- ナノ -


知性の香りがする古い本と、ボリュームがある肉と野菜のベーグルと、サンドイッチ-1


 人とはあまり深い関係になれない。なりたくないではなく、なれないのだ。
 単純に、その人との思い出を簡単に忘れてしまうから。うっかり忘れちゃった、というレベルの些細な物忘れでも、神経質な人にはよくない印象を与える。約束だって忘れてしまうことがあるのだ、信用の問題にもつながってしまう。
 私の物忘れはとても極端だ。些細なことは忘れないのに、大事なことを忘れる。その逆もあって、自分でも予想がつかないから記録は人間関係を続ける上で決して欠かしてはならないこと。
 けれど長く続けていることは案外忘れなかったりする。さすがに仕事に行くことは忘れたりしない。シフト時間はまれに、未だに勘違いするけど。

 スマホの画像フォルダに新しい分類を作った。スマホで写真を撮る人達は様々な理由を持ってそれを楽しむが、私の場合は色気なくただの記録の為である。
 一人だろうと誰かと一緒だろうと、食べた物や訪れた場所を、忘れたくない。そういうものは記録をつけなくてはならない。そこまで酷くはない忘れっぽさでも、気を抜くと頭の奥底へ隠れるように引っ込んでしまうので、記録は怠らないようにしている。
 まぁ、記録すること自体忘れることもあるのだが。
 新たに分類したフォルダには「ダンデさん」と名前をつける。別に彼の画像があるわけではない。名前をつけておけば彼と関わった写真だとすぐ記憶が結びつくから。そこにあるのはまだ、ダンデさんと食べたシフォンケーキだけ。味もなんとなくまだ覚えている。
 最近特に物忘れが酷いから、何度か思い返して記憶を繋ぎ留めた。一度やらかしたのだし、今後も彼のスイーツめぐりに付き合う約束をしたのだ、簡単に二人で話したことや訪れた場所など出来事を忘れてしまうのは失礼だろうと思うから。


 五月。ダンデさんとシフォンケーキを食べてから月も変わって約半月。まだ彼とはその一度しか出かけていない。
 外は太陽の光でとても眩しいくらい。もうそんなに日を跨がない内に初夏と呼べる時期がくる。
 初夏、とは言っても、私には何も関係がない季節だ。オールシーズンそうなのであるが、なにせイベント行事を楽しめるような恋人もいない。
 本格的な夏がくればビーチが賑わうけれど、今年も縁はないのだろうな。

 などと、客が誰もいないのを良いことに机に上体を突っ伏して暇を弄んでいた。そろそろ昼時で、店長が交代してくれるまではこのカウンターレジが私の居場所である。ボールの中のイーブイも今頃欠伸をかみ殺しているかもしれない。
 お腹が空いてきた。早くお弁当食べたい。

「暇〜?」
「暇ですね」

 奥から顔だけ覗かせた店長がけらけら笑う。貴方の店が暇だと言っているのにこの有様だ。

「交代時間まで本読んでていいですかー?」
「いいよ〜万引きだけ気を付けてね」
「はぁい」

 大丈夫、人っ子一人いやしませんよ。

 自費で買っただろう厚い古本をカウンターに置いて、しおりを挟んだページより少し前に戻って直前まで読み返し、やっとしおりのページから再開。クライマックスに突入している今、そろそろ主人公がトリックを暴いてくれるだろう。
 この本、実はいつ買ったのかを忘れている。気付けば家の本棚に並べてあったのでいつかに買ったのだろうが、その記憶は残念ながらない。

 古書の売買を行うこの店は、繁盛したりしなかったり。ポケモンセンター前の広場や専門ストリートであれば集客も見込めるが、ここの立地はそうではないから寄る客も根っからの文芸趣味か研究職の人間がもっぱらだ。
 店頭にはセール品をワゴンで置いてアピールするも、古書はばっちい、という漠然とした理由で忌避する人もいるからこうやって客を待ち構えるだけの日も多い。
 店内に客がゼロなのをいいことに、ラストに向けてどんどん明かされるトリックに「えぇ…」とか「嘘だ…」と慄きながら夢中で読み進めていると、不意に開けっ放しの入口から靴音が聴こえた。どうやらお客のようで、いいところなのに、と店員としては最悪なことをつい思いつつ名残惜しくも紙から顔を上げると、予想外甚だしい顔がそこにあった。

「あれ、ダンデさん?」

 びっくりかな、ダンデさんである。
 入口で微笑んで私を見る、お馴染みの赤い服を纏う彼がキャップを脱いで胸にあて、「こんにちは」と挨拶してくれる。

「こんにちは…あ、違う、いらっしゃいませ」
「どっちでも気にしないぜ」
「私はこの店の従業員ですから…にしても、びっくりしたぁ。偶然ですね」
「俺もびっくりしたよ。まさか君がいるなんて」

 穏やかに笑うままのダンデさんに私も笑い返す。
 正直そんなにびっくりしているようには見えないけどな、とは言わない。せっかく閑古鳥が鳴いて店員が暇を弄んでいる時に来てくれたお客さんなのだから、しっかりと接客をしなくては。

「何をお探しです?暇だからお手伝いしますよ」
「ああ、すまない。違うんだ。そこの窓から君が見えたから寄ってしまっただけで」

 なるほど、だからそんなに驚いていなかったのかと合点がいく。
 入口から少しずつ中へ入り、ぐるりと店内を見渡すダンデさんは目を細めて薄く唇で笑うままだ。大きな体は、狭くて壁をびっしりと覆う本棚の空間の中では圧迫感が与えられて窮屈そうにも見えた。
 ひやかしでも一応は、としおりを挟んで本を閉じると、ダンデさんの目がその所作を追いかけた後、目を丸くしてその本を見つめていた。それに気付いたので本を立てて表紙を彼に向ける。

「そんなに見つめて、もしやご存知で?」
「まぁ…タイトルだけだが」
「え!?ほんとですか!?えー!私以外に知ってる人初めて!」

 思わず立ち上がった。椅子がギギッと喧しい音を立てたが、興奮しているのでどうでもいい。
 急に声を高くした私にダンデさんはまたしても目を丸くしたけど、ハイテンションになった気分のまま胸の高さまで本を持ち上げてダンデさんに向かって披露するように表紙を突き出す。

「ぜひ、ぜひ読みましょう!まだクライマックスに差し掛かったばかりなんですが、トリックが奇想天外だし主人公の探偵の渋さがまたいいんですよ!」
「お、落ち着いて」
「あ、すいません」

 すん、と気が落ちる。興味のない人にぐいぐい迫るのはよくないのに、つい押し付けてしまった。
 ちょっぴり反省して椅子を戻してから座り直す。最近ぐらぐらするから大切にしないといけなかったが、まぁやってしまったことはしょうがない。

「本、好きなのか?」

 ダンデさん、よくできた人である。急に興奮した私に引いているだろうに、話を繋げてくれるなんて。先月シフォンケーキを食べに行った時と態度がえらい違いだ。

「はい、好きです。特にこういう古い本」
「俺も紙の本はよく読む。ポケモンの育成論やバトルの研究書なんか」
「あー、なるほど。専門書もいいですよね。デジタルコンテンツが普及してるから紙ベースは触らない、なんて人もいるけど、私はこういう分厚くて重たい本、好きなんです」

 今日は調子がいいのか、ダンデさんと会話が続く。もしや先日はつれない態度だったなと振り返りでもしたのだろうか。別に、私はダンデさんのスイーツめぐりに付き合うだけの人間だから、そんな気遣わなくてもいいのに。
 一方で私も前回より格段に口数が多いし気も大きい。多分、ここが自分の慣れ親しんだ職場ということが要因だろう。

「…本当に、本、好きなんだな」

 何故か再度確認される。目を僅かに伏せて、カウンターの上に戻した、閉じた本を見つめている。

「はい、好きです。なんというかこう…手触りというか、紙をめくる感触が好き。紙は劣化しても、長い時間残るんです。その時の空気を抱えたままで。ロマンがないですか?あと、匂いも好き。古い本特有の。かび臭いって言う人もいるけど、私はそれでも好き。知性の香りだと思ってる」

 昔から紙の本が好きだ。だから仕事もここを選んだし、店長には申し訳ないが客足がまばらなお陰で仕事時間の間にこうして本も読める。

 店長の懐が深い人柄のお陰で、私は今もこうしてこの店に置いてもらっている。
 最初は退職を申し出たのに、店長が笑って首を左右に振った。振ってくれて、それでもここにいなさいと、言ってくれた。
 当時は自分でも思い通りにならないことばかりに戸惑って、シフトの時間を勘違いしても、休日と出勤を間違えても、それは全部私のせいじゃないと言ってくれた。次は間違えないでね、なんて軽口だけで済ませて、絶対に見放さなかった。普段は能天気なのに、そういう人なのだ。

 ふと、何も返事がないなと気付いた。一方的な一人語りをしてしまったのだから寄越す返事もないのかもしれないが、だんまりだな、と思ったので本から顔を上げて、あのカフェの日のように言葉を失くした。

 ――また、だ。また、あの顔。
 やっぱり窓から入る光を浴びて、シフォンケーキのお店の時のような、美術館の奥の秘密の絵画みたいな。
 でも今日は、少しだけ違うように見えた。多分ここが自分にとって安心して落ち着けるテリトリーだからかもしれない。
 変な人。どうしてそんな顔をするのだろう、この人は。

 そんな、繋がれた手を失った、迷子みたいな顔。

 口を僅かに開けたままじっとその憂い顔とも呼びきれない表情を見つめていると、古書店に似つかわしい壁の古時計がボーンと鳴って昼の時間を知らせた。
 二人してハッと我に返る。ダンデさんは、途端に気まずそうに目を逸らした。

「お昼ですね」
「そうだな…」
「…あの」
「ん?」
「良ければ、お昼一緒に、いかがですか?」

 なんとなく後ろ髪引かれて誘ってみると、パッと表情が咲いた。これもまた先月も見た。ころころ表情が変わるんだと最初は思っていたが、どうしてもこの人への印象は定まらない。
 ただ、この顔のダンデさんは実際嬉しそうなので、私も茶化しはしない。

「あっ、でも私お弁当だった。私はお弁当食べるので、ダンデさんは外のベンチでテイクアウトしたものとか」
「食べる!」

 元気な返事だった。今までの空気がまるで嘘のようで、少し引っ掛かったままだったけれど、ダンデさんがわくわくと嬉しそうだったから知らない振りをした。

「食べながら、今度行くスイーツ店の話を決めましょう」
「そうしよう!」
「あれ、そういえば店長でてこないな…てんちょー…、あ!寝てる!起きてください私お昼です」
「…んがっ?…あ、もう時間?」
「そうです。外で食べてるので」
「珍しいね、いってらっしゃい」
「いってきます」

 鞄を持ってダンデさんの隣に立つ。いきましょうと声を掛けると、子供みたいに破顔した。

「私ベンチ確保してるので、お昼買ってきていいですよ。あ、待って、ダンデさんベンチに座ったら大勢集まるんじゃ…?」
「あー…かもしれないな」
「いつもお昼は職場で?」
「ほとんど食べないなぁ」
「え!?それはだめです、パワーバーといいダンデさんって食に興味ない人ですか?いつか体壊しますよ?」
「…一度、壊したことがあったよ」
「ほら!予定変更です。店長〜、休憩室にお客さん入れてもいいですか」
「え?……あれ、その人」
「…こんにちは」

 やっと奥から出てきた店長が、ダンデさんを見て口をアングリとした。そりゃあ驚くだろう、有名人がこの場にいるのだから。

「……アリシア、知り合いなの?」
「先月偶然にも。私ダンデさんのお昼を買ってくるので匿っていてあげてください」
「え?君が買ってくるのか?」
「はい。考えてみればダンデさん一人で行かせて戻って来られる確証がないと思ったので」
「そんなことは…」
「とにかく、行ってきます。あ、お金は気にしないでください。次の支払いは私の予定だったんだから、そういうことで」

 ダンデさんは何か言いかけたが、口を閉じたので挨拶だけして店を出た。
 テイクアウトするメニューを脳内でピックアップする傍ら、ダンデさんの顔がずっと点滅する。

 本当に、不思議な人だ。あの本を知っていると聞いてつい興奮して気ままに喋ってしまったが、今日は不自由そうながらちゃんとレスポンスをくれる。そのせいで調子に乗ってずっと一人でペラペラと口を動かすことになってしまった。
 なんで、あんな顔をするのだろう。何を思って、考えているのだろう。やはりよくわからない人だ。

 そういえばつい引き留めてしまったけれど、ダンデさん、そもそもラテラルタウンまで何をしにきたのだろう。

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