- ナノ -


(7)甘ったるいミルクレープならいらない-2


 家を出たのは昼過ぎだったが、列車の窓から見える外はもう随分と陽が高くなっていた。
 数度キバナさんには連絡を入れてあり、今も、もう着くとメッセージを送る。降車して改札を抜けると、彼は真っ直ぐに背を伸ばして私を出迎え、私の顔を見るとにっこりと含みもなく優しく笑った。

「よしよし、無事に着けたな」
「キバナさん、ごめんなさい、あの」
「言ったろ、お前のせいじゃないって」
「だけど、」
「ん〜〜……じゃあ、さ。悪いと思ってるなら、俺のお願いきいてくれる?」
「きく!ききます!」

 免罪符を与えられてすぐさま飛びつくと、困ったように一瞬だけ笑ったけれど、キバナさんが再び優しく笑って、右手を軽く宙に浮かせた後、私に差し出した。

「手、繋いでくれる?今日一日放さない」

 胸が鷲掴みされたように苦しくなった。
 少しでもキバナさんに好意を生み出しているからなのか、罪悪感からなのか、線路が走る穴ぼこの頭では判別が困難で。

「あ、でもイーブイ抱えてる。悪いけどイーブイ、ご主人様の手、借りていい?」

 ダンデさんよりも細く綺麗な指先がイーブイのおでこを擽るように撫でる。何か言いたげではあったが、イーブイは大人しくボールに戻ることを選んだ。
 また、キバナさんの右手が私に向けられる。

「いい?」
「……はい」

 差し出された右手に恐る恐る、近付ける。指先が触れた瞬間何故かぴくんと自分の手が反応して一度止まってしまうと、キバナさんは表情一つ変えずにそれを攫って行った。ぎゅっと、感触を確かめるように数回握り直している。細く綺麗だと思っていたが、いざ重ねてみると筋張った、立派な男の人の手。
 大きくて熱い手だった。
 細まっているターコイズブルーの瞳は、相も変わらず凪いでいるように穏やかそのもので。

「そのワンピース、可愛いな。よく似合ってる」


  ◇◇


 キバナさんは駅を出た後も、宣言通り繋いだ手を放そうとはしなかった。ダンデさんよりも自分のスタイルを変えることが得意な彼は一発でトップジムリーダーだと気付かれにくいが、それにしたってあまりに堂々としすぎている。こちらはもやもやなのかドキドキなのか、よくわからない感情に翻弄されているというに。
 チラ、チラ、と目だけが忙しなく動く。上機嫌そうに口角を上げたまま話をしているキバナさんに適当な相槌になってしまうのは、言うまでもなく二人の間で歩く度に揺れる繋いだ手のせい。

 店に入って軽食で腹を程よく満たし、目的だったというミルクレープを食べている間はさすがに放されはしたが、なんというか、テーブルを挟んだ向かい側で始終どろりと甘ったるい顔で見つめられてしまうと、こう、落ち着かなかったというか。羞恥心もあるだろうが、体の色んなところがむずむずとして仕方なかった。

 しかもキバナさん、足の先で悪戯までしてきたのだからたまったものではない。つんと足先が当たる感覚があって、おっと長いおみ足だもんな、と邪魔で申し訳ないと引っ込めれば追いかけ来たのだから我慢できず目を剥いた。「ん!?」と声を出すと「ん?」と穏やかに微笑み返され、余計な言葉を使わず雰囲気だけで二の句を継げなくさせられてしまう。要はこちとら絶句である。
 かと思えばテーブルの上に適当に置いた手に指を添えられ、指先でなぞられたり形を確かめられたり。血管をなぞられた時は鳥肌が立った。震えた私に気付いているくせに「やっぱお前、手小さいな」などと抜かす始末。
 じっとりとした汗が首筋に滲むのをどうにもできないまま少しずつひっこめようとすれば、案外簡単に手が遠のくことを許してくれた。しかし、最後に撫でるように肌の表面を触ったものだから最早むず痒いなんてレベルのものではない。

 このっ、この男、ずるい。私が罪悪感で強く出れないことをわかっていて、好き放題しているのだ。
 いたたまれなさに拍車をかけるのは、先程からぐんぐんと減らないミルクレープとこの店の内装のせいだ。
 ミルクレープは生クリームだけではなく生地から既に甘め。内装も女子ウケのいい明るいポップめ。そこにこのキバナさんの態度を混ぜあわせてみろ。よその女の子ならはしゃいで喜んだり恥じ入って男の人にいじらしさをアピールできるかもしれないが、胃に大量の砂糖を詰め込んだ重苦しさを感じている私には無理な芸当。
 あんま好きな味じゃないな、なんてもちろん口にはできないしキバナさんにも申し訳ないので、顔に出ないよう顔面に力を集中した。

 ダンデさんと甘い物食べる時はいつも落ち着いた外観や内装の場所で、くどくない甘さのものばかりだったのにな。本当に偶然なのにいつも美味しかった。何より、ダンデさんとは会話がそこまで弾まなくても、空気はあまり重くはならなかった。最初は気まずさもあったけど、ダンデさんが印象よりも抜けていて子供っぽいって接していてわかったから。

 ――……今何を考えていた。

「アリシア?……ごめん、調子乗り過ぎたな」
「あ、いや、そういうんじゃ」

 そういうことではなかったが確かにちょっと飛ばし過ぎですよ。だけどそれを伝えるための気力が残っていなくて、罰の悪さが際立つとわかっていながらも目を背けずにはいられなかった。
 どうして比べた。ダンデさんは、もう何も関係ない人なのに。


  ◇◇


 まぁ合流したのが遅かったために、会計を終えて店を出ると外は既に暗くなり出していた。当然のように、また奢られてしまった。

「今度は何食おうか。ていうか食ってばっかだな。どっか遊びにでも行くか。つっても、ジムチャレンジシーズンだからそんな遠出はできないんだけど」

 お前が食べてる姿見るの好きだけどね。そう口にしながらさりげなく手を攫われる。指と指を組んだ、特別なやつ。
 少しだけ顔をこちらに傾けて、私と歩調を合わせる、ずっと優しい笑顔のキバナさん。その顔を暮れかけた深いオレンジ色の光が包んでいて。オレンジ色がじわじわと隣の褐色の肌と視界を侵食して、

『今度、どこかに遊びに行こう』
「えっ?」

 ブツッと鈍い音がして、思わず立ち止まった。当然手が繋がっているから、すぐに気付いたキバナさんも半歩程前で立ち止まる。どうした?と尋ねられたが、口が半開きのまま指一本、動けなくなる。

『あまり遠くには連れて行ってやれないけど』

 そう言って、夕陽に包まれながら、笑っていて。
 多分、今日みたいに暑い夏の日。
 恥ずかし気に繋いだ手を弱く握り締めた、まるで繋がれた手がそこにあるのだと確認するように何度か握り直した、私と違う色の大きな、汗ばんだ掌。

「……まえ、も」
「前?」
「前にも、同じこと、言ってませんでした……?」
「!」

 呆然とキバナさんを見上げる私を、彼はつい今までと打って変わり顔色を驚愕に染め、目を見開いて見つめた。察しのいいキバナさんに、それ以上を語る必要はなさそうだ。
 変に確信的な気持ちがあった。大きな手に繋がれたままの自分の手がぶるっと大きく震える。

 今まで片鱗すら見せなかった、失った一年の、欠片。

「昔の事思い出した、のか……?」
「思い出したというか、前にも同じこと、言われた気がして……そう、そう、あれ、あったの、前にも」

 突然の事に混乱してしまい、喜びと戸惑いの感情がない交ぜになって複雑な心地だった。
 思い出したいと思っていた。他の誰でもない、ずっと好きだったと言ってくれて、無理に思い出す必要はないと有り余る優しさをくれた、キバナさんの為に。
 それなのに今どうして、中途半端にも戸惑いを運んでくるのだ。

「アリシア」

 低い声に名前を呼ばれ、顔を上げるよりも先に手を強く引かれた。力が入っていなかった体は簡単に前へ動き、そのまま抱き留められた。
 焼けるように熱い、キバナさんの体に。
 繋いでいない左手が、ぽんぽんと頭の後ろを軽く叩く。そこで一つ、気付いたことがあった。

「キバナさん?」
「落ち着け、大丈夫。無理するな」
「いや、無理はしてな、」
「いいんだ。俺は別に、今、お前が此処にいてくれれば」
「……」

 階段から落ちた日のことでも思い出しているのだろうか。キバナさんの声音は、鈍い痛みを伴っていた。
 周囲は人がまばらとはいえ決してゼロではない。早く離れた方がいいとわかっていながら、なんだかキバナさんが訳もなく哀れに思えてしまい、微かに首を縦に動かした。
 思い出さなくていいと、言ってくれた。付き合いの長い友人達が求めたものを、キバナさんは求めなかった。それがどれだけ嬉しくて、気持ちを楽にしてくれたか。

 キバナさんは私に懺悔をしたが、謝るのは私だって同じことだ。私はキバナさんとの思い出を、全部忘れた。今日も、忘れた。だけどそれを全部丸ごと受け入れて、許してくれた。
 キバナさんと一緒にいたお陰で、いいとは言われたけれど、思い出す兆候が今まで一切なかったくせに、少しだけ思い出すことが出来た。
 何よりキバナさんと一緒にいると、頭の後ろの線路が痛まないことに、ようやく気付いた。


 手を繋いだまま列車に乗って座席に座り、流れていく景色を何も考えずに眺めていると、「なぁ」と声を掛けられた。隣を振り返ると、背を丸めてこちらに顔で近寄り、あの甘いものを煮詰めたような顔で、窓から入る光で煌く瞳が、私を見ていた。

「好きだ」
「……時と場所という概念」
「でも今言いたくなって」

 むぅ、と唇を閉じ合わせた。体のあらゆる箇所がぞわぞわとしてこそばゆい。何の衒いもなく好きだと言われても、私はまだ返せる言葉を生憎と持っていない。
 と、そこでふと、キバナさんの喉元が目に付いた。

「あれ、どうしたんです?」
「どうって?」
「首。なんか、痣?できてますけど」

 自分の首を指して示す。ほんのり色が変わっているそこは、デコルテ含め首元をほとんど隠すサマーニットのせいで今まで見えなかったが、屈んだから襟元がたわんだせいで今ようやく目に付いたのだった。

「……あー。その、ぶつけた」
「えっ、そんなとこを?大変じゃないですか。というか首ぶつけて痣ができるってどういう状況……?」
「いや何ともないって。こんなのすぐ消えるし、オレ様肌が黒いから目立たないし」
「そうだろうけど……」
「心配?」
「……」
「素直じゃねぇの」

 ぷはっと空気を吐いて笑われてしまっても、再び閉じ合わせた唇は開かれない。
 さて、長い移動を終えて列車はナックルシティに辿り着きそこでやっと解散、のつもりだったのだが。

「家まで送ってく」
「え」
「もうほとんど陽が落ちてるし。危ないだろ」
「イーブイいるから平気です」
「そういう問題じゃない。……俺が、まだ、お前といたいの」

 再三の、むぅ、である。
 好意を包み隠されないのって、結構、色んな意味できつい。

 駄々を捏ねたところでキバナさんは聞く耳を持ち併せずにそのままラテラルタウンまでを並んで歩いた。その間もしっかりと、手は繋がれたままで。
 道中キバナさんとゆっくり歩いても退屈することなどない。いつもそうだが、本当にコミュニケーション能力が桁違いな人だ。引き出しの多さは即ち経験の証。知識も蓄えるキバナさん、本当に同じ人間なのだろうか。
 ラテラルタウンについてもキバナさんは止まらない。そのまま間違えることなく私の家へ続く道を進んでいく。最初は「え?」と思ったが、これも幾度と繰り返したことだ。キバナさんが私の家を知っていることなんて、この期に及んでわざわざ口に出して確かめる必要はない。
 アパートの私の部屋の前に辿り着き、二人で向かい合う。どうしよう、何か言った方がいいかな。お茶でもどうですとか?馬鹿か、簡単に部屋に上げろというのか。

「そんじゃあ、またな」
「あっ、はい、いえ、ありがとうございました。あとすいませんでした」
「耳タコだわぁ最後」

 変わらず笑うキバナさんに、私もやっと気が抜けて小さく笑った。そんなに身構えなくてもよさそうだ。

「ほら、早く入れ。ゆっくり寝ろ」

 促すためか、頑なに繋いだままだった手がゆっくり、もどかしげに、解かれた。まだキバナさんの熱が移ったままだが、それもすぐに冷めてしまうのだろうか。

「そうします。それじゃあ」
「あっ、アリシア」
「はい?」

 せっかく放した手がどうしてかまた引かれて、なんだと振り返ると、そこには既にキバナさんの顔が間近に迫っていたのだから、咄嗟のことに反応だって遅れる。

 左頬に、柔らかい感触。

「唇には、ちゃんと付き合ってからするよ」

 少しばかり低まった声で囁きながら、自身の唇を押し当てた箇所を指先で滑らせるように撫でる。

「おやすみ」

 とびきり優しい四文字を紡いでから、キバナさんは背を向けてようやく去っていった。

「…………」

 心臓が遅れて喧しくなる。ゆっくり、意識が出来事を認知する。さすがの私だって唇がくっついた部分がじんじんと熱を持っていることが嫌でもわかる。私は疎いかもしれないが、鋼の心臓ではない。

 なんだあの男は?

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