短編
- ナノ -


 七転び八起きのち君に軍配


「別れよう」
「結婚しよう」

 平行線を辿るだけの会話は虚しい。互いが互いの主張を曲げずに、相手の言葉を叩き落としてばかりで、キッと睨んでもどこ吹く風。キバナはにこにこと平常通りの笑みを崩さない。
 不毛すぎるやり取りが通算何度目なのか、もう数えきれない。それでも、私は私の主張を貫きたい。それはキバナも、恐らく同じなのだろうが。
 テーブルを挟んだ向かいのキバナは、頬杖をついて私を見ていて、その余裕そうな態度が余計に腹立つのだと、どうしてわからないのだろう。

「……別れよう」
「結婚しよう」

 キバナの口にはオート機能でもついているのだろうか。眉がピキピキとする。頭が痛い。

「指輪もある。あとは書類にサインして世間に報告するだけ」
「しない。結婚するなら別れよう」
「式場もピックアップしてある。ドレスは二人で選ぼう」
「…いい加減にしてよ」
「お前がだろ?」

 さも当然のように口にするキバナは、態度を変えない。終着を見ない会話に怒りを募らせている私とは違って、あくまで冷静だった。

「帰る」
「泊まってけよ」
「ぜっったいやだ」

 バッグを引っ掴んで玄関までずんずん歩いて、バン!とわざと大きな音を立てて玄関を閉めた。収まりきらない怒りが足音に出てしまい、爆発しそうな頭のままだったが、片隅の僅かに空いている部分が、私をぴしゃりと叱りつける。

 本当に、可愛くない女。




 翌日の仕事は自己最速記録でさばいた。ルーチンを即座に片付け、飛び込んでくる案件を切っては投げ、後輩達の「今日も気が立ってる…近づかんとこ…」と小声で囁き合うのが聞こえたし、先輩達からは「頼もしい限りだけどお願いだから静まって」とお小言を貰った。
 落ち着こうと給湯室でお湯を沸かす時間すら大人しく待っていられなくて、他に誰もいないのを良いことに壁に頭を勢いよく打ち付けた。ゴン。痛い。でも落ち着かない。無理。
 ハア、と深い溜息が漏れる。壁からはなした額が熱を帯びていたが、私の頭もそれ以上に沸騰したままだ。

 化粧室でメイクを直していると、大きな鏡面に映る私の顔はあまりに酷くて、気が立っているせいか人相が悪い。最近は、こんな顔ばかりだ。そうでなくとも顔にあどけなさは消えてしまったし、一端の成人女性の顔立ちを成していて、最近になって自分にピンクの口紅が似合わないのだと、ようやく気が付いた。


 入社したての頃は、可愛いわねって、みんなに持て囃された。社会人として右も左もわからなかったから相手の顔ばかり伺っていたし、さぞ大人しい新人に見えたことだろう。取り返しのつかない失敗もしたし、大成功を納めてみんなから大喝采を浴びたこともある。
 でも、それが一年、二年と経てば変化する。私は自動的に先輩になるし、後輩はかつての自分のように初々しくて可愛い。そして、その子達が可愛いと持て囃される。私もまだ若いと言われようと、そんなの今この瞬間だけの刹那のキラメキなのだ。
 厳しい現実に会社を去る人もたくさんいた。でも私は、生粋の負けず嫌いなのだ。へこたれることもあったし、どうしたらいいのかわからずこっそり泣いたこともあった。
 でも私は、繰り返すが負けず嫌いなのだ。惨めになるのだって絶対嫌だ。だから必死に頭を回したし、どうにか仕事をこなしてきた。

 付き合ってきた人達は、そんな私からみな去って行った。逃げて行ったという方が正しいかもしれない。所謂キャリアウーマン然とした私に気後れしたのだ。もっと可愛げがあると思った、だなんて。いくら男女平等を掲げていようが、実際の男の性根なんてそんなものだ。
 だからかねてよりの知り合いだったキバナと付き合いだした時、その懐の深さに人間性を疑ったくらいだった。こいつ大丈夫か?と、失礼な邪推をしてしまうくらいには、キバナという男はパートナーとしては素晴らしい存在だったのだ。
 多分キバナも譲れない情熱を持っているからだと思う。ダンデという無敗伝説に牙を剥き続ける男。彼もまた、生粋の負けず嫌い。そんな似た者同士の私達が惹かれ合ったのは、寒いが当然の流れだったのかもしれない。

 なのに、最近はどうしても素直にキバナを受け入れることができなくなってしまった。
 結婚しようと言われて、それからはずっと別れようと繰り返す日々。
 いつからだろう。素直にキバナの優しさを、受け取れなくなってしまったのは。




 定時でみな帰ったが、どうしても帰りたくなくてだらだらとデスクに座っていた。帰らないの?と聞かれたが、調子がいいから先の仕事まで片付けたいと言い訳して、一人でオフィスに残る。ボンヤリPCを眺めてキーボードをつついていると、デスクの上に置いたスマホがバイブでガタガタと震えた。つられて画面を見て後悔した。

『今夜会える?』

 うるせぇ男だ。昨日の私の剣幕を目の当たりにしたくせによくもまぁぬけぬけと。
 無視して目をデスクトップの液晶へと戻すと、再度震えるスマホに血管がビキリと鳴る。うるせぇつってんだろ。
 知らん、とスマホの存在を忘れた振りをして、明日どころか来週でもかまわない取引の案件の準備を進めた。

 情報を集めるために開いた検索サイトの広告として出てきたブライダル会社のバナーを見て、ふと、ついこの前オフィスの皆に報告されたことを思い出した。年下の後輩の寿退社の話だ。そうだお祝いを買わなくては。何にしよう。
 それにしても、こそばゆそうにしながらも嬉しさが抑えきれていなかったな、あの子。えくぼが愛らしい小さな顔でスリムな女の子。話し合って、夫が家庭に入って欲しいって、なんて恥ずかしそうに口にしていた、これからの人生を夢だらけで去ろうとしている幸せな女の子。
 羨ましいなんて、思っていないのだ。あの子は仕事より家庭を選んだ。それだけの話であの子と私では土俵が違う。
 あの子よりも前に結婚した後輩は、家庭に入らず仕事と両立する道を選んでいた。この仕事が好きなんです!と弾ける笑顔で私に言ってくれた子。家の事と仕事であくせくしてるけれど、今でも変わらないデスクで仕事をしている。

 はあ、とまた溜息が漏れた。考えてもしょうがないことは考えないのがポリシーなのに。
 私は、負けず嫌いだけど、要領が悪い女だ。




 さすがにいい加減帰らなければ、と荷物をまとめて会社を出ると、あまりに見慣れた横顔が見えて足が縫い付けられたように動かなくなった。暗がりの中にいてもスマホの液晶の光で顔が浮かび上がっていて、整った顔立ちに一瞬頭が白くなった。
 キバナの顔をこんなに静かに見たのは、いつぶりだろう。
 何かに感づいたのかキバナが顔を上げて辺りを見渡して、やがて目の先が私に落ち着いた。パッと表情を明るくして、スマホを持ったままの右手を左右に振って、笑顔を浮かべている。

「よっ、やっと終わったのか」
「なんで…」
「迎えに行くって連絡したろ?既読ついてねぇから見てないかもとは思ったけど」

 昨日のことなどまるでなかったかのようないつも通りのキバナの態度に、肩にかけたバッグの紐をギュウと握った。
 へらへらと愛想のいい笑顔だこと。

「飯は?一緒に食おう」
「帰って」
「やだ」
「帰ってよ」
「帰るなら同じ家」
「しないって何度も言ってるでしょ!」

 つい大きな声を出してしまって、ハッと我に返る。何を興奮しているのだ、私。
 私の態度を見ても何も変わっていないキバナを一瞥して、一人で歩き出した。知らん、さっさと帰ろ。
 しかしこつこつと後ろから足音が追いかけてきて、歩くスピードを上げる。なのに追いかけてくる間隔が遠ざからなくて、キバナのコンパスを恨んだ。

「なー、なんでそんな嫌がんの?」
「……」
「俺は、お前とチャペルの鐘を鳴らしたいの」
「……」
「お前を好きになってからはずっとお前しか見てないよ、お前だって俺のこと…っわぷ」

 急に立ち止まった私にぶつかりかけてたたらを踏んだキバナの間抜けな声が聞こえたが、私は自分を堪えるのに必死だった。
 力よく振り向いて、私の頭の何個分も上にあるキバナの顔を静かに睨み上げる。

「……何度も言う。結婚、しない。そんな話するなら別れよう」
「ならせめて理由を教えてくれよ。何度もプロポーズを断られる俺様の身にもなって」
「……」
「俺の事、嫌いになった?」

 少し躊躇って、でもキバナが笑顔を隠して真剣な表情に変わっていたから、ぐっと拳を握って、唇をゆっくりと開けた。観念の時間なのかもしれない。

「…キバナの事、嫌いになったわけじゃない」
「ならなんで」
「私が結婚に向かないから」
「は?」

 目を丸くして口を半開きにするそこからは鋭い犬歯が覗いていて、何度それを丁寧に愛してきただろう。
 キバナは、私にとても優しくしてくれたのに。

「私、要領悪いから。結婚しても、仕事辞めたくないし。きっと家か仕事か、どっちかしかできない。両方を続けたら、どっちかが必ず綻ぶ。それが仕事だったら取り返しがつかない。私、自分で言うのもなんだけどみんなに頼りにされてるの。出世街道に乗らせてもらってる。このまま上のポスト目指したい。だからキバナの事、疎かにする日が来る」

 キバナの磨かれたターコイズの瞳を見ていられなくて、自分の足元を見つめた。尖ったヒールの爪先。アンフェアな社会で戦うために用意した、私の戦闘靴。

「今までみたいにキバナの事、優しく支えてあげられない。キバナと同じ夢を、見てあげられない」

 かつては、チャンピオンを目指した。負けず嫌いの私がそれを手にしたいと思うのは必然だった。そのためにスクールで一番をとって推薦状を貰ったし、ジムバッジだって順調に集めた。ただし、ダンデに勝てなかっただけで、私の心は絶望の味を覚えてしまったのだが。
 けれどキバナは違った。何度負けても何度砕かれても、その牙を研ぐことを止めなかった。私が絶望を受け入れたのに対し、キバナは抗い続ける。私が成せなかったことを、キバナは諦めない。だからこそ、私はキバナに焦がれたし、背中を支えようとこれまで側に居続けた。
 鮮烈な背中に、どれだけ痺れただろう。獰猛な咆哮に、何度背筋を震わせただろう。バトルフィールドから遠ざかった私の捨てた野心すらも食らって、キバナはダンデへと挑んでいく。
 私はかつての情熱を仕事に注いだ。その結果、もう仕事でしか私を形作れないと、気付いてしまったのだ。

「……本音は」
「これが本音だって」
「まだあんだろ」

 細まる瞳は鋭さを消しておらず、顔を上げてしまった私の心を射貫いた。
 ごくりと、唾を呑み込む。腹をくくるしか、なさそうだった。

「……結婚なんかしたら、もう我慢できなくなる」
「何に?」
「…私、本当は凄く嫉妬深いの。我儘で、自分勝手で。これまでは何も言わないで理解ある振りをしてきたけど、きっと辛抱できなくなる。キバナは私のなのに、仕事だろうとファンだろうと近付く女がたまらなく嫌だ。私の存在を知らないからって腕に絡みつく光景を見て、いつも喚き散らしたくなった。私のなのに触るなって、醜い顔を隠してきた」

 喋りづらいなと気付いた時には、しゃくりあげていた。涙が込み上げる。キバナの前では聞き分けがいい女の仮面を被って気丈に振舞ってきたから、こうやってみっともない涙を見せたのは、初めてだ。

「結婚なんかして、本当に私だけのキバナにしたら、ますます嫉妬深くなる。仕事だからしょうがないのに、喧しく口出しするようになる。今まで精一杯我慢してたことが、できなくなる。無償の愛なんて、最初からなかったの。そんなの、よくないよ。キバナに愛想つかされたくない。こんな可愛くない女、私だって、嫌なのに」

 手の甲で拭っても拭っても溢れる涙で前が見えない。
 とうとう言ってしまった。ずっと黙って殺してきた、私の本性。
 仕事が大切なのは本当だ。負けず嫌いで、上をずっと目指して戦ってきた。女だからとか、若輩のくせにとか、やっかむ言葉を全部跳ねのけてここまでやって来た。少しずつ戦線離脱していく年下の女の子達を何人も見送って、祝福して、それでも私は高いヒールを履き続けた。本当は若い内に結婚だってしたい。もう、年下の子に先を越されるのは嫌だ。
 でもそんな打算的な側面を持ったまま結婚を受け入れたくないし、仕事のペースを結婚で崩したくないし、キバナのことだって我儘で潰したくない。

 黙ったままのキバナが何を考えているか、心の中を想像するだけで恐ろしい。
 しばしの間二人に沈黙が訪れる。やがてキバナの口が、開く気配がして、身が竦んだ。

「そんなの」
「っ」
「あ、おい!」

 反射的に走り出していた。キバナに背を向けて、とにかく走る。帰り道なんてとっくに見失っていて、今どこを走っているのかわからない。高いヒールじゃスピードも出ないし走りにくいのに、それでも私の足が止まることを忘れてしまった。
 後ろからキバナの呼び声がする。足の長さの差で、どんどん声が近くなる。でも止まれない。聞き分けが良くてキバナを無垢に応援する私はついさっき死んだのだから。

「っあ!?」

 一瞬体が浮いて、そのまま地面へと勢いよく落ちた。足首がじくじくと熱を持っていて痛い。
 痛みにギュッと瞑った目を薄く開けて見れば、右足のヒールの踵が、折れていた。

「…っは、大丈夫か?」

 すぐに追いついたキバナが手を体に回して起こしてくれるが、到底顔など上げられるわけがなかった。

「痛いだろ。掴まれ、おぶるから」

 私を心配する優しい声に、ぶわっとまた涙が込み上げてくる。もう私に、優しくされる権利などありはしないのに。

「…いい」
「良くないだろ、俺の家のほうが近いからそこで冷やそう」
「ほっといて」
「ほっとけねぇって」
「いいから!わかったでしょ!?私がどんなに嫌な女か!」

 地面に向かって吠えた。ぼさぼさになった髪が視界に入って、あまりに惨めだった。
 キバナの手を振り払おうともがくと、キバナが正面に回ってきた。早く行ってくれと願うのに、キバナはそんな私の事なんかお構いなしで、俯く頬を両手で挟んでぐっと持ち上げた。

「惚れた女が最高の告白をしてくれたのに、放っておけるわけないだろ」
「………は?」

 見つめるターコイズの瞳は少しもぶれない。真っ直ぐに、私の瞳を捉えている。

「…何言ってんの、頭おかしくなった?」
「いたって正常だっての」
「だって、聞いたでしょ?私が、どれだけ嫌な女か」
「ああ、俺のことが好きで好きでたまらないって女の話だろ」

 口の端を上げて、キバナはにかりと笑う。訳がわからなくて、顔を挟まれたまま口が薄く開いてしまった。本格的にイかれてしまったらしい。

「お前、ほんと不器用だよな。負けず嫌いで、頑固で、俺のこと大好きすぎだろ」
「ねぇ、何言って」
「俺が好きで嫉妬して、それを必死に隠して、いじらしい女。仕事に誇り持ってて、かっこいい女。ダンデに負けても、ずっと俺のこと応援してくれる理解ある女」
「…キバナ、」
「なぁ、全部嬉しいって言ったら、どうする?」

 結婚する?悪戯そうにキバナは笑う。

「俺は、お前に難しいことは望まないよ。完璧も正解もないんだ。別の夢を見ようと、ただそれを“頑張れ”って言い合うだけでいい。お前が俺の事いつだって応援してくれるように、俺だってお前のこと応援してんだ。家のことだって別に休みの日にまとめて一気でもかまわない。それに二人で分担すればいい。お前には俺がそんなこともしない甲斐性なしに見えてんの?」

 むにむにと指先が私の頬で遊んで、呆けて言葉を失くした私は、されるがまま優しい顔のキバナを見上げ続けている。

「お前しか知らないよ。あんなに俺の事応援してくれて、自分の仕事にも妥協しないで胸張って、こんなに俺の事好きな女」

 唇が涙の溜まる瞼の縁に触れて、音のない軽やかな訪れが、くすぐったい。

「本当は誰よりも寂しがりなのも、知ってる。強がりなのに弱い部分があるのも知ってる。料理がちょっと苦手で、でもそれを認めたくなくて練習してるのも知ってる。負けず嫌いだもんな」

 ひっく、と鳴くと、可笑しそうにキバナはまた笑った。

「お前が嫌なら、他の女を近寄らせない。ドラゴンストーム・キバナの名は、これから世間にはとびきりの愛妻家で通るんだ。お前の不安は、俺が食ってやるから」

 だから。一度言葉を切って、ターコイズの優しい眼差しが、私を真っ直ぐに見つめる。キバナがガサゴソと、ポケットを漁りだす。

「俺と、結婚して」

 ポケットに手を突っ込んで、あれ?と首を傾げだした。右、左、ハーフパンツ、ショルダーバッグ。あらゆるポケットを探り、サッと顔を青褪めさせた。

「まじか、指輪家だ。これしかない」

 出てきたのは縮んだままのハイパーボールで、さすがにプッと噴き出してしまった。

「おい笑うなよ。あー…まじか…恰好つかねぇ…。ごめん、今はこれで許して」

 ボールのボタン部分を、私の胸に軽く当てる。ドクドクと脈打つ、心臓の上だ。

「…私を捕まえたつもり?」
「まぁな」
「馬鹿だなぁ」

 堪え切れない笑みを零しながら、バッグを手繰り寄せて漁る。もう随分使ってないのに持ったままの、赤と白の、モンスターボール。まだ足首が熱を持ったままで痛いのに、本当に馬鹿なことをしているな、私達は。

 取り出したそれをキバナの胸にとんと当てて、その様子を見たキバナがくしゃりと破顔して子供みたいに笑った。


 言ったでしょう。私、負けず嫌いなの。


「私がキバナを捕まえたんだよ」


20200416