- ナノ -


ほどよい甘さのシフォンケーキ-1


「お嬢さん、何かお困りですか?」

 不意に横から掛けられた声に驚いたのと同時、連れ歩きしていたイーブイが「ブイ!」と嬉しそうな声を上げてその人物に飛び込んだのが、信じられなかった。


  ◇◇


 時間短縮のためにゴールドスプレーを駆使し、職場のラテラルタウンからナックルシティへ移動した、先日古書寄贈の依頼を受けた資料館へ赴いた今日。
 用事を早々に済ませてからカフェで午後の小休憩でもしようかと思って歩いていたのだが、ここでようやく大問題に気付いてしまった。

 ここ、どこだ。

 後ろを見ても前を見ても見覚えのない道ばかり。忘れっぽいのは確かに忘れっぽいのだが、久々のそれにはほとほと参ってしまい、自身へ矛先を向ける呆れの嘆息をした。
 スマホの地図アプリを起動して位置情報を確認してみたが、いかんせん地図と実際の道を照らし合わせることに疎くて、結局どっちに向かえばよいのか判断がつかない。
 困っているのがわかったのだろう。足元で心配そうに見上げているイーブイがか細く鳴いた。一泊置いて、私の腹もぐるぐる鳴きだし主張してくる。午後の中途半端な時間だが、疲労のせいか早めに虫が活動を始めたらしい。

 さて、どうしよう。引き返そうにも、もう既に歩いた道は思い出せないのでそれは難しい。適当に歩いていればその内辿り着けるかもしれなくとも、お腹が減っているのであまり力を使いたくない。こんな時に寂しさと少しの空腹を鎮めてくれる飴一つ持っていやしない。
 道の端に寄って、うーん、とスマホと睨みっこしながら唸る。もうこの際アーマーガアタクシーを呼んだ方が早いのかもしれないが、目的地が同じシティ内だからちょっと恥ずかしい。
 上を向いて下を向いて。気持ちだけが少しずつ急いていく。動けないのに、気ばかり。焦ってもろくなことになった試しもないのに、嫌な気持ちだけが胸に広がっていく。
 この状況の原因となっている、一年程前にこさえた頭の後ろに走っている短い線路を思い出して、このポンコツめが、と胸の中で罵ったところで表面の線路が気持ち悪く疼くだけで。

 ああ、また迷子かぁ。


「お嬢さん、何かお困りですか?」

 しかし、転機と言うのは思いがけず訪れるもののようで。

 幸か不幸か、不意に横から掛けられた声に肩が跳ねた。まさか誰かに話しかけられるとは微塵も予想しておらず、わかりやすくびっくりした私の顔は反射でその人の方へと向いた。
 あ、とその人の顔を見た瞬間、頭の中にぽんと浮かんだ何かがあったが、なにせ忘れっぽいものでそのまま口へは降りてこなかった。多分、名前だと思うのだけど。
 でも、見覚えがある気がする。
 紫の長い髪に金色の瞳。褐色の肌は赤い衣装に覆われていて、目を丸くする私を、微笑みでもってその人は優しそうに見ている。
 午後の傾いていくだけの太陽の光を浴びて、金色の瞳が朝焼けの中の湖面のようにきらきらと光っている。まばゆい光を間近に見てしまったからなのか、頭に走る線路がずきんと微かに痛んだ気がした。

「あ…、えっと」
「突然失礼。お困りのように見えたもので」

 彼は紳士然として恭しくキャップを脱いで胸に当て、小首を僅かに傾げている。変わらず微笑みを浮かべたままに。
 どうしよう、と突然のことに対応できずこまねいていると、更に驚きに拍車をかける出来事があった。

「ブイ!」

 え、と声にならない声が口の中で生まれる。なんと足元でじゃれついていたイーブイが、何故か、その人の胸へと飛び込んでいったのだ。
 イーブイはおくびょうな性格で、人見知りする。初対面の人間には決して自分から近寄れない子だ。出会ったばかりの頃は慣れてもらえるまでにも時間がかかったのだし、まして初めて会う知らぬ人間に自分からなんて、そんな馬鹿な。
 けれど茫然とする私をよそに、その人とイーブイは何やら楽しそうにしている。嬉しそうな鳴き声を上げて顔を男の胸元へ擦り寄せるイーブイと、当然そうにその頭を撫でる男。恐らく私の口はあんぐりと開いていただろうが、呑み込めない状況に、初対面の人間相手に晒しているアホ面を気にする余裕もなかった。

「昔から、ポケモンに好かれやすいんだ」

 固まる私に気が付いたその人が笑ったままそう教えてくれたが、素直にそうなんですね、などとすぐには受け入れられなかった。

「…そうだ、それで、何かお困りでは?」

 居住まいを正し軌道修正してくるその人は、私のイーブイを抱えたまま、再び尋ねてきたのだった。


  ◇◇


 ダンデ、と名前を教えてもらい、うんうん唸って頭をフル回転させるとようやく思い出した。ガラルの元チャンピオン。現バトルタワー責任者。確か私の一個上の男の人。こんな有名人すら気を抜くと忘れてしまうのだから、本当にぽんこつになってしまった頭である。
 イーブイを返してもらい、素性が知れたので正直に迷子であることを話すと、なら案内をしようと返された。有名人に偶然出くわして道案内までしてもらえるなんてラッキー、と素直に応じて早速歩き出したダンデさんについていったのだが、秒で後悔した。

「あれ…」

 困惑する様子のダンデさんの顔がどんどん色を悪くしていく。ずっと隣をついていった私も、似たようなものだろう。
 世間話をしながら歩いていたことが不注意の原因ではない。これもとんと忘れていたことだが、ダンデという凄腕のポケモントレーナーは、自他共に認める極度の方向音痴なのであった。神様は完璧を嫌う。
 結局、連れて行ってもらいたかったカフェには辿り着けず、どうしてかラテラルタウンへと続く6番道路の近場へとやって来てしまった。
 さすがにわかる、こことカフェは正反対の位置だ。

「すまない…」

 へにょっ、なんてへんてこな効果音が似合いそうな顔で謝るダンデさんに、私も眉を下げてしょうがねぇや、と笑った。何度も道を間違え、その度にこの顔で謝ってくるものだから呆れるなどという感情が生まれても即座に消えるしかなかった。
 本当に、心底申し訳なさそうに謝るのだ。ダンデさんは善意で道案内を申し出てくれたのだ、私はそこまで鬼ではない。

「いえ、気にしないでください。帰り道には辿り着けましたし」
「でも腹が減っているんだろう」

 道中何度も鳴らした腹の音をようく覚えられてしまったようだ。確かに腹と背がくっつきそうだが、もうここまで来れば歩き慣れた道を帰ればいいだけの話なのでそこまで気にする必要はない。きちんとゴールドスプレーだって往復分ある。

「えっと…、あ、これ!これを食べるといい!」

 ジャケットのポケットに手を突っ込み、がさがさと探って差し出されたのは大手製薬会社が出しているパワーバーで、ついじとりと見つめてしまった。まずこんなものをポケットに突っ込んでいたことに驚いたし、何よりこんな場面にさっと出て来るくらいなのだから、常備しているものなのかと疑ったからだ。
 私はそれなりに食にはうるさい方で。

「…あの、差し出がましいですけど、いつもこういうもの食べてるんですか?」
「…っ!」

 すると、どうしてかダンデさんはびっくり顔で固まってしまった。信じられないとでも言わんばかりに私を凝視しているものだから、掌を目の前でひらひらと振ってみても、なかなか意識は戻って来ない。
 固まらせた理由はわからなかったが、夕陽もいい塩梅に落ちかけているし、仕方ないな、と差し出されたままのパワーバーを引っこ抜いて一旦鞄にしまう。道中で食べよう。

「え、と。余計なこと言ってしまってすいません。ありがたくいただきますね。それで…その、何かお礼がしたいんですが」
「えっ!?」

 再び、である。ようやく再生したと思えば再び目を見開いて驚いた様子のダンデさんは、いちいち声が大きいから辺りに叫びがこだましてしまい、思わず仰け反ってしまった。

「お、お礼!?」
「はい」
「いいの、だろうか…!?」
「え?はい。結果はどうあれ助けていただいたので、ご迷惑でなければ。でももし恋人がいるなら忘れていただいて…、あっ、ナンパじゃないですよ」
「行こう!」

 行こう?と首を傾げていると、両手を攫われた。
 目を輝かせて、でも唇をぎゅっと結んで、そして眉は下がったり上がったりしている。
 不思議な顔をしているダンデさんは、一度何か言いかけたのか口を開く素振りを見せたものの結局開かれることはなく、自分の手の中にある私の手に今更気付いたように数秒かけて見つめた後、サッと顔を青くさせてパッと宙に解放した。

 ダンデって、ころころ表情が変わる人だったのか。多分テレビなどで彼の姿は何度か見たことがある筈だが、いかんせんあまり覚えていないから、本当はどうなのかわからないけれど。

「…えと。それなら、行きたい、店があるんだ…君と」
「はぁ…?」
「紅茶はもちろんだが、シフォンケーキが最高なんだ。茶葉の風味がよくて、ほどよい甘さで、添えられるクリームもくどくない」
「甘いものがお好きで…?あ、一人で入りにくいお店とか?それなら、どうぞ、ぜひ」
「本当か!?」

 今度は大きく開いた瞳を一転させ、キラキラと光を散りばめて私を見つめるそれは、オレンジみたいな夕陽に照らされて眩しい程の輝きを宿している。
 外で甘いものを食べるシーンに女の立場を求めるのであれば、きっと恋人はいないのだろう。いればこんな申し出を口にするわけもないし、よっぽどその店のシフォンケーキが食べたいのだろうな。

「ええ。じゃあ…連絡先、いいですか?」
「もちろんだアリシア!」
「あれ…そういえば私、名前言いましたっけ?」
「ああ、言ったぞ」
「すいません、ちょっと忘れっぽいもので。失礼しました」

 ほんの少し前の出来事も会話も忘れてしまうなんて、今日の忘れ癖は大分酷いな。無意識に、頭の線路に手が伸びた。
 いつものことなのですぐ切り替えてダンデさんと連絡先を交換し、恐れ多くもガラルで一、二を争う有名人とも言える人物の名前を表示するスマホの画面には、なんだかおかしな気持ちを覚えてしまった。知らず、喉が詰まる。有名人とこうしてお近づきになるなんてそうそうあることではないから、だろうか。道中、ダンデさんの名前は何度か呼んだのに。
 今更、線路が疼く。

「…ありがとう」

 スマホを見つめるダンデさんは何故かそんな突拍子もないお礼を言う。
 大きな体格には不釣り合いそうなそれは、何かを含んで、噛み締めるような、風にも負けそうな頼りない声音。
 やはり小首を傾げつつも、また後で連絡をすると伝えてダンデさんとはそこで別れた。歩き出した私の足元のイーブイは名残惜し気に背後を振り返っており、本当に不思議な人だったなと変に印象を抱いたせいか、妙にあの人の最後の言葉が耳に残ってしまったようで。

「イーブイ、書いてはおくけど、また忘れてたら教えてね」
「ブイブイ!」

 不思議な人でも、困っている私を見かねて助けようとしてくれた人だ。さすがは元チャンピオン。親切な人だ。
 ラテラルタウンの職場に一度寄ってから自宅へ向かう道すがら、ふと思ったのは、入りにくいお店というくらいなのだから当然訪れたことはないと思っていたのだが、それにしてはなんだか妙に味に詳しかったなと疑問だったのに、玄関を開ける頃にはそれも忘れてしまった。

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