短編
- ナノ -


 To Know You-1


 試合前のルーチンがいくつかある。その中の一つは、誰にも教えたことのない、秘密の儀式みたいなこと。よく勝利後のインタビューでは「勝利の秘訣は?」「何か特別な練習を?」等々無粋に訊かれることもあるが、これだけは誓って誰にも話したことはないこと。
 ポケットから小さな指輪を取り出して、それにキスをする。真ん中にルビーを模した宝石みたいなプラスチックに、そっと、触れるだけの。チェーンをつけて首にかけてもいいが、汗で汚れたりするのは嫌だから。
 控室で恒例のそれを終えたら、一撫でして慈しんでからポケットに戻した。少しだけ息を吸って、吐いて。ポケットの上から触れて確かにそこにあることを感じてから、脳に教え込んでから、ドアを開けてチャンピオンとなりバトルコートまで一本の道を進んでいく。

 今日。君が見てくれていることを祈って。


  ◇◇


 昔話だ。過ぎた日の話で、他愛ない、思い出の中の時間。
 大切にしている指輪はかつてイリスと交換しあったものだ。子供向けの玩具の、安い造り物。どうして家にあったのかは忘れてしまったが、二つのそれを見つけた瞬間、咄嗟に思い浮かんだのは同じ町で暮らすイリスの顔だった。
 乱暴に鷲掴んで、掌の中に閉じ込めた二つの玩具。それをあげたいと思ったのは、どうしてかイリスだけだった。
 家を飛び出したらちょっと道を逸れつつも辿り着いたイリスの家のベルを鳴らし、彼女の母親が笑っていつものように出迎えてくれたのを尻目に、駆け足でイリスの部屋に向かってドアをバン!と開け放った。イリスは体を跳ねさせてびっくり顔で振り返り、「びっくりした!」と怒った顔をしたが、俺がこうして不躾にやって来ることも慣れたことなのでそれについての咎めは一切出てこない。それくらい、幼い俺達はお互いの時間を共有してきたのだ。

「イリス、これ!」
「何?またポケモンのだっぴした皮?」
「ちがう!」

 宝物の一つだったそれを以前あげたら嫌そうな顔をしていたのを覚えている。ソニアなんかは興味津々にしてくれたのに、イリスの反応は思っていたよりも芳しくはなかった。ポケモンは好きでも脱皮後の抜け殻にまで愛着は持てない、がイリスの言葉である。酷く残念だったしポケモンが世界の中心のようだった俺にとってはどうして喜ばないのか不思議な気がしてならなかったが、それでもおずおずと受け取ってくれたからまぁそこそこ満足はできた。

「これ!」
「だからなに……ゆびわ?」

 今日は違う、きっと、もっともっと、特別なやつ。テレビで指輪を交換し合う男女をこの前初めて見て、母親が笑いながらどういう意味なのかを教えてくれた。一生一緒にいたい大切な人とする、大事でとびきりの儀式。だから俺はイリスの元まですっ飛んできたんだ。

「ほんもの、のわけないか。おもちゃだ。ママのよりぴかぴかしてない」
「そうだ!」
「で?」
「こうかんしよう!」
「ん?」

 事態についていけていないイリスは首を傾げていたが、気が逸って仕方なく、人の話を聞かないことで有名だったくらいの子供だったので、どたどたとイリスに近寄ってその華奢な腕を持ち上げ、次いで指を掴んだ。少し力が強かったようで「ったい!」と彼女は怒ったが、この時の俺はそれに構いやしない。

「ほら!」

 発達途中の子供の指で、しかも女の子の指はどれも細っこくて、左手の人差し指に嵌めてしまった玩具の指輪はぶかぶかで、誤飲防止のためにか大きめに作られていることもあって今にも落っこちそうだった。実際、少しでも指を下に向けたら抜けて落下してしまった。

「なにこれ?」
「母さんがおしえてくれたんだ。いっしょにいたい人とゆびわをこうかんしあうんだって」
「ふぅん」
「だから!ほら!」

 ずい、ともう一つの指輪をイリスに勢いよく突き出すと、呆れたような顔を彼女はした。頻繁に俺にする顔だ。

「こうかんも何も、これぜんぶダンデの持ってきたものだし」
「いいから!」
「むぅん」

 ぶつくさと言って口を尖らせて釈然としない顔だったが、俺の我儘は今に始まったことでもなく、同い年だけどお姉さんぶっていやいや仕方なく付き合ってあげているんですよ、といった感じで俺の遊びに付き合ってくれたイリスは、結局いつも通り俺の我儘な遊びに付き合ってくれて、ルビーを模した宝石みたいなプラスチックの付いた玩具の指輪を、俺を真似して左手の人差し指に嵌めてくれた。

「……へへっ」
「そんなうれしいの?」
「ああ!」

 頭にあったのは、あの白い服を着た大人たち。幸せそうな顔で指輪を嵌め合っていた二人。一生一緒にいたい大切な人とする大事でとびきりの儀式。
 イリスが大好きだった。女の子としてとか、そういうことにまだ頭が追い付かない、性差など露も知らぬ純粋な気持ち。母さんもソニアもマグノリア博士も町のみんなも大好きだったが、イリスだけはちょっぴりそこから飛びぬけていた。ポケモンと同じくらい、ずっと遊んで笑っていたい、小さい時分ながら大事な子だった。

「ずっといっしょだ」

 やっぱり首を傾げて、お姉さんぶって呆れたような顔をするイリス。白い服の意味も、指輪の意味も、嵌めるのに正しい指も、まだまだ何もわからないような子供だった時代。その時だけの、目の前にある一瞬だけが全てだった頃。狭い世界の中だけがこの世の全ての。
 そうして、ずっといっしょだ、を破ることになったのが、俺だ。




 玩具の指輪が一人になった俺のよすがになった。大切な人と交換した、大切な人に嵌めてもらった大事な儀式に必要だったもの。ほとんど家に帰れなくなり、イリスの顔もろくに見られないようになってからも、その指輪を眺めているとすんなりとイリスの顔が思い浮かべられて、けれど同時に心に隙間風が吹いたような虚しさも覚えるようになった。それでも絶対に落としてしまわないよう大切に握り締めて、その玩具の指輪を持ち続けた。
 白い服の意味と、指輪の意味と、嵌めるのに正しい指を知ってからはそれは殊更である。間違った儀式を真似てしまった俺達は、ずっと一緒という願いを叶えられないかもしれない。望んだチャンピオンと現実の狭間で、それに気づいてしまった時はただただ心が削られるようで酷く痛んだ。
 でもイリスといると、途端に気持ちが和らぐから。昔からずっと優しくて、お姉さんぶって、でも最後に俺の我儘に付き合ってくれるあどけない笑みが、俺がずっと好きだった。

 だから、家に帰るときは絶対にイリスに会いに行ったのだ。普段はハロンにいるイリスとシュートにいる俺とではすれ違うことがほとんどだったが、日に日に身長が伸びて、俺が膨らまない部分が膨らんでいくイリスは、正しく女の子から女へと変化していく途中で、変にドキドキとすることも増えていった。よく一緒にいるオリーヴさんや、スポンサーの女の人や、パーティーで笑みを向けてくる女の人達には何も思わないのに、イリスだけは別だったのである。
 けれど、実際俺はまだよくわかっていなかったのだ。ゆくゆくはイリスも俺にまとわりつく女のように体を膨らませて、化粧をして、好きな格好をして街を歩く大人になるということを。
 心のどこかにそれは引っかかり、顔を合わせる度にそれは痛みを増していった。そのせいかもしれない。焦るようにイリスへ指輪を出すように催促してしまったのは。

「イリス、前に交換した指輪、どこだ?」
「え?指輪?……ここ、だけど」

 最早気が気ではなくなっていたとき。引き出しにしまわれたそれを取り出したイリスに、貸して、と端的に告げれば俺の顔を見て固まったイリスだったが、少しばかり逡巡する様子を見せた後、静々と、それを差し出した。
 初めてこれを人差し指に嵌めてからもう数年は経った。体の成長が著しい現状、あの頃よりも指の太さは変わっているだろう。無言で渡してきたそれを預かり、引っ込めようした相変わらず小さな手を掴み、びくりと跳ねたのも気にせず今度こそ薬指に玩具の指輪を押し進めていった。

「嵌った」

 幼い当時とは違って、正しい指に、それはぴたりと嵌った。白くて傷のない美しい薬指に、俺が渡した玩具の指輪が。まるでちぐはくのようでも、たったのそれだけのお陰で世界に再び迎え入れられたような祝福を覚えて、少なからず気が昂ぶっていた。

「イリス、俺も、俺にも」
「わっ、わかったから、ちょっと落ち着いてよ」

 自分が持ち歩いている玩具の指輪を取り出してイリスに強引に押し付けようとすると、やはり困惑した顔のイリスであるが、俺の勢いに負けて受け取ってしまった玩具の指輪をじっと見つめてから、「手、出して」と口を開けた。
 わくわくと左手を出して待ち構えていると、イリスは動こうとしては止まり、また動き出そうとしては止まるから、どうした?と問う。挙動不審というか、落ち着きを失くしているように見えるイリスは、やがてゆっくりと、でも不自由そうにまた口を開く。その顔色はあまり晴れているとは言えなかった。

「ねぇ」
「ん?」
「これ、さ」
「うん」
「……、…………なんでも、ない」

 とうとうその口から言いたかったことは出てこなかったが、イリスは一度唇を噛んでから、観念したように俺の手を取った。メランコリックを覗かせていたのに、まだ人や女の機微に完全ではなかった俺では、自分の都合ばかりを優先するのだ。
 けれど、結局玩具の指輪は俺の指を終ぞ通ることはなかった。とはいえ、それは当然のことである。イリスの指に嵌めた指輪と俺の指輪は同じ大きさに作られている。だけど俺とイリスの手では、もう大きさに十分な差があったのだ。指だって当然俺の方が太くごつごつとしていて、こんな誰の指にも合わせられていない玩具の指輪は、もう、俺の指には嵌められなかった。もう一度指に通すときはイリスの手で、と決めていたのであれから自分の手に通したことはなかったから、そんなことに今更初めて気が付いたのだ。

「……なんで」
「ダンデ?」
「なんで……っ、なんでッ!」
「しょうがないでしょ。ダンデは、男の子だもん」

 ホッとしたようなその顔が、あまりに腹立たしかった。
 俺と同じように指輪を交換し合うその意味を、きっとこの頃のイリスは知っていただろう。それでも幼い頃のように俺の我儘に仕方なく付き合っている風を装って、そうしたら最後にこんな顔で安堵した。その理由がどうしてもわからなくて、わかりたくなくて。俺の方ではないどこかを見ているその目がやはり腹立たしく、勝手に泣きそうになったのは我ながら滑稽だ。
 イリスがいてくれたから俺は痛みと向き合ってきたのに。もう簡単にその隣には並べなくても、ここでイリスが待ってくれていて、この指輪を大事に持っていてくれたから俺は平気だったのに。
 なのにどうして、そんなどこか安心したような。嵌らなくなったことを簡単に受け止めてしまえるのだ。

 また一人に逆戻りだ。そう、イリスの前で思った。


20210810