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(14)愛してるで終わる話-2


「……ちょっとドキドキする」
「そうなのか?」
「そうなの」

 うだうだと、古書店の側にて足踏みする私に、握った手はそのままにダンデが同じように付き合ってくれる。早くしないと。ダンデだってシュートシティに戻らなくてはならないとわかってはいるけれど。
 何せ昨日は半分嘘なのか本当なのかわからない理由で当日欠勤してしまったのだ。もちろんそれ以上に懸念しているのは、今隣にこの人を携えて職場に出勤していることであるのだが。

 昨夜ダンデは私の家に泊まり、隣り合って同じベッドに眠った。そもそも泣き腫らして体力も気力も消耗していた上にろくに眠ることもできなかったので、それはもう、すこんと、安らかに寝入ってしまえたものだ。
 朝になり、目が覚めて一番に見られるのが金色の慈愛をこれでもかと詰め込んだ瞳だったことは、本当に嬉しくて、くすぐったくて、ちょっとまだ信じにくくて。肌にゆっくりと走るこそばゆさに負けて素直にそう零せば、「俺も」と微かに笑うのだから、同じように笑ってしまってからそこそこ時間が経っている。
 嫌でも、二人揃って仕事がある。寂しいし離れがたいのが正直なところだが、それも心の内の少しの部分だけだ。
 もう、それを憎らしくは思わない。気持ちの根っこの部分できちんと結ばれているのであれば、それに対して喚き散らすつもりはない。今手を離しても、また繋ぐことができる。ぽんこつ頭になってから失くしてしまった繋がりも少なくはないけれど、昨日とうとう掴み直した白星がどっかに行くことはないと、それだけはもう、他の何よりも固く信じられる。

 記憶が戻った。そうとなれば、しなくてはならないことがいくつかある。まずは病院。これはダンデが朝一で一緒に行ってくれた。わざわざ午前の半休を使って、私のために時間を割いてくれた。
 両親には電話で簡単な一報だけを入れた。喜んで、次いで詫びてくる。やはりダンデとのことはずっと黙っていたらしい。当時、それぞれが病院で鉢合わせていたようだ。医者もそうだが、そうでなければダンデの写真を見せて誰かわかるかなんて質問、してくるわけもないだろう。最後に、今度二人で顔を出すようにと、念を押されてしまった。
 母との通話を終えると、ダンデはまた懲りもせずに悪かった、だなどと眉を下げて謝ってくるものだから、軽く腹パンしてやった。もうそういうのはいいって馬鹿みたいに言ってあげたのに。

「……もうちょっと、もうちょっとで覚悟決められるから。すー、はー」
「物凄い覚悟がいるんだな」
「だってそりゃあ、まぁ」

 そして、昼時も過ぎる現在。いよいよ出勤だぞ、という状況を前にして、馬鹿な話だが尻込みしてしまっていた。

「……いい。できた。入ろ」

 意を決し、見慣れ過ぎている入口をくぐる。すぐさまカウンターに座る店長と目が合い、その口が「あ」と形作られる様子もありありと見て取れた。

「おはよう、ございます。その、えっと……」
「おはよう。……そっか」

 挨拶もそこそこに何から謝罪すべきか結局口が開きあぐねていると、店長の目がゆっくりと細められていく。その視線の先が、隣に佇むダンデに向いていることも、ようくわかった。何も言っていないのに、それだけで全部理解できてしまえるのか。

「初めはね、なんでって思ったんだ。でも俺、ダンデの親でもアリシアの親でもなんでもないし、口出しなんかする権利はないし」

 静かに語られだした本音に、ダンデがぐっと押し黙る気配がした。

「階段から落ちた直後だよ?いくら記憶が飛んだからって、それでそのまま身を引くってどうなのって。確かにアリシアが混乱するからって、もっともな建前だなとは思う。ちょっと自分を責め過ぎだとも思った。それなのに、またああしてアリシアに近付いて、その理由も曖昧に濁すし。まぁ、言わなかったけど、ちっとばかし怒ってました」
「えっ」

 黙っていられなかったのか、ダンデの絶句する声。
 店長の話を要約して解釈してみると、ダンデに黙っていてくれと頼まれたのは私が階段から落ちた頃のことで、再びこの場にダンデが現れた際の、私が彼の昼食を買いに行っている最中にどういうつもりなのか問い質したということだろうか。いつから店長が黙っていたのか、その時にダンデに請われたのだと思い込んでいたが、考えてもみれば他の人達と同様に、最初から黙っていて欲しいと言われていたに違いなかった。

「でも……もういっか。結果が良ければ、二人が受け入れてるなら、それで。だって俺、口出しできないし」

 そう、気真面目そうな顔つきを解いて、いつものように目尻に皺を寄せて、微笑みで顔を綻ばせるのだ。

「よかったね、アリシア」

 父と祖父の狭間のような優しいその人に、はい、と返した声が少しだけ震えてしまったけれど、変わらずに笑い返してくれた。


 ◇◇


 今年のジムチャレンジは中盤も過ぎた。もう間もなく終盤となり、チャンピオンカップが開催される。しかし、私の生活に大きな変化などはない。ジムチャレンジに参加するわけでもなく、職や住所を変えるでもなく。ただ、最近少し、バトルの勘を取り戻しているような自負はあった。
 手始めに最近更新されない日はないと言っても過言ではないくらい活躍するメモを読み返した後。ブレンドティーを飲みながら最近買った文庫本を、栞より少し前から読み返しつつ読み進めていると、カタリ、と音が鳴ったので徐に顔を上げる。店主がテーブルにシフォンケーキとポケモン用らしきケーキを置いてくれたようで、それが音の正体だったのだと知る。

「え、まだ頼んでませんけど」
「どうせこの後頼むんだろ。待ちぼうけのお供にしな。こっちはイーブイ用ね」
「じゃあ、先に食べちゃおうかな」
「そうしときな」

 確かにこの後、あと何分後になるかはわからないけれど頼むつもりではあった。しかし目の前には美味しそうなシフォンケーキ。私はこれが、茶葉の香りが口の中でふわりと広がり、クリームも控えめな甘さであるという事実を嫌という程に知っている。どうぞと差し出され、視界から訴えかけてくる誘惑に欲が勝てそうにはない。

「本当はサービスしてやってもいいけど、キリなくなっちまうから全部アイツに払わせてやんな」
「いやもうサービスはいいです。ほんと」

 悪戯そうに笑うこの店の店主は、再び私達が寄り添い合ってここを訪れるのが嬉しいらしく、この前まで怒涛のサービスを受けてしまったのだから流石に申し訳なさが募って仕方ない。
 私がたくさんのことを取り戻したことを、この人は言葉では多くを語らず、その表情や些細な仕草で喜びを伝えてくれた。決してプライベートで付き合いがあった、という訳でもないけれど、かつては常連とも呼べる頻度で二人は訪れていたのだ。素直に歓迎してもらえることはありがたい。

 さて、どうせまだ来ないだろうし。先に食べるのは悪いという、今日来店したての頃の遠慮をかなぐり捨て、大人しく白旗をあげることにした。ボールからイーブイを出してやれば、すぐさま目を輝かせてケーキに手を伸ばす。先にスマホで写真に収めてから早く早くと瞳で急かしてくるイーブイの頭を撫で、切り分けて口に運んでやるとその黒い瞳の輝きが増した。もうずっと、大好きなケーキなのだ。
 さぁ自分も、とフォークを持った瞬間。不意に意地悪がむくりと首を覗かせてきたのだった。
 今しがた撮影したばかりのシフォンケーキの写真をメッセージアプリで送信する。早くしないと食べ終わっちゃう。そう催促を添えて。
 ふと視線を感じて真横にある窓に目を向けてから、すぐに既読がつかないことをいつものことだと気にせずスマホも目もテーブルの上に戻して、いよいよフォークをシフォンケーキに差し入れる。柔らかい手応え。私だって、もうずっと大好きな、思い出のケーキ。
 カランコロンと、背を向けている入口のベルが鳴った。靴音が店内へと進む。靴音がどんどん迫ってきても、シフォンケーキを食べる手も口も止めない。靴音はそのまま向かいで止まり、靴音の持ち主は断りもなく椅子を引いて腰を下ろした。

「よお。今日も可愛いアリシア」
「……」
「うまそうなの食ってんな。これが例のシフォンケーキか。俺も食おうかな」
「……」
「トレーナーとポケモンって表情似るもんだよなぁ。お前等おんなじ顔してる」

 人の様子など気にも留めることなく、ぺらぺらとその口は止まらない。しかし私はシフォンケーキを食べることと返事を待つことに忙しいので、他に気をやる余裕などない。

「ご注文はお決まりで?」
「こいつとおんなじ紅茶を。あ、テイクアウトで」

 おや?という顔をしつつも、基本的に合図を送らないと注文を取りに来ない店主が席に着いたのだからと寄ってきてくれる。それに対しその無遠慮な人――キバナさんがそんな注文を入れた。

「テイクアウトなら、今度からは直接カウンターでどうぞ」
「すいません、次からはそうします」

 いや次って。通うつもりか?店主もちゃっかり次回の来店を促すの。
 ブレンドティーを淹れに戻った店主のせいで再び二人の空間になってしまったこの場だが、私の手も口も相も変わらず忙しいままなので、顔を上げるつもりは微塵もない。

「つれねぇの。まぁそこもいいけど」
「……」
「ちっせぇ口で頬張んの、ほんと見てて飽きないわ」
「……」
「髪巻いてんの可愛いな。アイシャドウもこの前出た新作だろ。似合ってる。気合入ってんのな」
「…………ぐっ」

 駄目だ。耐えられない。控えめな甘さのものしか口に入れていない筈なのに、このままだと不本意なことに、全身砂糖漬けにされてしまう。

「……ほんと、そういうの、やめてください」
「やめない」
「もう会わないって言ったじゃないですか。なんでまたこうして」
「オレ様はもう会わないとは言ってないよ?」

 そんな私だけが勝手なことを言っているみたいな言い草心外である。
 可笑しな話だ。あんな、面と向かって怒っていることも、会う気はないことも言い切ったのに、どうしてキバナさんはこうしてこんな場所に現れたというのか。あの瞬間、しおらしい顔をして謝ってくれたのに。キバナさんこそ鋼の心臓なのかもしれない。ダンデに食い下がる度胸といい、面の皮が厚いと言うか、はたまた開き直っているのか。

「そこ、ダンデの席だから怒られますよ」
「いつ来るかわかんないんだろ?」
「まぁ、そうだけど……」
「そういうとこだけはほんと変わんねぇな。お、イーブイ、口の端にカスついてんぞ。どれ」
「ブッ」

 伸びてくる手をぺしんと小さな肉球が叩き、そっぽを向くイーブイ。それに気を害した様子もなく腕を引っ込めてキバナさんはにこにことずっと笑っている。心臓、実は十個くらい持っているのかもしれない。
 早く来てダンデ。心の中で念を飛ばす。エスパータイプの子がいれば手伝ってもらっただろう。

「イーブイ、グレイシアかニンフィアに進化させようかな」
「えっ……それはやめて、勘弁して」
「勘弁してはこっちの台詞……。そもそも、どうしてキルクスにいるんですか」
「リーグ関係の用事の途中、この窓からアリシアが見えたから入っちゃった」

 悪びれる素振りもないキバナさんに、隠すつもりもない溜息が漏れた。
 はっきり気持ちには答えられないと言ったのに、キバナさんがこんな風に以前のような態度を取ってくるんじゃあ、バリケードで躱したいこちらはたまったものではない。

「だからって、」

 しかしその時。バン!とすぐ真横から盛大な音が耳を勢いよく襲った。それは向かいのキバナさんも同じらしく、珍しく目を丸くして驚いた様子を見せていた。
 何事かと即座にそちらを見やり、それはもうギョッとした。
 窓に張り付くダンデ。目をギラギラとさせ、獲物を仕留めるかの如く鋭い眼差しを、窓越しに突き刺してくる。――言わずもがな、キバナさんに。

「……知らない、私」

 おっかない顔のダンデはそのまま窓から勢いよく剥がれたと思えば、一瞬でその場から消えた。きっと一目散に入口へ向かったのだろう。こういう時だけ真っ直ぐ辿り着ける男なのだ。
 案の定、その後ほとんど間を開けずに入口のベルが鳴り、乱暴な靴音が響く。店主が奥で笑っているのが見えた。私も、素知らぬ顔をしてシフォンケーキを口へ運んだ。

「何故だ」
「おいおい、言葉はしっかりと使え」
「何故そこにいる」
「アリシアに会いたくて」
「表に出ろ。今日も地べたに這いつくばらせてやろう」
「冗談だって。偶然だよ、偶然」

 偶然と言えば偶然だろうが、そこに座ったのは自分の意志のくせに平然と、まぁ。

「待ちくたびれて可哀想だったから話し相手してたんだって。悪いのは今日も遅刻した上に連絡もろくにしないお前だろ?」
「……」
「もう行くって。ほら、悪かったよ」

 へらりと笑い、ゆっくりと立ち上がるキバナさんをじっと睨むダンデは、不服そうではあるが大人しくその動向を見守っている。様々な葛藤や思うところがあるだろうが、この時間は常連がチラホラのみとはいえ、ここが人の集まるカフェということをしっかりと弁えているらしかった。

「じゃあな」

 そのターコイズブルーは私に向けられていただろうけれど、視線を逸らして口を噤んだままにいた。精算してブレンドティー片手に店を出ていったキバナさんだが、自分が蒔いた種はしっかりと摘んでから出ていってほしかったのが本音である。あれで摘み切ったつもりなのか。
 どっかり。いかにも不満そうにキバナさんが座っていた自分の定位置に腰を落としたダンデの顔を見れば、その矛先を次は私に向けているのだと、それだけで嫌が応にもわかってしまう。不服も不満も、こちらとしても同じだというに。

「もう会わないって言ったじゃないか。アリシアの全てを愛しているが、浮気だけは絶対に許さない」
「私は会ってない。私は妖精と喋ってた。ノーカン」
「あんなでかくて存在感のある妖精?」
「そう。それよりも、待ちくたびれた」
「……すまない」

 私からする言い訳も正直ないのだが、面倒を残して去りやがって、と思う反面消しきれない嬉しさが拗ねたような態度のせいでついて回ってしまう。しかしそれを表に出せば余計に面倒なことになるとはわかっているので、早々に話題転換をした。当然、ダンデには不利な展開に。
 変わったことはほとんどないが、本当に少しだけ変わったことがあった。お互い、なるべく言いたいことを隠したり我慢しないということ。

「既読もつかないし、いつ着くのかもわからないし、先に食べちゃった」
「ごめん」
「だから家まで迎えに行くっていつも言ってるのに。冒険するのはいいけど、もう少し綺麗な恰好で辿り着けないの?」
「嫌だ!外で待ち合わせがしたい!」
「ほんと変なこだわりがあるんだから」

 葉っぱこそついていなかったが、今日も今日とてどこを冒険してきたのかはわからないダンデの頬にべったりとついている乾いた茶色い土に、呆れながらも笑いが堪え切れないままハンカチで拭いてやる。これはダンデ専用なのでいくら汚れてもかまわないヤツだ。
 顔を拭ってあげる最中は、ダンデ、どことなく嬉しそう。距離感がどうたらなどとはもう二度と口にはしないだろうな。
 膝の上のイーブイはそんな私を、いや私達を、尻尾を揺らしながら見上げている。

「ほら、早く注文しなよ」
「いつものやつにするぞ!」

 手を上げて店主を呼んだダンデに、どこか楽しそうにその人は笑っていた。その背後の壁には、ナックルシティで一人では道を進めなくなった私が道案内を頼み、そのお礼の名目でダンデと訪れた日には外されていた、チャンピオンのサインが書かれた色紙が堂々と飾られている。


 ◇◇


「予定が立てられそうなんだ」
「予定?なんの?」
「遠出の」

 ぴたり。カップを持ったまま手が止まった。向かいのダンデは珍しくゆっくりとシフォンケーキを食べていて、皿の上にまだ半分くらい形を残している。
 一瞬だけ何の話なのかわからなかったが、次第にぽんこつ頭の底の記憶の淵から顔を覗かせるものがある。今や遠い、夏のような日の夕陽の下の話。

「シーズンオフになったらだけど、一週間とまではいかないが、三日か四日は確実に取れると思う。だから、行こう」
「……また頑張っちゃったの?」
「無理はしてないからな」

 もぞり。胸の裏で、言い知れない何かが蠢く。こそばゆさが肌を撫でてくる。
 だけどそれは、まったくもって不快な類ではなくて。

「どこにでも連れていける。船でも飛行機でも列車でもなんでも使って、二人で」
「……カロスがいいかな。美味しいものたくさん、あるし。でもアローラもいいかも。マラサダ食べてみたい。ああでも、ホウエンラーメンも気になる。イーブイも食べたいよね?」
「ブイ!」
「アリシアが行きたいところ、全部行けばいい。今回行かなかった所は、少し開いてしまうが、その次に行けばいいんだ」
「でも……、ずっと家で一緒に過ごすだけも、アリかな」

 一瞬面食らっていたが、そっとその表情が崩れ、次第に眦柔らかく、ダンデが笑う。イーブイも、腕に頬を擦り寄せてきた。まるでそれでもいいよって、言ってくれているみたい。

 どこでもいい。どこでも、好きなところに行っていい。それは、色々なことが変わり、重なり合った結果。縛るものも、取り巻くものもその種類を変えた。ダンデはもうチャンピオンではないし、私だって頭の後ろに線路を走らせたまま。好きだからそれでいいと互いに思っているけれど、いざ目前に提示されてみると否が応でも気分が高揚していく。
 次がある。明日がある。例え顔を合わせられなくても、ぽんこつ頭のままでも、それでいいって愛して笑ってくれる人が、手の届く所にいる。
 気合を入れて巻いた髪を褒められなくても、初出しアイシャドウに気付かれなくても、ううん少しは気にして欲しいけれど、手を繋いで隣に立ってくれるから今はそれでいい。顔に土がついたまま登場するくらい愛嬌だ。

 好きな人に好きと言える毎日があれば、例え不確定であろうとこれからを約束できる今日があれば、それでいいのだ、私は。身を蝕むような後悔が襲うことがあったとしても、当たり前の日々が一番美しい。


 向かいに座るダンデは、窓から差し込む陽の光を一身に受けて、寂しさなど欠片もない花開くような笑顔でそこにいるから、私も真似をして笑った。

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