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(10)君の言葉も君の好きな物も、全部覚えている(中)-1


 ダンデさんといわゆる恋人同士となり、当然だが私の生活が一変した。

 片やガラルで有名なチャンピオンに、片や古書店勤務の華々しくもない女である。今まではあまり気にしていなかったが、それこそ連絡先の情報漏洩どころの話ではなくなる。今まで以上に気を付けなければならないことは山のようにあった。
 これまで無事だったのだからさほど気にしなくても良いのでは?と思えなくはないが、用心するに越したことはない。二人で出掛けるならば、細心の注意を払わなくてはならない。多分こういったマスコミ対策はその世界に長く生きるダンデさんの方が得意だろうと信じ、私は私で出来得ることはしなくてはいけない。
 結果、二人で外を歩く回数が減った。前のように気軽に外で食事、という行いに対し、私が気後れを覚えるようになってしまったのだ。今までが上手くいったからといって、次もそうとは限らない。ダンデさんはダンデさんで私という恋人ができたことを早々に委員長に見抜かれたらしく、大人なのだし弁えているだろうから口喧しくはしないが、不名誉な報道だけはされぬように、と勧告を受けたらしい。現を抜かすな、とも。

 本当は色々と、行きたい場所があった。たくさん美味しい物が食べたいし、ダンデさんにも食べて欲しいし、テーマパークにも行きたいし、旅行だってしたい。だけど、全部我儘だから胸に留めておく。ガラル内でダンデさんを知らない人なんて数えるだけ無駄な作業。誰もがみんな、キルクスのシフォンケーキが美味しいあの店の店主のような、理解ある人ではない。
 だから、二人だけで会える時間を何よりも大切にした。不思議なことにきちんと“恋人”と名前がついてからというもの、ダンデさんを通して接する世界は、あまりに色鮮やかで美しいものとなった。何もかもが眩しくて、何もかもが愛しくて、ダンデさんが私の名前を呼んで笑いかけてくれることが、大袈裟でもなんでもなく世界で一番幸せだった。

 それだけで、良かった。


  ◇◇


「ダンデすっごいよ。気を抜くと顔が緩んでる」
「うわ、喜んでいいのか怒ればいいのか」
「とりあえず今んとこ事情知ってるのは俺だけだから、ケツ蹴っといてやった」
「ありがとうございますと言うべきなのだろうか」
「お疲れさまって言って。ほんと俺しか知らないから、惚気は全部俺の所にやって来る」
「すいません……」

 浮かれているのは私だけではないと言うのは喜ぶべきだろうか。きっと、喜んでもいいことではあるのだろう。ただ立場と状況を顧みて、分別を第一に据えるべき、というだけで。

「この前も飯行ったんだって?エンジンシティ」
「行きましたね」
「飯しか行かないの?」
「……ご飯で十分ですよ」

 棚の整理をする手が止まりかけて、いけないな、と思うが結局止まってしまった。耳も意識も全てがキバナさんの言葉の一音一音に傾いてしまう。

「付き合う前と変わんなくない?それじゃあ」
「しょうがないですよ。ガラル一、二を争う有名人ですから」

 一見同意してくれているような顔をしているが、どことない不満感を見せるキバナさんに、どうして貴方がそんな顔をするんだって可笑しくなる。肯定は得られなかったが小さく笑みを強引に作ってから、いい加減止めた手を再開する。

「にしたって、デートすんならいくらでも場所あるだろ。飯食ってはい解散、じゃなくて」
「忙しい合間を縫って貴重な時間を割いてくれてるんですよ。ありがたいです。それに、ジムチャレンジが終われば少しは余裕も出るって。あとはまぁ、頻繁にご飯作りに行ってますけど」

 あれこれ探してご飯や甘い物を食べに行くことがほとんどで、都合があまりつかない場合はキルクスのお決まりの店なんてパターンもそこそこ。
 外がダメなら中、と私がダンデさんの家にお邪魔する回数も増えている。なにせ未だに不摂生が続いていると発覚したからだ。私と一緒じゃないと美味しくないなどとのたまうダンデさんに、いや子供か、と呆れた顔をしたけれど、多分隠しきれなかった嬉しさが滲みでていたに違いない。だってその時のダンデさん、とても優しそうに笑っていたから。本当は私がいなくても三食しっかり栄養を取って欲しいが、あんな優しい顔を向けられて必要とされることに難色を示す人間も中々にいないだろう。
 ご飯を作って、二人でそれを食べて、隣り合って話をして。それはポケモンの話だったり、本の話だったり様々。プライベードな空間にいる限りは人目を気にせずにいられるから居心地も悪くはない。

「……それなんだけどさぁ」
「はい?」
「健全過ぎて逆に心配になる」
「……?」

 言われた意味が瞬時には分からなくてしばし首を傾げる。キバナさんはいたって真面目そうに私を見ていて、どうしたかと尚も疑問符を浮かべていると、腹から出したような盛大な溜息を吐かれてしまった。

「ダンデもそうだけど、アリシアも大概だな」
「……」

 ああ、と閃く。羞恥は薄いが、私は伊達に人よりも知識を蓄えてはいない。恋愛小説は専門外だが、都合よく無知でもない。
 外で会おうと、中で過ごそうと。夜が来れば私達はバイバイまたねをする。
 キバナさんが呆れているのは、直接的に指摘はしていないものの、つまりはそういうことなのだろう。
 とんだ無理を言う。キバナさんはまだ知らないかもしれないが、この前ようやく手を繋げられたばかりなのである。指と指をからめる、特別なやつ。そこから先はまだ、何も進んでいない。学生ではないのだから順番なんてどうでもいいかもしれないが、だって私は、その。

「……いいっちゃいいけど、別に」
「え?今なんて言いました?」
「もどかしすぎて痒いって言いましたー」

 絶対違うと思う。


  ◇◇


 ダンデさんが私の話をキバナさんにしか出来ないように、私もダンデさんとのことをキバナさんにしか話せなかった。最早彼は私の唯一無二の相談相手と言っても過言ではない。キバナさんが緘口令を破ってくれなければ、きっと今もまだ私とダンデさんには距離が開かれたままだったことは確実で、感謝もしている。
 前々から思っていたことだが、キバナさんはとても聞き上手だしアドバイスも的確である。だからこそ余計に、キバナさんを頼ってしまいたくなる。明け透けな内容は相談しないが、美味しいお店だとか、そういうキバナさん曰く“健全”なお話。
 だけど、とうとうその手の話がキバナさんの口からそれとなく出てしまえば、やはり私達は可笑しいのだろうかと少し落ち込んでしまう。

「アリシア?」
「……あ、すいません。ちょっとボウッとしてました」

 不意に横から顔を覗き込まれたことで明後日に行っていた意識がはっきりとしてこの場に戻ってきた。繋いだ手が不安そうに力を強めてきたものだから、すぐ笑みを作り、大丈夫って意味も込めて同じ力で握り返す。

「すまない、つまらなかっただろうか」
「え?……あ、ああ、違いますよ。つまらないどころか、嬉しいし、ずっと楽しい」

 まるで夏の陽気が戻って来たかのような、暑い一日。
 汗ばんだ手が愛おしかった。最近ようやく、その大きな手の感触を覚えたばかりだった。
 待ち合わせて顔を合わせると、まだ恥ずかしそうに右手をそろそろと持ち上げて、私に差し出してくる瞬間は胸が上から押されるように苦しくなる。指先が痺れるようにじりじりとして、私もゆっくりと差し出されるそれに重ねる。二人して緊張している様は傍から見ても面白いくらいだろうが、私達のスピードはそんなものだ。早ければいいというものでもないと思う。

「……あ、見てください。海が綺麗」

 バウタウンでご飯を食べた直後である。帰る為に駅に向かって歩いている途中視界の端に映った海面が夕陽を受けて輝いているのが見えて、つい立ち止まってしまった。

「……こんなに綺麗なモノなんだな」
「大袈裟な物言いですねぇ」

 正直、ダンデさんがこういったことに一々感動を抱くような人間とは思っていない。立ち止まって海を眺める時間を持つくらいならさっさと家に帰ってポケモンと戯れる時間を作るような人だ。だけどこうして改まった言い方をするのは、もしかすれば、私が隣にいるから。自惚れてもいいならきっとそう。手を繋いだ私が立ち止まって海が綺麗だと言ったから、ダンデさんも同じ物を見て同じことを思ってくれた。
 きらりと光る橙の海を見つめていると、再び手がきゅっとされる。ダンデさんを見ずに私も同じことをする。

 行きたかった。夏の間に海、行きたかったな。今まで海なんて絶対近付かなかったが、レンアイマジックというのはかくも恐ろしく、自然とダンデさんと一緒に行きたいと思うことがややあった。人前で水着は恥ずかしいので抵抗感は抜けないが、例えそうだとしても。他の誰でもない今手を繋いでいる好きな人と、単に季節の思い出を作りたいと、欲した。
 そもそも夏の間にはダンデさんとこんな関係になるとは想像していなかったし、結局もう夏は終わってしまったけれど。

「今度、どこかに遊びに行こう」

 海を見つめていた瞳は、意識することなく隣の人へと動いた。
 待ち構えていたように、橙色に照らされる金色の美しさと交差する。

「あまり遠くには連れて行ってやれないけど」

 うん、と頷いたが声はしっかりと出ていただろうか。
 自信がなかったので自分から手を握り直した。帰り道だけでもう何度握り直しただろう。ただ、数少ない逢瀬を大事にしたくて、二人して馬鹿みたいに同じ事をして。
 どこかって、どこだろう。きっとこうして色んな場所へご飯を食べに行っている範囲とは別なのだろう。けれど多分訊いても考えても仕方がないので、代わりに笑った。

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