- ナノ -


静謐な図書館と、色とりどりのフルーツのタルトと、オレンジみたいな夕陽-1


 ここ半月程、頭の後ろの線路がじくじくと痛むことが頻繁にある。雨など天候にも関係なく、突然、不意に、予測しないタイミングで。
 カレンダーのバツ印は、そろそろダンデさんと共にフルーツタルトを食べる日までのカウントを残り少なくしている。

「ブイ?」

 ボンヤリとカレンダーを眺める私を、イーブイが心配そうな声を上げながら見つめている。なるたけ柔らかく笑んでイーブイのおでこの短い毛足を流すように指の腹で撫でてやると、くん、と弱く鳴いて目を細める。

 イーブイも、最初は私に微かに戸惑っていた。けれど気丈にも、私より先に順応した。臆病な癖に、私を見限らなかった。
 トレーナーには従順なのがポケモンなのだからそうあるべきなのかもしれないが、その無償の優しさが身に余る程幸せな事なのだと、改めて思い知らされた瞬間だった。お陰で、前を向くきっかけを一つもらえた。
 けれど、店長の海のように深い優しさのお陰で少しずつ自分を受け入れられるようになったが、周囲とは当然そう簡単にはうまくいかなかった。
 亀裂が走った関係は、私が全てを解決できるまで修復できないのだろう。それがいつ訪れるかもわからないし、訪れた所ではたして修復可能なのかは、私には与り知らぬことなのだが。
 私は友人たちに、予期しない痛みをばらまいたのだから。

「大丈夫だよイーブイ。私は、ちゃあんと、わかってるんだ」

 初対面のダンデさんとこうして何度も会う約束ができるのは、拙い関係で許されるからだ。そうでなければ、他人と長く付き合うことができない。できるわけがないのだ。
 私は、ただ彼の趣味に付き合うだけの都合がいい人間で、二人の間に繋げて敷いてあるのはとても細い線である。
 ダンデさんの素性がはっきりとわかっているから、というのも要素の一つでも、そうでなければきっと私はお礼なんてしようとは言い出さなかった。

 それだけの、話なのだ。
 だから、イーブイもそんな顔をしないでほしい。
 私は、寂しくもなんともない。仕方のないことで、店長の言葉にそっくり甘えるなら、私だけのせいじゃないのだ。誰も悪くない。もちろん、離れていった人達も含めて、全て。

 知らず詰めていた息を吐いて、目を閉じて暗闇に浸る。じんわり、朧げに、記憶が染み出してくる。
 シフォンケーキの形は覚えている。だって何度か画像を見返したから。でももう、日付は思い出せない。お店の名前も、外観も、思い出せない。今朝は覚えていたのに、夜になった今はもう思い出せない。確認をしないと、わからない。
 気を緩めると頭の中の空白が、失った時間が、じわじわと侵食して呑み込んでいく。

 線路が痛い。


  ◇◇


 ナックルシティへフルーツタルトを食べにいく日。ダンデさんは盛大な遅刻をした。名も姿もガラル中に轟いている彼を今度こそ気遣って、最初からピーク時間を終えた頃に待ち合わせの約束を交わしていたのだが、どうやらいつもの、のようだ。
 お約束の、迷子である。
 現在地を尋ねてみると森にいると答えが返ってくる。ルミナスメイズの森なのか、はたまたワイルドエリアなのか。それ以降なかなか返事が返ってこないので電話してみるも応答がない。大きく溜息を吐いた。
 何、予想しなかったことではない。ダンデさんの迷子癖は出会った最初に体感している。どうやら本人もそれを見越して早めに家を出たそうだが、悲しいかなナックルシティには未だ辿り着けず。私も大概だが、ダンデさんも難儀な物を抱えているな。

 まぁぐだぐだ文句を言っても仕方なかろう。
 悪気があるわけではないのだ、だれていてもしょうがない。それよりも、ここで突っ立っているよりダンデさんが到着できるまでどこかで暇潰しでもしていた方が賢明だ。
 先に店で待っていようかと思ったが、彼が行きたい店に私が先乗りするのも申し訳なかったので、図書館にでも行こうかと。
 ナックルシティは歴史ある街だから主な施設にも十分な歴史がある。ジムしかり、学校しかり、図書館しかり。特に図書館の蔵書数には目を瞠るものがある。ラテラルタウンの図書館も好きだが、また違った趣があってこちらもお気に入りである。
 一先ずメッセージで待ち合わせ場所から移動して待っていることをダンデさんには伝え、踵を返す。お気に入りだからなのか、長年通っているからなのか、図書館への道はきちんと覚えている。



 図書館に入館して歴史書のコーナーを目指してうろちょろする。今日は歴史に触れたい気分。
 静謐な空間。肺一杯にとりこめる知性の香り。私が好きな場所。
 なかなかに縦にも横にも広い図書館は、多くの人間があちこちにいる。ナックルユニバーシティもあるし学生らしい人が多い。年配の人もいるが、みな真剣そうにそれぞれ興味がある本に目を落としていた。
 さて、重ねて言うが、広い。
 つまり、何が言いたいかというと。

「……」

 館内迷子である。今日は図書館への道筋は覚えていても書架の配置を思い出せない。
 おかしい、館内案内も入って一番に確認したし、棚の横に貼られている配列順も見ながら進んでいた筈が、何故私は今児童書コーナーに立っているのだろう。
 目の前には有名作家の童謡が並んでいる。ポンコツ頭に童謡はミルクのように甘く優しいが、私が今欲しいのは渋い歴史書なのだ。
 イーブイをボールから出して覚えているか見てもらってもいいが、最近なんだか様子がおかしそうなので、なるべく負担はかけたくない。

 一旦戻ろう…右と左どっちから来たっけ…まて館内案内どこだっけ…入口はどっちだ…。
 ぎゅっと眉を寄せて悶々とする。考え事ばかりのせいで記憶の浮上を邪魔してしまい、すぐに思い出せない。

 しかし、ここで止まって考えていてもしょうがないとにかく動こう、と足を適当に動かそうとした時。

「なんか困ってる?」
「はい?」

 にゅっ、と視界の横から入ってきた褐色の肌に一瞬思考が飛んだ。単純にびっくりしたのだ。誰かに声を掛けられるとは思ってもいなく、まさかいきなり横から現れるとは。
 それに、既視感。前にもこんなことがあったような、気がする。

「あ、ワリィ、急に声掛けて」
「いえ……?」

 ニパァ、と温厚そうにその人は笑った。人好きしそうな笑顔だ。子供が真似して笑いそうな顔。

 あれ、この人。

「あっと、えっと、なんだっけ…。あの、たしか…。んんぅ」
「あ、わかっちゃった?いやぁオレ様オフの姿でもやっぱりオーラは隠しきれないかぁ」
「んんんんぅ…………あ、そうだ、炎上してた人」
「………」

 またもやうっかりで空気の読めない口が失言を漏らしてしまい、その人は目をじとりとさせた後、がっくりと肩を落とした。




「すいませんキバナさん。忘れっぽいもので、私」
「それで真っ先に出て来るのが炎上の件って」
「大変申し訳ないです」

 ナックルジムリーダーキバナさんが落とした肩をすぐに戻して、もう一度「困ってる?」ときいてくれたお陰で迷子申告ができて、歴史書コーナーへと導いてくれた。
 その間彼は眉を下げて笑っていた。この間チャンピオンから招待を受けたトーナメント戦で、チャンピオンに負けて自撮りをアップした後軽く炎上したことをちょっぴり引き摺っているらしかった。
 しかし、有名人と言うのはかくも人に優しい人ばかりなんだな。ダンデさんしかり、キバナさんしかり、偶然居合わせた人間にこうして手を差し伸べてくれるのだから、実力だけでなく心まで立派な人達である。

「あ、ついた、凄い」
「凄かないって」
「ありがとうございましたキバナさん。お陰様で辿り着けました」
「ここ広いかんなぁ」

 オフなのだろう彼は、オレンジ色のバンダナをしておらず髪を下ろしている。変装のためか普段はコンタクトなのか眼鏡もかけていて、ちょっとインテリ風な学生ぽい。テレビで見る格好と違うせいでさっき思い出すのに大分時間がかかったのだった。

「んじゃ、また迷子になんなよ」
「自信ないけど頑張ります。助けていただいてありがとうございました」
「不安残すようなこと言うなよ」

 けたけた笑って、彼の右手が一度宙に浮いた後、まるでぎくっとしたように体を揺らして右手は体の横に戻っていった。不思議な動作だ。

「……じゃあなアリシア」

 さっと顔を逸らしてひらひらと手を振りながらキバナさんはその場を後にした。

「……あれ?」

 名前、言ったっけ。多分また忘れているのだろうが、まったく鳥頭のポンコツ頭め。

 その後目についた歴史書を片っ端から漁り、キバナさんが去っていってから一時間程経ってダンデさんから返事がきた。
 どうやらもう少しでナックルシティにつけそうだとのことで、今いいとこなんだ…と手にしている本とは若干離れがたかったが、このまま借りていっても道中重たいし、また今度借りにこようとゆっくり本を閉じて棚に戻した。

 さて、出口、どっちだっけ。


  ◇◇


 待ち合わせに大遅刻したダンデさんは、キャップの下のくくっている髪の毛に葉っぱをいくつもくっつけて、シャツはよれよれで、ほっぺたには泥をくっつけるという、大変ワイルドな姿で登場した。

「大冒険したんですね」
「やっと着けたぜ!」
「いや本当、後で冒険譚きかせてください」
「随分待たせてしまってすまなかった。暇は潰せただろうか?」
「図書館にいました。なので、退屈ではなかったです」
「……そうか」

 待ち合わせとはそんなに高度なものだったのか…と胡乱気な目をしつつ、ワイルドな姿を見かねて鞄からハンカチを出してダンデさんに近寄り、少しだけ背伸びして頬を拭ってやる。
 途端に目をまん丸にして固まるものだから、丁度いいと言わんばかりにごしごし擦る。動かないから拭きやすい。

「は、はんかち、汚れるっ、ぞ」
「いいです。多分大分前に買ったものだし、そろそろ新しいの買おうかと思っていたので、洗って綺麗にならなければ使い納め」
「…その言い方。いつ買ったのか、覚えてないのか?」
「そうなんですよねぇ」

 思い出せないということは、このハンカチは恐らく失った空白の間に買ったもの。
 ハンカチだけの話ではないのだが、ある程度拭き取れたので会話も一緒に切り上げる。未だに動く様子がないので、ついでに葉っぱも払ってあげた。

「うん、さっきよりマシ。後で水できちんと拭いてくださいね、顔」
「……」
「ダンデさん?」

 覗き込んだ顔は何故か険しい。怒っているのか?と疑問に思うが、はたして何を怒らせるようなことをしたのだろうかと、自分では判断がつかなかった。

「君は、無防備だな」
「無防備?」
「男に簡単に近寄って、勘違いされても知らないぞ」

 ああ、なるほど、と険しい理由を察した。要は男にこんな簡単に触れるなと言いたいのだろう。
 確かに、関係を掘り下げたいわけでもない人間相手に、しかもそれが異性ならば殊更かもしれない。いかんせん異性とお近づきになれた経験がないので、人それぞれ千差万別だが何がいけなくて何がOKなのかよくわかっていない節が私にはある。
 まぁ、それ程様々なことに物怖じしなくなってしまったせいでもあるのだが。

「すいません」
「わかってくれたならいい」

 一転、安堵したように笑ったダンデさんは、改めて大遅刻を詫びた後に「そろそろ行こう」と歩き出した。その背を、着いて行くことが出来ずに立ち止まったまま手を伸ばしてすぐに引っ込める。易々と触れてはならないと注意されたばかりだった。

 でもね、ダンデさん。残念ながらそっちは逆方向なんですよねぇ。

prev next