- ナノ -


(11)君の言葉も君の好きな物も、全部覚えている(後)-2


 それからというもの、ダンデ宅の冷蔵庫にこれまでは見られなかった物が常備されるようになった。買い物に行くと私がついつい買ってしまうビターチョコレートに、喧嘩の発端になったフルーツゼリー。私が前に好きだと言って二人で飲んだチェリーワイン。他にも甘めのお酒。全部、私の好きな物で、私の為の物だ。
 そういうのもいいけどまともな食材を入れておいてくれ、と思わなくもなかったが、ダンデの家に訪れると必ず「二人で食べよう!」と笑顔でテーブルに広げるものだから、お腹を抱えて笑ってしまった。もう今後キバナさんを非難できない。
 その後、ようやく念願だった合鍵を貰えたので、リザードンのキーホルダーを付けた。イーブイと迷ったけれど、リザードンに。イーブイのキーホルダーはダンデにあげた。懲りずに意志も伝えず、あわよくば、と強かにも思ったのである。
 伝わったかどうかは結局定かでないが、後日確かに、ダンデに渡した合鍵にイーブイのキーホルダーがぶら下がっているのを見た。嬉しくて一人で笑ったのは言うまでもない。


 ダンデの家に泊まった夜、どこかそわそわとした顔で浴室から出てきたものだからどうしたのかと見つめていると、これまたそわそわとしながら自分の濡れた髪を指差した。

「いいか?」

 ぷっ、と噴いた。喧嘩にも満たないことをして9割無視した日。いつもなら乾かしてあげる髪を乾かすことも拒否したことを引き摺っているらしかった。私が悪かったのだし、と快く今度こそ引き受けてあげると、イーブイが「待て」を経てご飯にありつけた時と似た顔をするものだから再び噴いてしまった。
 タオルドライをしてからドライヤーをオンにする。長く重たい髪が無造作に温風で揺れ出す。

「相変わらず長い髪。切らないの?」

 前々から思っていたことだ。何かしらの理由があるのかはさておき、自分の事をおざなりにする人間にこの長さは面倒以外の何物でもないだろうに。

「すっかり切りたいと思わなくなったな」
「どうして?」

 どうやら切ることを考えたこともあったように聞こえるが、その口ぶりから切らなくてもいいと思える何かきっかけがあったように思える。

「君にこうして梳いてもらうのが好きだから」

 今度は噴き出さなかった。
 代わりに、閉じた口の端から小さく笑い声が零れた。


  ◇◇


 最近、ダンデに貰ったあの本をもう一度読み返している。特に何かがあったわけではないが、単純に面白かったからもう一度読み返したいなぁと思っただけだ。犯人もトリックもわかっている状態で最初から読むのは、何も知らない無知識で読む初見とは全く違う面白さがある。見落としているかもしれない新たな発見を得ることも伏線にも気付けるわけで、丁度一番新しく買った新書が読み終わったことと、たまたま目に入ったことでそう思い至った。
 今日も今日とて、客足の悪い店内で暇を有効活用してカウンターでその本を読む。寒くなってからはもう久しく、膝の上にブランケットが欠かせない。厚手のカーディガンもまたしかり。
 このブランケットもカーディガンも、実はダンデが買ってくれたものだ。しばらく外を一緒に歩いていないダンデはそれを申し訳ないと思っている節があるらしく、代わりのようにプレゼントが増えてきている。それは、こういう私が思い出したように「そろそろ新しいの買おうかな」などと溢したものだったり、使い勝手の良さそうな雑貨だったり、小ぶりなアクセサリーだったり。当たり前のように全て私が好みのデザインばかりだ。
 私が見ない振りをしている、でも確かにある胸に空いた隙間を、そこから湧いてくる物寂しさを、補うみたい。

 会えない分を、外で大手を振って二人で歩けないもどかしさを埋めるようなプレゼントは、本当にどんどん増えている。この前も欲しいと言っていないのにも関わらず我が家に泊まりに来た際にはワンピースをくれた。ものの見事に好みドンピシャなデザイン。その場で着替えてみればあまりにものフィット感に思わずダンデをじとりと見つめると、私の体などとっくに知り尽くしているからとドヤ顔を披露されてしまった。いや確かにそうだろうけれど、とつい遠い目をしたのはそんなに最近の話でもなくて。
 記憶に新しい出来事も古い物もいくつか思い出してしまえば、ああ、集中できていないなと本を潔く閉じることにした。こうやって何かに集中できないことも、最近増えていた。
 お互いの家に泊まり合うだけなのも、いい。人目を微塵も気にせず一緒にいられるから。夜から朝にかけてご飯を食べながら話をしたり同じベッドに眠ったり、僅かな時間を一緒に過ごせるのは贅沢なことだ。それだけで良いと、思っていた筈なのに。ダンデだって、ままならないこと実情にこうしてプレゼントという形で誠意を見せてくれているのに。
 一緒にいられるだけで、満足できるものではないのかな、こういうのって。ダンデの顔をすぐ隣で見て、声を聞いて、触れ合って。それだけで満たされていた時期はどうやら過ぎてしまったらしい。恋は盲目というが、日を追うごとに我儘に、貪欲になってしまうのもまたそれに連なるものなのだろうか。

 もっと、一緒にいたい。もっと、たくさんのことがしたい。遊びに行きたい。何も気にせず、隣にいるのがどういう人なのか、そういうことを一切気にしない一日の過ごし方。
 でもそれは口にしてはならないし、考えてはならないことだ。私はダンデを否定しない。詮無いことに文句をつけるのは無駄な事。最初から二人の間に転がってくっきりと見えていたことに、今更とやかく言ってはならない。それはダンデに対して、いいや今の私達に対する冒涜である。

「アリシア、悪いんだけどお使い行ってきてくれる?」

 本の表紙を忙しない頭のまま無意味に撫でていると、後ろから顔を覗かせた店長にそう声を掛けられた。

「いいですよー?またナックルの資料館ですか?」
「ううん、今回は図書館。寄贈の段取りついたから」
「わかりました。行ってきます」
「終わったら戻ってきて。悪いね」

 この店の責任者はもちろん店長なので、店長はなるべく店内に留まった方が良い。だからこういった類の仕事は私が行くことがほとんどだ。事務的なやり取りばかりがほとんどであり、私でも十分なのだし気分転換にもなるから億劫ではない。
 鞄を取りに後ろに行き、手に持ったままだった本にその時ようやく気が付いた。
 これはハードカバーなので厚みもあって重たいし、ここに置いていってもいいだろう。今回は直帰ではなく寄り道もせずに戻ってくる予定なのだから、わざわざ持っていく必要はない。



 滞りなく寄贈を終えて、そのまま図書館は後にする。馴染みとなってしまった街の中、いつものようにキバナさんがいないかとつい辺りを確認してしまったが、彼は街を訪れたら必ず会えるような人でもない。今日はこの辺りにはいないか、と気を切り替え、職場に戻る為に道を進むことにする。
 空気に晒されている部分の肌が、服の隙間から入り込んでくる風が突き刺すように冷たい。最近こんな時に頻繁に思い出すのはダンデの家でのことだ。リザードンに抱き着いたのは、とても温かかったな。温かさだけではなくて全身を包む安心感と安定感があった。また次会った時にしてもらいたい。バトル中に相手するのはイーブイを始め手持ちの子達とはいえ、正面で相対しているとダンデと共におっかないけれど、普段のあの子は頼り甲斐があるのに聞き分けが良くて、甘えたな一面を見せる可愛い子だ。

 互いに家族と楽しんだクリスマスもハッピーニューイヤーもとっくのとうに終えた今、ジムチャレンジも同じく幕を閉じている。それどころかもう数ヶ月も経ち、年度も変われば新たなジムチャレンジが幕を開ける。
 もちろん去年もダンデがチャンピオンとして玉座を守った結果で終わり、残念ながらキバナさんは今回もその牙でとどめを刺し損ねてしまった。笑ってはいたけれど、その実内心は悔しくてたまらなかったろうに、気の利いた言葉は何も出てこず当たり障りなく彼の調子に合わせただけになってしまったのは、今も記憶によく残っている。

「この後のエキシビション楽しみー!」
「チャンピオン応援しよー!」

 擦れ違いで降りていった女の子二人の会話に――正しくは特定の単語に階段を登ろうとしていた足が止まりかけたが、素知らぬ振りをして登り続ける。心なしか登る足が力強くなり、速度を上げたように思う。関係ない人達の会話でも、ニュースでも、耳にすると急に意識がそっちに引っ張られるようになってしまったのだから、我ながら困った癖だと自嘲してしまう。
 この後シュートシティのスタジアムにて開催されるダンデとカブさんのエキシビションマッチの放送は店で店長と一緒に見る予定なので、さっさと帰らなければならない。歳が近いからか元々カブさんを応援することが多かった店長だけれど、前々からどっちを応援したらいいかもうわからない、と顔を覆って嘆いていたのだから苦笑してしまった。ダンデとすっかりと打ち解けて仲良くなってしまった店長には酷な対戦なのである。
 もう少しで登り切る、という時になって鞄の中のスマホが震えたのがわかり、もしや、と思ってその場で立ち止まり、端に寄ってから鞄を漁る。あと数段なのだから登ってしまえばいいのに、このタイミングで通知があったことを鑑みればあの人の顔しか思い浮かばないものだから。
 案の定、それはダンデからのメッセージだった。

『勝つ。見ていてくれ』

 カブさんには失礼だが、そうね、と同意してしまう。ダンデが、勝つ。誰にも負けない。なんて自信満々。いつものこと。そういうところも、魅力的な人間。この試合の為に暫く会えていないダンデが、今日を楽しみにしていたこともわかっている。

『店長と見てるから。応援してるよ』

 ダンデは試合前になるとこうしてメッセージをくれるようになった。気に掛けてもらえることがこんなにも、いっそのこと叫んでしまいたいくらいに嬉しくて、色めきだす頭を抑え込むのに毎度必死になる。
 けれど、いつもなら返信を送ればそこで終わるやり取りだが、今回は違った。もう一度、ダンデから何やら文章が送られてきた。
 文面を見て、たったのそれだけで馬鹿みたいに胸が高鳴った。確かめるようにもう一度文章をさらえば、ぎゅっと、胸の辺りが程良く締まる。

『この試合が終わった後に色々と片付くから、そうしたら、二人で遠くまで遊びに行こう』

 一瞬で、あの夏が戻ったような日の暑さを思い出した。繋いだ、汗ばんだ熱い手の感触も。
 心配すべきことは山ほどある。どれくらい一緒にいられるのとか、途中で呼び戻されたりしないかとか、今まで散々ぶち当たってきた事柄。でもこうやって誘いを掛けてくれるのだから、もしかして、今回は。
 どうしよう、飛び跳ねたいくらいに嬉しくて、なんて返事を打てばいいのか全くわからなくなってしまった。嬉しいよ?楽しみにしてるね?どこに行こう?端的にそう返事するのも味気ない気がすると、階段の途中だということも忘れてあれこれ悩みだしてしまう。自分が今何をしていたとか、この後試合が、等々きちんと考えてはいるがそれは少しずつ頭の片隅に寄ってしまう。
 店に戻ってからちゃんと考えよう。そう決めていそいそと鞄にスマホをしまう。とっとと戻らなくては。

 そうやっていつまでも動かなかったから、多分、いけなかったのだろうな。

「……?」

 咄嗟のことに頭が、止まった。人間とは不意な事態に弱く、状況処理がその瞬間に簡単に追いつけなくなってしまう不器用な生き物だ。
 ただ、なんとなく何か衝撃があったような気がしたけれど、急に体が軽くなったことが不思議で、変化していく景色の中、目の前に空高い快晴が広がって、体の支えが一つもなくなったようで。
 肩から抜けてしまった鞄が、どうしてか視界に広がる青空の真ん中にあった。指を伸ばしても届かなくて、虚しくも空振る。


 だめ、どっかいかないで、これから返事、しなくちゃいけないのに。

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