短編
- ナノ -


 To Know You-2


 嵌められない指輪など持っていたところでしょうがない。そうは言ったところで、じゃあこれはそんな簡単に捨てられるような、引き出しに閉じ込めておけるようなものなのかと問われれば、俺は黙って頷けやしないのだ。
 これは玩具。子供の戯れのために用いる物。でも俺にとってこれは、単なるプラスチックの塊なんかではない。かつて他の誰でもないイリスが指に通してくれたもので、それがこの世界の中でも一等美しい思い出で。
 仮に指にまだ嵌められたとしても外に出る際には外さなくてはならないし、そうして他者の望むクリーンなチャンピオンに迎合して生きねばならない。もちろん一から百まで他人の頭の中身に合わせるわけではなくとも、チャンピオンとなる以前に描いていた毎日とこうして違えているのであれば同じことだ。
 よすがなのだ、指輪は。玩具であろうと、もう指に嵌められなくなっても――それにイリスがホッとしたような素振りを見せようと、これは俺達の昔日の美しい思い出の品で、あの頃の気持ちや空気をしまいこむ大切な物。指輪を交換する意味もわからなかったような無垢な幼稚さを持っていた、あの頃の。

「イリス、指輪は」
「……」
「イリス」

 この頃すっかりと身長の差が大きくなってきた。同じ目線だったイリスの顔はとうに下に位置し、イリスは俺を前にすると必ず上を向かなければならない。体だって厚みが全然違うし、俺が膨らまない部分が膨らんだイリスは、手足もすらりとしていて、細っこい体なのに程良い肉のついた、立派な女になっている。俺とは違って同年代が集まる一般にスクールの通い出したからか、知見を日々広めるその横顔に些末な変化を感じ取っていた。
 薄く化粧もして、もっと胸も尻も大きな女に言い寄られることも片手では足らないくらいになっていたけれど、こんなにも胸を逸らせる女は俺の世界においてはこのイリスだけだった。

「……そこ。引き出しの中」
「出して」

 特別だからだ、イリスは。家族よりも幼馴染よりも、ちょっぴり飛びぬけた大切さ。
 けれど、その成長をぬか喜びできるかと言えば厳密にはそうではない。変に女の部分を意識はしてしまうが、顔を合わせる度にどこかしらが変化しているイリスに、奇妙な靄を心にかけられてしまう。気分が悪い程ではないが、一端の男のように体や女の雰囲気に対して妙な意識をしているというのに、心は手放しでそれを喜んではいなかった。
 ――どうして変わってしまうのだろう。どうしてそこもあっちも膨らんで、声が大人びてきて、化粧なんかして。どうして、イリスはそうやって幼い頃のままでいてくれないのだろう。

「手、出して」
「……」
「早く」

 眉を顰めて、口を固く閉じて。見るからに嫌そうな顔をしているイリスだが、俺が少しばかり強めに催促すれば最後には言う通りにしてくれた。いつもの引き出しを開けて、見慣れた玩具の指輪をおずおずと取り出す。
 イリスは躊躇しつつも、やはり自ら差し出した左手をすぐさま攫い、薬指にそれを通そうとした。しかし通そうとして、すぐに異常事態に気が付いたら目を見開いて、口を間抜けに開けて、そのままちゃちな指輪をあろうことか落っことしかける羽目になったのだ。
 嵌らないのだ、もう。爪の丸い綺麗な薬指に、指輪は途中で引っかかり、付け根までは決して進まない。

「……わかった?これ、もう私の指にも、合わないんだよ」

 茫然とする俺に淡々と事実を伝えるイリスは、もしかしたらとっくにこの現実を知っていたのかもしれない。

「や、だ」
「ダンデ」
「嫌だ……、いやだ……ッ」

 いやだ、しか出てこなかったのも幼稚なことだった。もうとっくにイリスの体は女になり、膨らむところは膨らんで、指の太さだってあの頃と同じなわけがないのに。俺の指にあのプラスチックが通らなくなったように、それはまったく不思議なことではない、自然の摂理であるのに。

「嫌でも、自然なことだよ。ダンデがさっさと大人の体になったように、私だってそうなんだ」

 対してイリスは終始淡々としていて、諭すように。なのにどこか寂しそうに聞こえたのは俺の都合よい妄想なのだろうか。

「捨てないでくれっ、これだけは、お願いだから捨てないでくれ……!」
「……嵌められないおもちゃを?」
「それでも!」
「……いいよ。ここにずっとしまっておく。……だけど、そのかわり」

 使えないものは要らない。ごく一般的な価値観だが、これはそうではない。使えなくなったけれど、価値のないものなんかじゃない。だから咄嗟にそう頼めば、イリスは一度瞑目して、なのに体のどこかに力を溜めるかのように息を吸った後、俺のことなんか見もしないで床に言葉を吐いたのだ。
 しばらくはここにこないで、と。


 イリスの懇願をきく理由など俺にはなかった。なかったのだが、俺はそれ以降イリスと距離を置くようになった。それはイリスの言葉を守っているようでいて、その実異なる理由である。
 今思えば、それは恐れだったのだ。でもそれすら気付けなかった心の成長の中途半端な自分では、素直に合点できることもなく、奇妙な燻ぶりだけを胸に抱いては、本当は会いたいけれど会えない、そう言い訳を繰り返して遠くからイリスの小さくて丸い顔を思い出すばかり。
 それからだろう。意味のなくなった玩具の指輪に殊更執着するようになったのは。手元に残ったちっぽけなプラスチックは、輝きに乏しく安っぽい造りの、正しく玩具。だけどこれはかつてイリスと交換し合って、俺の指に彼女の指が通した、意味のないものなんかじゃない。他にもイリスが俺にくれたものはあるのに、この指輪はどれよりも特別な意味を孕んでいた。

 幼いながら、幼い世界の中でもずっと一緒にいたいと思った大切な女の子。
 しょうがないなぁ、とお姉さんぶって呆れたような顔をするくせに、笑って遊びに付き合ってくれるその顔が好きだった。俺が怪我をしても放って平然としていると烈火のごとく怒り、乱暴に消毒液を吹きかけてくる目を吊り上げた顔だって。歯が抜けたからって口を隠してそっぽを向いたむくれた顔も。ダンデって呼んでくれる綺麗であどけないソプラノも、ずっと特別だった。
 だから、玩具の指輪にイリスの面影を見ては縋り続けたのだ。かつて自分勝手に特別な儀式を真似た結果、俺の手元に唯一残ったもの。イリスが俺にくれた、一等大切な。
 会いにはいけないけれど、どうか俺を忘れないで欲しい。固くしまいこんだ玩具の指輪も、どうか。無邪気に交わしてしまった儀式の真似でも、俺の気持ちはあの頃からずっと変わってなどいないから。
 隣で笑ったり怒ったりしながら駆け回ってくれた幼いイリスの無垢で眩しい笑顔が。何も言わず遊びに行って迷子になり、イリスが見つけてくれた瞬間の安堵の泣き顔が、もうずっと瞼に焼き付いている。


  ◇◇


 ――今日もイリスは来ていないだろう。嫌に勘が働くものだからバトルコートに入る前にそれがわかってしまうのは我ながら難儀だが、いてもいなくてもチャンピオンの顔をして、チャンピオンの言葉をふるって、そしてトレーナーとしての矜持を燃やすしかない。観客を魅入らせるようなバトルを、今日も昨日と変わらずするのだ。
 いよいよ時間だという時になって、もう一度ポケットにしまった玩具の指輪に布の上から触れ、その形をなぞった。もう絶対に俺の指には入らない、子供の玩具。でもこれがあるから未だにイリスとの繋がりを失っていないと信じられた。こないで、と言われてからというもの顔を合わせたことはないが、きっとイリスの引き出しにしまわれた玩具の指輪は捨てられてはいないだろうと、それだけは確信ができた。
 数年会っていないイリスが、どこにいても俺のことがわかるように。俺の顔も、声も、いつだってわかるように。露出を増やした仕事はポケモンバトルやチャンピオンのアピールになるとはいえ時折心身を疲弊させることもあったが、ほんの少しでも俺のことがイリスに伝わるようにと願い続けた。
 記憶の中にある最後に見たイリスの顔はもう朧気になってしまったが、瞼に焼き付いた幼い笑みはまだ消えていない。
 会いたい。でも会えない。だから偽物の指輪に想いを託し続けて、今日も君がどこかで見ていることを祈って俺はチャンピオンとして最高のバトルをする。

 ――ああ君の、幼くて無垢で優しい、あの笑みがまた見たい。


20210817