- ナノ -


愛し愛されそれこそ本懐



 噛まれたら終わりだな、と思っていたのに。

 オメガとして生まれた以上は定められし宿命、番を得なければ一生解決できない問題が多々ある。周期的な発情がコントロール、もしくは抑えられるようになれば活動範囲も広げられるし、外へ出る度に理不尽な目に会うかもしれないという恐れを抱く必要もなくなる。母がオメガだから番を得る喜びを幼いながらに聴かされてはいたが、自分がオメガであってくれるなと祈っていた時期には全く要らぬ知恵と感想であった。
 怖かったのだ、単に。番とは生涯の契約。あくまでも主導権はアルファに握られ、握られることに喜びを見出だす被虐性は、物心ついた時にはもう恐ろしいものだった。
 母は父の運命らしい。そう都市伝説を嬉々と語る二人を、仲睦まじいと笑えば良かったのか、相手の命を手にしたも同然ということに平然とした態度を戦けば良かったのか。つまりは母は脆い存在なのだ。父がもしも番の解消を申し出れば負けるのは確実にオメガたる母。そういった万が一がなくとも、オメガはやはりアルファに圧倒的に劣る。結婚して夫婦、家族とカテゴリは変化していっても、どこまでいっても所有物ということに変わりはない。
 そう、後にオメガと診断が下るとはまだ知らなかった私は幼いながら幼いなりに未知の恐怖を感じていた。ピラミッド構造の著しい社会にも、その最小縮図たる我が家も。確かに父は母を愛し、母も父を愛していても、その根底は所詮バース性によるもの。バース性がない世界だったならば、下手をすれば私はこの世に生まれていなかったかもしれないのだ。

 第二次成長期の時分にて行われるバース性の検査を前にして、私は自身がこのピラミッド社会で最底辺たるオメガであることを知った。母と同じオメガ。自らは上を目指すことは難しく、選ぶのではなく選ばれる側の人間。そういう性。
 そろそろ検査ができる頃ね、と話を両親としていた時期にハロンタウンに越してきた私は、引っ越し初日の内にアルファにうなじを噛まれる羽目になった。
 ハロンに近づくにつれ体に異変を感じていたのは確かで、頭が酷くぐらぐらしていたのをよく覚えている。湯船に浸かりすぎた時のように意識が朦朧として引っ越しの手伝いもろくに出来ず、かといってベッドもまだ組み立て終わっていなかったから庭の木陰で涼んでいた時。
 いともあっさりと、私の人生は終わった。

「……きみ、」

 背の低い草を踏みしめる音はやけに耳に大きく響いた。まだ声変わりしてはいないボーイソプラノが、次いで鼓膜にこびりつき、そして腹の何処かへと落ちていく。
 ずくずくと体内の臓物と細胞が熱に蠢き、本当に風呂でのぼせたかのような、そんな感覚。眩暈なんてそれが初めての経験だった。

「あまい、におい」

 はっ、は、と息はいつの間にか断続的になっていて、子供とはいえ自分の体が可笑しいことは痛い程にわかる。わかるのに、自分でどうすればよいのかはわからなかった。ただ、噎せ返りそうなくらいあまいようなにおいだけはわかる。肺を満たすそれのせいで身体中の細胞が落ち着きを失くしてしまったことも。
 ボーイソプラノが耳に進入する度、頭の中が揺すぶられるようで。心臓があまりに速くて、怖くて。

「うまそうだ」

 俯いた視界に草を踏みしめて近寄ってきた靴先がとうとう入り込んだ。第二次成長期に入ったばかりの、バース性もまだわからぬ子供時代。だとしても、本能だけは立派なそれだったようで、まだよく理解はできずとも、朦朧とした意識の中で身の毛立つ私はしっかりと感じていた。
 ああ、終わった、と。
 そうして自我などあっという間に隠れ、体のコントロール権を奪われて指一本すらも動かせなくなった私は、相手の顔もろくに見られていないままあっさりとうなじを噛まれた。
 目まぐるしくも細胞が一から作り変えられていくのを感じながらようやっとぼやけた視界に映したのは、蜂蜜を煮詰めたようにどろりとした、なのに世界で一番美しいと評せずにはいられないような、金色の二つの眼である。

 そうして私の人生などあっさりと幕を下ろしてしまったのだ。
 そこからの私は、私の人生は、ただひたすらに愛するダンデのためだけに存在する。


  ◇◇


 数多のオメガが、母ですら経験した様々なことが、私には何も当て嵌まらなくなってしまった。不特定多数のアルファを誘引するフェロモンは出ないし、周期的なヒートに襲われることはなく欲情を発散できずに苦しんだこともない。抑制剤も飲んだことはないし、チョーカーのデザインや強度に悩むこともなく。オメガ性につきものの日常の弊害とは縁遠い生活のせいで、周囲は私のうなじを見てしまうまでベータであると勘違いしていたくらいである。
 自身が何者であるかを知るよりも早く性を確固たらしめられ、検査で明らかになるよりも前に本人の意思すらも確認せず得てしまった番は、選ぶつもりでもなくただ匂いに引き寄せられてしまったあの日の少年は、今や立派な体格の男となり、そしてガラルのチャンピオンとしてトップに君臨し続けている。余談であるが、あの引っ越し初日、彼は既にチャンピオンとなっていて偶然実家に帰って来ていたところに私の匂いを嗅ぎつけてしまったらしかった。家に近づくにつれて体が疼くような、未知の感覚に襲われていたとも。
 確証はないが、きっと互いが互いを誘引したような気もする。だからこそ私の体がハロンに近づくにつれて異常を覚えていたのであり、自覚よりも早く性がその機能を遺憾なく発揮させて私達を引き合わせてしまったのでは、と。
 まぁ、もうなんだっていいのだけれど。

「ただいま」
「おかえり」

 昔日、私の人生を早々に一度終わらせた男の顔を見るなり体は自然と動いて、その逞しい体に抱き着いていた。すぅ、と鼻腔を通して肺いっぱいにこの男の匂いを取り込める多幸感は、ある種酩酊状態に似ている。目の前の男のことでしか今は五感も働かない。服越しの温度がもどかしくて、でもすりすりと頬ずりせずにはいられない。
 私だけのダンデ。

「いいこにしていたか?」
「うん。……キス」
「ん」
「……そこも好きだけど、そこじゃない」
「うがいしてこないと」

 子供の我儘に付き合うだけの戯れのようだった。頬に受けた唇の熱さが嬉しいのに物足らない。ねだっても常識人の口をしてさらりと私の髪を撫でつけてから奥へと進もうとする。その顔は穏やかに笑うばかり。
 雛のようだ、と背中を追いかける自分を笑えてしまう。でも同じ空間で二人きりにやっとなれるのだから少しも離れたくはない。毎日毎日、ダンデが帰ってくるまでは自分をかろうじて保っていられるのに、ダンデを一目でも見てしまうともう駄目だった。番となってからもう何年も経っているのにも関わらず、いつだってダンデが恋しくて恋しくてどうしようもない。

「早く」
「はは、本当に欲しがりなんだからなぁ」

 そうは言ってもその瞳がとっくに静かではないことなど初めからわかっている。ダンデだって私を一目見れば欲しくなるくせに、それを上手く誤魔化して焦らすのが得意な男だった。
 綺麗に濯いだせいで先程は熱を感じた唇が心なしか冷たい。でも重ねて食んでいる内に次第に熱を帯びてくる。水分を含んだお陰で普段よりも湿るそこが恨めしくて自分の舌で唾液を塗るようになぞると、可笑しそうにダンデが笑う。

「水にも嫉妬?」
「うん」

 唇と唇の隙間から笑われても取り繕うこともないし肯定しか出てこない。ダンデの全部、私だけで満たされて欲しいのに。もちろん最初からそれを承知でいるからダンデも悪戯そうに笑うだけだ。
 自分がこんなにも欲深い性分であったことは、ダンデといると日々痛感するばかりで。けれどこれは元からの性分なのかは知れないことでもある。なにせ自分がオメガであると自覚するよりも早く、私の人生は一度終わってしまっているから。

「はぅ……、あ」

 腰を引き寄せられたら腕を首に絡めずにはいられない。もうすっかり私が食む側から食われる側に変わってしまっているせいで自分の中の喜びに火を点けられたかのように体中が熱くて、腹の奥が暴れるようで、頭がくらりとする。どろりとどこか溶け出していても何も可笑しくはない。
 私にヒートはない。ヒートがどれ程苦しいものかも知らない。苦痛を味わうよりも早く番を持ってしまった私にそれを体感する術は今のところない。
 それでも毎日が苦しかった。だって番とは言え好きで好きでたまらないダンデと四六時中共には居られないから。同じ家に住み、同じベッドで眠り、同じテーブルを囲むのに、私達はそれでも一つではないからそれぞれの役割が外にある。チャンピオンとして君臨するダンデと、ベータを装えてしまう私にも仕事がある。自ら外での自分を持つことを選んだくせに、外で自分を保つことも本当なら平気な筈なのに。ガラル中にダンデの面影があるせいで一々苦しくなるのは馬鹿みたいだ。

「……はふ、」
「かわいい、俺のオメガ」
「あ、やだ……そう呼ばないで……」
「ごめんごめん、かわいい俺のナマエ」

 終わった筈の自分の残滓が途端に泣くのがわかった。オメガを始めとしてピラミッドを否定するようだった、自分の両親すら恐れていた過去の私。あの頃既にもしや、との予感はあったから。アルファとオメガの間に生まれた私がオメガである確率はどれ程のものか、などと。だから自分に振りかかるかもしれない不幸を恐れていた。
 けれどいざダンデを得てからというもの、その大半がこの男への愛に溢れるものだから。アルファに盲目になることは恐ろしいことだったのに、ダンデがいるだけで気を抜くと私が私ではなくなりそうで。

「……なぐさめて、もっと」
「いいよ」

 熱に笑う私のダンデが、腰をするりと撫でて、首筋に鼻をこすり付けてから唇を落とした。大きな手が幼い頃に噛み跡を残したそこを優しく撫でる。たったのそれだけで息を乱す私をダンデは愛しそうに見てくれた。

 私はヒートを知らない。発情して発散が出来ず気が狂いそうになる思いをしたことがない。でもダンデといると駄目だった。その存在を感じるだけで触れたくて触れられたくて、支配されたくて、だけどそんな自分をしつこくこびりついた残滓が泣いてみせる。
 噛まれた瞬間から愛してしまったあの日の少年が、こうして私を迎え入れてくれて囲ってくれる喜びに満足する傍ら、終わらされる前の自分が恐れていたことが現実になることへの戸惑いが少なからずあった。ダンデは私を噛んだ後熱に浮かされつつも同意なく噛んだことを詫びてくれたし、幼い過ちとはいえ責任を感じている節もある。だからこそ番を解消することもなくあれから何年も経った今でも側に在り続けている。けれどそれは、始まりはどうあれダンデも私への愛情を持ってくれているからこそだ。情がなければダンデは容易に他者と線を引ける人間であると私は何年もの付き合いの中でとっくに知っている。

 運命だとか、都市伝説の真偽はわからない。ボーイソプラノを初めて耳にした日、あれを運命と呼んでいいものだったのか、自覚を持つよりも先に本能に従ってしまったから、はたしてどうだったのか。
 されどそれがなんだと言うのか。噛まれたから愛してしまった。噛んだから愛してしまった。始まりはそんなものだったとしても、それから幾度と機会を経て、ダンデへの愛をきちんと自分の中に感じている。ダンデもまたしかり。その証拠にまだ私は一度も子を孕んではいない。時期や段階を鑑みて籍を入れてからもうけようと、私の生理が始まった頃に約束をした。ただひたすらに本能に流されるだけの獣ではないのだ。
 抱かれる間は孕まされたいと本能が泣くが、触れ合う肌から伝わる優しい愛情にまた泣いてしまう。涙の意味は相反する感情のせいでいつも正反対だが、本能に従わない愛も実感出来るから困ったものだ。
 いいのだ。私はダンデのために存在する。ダンデもまた私のために。本能とか理性とか、それよりも私がダンデを愛していることに何ら変わりはない。アルファとオメガだから結果結ばれたとて、そこに確かな愛を覚えているのだ。
 時々思い出したようにこびりついた残滓が泣こうが、私はダンデという人間をとっくに愛しているし、もう離れたくない。


20210530