短編
- ナノ -


 愛しているから


 泣いたら抱き締めてくれた。慰めるための言葉が不器用なせいでわからないようなのに――多分誰かを慰める経験もほとんどなかったようだけれど、泣き止んで落ち着くまでひたすら抱き締めてくれた。感情のまま泣くだけの女なんか面倒がられてもしょうがないのに、ダンデはただ抱き締めてくれた。
 包み込んでくれたあの温かみを、私は決して忘れられやしない。

 眠れない日は眠れるまで付き合ってくれた。優しく語り掛けてくれて、頭や肩を撫でながら緩やかに眠りへ落ちるまでをそうやって手伝ってくれて。自分だって朝から仕事があるのだしさっさと寝てしまいたいだろうに、私よりも先に寝ることを自分で許さなかった。
 もちろん眠れないダンデに付き合った夜だってあった。穏やかで静かな夜の空気と寄り添い合いながら、他愛のない話をできる時間も、私達には美しいものだった。

 落ち込んだ時はリザードンの背に乗せて、気晴らしだと空の散歩に連れ出してくれた。背中からダンデの温かな体温に包んでもらって、遥か高みより見下ろすミニチュアみたいな街は、広いのになんだかあまりに平たくて、あんなに背の高いビルも空から見れば指でつまんでしまえそうなくらいにちっちゃい。全体が見えてしまえば私が苦しいって思っていた場所は、実はちっぽけなものなのだとお陰様で知った。
 めいっぱい息を吸って、澄んだ冷たい空気と沈鬱な気分を肺で交換してからようやく笑えると、ダンデも同じように笑い返してくれた。

 料理を焦がしても笑って食べつくしてくれた。先に防衛策として「あんま得意じゃない」と伝えていたのにそれでもいいからって。俺のために作ってくれたものだからと頑なにスプーンもフォークも手放さず、申し訳なさにおろおろとする私にやはり優しく笑いかけてくれた。
 次も作ってくれと言ってくれたから、誰かのために作る料理を楽しむ気持ちをそれで知れた。今度は俺も作るよって大きく笑ってくれたのも、凄く嬉しかった。

 寄り添ってくれる人だった。人伝やメディアの話とは違って、ダンデはゆったりと私の時間を送り、とても惜しんでもくれた。蔑ろにされたことはただの一度もない。手軽に食べられるものがいいなんて昔は言っていたらしいが、私との食事の時間を疎かにした試しは一度もない。

 優しくされたから、と言われればそうなのかもしれない。優しさって少しずつ刷り込まれていくものだから。でもそれは疎かにはできない大事なことだと思うわけで。ダンデのそれは、ただ優しくするのではなくきちんと尊重してくれるということ。慮ってくれたということ。他の人みたいに私という一個の人間を軽く見なかったということ。
 だってダメなときはしっかりと叱ってくれたからだ。それは単なる文句一辺倒とかではなく、私を気遣ってくれているからこそだって、私でも理解できるくらいの熱量。ひたすら盲目的に肯定するだけではない。私は無情にただただ甘やかされてきたわけではない。
 これからは、私もそうありたいと願った。ダンデに貰った優しいものを、私もダンデに与えたい。けれど与えたい、というのはもしかすれば傲慢なのかもしれない。対等。あくまでも望むのはそうで、きっと言葉で語れば簡単だけど、実際は何よりも難しいことだとしても。

「……家事は当番制にする?」
「そうだな。もちろん手が空けばその時はやる」
「臨機応変ってやつだね」
「カーテンの色は?」
「私が決めていいの?」
「二人のことだが、その辺は俺にセンスがないからな」
「適材適所ね」

 決めごとは書き出してみると項目が増えていくばかりであれやこれやと尽きず、終わりが見えないように思えて時折頭がくらくらとするが、肝心なことだから手を抜いてはならない。なにせ一人の人生を歩むのはもうこれで終わりになるのだから。思いついたらその都度付け足せばいいよってダンデは笑うけれど、最初の擦り合わせだってとっても大事だと思うの。そう少しだけ口を尖らせると、苦笑して「イリスのその“とことん”ってところは好きだ」なんて言う。
 忙しさはダンデの方が段違いだから、現実は自然と私がメインになっていくのだろう。けれど大事なのは認識だ。私を手伝う、という言い方は一切使わないダンデと思い付く限りの擦り合わせをしていき、すると途中で突然「そうだ」と言い出したから、ペンを走らせていた手を止めて「何?」と紙面から顔を上げた。

「毎日愛してるのキスをする、は、書いた方がいいかな?」
「えっ、恥ずかしい。わざわざ書いて貼るの」
「じゃあ慣れるためにもしっかりと文字に残しておこうぜ!」

 こういうちょっと強引と言うか、自分の意見を曲げない時だってある。でもそれだって重要なことだ。相手の顔色や言葉に従うばかりが優しさではない。自分を出していかないと双方を理解するには及べないのだ。

 優しさだけでは全てを救えない。頭で理解していながらも、そういう目には見えなくなりがちなものに大きく惹かれたのは紛れもない事実だ。きっとダンデが他人にそうできるのは、誰よりも清濁を併せ飲んできたが故なのだろう。私よりもずっと起伏の激しい人生を生きてきたダンデ。バトルもできない、ポケモンは好きだけどあまり詳しいと言えない私の隣で手を繋いでくれたその心を、生涯一等大切にしていきたい。
 そんなダンデとだから人生を重ね合わせたいと思えたのだし、百年経っても手を繋いで同じ歩調で歩きたいと思えたのだ。これからはどちらかが一方に凭れかかるのではなく、隣合って、けれどそれぞれの足で。優しさに泣いた私にそう思わせてくれた、世界で一番愛した人と。


20210903