がいつの間にやら出来上がっていた。夫の体が焼かれて灰となってから、幾許か経った頃である。
 彼はもう既に表舞台より姿を消してしまったので、彼の影を追うことは至難だった。チャンピオンの招待を受けてトーナメントに出場する際は必死にチケットを取り、娘の手を引いてスタジアムまで観戦に行った。もちろんチケットを得られないこともあったが、常に彼の出場の有無を確認するようになっていた。
 夫の死を悲しむ傍ら、彼の顔を思い浮かべることが多くなった。彼に会いたいと望むことが、多くなった。彼に優しい笑みを向けられたいと、声がききたいと、願うようになった。
 彼は多忙であるためにあの日以来私達の前に現れたことはない。こちらが落ち着くまではと気遣っているのか連絡もほとんどない。私からも特に連絡を入れるでもないのだが、彼が私達を忘れていきやしないかと不安に駆られることもままあった。
 恐らくこちらから連絡を入れない限り、彼から連絡が来ることはないのだろう。援助を請われなければ、彼は私に何も言葉をくれない。

 会いたい。直接顔が見たい。優しく肩を抱いて欲しい。日を追うごとに気持ちは空気を注入されるが如く膨らんでいく。
 トレーナーでもなくリーグにも一切関係のない私に、彼と容易に会う術はない。連絡を入れたくともどのような口実で誘えばいいのか全くわからない。どうすれば彼が私に時間を割いてくれようとするか、彼のことなどほとんど知らない頭ではうまく考え付くことはかなわない。
 彼と今すぐどうこうなりたいわけではなかった。ただただ、彼に、もう一度会いたくて。

 ただ、会いたくて。

「ママ?」

 椅子に腰かけて窓を見つめる私の足元に娘がやって来て、どうしたの?とでも言いたげな顔で私を見上げてくる。お腹痛いの?と心配してくれたので「大丈夫よ」と小さな体を持ち上げて、そのまま抱き締めた。
 甘い匂いがする。とても温かい。無垢な笑顔が愛しい宝物。
 生きている事実をそうして伝えてくる娘にたくさんの想いが募って、全身の内外に走るそれに堪えられるわけもなく、愛してるわ、と柔らかい肌に頬ずりした。



 後日、ようやく夢にまで見た彼と会うことができた。
 夫と同じ場所に旅立ってしまった娘の葬儀の為に、彼は私の元へ来てくれた。


20200925