- ナノ -


真昼の影も踏めない-後


「キバナさん」

 そう俺の名を呼ぶ無邪気な声が、あまりにも愛おしい。まっさらにリセットされたアリシアの中に俺のことは欠片も残ってはいなかったが、それで構わなかった。だってゼロからのスタートが、切れるのだから。

 自分でも大変なズルをしている自覚はあった。けれど、勝手するダンデを目の当たりにしてしまったせいで、最早気持ちのブレーキが利きそうにもなく。そんな折にナックルの病院で出くわしてしまったが、悪く言えばそれが互いの運の尽きだったのだ。
 ぺらぺらと嘘を吐くこの口は、中々どうしてエンターテイメントで育まれてきた賜物だな、などと。内心自嘲しても目先の欲にどうしても勝てやしない。ダンデの軌跡を自分に置き換えてなぞってしまったのもズルと大きすぎる自覚があるのに、仮に何かの記憶がフラッシュバックしたとしても、現実になかったことを適当に作るよりも信憑性がある。
 後からダンデとアリシアについて俺が全てを知っていたわけではないのだと思い知る羽目になるのだが、そんなこと露も知らぬこの時の俺は、手っ取り早い道をそうして選び取ってしまったのだ。虎視眈々と王の首を落とす算段をつけるのが得意だったのに、忘れられない女を前に暴走した感情を優先してしまった結果、回り道ではなくゴールに手早く辿り着ける道を作ってしまった。

 俺の嘘を信じてくれたアリシアは記憶を取り戻したいと言うから、当然否定したわけである。俺が欲しいのはまっさらなままのアリシアであるのだから失くした記憶など最早要らぬもの。けれど、心のどこかで記憶を取り戻しても良いとも思っていたのは偽りではない。その前に俺を意識させて、好意を持たせてしまえば。アリシアの性格上そうとなればきっと俺を見限らないだろうと、自分勝手な打算もあったのは確か。
 けれど、もうなんだって良かったのだ。いつの間にかどうしようもなく好きになっていて、俺から離れてしまったせいで加速していったその気持ちを、アリシアに堂々と向けることができるならば。そのために、わざわざ三人で撮影した写真を腹立たしい人間の部分だけを切り取って、関係を捏造してしまったのだ。



「ふざけるなよ」

 想像通りの顔だ、ダンデのこれは。そしてやはり俺が最初に見かけた日から続けて二人で何度か会っていたのだと決定づいた。アリシアの話から恐らくそうであろうとは思っていたし、アリシアがダンデにどんな言葉で距離を置くことを告げたのかはわからないが、結果すらも想像通り。

「誰が、誰の、恋人だって?」
「少なくとも、今はお前じゃないだろ」
「ッ、だとしても!」

 最低なことをした。わかっている。謗られても文句は言えない。
 でも、欲しいのだ、どうしても、ダンデのものだった彼女を。
 アリシアに笑顔を向けられたい――俺だけに。多分そこを起点にして始まった恋心が、紆余曲折を経て曲がりきってしまった。俺よりもずっとたくさんのものを独り占めしているくせに最後に未練を持ったまま目の前で手放したもの。それに俺が手を伸ばして、何が悪い。
 しかしダンデにしてみれば横槍を入れられたに等しいし、実際そうなのだろう。人を殺しそうな形相で睨みつけるそれを、不思議なことに全くおっかないとは思わなかった。幾度とこちらの手を読み先手を打って地べたに俺を這いつくばらせたくせに、今は手をこまねいて、らしくもなく足踏みをして。利口な分あれこれと考えてしまうせいで、アリシアに言いたいことを言える前に俺に攫われて。気分が良いと高笑いできるようなことはなかったが、襟元を掴み上げて首を絞める真似のようなそれに、ざまぁねぇよ、と一蹴したい気持ちくらいはあった。

「痛いんだけど」
「君がそんな男だとは思わなかった!」
「オレ様の何を知ってるんだ、お前が。今までバトルコートでしか俺を意識しなかったお前に、何が」

 そんなダンデを少なからず人間臭くしたのがアリシアだったが、余計な口は持たない方が得策。俺の方が背が高いお陰で締め上げられながらも上から見下ろすことができたが、努めて凪いだ目を意識した。ここは睨み返す場面ではないだろう。

「……どの道、選ぶのはアリシアだよ。そのアリシアは、お前を切って俺の方を向いた。それが全部だろ」

 こちらに向くように盤面を築いたのは俺だが。

「……、……っ」

 何も言い返せないダンデにいい気味だと思ってしまった。お前は俺の気持ちなんか気にもしないで目の前で終わらせたのだ。どれだけ葛藤しようと、懊悩しようと、アリシアよりもチャンピオンであることを選んだのもお前。そうしなくてはならなかったとしても、全部ひっくるめて自分の手に掴めなかったことが全ての結果だ。取りこぼしたものを誰かに拾われるなんて考えもしなかったのであれば、それは自惚れと呼ぶよりは傲慢と言った方がふさわしい。

「……なぁ」
「なに」

 襟元を掴み上げていた両手から少しずつ力が抜けていき、俯いたダンデは、俺のことなど見もせずに口を続けた。この数秒の間に自分の感情と戦い切ったのだろうか。

「……君なら、アリシアを、幸せに、できるのか」
「できるのかじゃない。するんだよ。お前と違ってな」
「……。そう……、か」

 良くも悪くも以前よりも格段に人間臭くなったダンデ。アリシアと出会って、恋をして、忘れられて、全部まっさらにして、チャンピオンでもなくなって。
 けれど自信や自尊心まで失くしていないはずなのだから、そういうことは俺の目を見てちゃんと言えよな。


  ◇◇


 待ち望んだ日々がずっと続いていた。永遠を願ってしまいたくなるような、アリシアと繋がっている毎日だ。連絡は絶対疎かにしないし、甘言を紡ぐことだって怠らない。まっさらになったアリシアは自分には恋愛経験がほとんどないと思い込んでいるから、少しいじるだけでも可愛い反応を見せる。それがあまりにも、嬉しくてたまらなくて。
 なにせ、全部俺だけに向いているのだ。もう指をくわえて眺めているだけなんてことも、理解ある振りをして相談に乗ることも、お前など眼中にないと反応を見せつけられることもない。ズルを働いた罪悪感や良心の呵責など、アリシアの側にいればいるだけ偽りの幸せのお陰で薄れていく。

 事故の後遺症で残ってしまった記憶の抜けなど、どうということもなかった。忘れてしまったのなら千夜語ってやればいいだけの話。だから会う約束を忘れてしまったからといって責める必要だって微塵もない。そうやって、俺のことだけに意識を傾けて、記憶の穴に落っことしてきたことなんか、昔のことなんて本当に失くしてしまえばいい。空いた穴は全部俺で埋めてやるから。だから妙なタイミングで今まで思い出す素振りもなかったダンデとのことを思い出されてしまっては困るのだ。俺がズルをしたことの罪悪感が、その瞬間、この期に及んで砂嵐のように襲ってくる。どうか思い出さないでくれ。もう、やっと繋いだお前との日々を俺は手放したくはないんだ。
 ――思い出してしまっても構わないと思っていた筈なのに。


 しかし天罰というものは得てして、どれだけ逃げようと、見ない振りをしようと、必然的にやってくるものなのかもしれない。

「酷い、嘘つきですね。全部、うそ」

 目の前で怒りと悲しみに染まるアリシアの顔に、努めて飄々としていた。虚勢を張るしかなかったのだ。こうとなれば全面降伏して、悪役に徹するしかない。事実悪役なのだ。タイムイズオーバー。仕方がないのだ。俺はアリシアの家になど一度も入ったことがなかったのだから。
 いつかこうやってボロがでるような気がしていたのは本当だ。だからその前にアリシアの気持ちを完全に俺に向けさせてしまいたかったのに、神様は俺を見逃さず、許してはくれなかった。
 思えば、ダンデに成り代わってみたものの実際のところ、アリシアは俺に心は向けてくれていなかったと思う。男として意識は少なからずしてくれたのだろうが、蓋を開けてみればアリシアについて知らなかったことなどそれこそ山のようにあって、その全てに気付くこともできなかった。甘いものだったらなんでも良かったわけじゃなくて、高い場所もダメで。ダンデとてそうで、捨てたと俺に教えたくせに、アリシアとの思い出の品を大事に閉まってやがった。

 ――結局俺はズルをしたって、何をしたって、アリシアの中には入れなかったのか。
 アリシアの心はずっとダンデだけに向けられていた。遅かれ早かれアリシアはダンデのことを思い出したかもしれない。俺がズルをして間に割って入っても、何も変わらなかった。空けた穴の中にずっとダンデへの気持ちをしまったままで、俺に気持ちを傾けられるわけもなかったのか。
 全部忘れてしまったくせに。ダンデのことも何もかも、俺のことも、失くしたくせに。
 なのに。なのに、アリシアが許す目を俺にするから。

「アリシア」

 俯いてしまった彼女に、なるべく、言葉を選ぼうと思った。これがきっと最後の言葉になるのだろう。けれど、あんな目を俺に向けるから、気持ちが波打って、沸き上がって、体の全部が沸騰するようで。出会った頃は慣れない相手を前にして緊張した素振りを見せて、でも慣れてきた途端に遠慮をしなくなってきて、俺がお前のこと好きだなんて思いもしないでダンデのことだけに恋をする女の笑みを見せて。ああ、許そうとしまえるお前はなんて優しくて馬鹿でお人好しなんだろう。そう思うも、そんな彼女だからずっと、好きだったのだ。
 捻じ曲げた現実の中で伝えてきた感情の全てが本当で、本物だった。事実は捻じ曲げてしまっても気持ちだけは偽ったことはなかった。

「……好きだ。ごめん、ずっと好きだった。ごめん」

 ずっとそれだけだったんだ。


  ◇◇


 こんなことを君に言うのは違う気もするけれど。そう前置きをしたメッセージがダンデから送られてきたのは、アリシアにようやくフってもらえたあの日から二日ほど経った後の話だ。どうせ気持ちを再確認し合ってからは燃え上がって盛り上がって色々とよろしくやっていたのだろう。なんてのは妄想でしかないが、それでたっぷり時間を置いてから俺に一報を入れてきたわけである。
 まぁあれで二人が元通りになれないなんてことはあり得ないと思っていたし、アリシアの最後の顔を見るにダンデの方が最後は折れるだろうと思っていたし、予期していなかった内容ではなかったのだが。ただ、やっぱり心のどこかでこじれたままになってしまえ、と未練がましい男の願望だって少なからずあったものだから。所詮負け惜しみだ。

 本当は言われた通り今後はアリシアと会わないつもりでいたのだが、偶然となれば気だって素直に色めいてしまうものだ。キルクスに寄った際に偶々カフェの窓から見つけてしまった時のように。こんな結末になってしまったにも関わらずその横顔を目にするとティーンのように浮足立ってしまうのも我ながら笑ってしまう。正直早々簡単に諦められる程気持ちは萎んではいないし、容易に諦められるようなことだったら事実を捻じ曲げて腹立たしい男に成り代わろうだなんて悪手を最初から打たなかったわけである。

 何より、逃げられると追いかけたくなるのが性というもの。方向音痴で女の気持ちの機微に疎くてダンデのために仕上げた自分を気付いてくれない、そんな男いつでも放っちまえよ。日々そう祈らずにはいられない。でも、ちょっかいを出してあしらわれても、ダンデに睨まれても、俺の隣で笑わないアリシアだとしても、彼女がかつてのようにとびきりの笑顔を浮かべている様を見ると、踏ん切りはまだつけられていなくてもそんなに悪くはない気持ちになれた。
 なにせ、思い出してもらえたことは、それなりに嬉しいから。いいや嘘だ。俺と過ごした過去を、関係を山にも谷にもできなかった毎日を頭の中に取り戻してくれたことだけは、結局嬉しいから。嫌そうでも名前を呼んでもらえることは、関わりを全て忘れられてしまっていた日々と比べれば、大袈裟かもしれなくとも奇跡のようだから。
 だからこれからもきっと、鉢合ってしまえば声を掛けてしまうのだろう。引き攣った顔で、イーブイも同じ顔をして、だけど完璧に無視もしてくれない。名前だけでも呼んでほしくて、懲りずにも俺は。けれど、必ず踏ん切りをつけてみせるから。騙したことを大声で糾弾してもらえるくらいになるまでは、きっと。

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