- ナノ -


番外編-3


※7話、最初は途中の展開がこうなる予定でした



 キバナさんとの通話を切ってから、慌ただしくも準備を整えた。本当はメイクだってもう少し丁寧に直したかったし、買ったばかりの新しい服を着たかった。けれどそんな悠長出来る時間は、私に残されてはいない。耳の奥で、愛しい人にかけるおやすみのような、優しい声が反響している。絶対に私を責めない、キバナさんの声が。
 これ以上、一秒でも長く、キバナさんを待たせてはいけない。それしか頭の中にはなかった。
 だからだろう。大きな失態を前にして、更に失態を重ねてしまったのは。

「……え、と」

 気が焦り頭もこんがらがったままにいるからであろう。ナックルシティまではどうにか辿り着けたのに、駅にも無事に辿り着けたのに、鞄からパスケースをすぐに取り出せない。焦りが手にも表れているらしく、鞄の中をむやみやたらに掻き回すだけで目的のそれが目に付かない。改札の前でもたもたと立ち往生するものだから通行人の邪魔になっていることに途中気が付き、慌てて端に寄って鞄の口を大きく広げたら、ようやくパスケースを見つけ出すことが出来た。

「良かった忘れたのかと思った……。ごめんねお待たせ、行こうイーブ、イ」

 ――本当に馬鹿なのだと思う。忘れやすくなったからとか、最早そういうことも関係なく。

「……イーブイ?」

 振り返って。ぐるりと一回転して。
 だけどどこにも、いつでも私の側にいる筈のあの子が、いなくて。
 そうして今更になって、自分の引き起こした現実を悟り、血の気が引いたのだ。

 イーブイを、忘れてきた。

 そこでとうとう記憶の底から這い出たように先程までのことを思い出す。確かイーブイは、自分のベッドで丸くなってお昼寝していた筈。なのに、私は。

「…………、」

 瞬間、頭が真っ白になる。愕然とも、落胆とも、自己嫌悪とも、なんともうまく表現できないものに勢いよく襲われて。
 あろうことか、イーブイを、忘れるのか。無我夢中でここまで走って来たから途中の5番道路のことも思い出せない。幸か不幸か野生のポケモンと出会わなかったお陰で、此処に来るまで全く、イーブイを思い出すことが出来なかった。
 あの子を、どうして、忘れていたのだ。いくら気が動転していて、焦りに身を任せていたにしても、よりによって、私にはかけがえのないあの子を、どうして。
 どたどたと、熱いものが体の中から込み上げてきた。せっかくパスケースを苦労して見つけ出したのに、改札は目の前にあって列車の出発と到着のアナウンスがひっきりなしに聴こえるのに、多くの人間が私の横を行き交っているというのに。

 ――だめだ。私は、もうここから動けない。

「アリシア!」
「……ぁ」

 呆然と立ち尽くして静かに俯いていると、突然肩を誰かに掴まれて、嫌でも我に返った。目をパチパチとさせて状況を今一度思い出しながら、その影響で頭がゆっくりと動きを取り戻すのを感じていた。

「どうした!?何があった!?」
「……?なんで、」

 ――目の前にいたのは、ダンデさんだった。であれば、今私の肩を力強く掴んでいるのも彼で間違いない。
 あの日、ターフタウンでアップルパイを食べた日を最後に、もう会わないと宣言を私から向けたダンデさんが、何故か私の目の前にいた。

「どうして泣いている!?」
「……あっ、その、」

 指摘されて流れていたものを自覚した。手で拭おうとするよりも先に、ダンデさんが自分の袖口でぐしぐし、少しだけ乱暴に涙を拭い出してしまったので、ついまた口を小さく開けて呆けてしまった。そんなに乱暴にされたら赤くなっちゃうし、ファンデーションだって落ちちゃうし、ダンデさんの袖にも諸々ついちゃうのに。
 なのに、そんな、自分が傷をつけられて痛いような顔をして。

「……止まったな、良かった」
「ありがと、ございます……」

 色々とびっくりしたせいもあるのか、涙はその後時間を置かずに止まってくれたので、小さくお礼を言う心の余分も生まれた。もしもダンデさんが現れなくて涙を拭ってくれなかったならば、きっといつまでも私はここで立ち尽くしていただろう。

「それで、どうしたんだこんな場所で。どこか痛めたのか?」
「……その、やらかし、ちゃって」
「やらかし?」
「約束、忘れちゃって」

 するとどうだろう。心配の色を濃く映していた顔が、ハッとして目を見開いた。次いで、何かを堪えるように自分の唇を噛み締める。またどこか痛そうな顔をしたが、私の涙を拭っていた時とは、どうやら違った種類に思えた。やっぱり、自分が鈍感であることを抜いても、そんな顔をする理由がわからない。

「……キバナか」
「はい」
「それで泣いていたのか。忘れていたと思い出したから」
「そうじゃなくて……。キバナさんから連絡もらって思い出して、慌てて飛び出して来たんです。それで、今になって気が付いて。……イーブイ、置いてきちゃったんですっ」

 イーブイのことを伝える時には、また熱い涙がこみあげてきていた。ぶわっと自分の中で広がり、喉がつまる。嗚咽が漏れるよりも前に口元を抑えたからダンデさんには聞こえていないと信じたい。けれどそれを我慢したところで涙までは堪えられず、結局再び目から零れ出してしまった。

「イーブイがいなきゃなんにもできないのにっ、イーブイがいるから一人で生きていられるのに……っ、慌てていたからとかそんな理由じゃ自分で納得できない……!」

 顔を上げていられなくなり、掌で覆って俯く。恥ずかしくてダンデさんの顔も見られなかった。
 文字通り、イーブイがいてくれるから私は一人で生きていられる。イーブイがいないと道に迷うことも多いし、列車だって乗り間違える。そういうことはいつも必ずではないけれど、イーブイに頼らないと、私は一人ではもうどこにも行けない。
 イーブイが、いてくれないと。

「……目的地は?」
「……え?」
「俺と一緒に行こう」

 どういうことだ?とつい顔を上げてしまえば、予想もしていなかった表情と出会った。
 優しい顔だった。でも親切とは見えない。なのに穏やかで、それ以上奥の感情が見透けない。眉だけが何かに抵抗するように、時折上下に動いていた。

「え、でも……」
「待ち合わせしているんだろう?俺はアリシアを届けたらすぐ戻るから。キバナには顔を見せないから安心してくれ」
「だけど、イーブイいないと、きっと帰れなくて」
「キバナが送ってくれるさ。それくらいは甘えるといい」
「でも、」
「ほら行こう」

 あ、と思うも、ダンデさんはひらりと背を向けて改札にさっさと入ってしまった。困惑のせいで動けずにいると、唐突に振り向いた彼が、おいでと言うように手で招く。
 様々な心配があった。そもそもダンデさんがどこから現れたか知らないが、私をキバナさんの元まで連れて行く理由だってない筈だ。親切心、で片付いてしまうものだろうか、こういうのは。泣いている女を前にしたら紳士ならばそうするのかもしれないが、それにしたって。

 私、もう貴方には会いませんって、この前言ったばかりなのに。

「アリシア」

 だけどそんな風に名前を呼ばれたら、おいでと言われたら、足は前へ動いていた。


  ◇◇


 先に化粧室に寄らせてもらって酷い顔を直した後、天性の方向音痴なせいでホームも間違えたために、駅員の手を借りて列車の前まで二人揃って連れてきてもらった。到着したそれの空いている車両に乗り込み、ボックス席に向かい合って座っても、お互い口を開かないまま時間と風景だけが流れていく。
 先に空気を乱したのは私の方だ。

「……本当にすいません」
「もう聞き飽きたな」
「私は言い足りませんよ」

 未だに心配は残っている。ダンデさんの予定だって知らないし、こんなにも私の都合で振り回しても良かったのかと。しかしダンデさんはもうずっとあの優しくて穏やかな顔でいるものだから、あまり深く追求できないまま無為に時間だけを失くしている。

「タクシー、呼べば良かったのでは。私も思い浮かばなかったけれど、それに私だけ乗せれば」
「でも本当は苦手だろう」
「……そんなことも話しましたっけ」
「ああ」

 そうだっただろうか。まぁ、話したこと、話していないこと。その全てを留めておくことは、私の頭では難しいから。



 キバナさんに逐一連絡をし、とうとう辿り着いたバウタウン駅のホームに二人一緒に降り立つ。到着したことを報告し終えたら、スマホを鞄にしまって歩き出そうとしたところで、ダンデさんが微塵もその場から動かないことに気が付いた。

「ダンデさん?」
「気を付けて。大丈夫、キバナは君を怒らないさ」
「……あ」

 そうだった。キバナさんには顔を見せないからと最初から言っていたではないか。私達を気遣って、そうすると。

「お一人で戻れますか?」
「列車くらい平気さ」
「そうですか」

 列車に自力で辿り着けなくて駅員に頼ったことは、一度忘れよう。そうでなければダンデさんの気持ちを無下にすることになってしまう。

「あの、本当にありがとうございました」
「それも何度も聞いたよ。ほら、キバナが待っている。行っておいで」
「はい。……それじゃあ、さよなら」

 横に置いていた、会いませんって宣言を、この場に戻すしかない。出くわしてしまったのは偶然だったとしても、ダンデさんのお陰でここまで来られたとしても、これきりにしなくてはならない。イレギュラーは、もうあってはならない。

「……ああ」

 ダンデさんの動く表情を見るよりも早く頭を下げて、彼に背を向けた。キバナさんと一刻も早く合流するために、駆け足で階段へと進む。
本当に一人で戻れるのかとか、どうやって戻るつもりなのかとか、そういう考えを頭の端から潰していく。並行して自分に何度か言い聞かせた。
 心配したところで、私にはどうしようもないでしょう。

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