短編
- ナノ -


 次は陽の下で抱き締めてくれ


 おっと、目が合った。視線が絡まった音が鳴りそうなくらい、はっきりと。
 だから私はそっと人通りの少ない方へと移動した。私はトレーナーではないし、ここは街中だからそもそもフリーバトルはよろしくはない。などと関係ないことを考えて薄く笑いつつ人目を気にして道を選んでいく。
 日中でも陽の薄い裏路地に入って、壁に背を預けたまま高い外壁のせいで限られた空を見上げた。はたして、あとどれくらいで来るだろう。もしかすれば来ない可能性も、とも一応考えてみるがあの瞳を思い返せばそれは否定できてしまえる。きっと私を探して最後には見つけてくれるだろう。それまでどれくらいの時間がかかるかな。

 そう手持無沙汰に取り留めないことばかり考えていると、耳に地面を踏む靴音がしっかりと聞こえたから、やはり来たかと思いそちらに顔をやる。案の定そこにはダンデが突っ立っていた。先程ファンに囲まれて握手と笑顔を交わしていた人間とは打って変わり、そこに表情はない。誰しもが手を伸ばし称賛するチャンピオンの形をしたまま、そこに宿るのはきっとチャンピオンの魂ではなかった。

「……」

 再び目と目が合う。どちらも口を開かない。もたれさせていた体を起こして向かい合うと、ダンデはゆっくりと近づいてくる。その一歩一歩は段々と速さを増して、最後には私に辿り着くまであと数歩、というところで半ば駆け足のようになった。
 最終的に勢いよく迫ってきたダンデに、そのまま抱き締められても私は微動だにしない。ここで背中でも頭でも健気な女のように撫でてやればいいのかといつも迷う。迷って、結局指一本も動かしやしない。ダンデがそこまでを求めているのか私にはわからないから。

「……」

 抱き締められる間、やはりどちらの口も開かれることはなく。ぎゅ、と、でも折れる程強くはない絶妙な力に抱き着かれ、それはほんの一分にも満たない時間で終わった。その時々にもよるが、今日は少し短い。

「……ありがとう」
「んーん」

 ようやっとダンデの口が開かれると、出てきたのはそんなありふれたお礼の言葉である。何に対してのお礼かと言えば、何の含みもなくこうして大人しく抱き締められることについて。それ以上もそれ以下も、ここにはなかった。
 抱き締めて、抱き締められて。最後にはありがとう。体が離れたと思えばひらりとマントを翻らせてダンデはここから去っていく。色気もなく情熱もない、けれど誰にも見つからないようにするこれは正しく秘密の行為。
 やましいことは何もない、純粋な秘密だった。



 いつから始まったのかは正直定かではない。以前情けなくも眉尻を下げたダンデに突然にも「抱き締めてもいいか?」と訊かれ、いきなりの申し出に戸惑いつつも、当時はなんだか疲れた素振りを時折見せていたから恐る恐る頷いてしまって。そうすると酷く控えめに、躊躇しながらもゆっくりとダンデは私を抱き締めた。抱き締めたというよりも、抱き着いたと言った方がいいかもしれない。愛しい人にする愛情表現の一つ、というよりかは大きなぬいぐるみを相手しているような触れ方だった。とはいえ乱暴には決してせず。ある程度時間をかけたらそれで満足したのか、この時は少しばかり顔色も良さそうなダンデは最後に「ありがとう」と小さく笑った。いやらしい雰囲気も甘ったるい含みも持たないその一時は、多分ストレス解消の一貫だったのだと思う。
 私がダンデの恋人であればいくらでも喜んで手伝いもできたのだろう。でも私達はそういう関係ではないから、相手に触ることにも一々了承を取らねばならないし、迂闊に肌に触れようとはしない。なのにダンデはあの日私を抱き締めた。直後のあの顔色から見て、恐らくはただただ気分を落ち着かせる行為だったのだろうと、スマホで検索し終えた後からはすんなり受け入れることもできている。
 ハグって幸福感が増す、ストレス軽減の効果があるんだって。偶然その場に居合わせたからダンデはそれを気まぐれに求めただけで、言ってしまえば都合もいい人材だったわけだ、私は。

 しかし一度受け入れてしまったせいか、その後も度々ダンデからハグを求められる機会が訪れることになった。どうやら調子が良くなるようなので、まぁ多忙を極めてストレスも多いだろうダンデが少しだけでも楽になれるのであれば、とこっそり人目がないところで黙ってぬいぐるみのように役割を果たす。さすがに恋人でもない女をチャンピオンが抱き締めている場面なんて見つかれば世間を騒がすことになるため、人の目は避けなければならなかった。

「……ありがとうイリス」

 今夜も今夜とて、ダンデは突然我が家に突撃してきて、無言で私を抱き締めた。私が文句を一つも言わないため段々と許可を求めることをしなくなったダンデは、今ではこうして顔を合わせた途端ろくに口も開かぬ内に私を抱き締める。でもよっぽど急いていたのか、はたまた余裕もないのか、玄関が閉まり切る前に私を抱き締めてしまったのはいただけない。ユニフォームのままというのもまた。

「見つかったら大事になっちゃうんじゃないの」
「その辺は大丈夫だ」

 しっかりと近辺の様子は把握しての行動だったようだが、それにしても。そうやって周りを警戒しているくせ、いつまでも恋人でもない女の元へ通うというのはどうなのだろう。

「もう行くよ」

 目的は果たしたからダンデはそう、さっさと去ろうとする。いつものことだ。抱き締めて、抱き締められて、ありがとうで全部終わる。それ以上もそれ以下も存在しない。ダンデはただ私にストレス軽減を求めているだけ。
 もはや定例化した流れだった、ダンデがさっさといなくなることは。私も引き留めたことなんかないし、ぬいぐるみはぬいぐるみらしく黙ってハグを受け入れていればいい。遠くでも目が合えば「ああしたさそうだな」と先日の裏路地の時のようにハグを求めていることがわかってしまうくらい、察しの良くなったぬいぐるみではあるが。
 察しも良くて割り切る力もある。だから私の比ではない程に生きることが大変そうなダンデが目的を果たせれば私は何も言わない。言わなかったのに、この時の私は少し変だった。

「……お茶でも、飲む?」
「え?」
「ちょうど、お菓子もある」

 背の後ろで指を組んで、微かに体を壁に寄せて、廊下の奥をちらつかせて。私がこんなことを言いだしたのは正真正銘初めてだから、見上げたダンデはわかりやすく目を丸めていた。
 どうして引き留めるような口をきいてしまったのだろう。ありがとうと言われたから、そこで全部終わりの筈なのに。

「……いや、遠慮しておくよ」
「そっか。ごめんね忙しいのに引き留めて」
「すまない、ありがとう」

 しゅるしゅると眉尻をまた下げ、あの情けない笑みで、ダンデは終わりを告げた。
 すまない、だって。おべっかかどうかは知らないが、ほんの少しでも名残惜しいと感じてくれているだろうか。
 そこまで考えて、それはつまり、私こそが名残惜しいと感じているのだと、今になって気が付いてしまって。自分がそう思うからこそダンデにも同じ気持ちを求めてしまったのか。

 私達は恋人でもないのに。恋人ではないが、抱き締めて、抱き締められて、ありがとうで終わる関係。それ以上もそれ以下もなく。色気も情熱もない、だけど世間に隠れて純粋な秘密を持った二人。
 わからなかった。名残惜しいと感じるゆえんが、自分のことなのにわからない。そうしてそれからもずっと知らぬ振りをした。



 テレビに映るダンデを見るといつも不思議な気持ちになる。どれが本物のダンデなのか見誤りかけるからだ。こうして自分を見る人間に笑顔を向けて、バトルについて熱く語り、ガラル中から称賛されるダンデ。
 でも私の前だと、もうずっとあの情けなさそうに眉尻を下げた顔でただハグだけを求める。指一本もいやらしくは動かさないメディアとは打って変わった朴訥さ。バトルコートでは大きく振る舞うのに、私を抱き締める際には快活さなど鳴りを潜めさせた、どこか小さく見えるダンデ。饒舌なのに私の前だともう余計な口を開かなくなった男。
 とうとう世間一般のダンデの評価と、私の中のダンデの像が乖離し始めていた。どれが本当なのだろうと、そんな詮無いことを邪推するようになった。どれが本当か嘘かなんてきっとありやしないのに、白黒つけてどうしたいのかと、自分に落胆するようにもなった。それ以上もそれ以下もないダンデに私は一体何を求めているのだろう。

 お茶でも飲むかなんて、なんとも馬鹿な縋り方をした。口実なんて実際はなんでもよかったに違いなくて、だけど不思議なことにあの時隠した指先は震えていた。
 それでも、誘いに乗らなかったことが私達の真実なのだ。
 ダンデはストレス軽減できてパフォーマンスを向上させることができる。私はダンデの称賛の影の一部だ。そう自分で鼓舞するには寒いが、事実私を抱き締めた後はダンデの顔色は若干でも良くなっている。私は誰かの役に立てている。他の誰でもない、ガラルで一番愛されると言っても過言ではないダンデの。それを無心で誇ればよいのだ。
 だから、テレビで笑うダンデを一人きりで見て、寂しく思うことは間違いなのだ。抱き締められるあの温かさを思い出して何故か泣きそうになることも。
 自分で自分を抱き締めても、なんだか熱いのに冷たい。


  ◇◇


「ダンデ君に会ってあげて」

 ソニアが口にした言葉は俄かには信じられないものだった。彼女ともかつての同期ではあるが、最近はソニアが忙しかったからろくに話もしていない。
 そのソニアが突如私の家の呼び鈴を鳴らしたものだからひっくり返るかと思った。更には、驚いて固まる私に、彼女はあの言葉を発したのだから。
 ダンデにしたようにお茶でもと言えれば良かったのだが、生憎そんな精神状態にはいなかった。ソニアが酷く真面目そうな顔をしていたのも要因である。

「……ダンデ?」
「うん。非公表だけど、ダンデ君、今入院していて」

 さっと顔が青褪めたのがわかった。正に寝耳に水。ムゲンダイナが暴れた際に怪我をしたらしいとは噂で知っていたが、チャンピオン戦で敗退したからすっかりメディアから姿を消したと思っていたのに、まさか入院していただなんて。

「どっ、どこか悪いの!?」
「ムゲンダイナと戦ったときに怪我をして、試合が終わった直後に意識が」
「それで!?無事なの!?」
「今は容体も落ち着いてる。イリスも落ち着いて」
「……よかっ、た」

 一瞬で血が沸騰しかけたが、無事ときいて少しずつ興奮も収まってきた。血の気が引いたと同時に震えてしまった指先をぎゅっと握り込み、ふぅ、と息を吐いて意識してゆっくりと肩から力を抜く。私が落ち着いたのを見計らってからソニアは再び口を開いて、けれども続けられた言葉には残念ながら、また少なからず血が沸騰するようで。

「会いに行ってあげてほしいの」
「……どうして?」
「ダンデ君、会いたがってるよ」
「ダンデがそう言ってるの?」
「……そうじゃ、ないけど」

 瞬間、ソニアには悪いが意識せずに沸騰しかけた血に水をかぶせられたようだった。頭の片隅が冷たくなる。震えた指先はいつの間にやら静かになっていた。
 ダンデが私に会いたいって言っているわけではない。たったのそれだけで気持ちが凪いでいくようだ。風を起こさず、揺らがせることもなく。これまで通り、平坦な心。それ以上もそれ以下もない。何度も何度も繰り返してきた。

「……ならソニアの勘違いだよ。やっぱり、ダンデが私に会いたいって言うわけない」
「どうして?」

 どうしてなんて、どうしてだろう。自分で否定しておいてなんだがうまく言語化出来ないよ。でも、それは私達の真実であるととっくにわかっている。眠れない夜の傍らに幾度と飽きずにも弾き出した答えだ。

「言ってなかったとしても関係ないよ。会いに行こう」
「……」
「イリス」
「……行けないよ」

 ぬいぐるみが病院にまでついていく必要はない。本来はそんなのなくたって一人で眠れるのがダンデという男だ。ハグを求めるだけの女なんてわざわざ求めるとは思えない。
 行こうとか、だとしてもとか、尚も食い下がろうとするから、ソニアにこれまでの経緯を包み隠さず話した。ダンデの体裁は悪くなるがこの際致し方ない。
 ソニアは黙って、真剣そうな顔のまま私の話をずっと聞いていた。余計な茶々を入れず、相槌も打たず、私が満足いくまで喋り切るまでを黙して待った。満足いくまで喋り切る間いささか興奮したのか言葉尻が荒くなってしまった瞬間もあったが、全ての音を出し切ると驚くほど片隅だけ冷えていた頭の全てが冷えるのを感じられた。人にこうして話をしたことで客観的に自分のことを見つめ直せたからなのだと思う。

「私、それ以上でもそれ以下でもないんだよ、ダンデには」

 言い切って、人に教えるため初めて言葉に起こして、ああそうだな、とすんなりと自分で納得できた。頭と心の内で必死に、まるで弁解のように夜ごと繰り返してきたときとは訳が違う。
 私はダンデのストレス軽減のための装置。ダンデという偉大な存在の負荷を少しだけでも軽くするために偶然選ばれたもの。可愛い言い方をしてぬいぐるみ。あの時私ではない誰かがその場にいれば、きっとその人が選ばれたに違いない。

「……ばかか!」

 なのに、改めて納得できたからか妙な悦に入っている最中、そんなソニアの怒号のような声に切り裂かれてしまったのだから。荒い声音には夢から覚めたように面食らって目を丸めていると、真剣そうだった顔つきから一転、不機嫌そうな、けれど怒っているようにも見えにくい複雑な表情のソニアが出来上がっていたものだから、ますます首を傾げる思いだった。

「イリスも馬鹿!ダンデ君も馬鹿!馬鹿ばっか!」
「馬鹿って、」
「二人して変な線引きあって、足踏みして、ほんと馬鹿か!」
「ばかばかうるさい!」
「馬鹿なもんはバカ!」

 単調な罵りの連続にさすがに黙って聞いていられないと声を荒げると、反抗するかのように余計に声を荒げるから、結局互いに油をかけあうだけになった。先に息が続かなくなったのは私だが、ソニアもまたぜいぜいと息を切らせているため、二人してインドアな習慣がここぞとばかりにたたっているのはまるでお笑いだ。

「……ダンデ君ね、人付き合いそんなうまくないの」
「は?いきなり、」
「ダンデ君がはっきりと覚えてる同期なんて、私とルリナとイリスくらい」
「ソニア、何、」
「……病室のドアを開ける度に、私の顔見て寂しそうな顔するの。失礼しちゃうよほんと」
「……」

 ――だからと言って、ダンデが誰を待っているかなんて、本人しかわからない。そもそも本当に誰かを待っているのかすらも。それはソニアが色眼鏡で見ているからであって、真実なんて私にもソニアにもわかりゃしないこと。

「ダンデ君、どうでもいい人のこと、すぐ忘れちゃうの。必要じゃないって判断したら無意識にそうしてる。ポケモンに時間を費やすために。……どうでもいい人のところに、そんな何度も何度も行かないよ」

 ――どう受け取れと言うのだろう、それを。
 ずっとダンデから求められることはハグだけだった。ハグを許して、お礼を言われるだけ。そこから何も生まれないし、どこにも傾かない。何も余計な言葉はなく、行動もなく。それ以上でもそれ以下でもないからあの日お茶すら断っていった。だから何度も小さく首を振り続ける。それをソニアは笑いも咎めもしなかった。

「……私、ダンデ君に抱き締められたことなんか、一度もないよ」
「……」

 そのくせ耳障りの良い言葉ばかりに、胸の中をぐしゃぐしゃにされる一方で。
 ソニアは信頼できる友人だ。そうは言っても彼女の言葉全てを素直に肯定することも容易ではなくて。ここでそんなの全部憶測で都合が良い妄想の範疇を超えないと揶揄することは簡単だが、その耳障りの良い、しかし当人の口からではない言葉にわかりやすく胸の中をぐしゃぐしゃにされてしまったのだから。
 そうして同時に思うのだ。これがダンデからの言葉だったならば、どれだけ救われただろうか、なんて馬鹿なことを。

「……いいのかな、私なんか、会いに行っても」
「いいんだよ。それで、確かめようよ。……ついこの前までくすぶってた私が言うのもなんだけどさぁ、案外、一歩踏み出してみるとすいすい歩けるものだよ」
「はは、あとで本にサイン頂戴ね」

 涙声でもソニアはやはり笑わなかった。代わりに肩を労わるように撫でてくれて、百冊サイン書いちゃるって悪戯そうな顔をする。
 だけど確かめるとか、そういうのとは少し違う気もした。それでも伝えたいようなことはなんとなく思い浮かんでくる。

 今まで何度もダンデに抱き締められて、ダンデの温かみを分けてもらって。何も生まれない行為にいつからか胸に隙間風が吹くようだったけれど、ダンデが息を楽にできていたように私もそのとき確かな安心感を覚えていた。
 得体のしれない幸福感とやるせなさに体が竦んで、その広いのに小さな背を撫でるべきかいつも迷って手も心も行き場を失くしていたけれど、これからはその背を優しく撫でてやりたいと、できるならば裏路地みたいな暗い場所ではなくて、陽の当たる場所でそうしてやりたいのだと、それだけはどうかダンデにきいてほしい。


20210708