短編
- ナノ -


 最後にキスがなくてもいい


 隣の温度はとても熱い。熱いとは言ったが焼ける程ではなく、私よりも僅かに上であるというだけ。それは確かに生きている人間の体温だった。下心なく――いや、少しはあったと思う。とにかく触れたくてどうしようもなくなって筋くれだった手の甲を遠慮がちにもつついてみると、「ん?」とダンデが私を見やった。至極穏やかな笑みが本当ならば私に向けられるべきではないと知りつつ、もう何年もの間直接触れたことのない体の温度の欠片に、それ以上を知りたいと余計に恋しくなってしまった。
 ここではない世界からやってきたらしいダンデとの奇妙な共同生活が、少なくともかれこれ一週間は続いていた。出張先のアローラで突然気を失ったらしく、気が付いたら私の家の中で倒れていたというダンデを発見した時は誇張なく口から心臓が飛び出そうだった。ダンデとは幼い頃近所付き合いのあった男の子で、今やバトルタワーオーナーとリーグ委員長を兼任する立派な経歴と肩書の持ち主になっている。けれど、ジムチャレンジも同じ年に共に参加したが力及ばずエンジンジムを突破できないままチャレンジ期間が終わってしまって以降、ほとんどダンデとは会っていない。ハロンへ里帰りは時折しているようだったが、私は成人を機に実家を出てキルクスで一人暮らしをしているせいで、余計に顔を合わせるタイミングもあんまりない。

 そのいつの間にか疎遠となってしまったダンデがしっかりと鍵を閉めた私の家の中で転がっていたのだから、心臓を口から出さなかったことは我ながら褒めてもいいことじゃなかろうか。

「明日どっか行きたい?」
「ワイルドエリアに行きたいぜ……そろそろポケモン達に羽を伸ばさせてやりたい」
「わかった。じゃあ朝から行こうか」

 手の甲をつついてしまった私をダンデは少しも咎めない。しかし優しく握り締めてもくれない。ただただ、穏やかに、寂しそうに目を細めるだけだ。
 その瞳に散々一人で虚しく夢描いた愛情のようなものが散見できるのだから、この状況の発端は自分のくせして、なんだか居たたまれなくなりつい目を逸らしてしまった。
 この人は私が小さな頃からずっと好きなダンデではない。私もまた、ダンデが求める私ではないのだ。



 ダンデが目を覚まして私を最初に見た途端泣き出した瞬間は鮮明に思い出せる。イリス、か?と震えた声音に確認されて、頷くとそのまま、泣きじゃくるダンデが私を抱き締めるものだから混乱したのは言うまでもない。火がついたような有様で、きつく、きつく、潰れるんじゃないかって心配する程に私を抱き締めたダンデは、何度も何度も私の名前を嗚咽のせいでしゃがれた声で呼んだ。悲しそうに、切なそうに、愛おしそうに。掌は色事を感じさせない手つきで私の体を形に沿うにしてなぞり、最後に頬を挟んで顔を確認されて、また腕の中に閉じ込められて。
 会いたかった。ずっとずっと、あいたかった。私の名前と嗚咽の合間に繰り返す言葉が、混乱の最中でもとても不思議だった。
 落ち着いてから話をしてようやく重なった謎を紐解いていくと、結論から言えばダンデはこの世界の人間ではないのでは、という話に着地してしまった。俄かには信じられぬことではあるが、なにせ私とダンデの記憶に決定的な齟齬があるからだ。

 ダンデにとっての私は、数年前事故でとっくに死んでいるらしい。葬儀にも参加して棺の中の青白い私の顔をその目で確かに見ていると。だから先程は取り乱してしまったが、私がこうして動いて喋っているのはまったく奇妙なことであるとのこと。私が生き返ったか、自分があの世に来たのではと少しでも思ってしまったくらいだと言う。
 当然死んだ覚えがない私にとってはなんだそれ、という気持ちだったわけで。よく見知った形のダンデの口から語られる話はてんで身に覚えのないものばかりだし、ダンデを見間違えることなど有り得ないことだが、あまりに突拍子もない発言にはよく似た別人ではなかろうかと、疑るのも自然のことだと思う。
 そこでそうだ、と思い出して生放送の番組をテレビに映してみると、これまたよく見知った形のダンデがスタジオで話をしていて、ますます混乱に拍車がかかった。ここで混乱を極めたのは目の前にいるダンデも同様らしく、「おれ?」と目を白黒させていた。覚えのない番組だとのたまう。
 そうして二人してこんがらがる頭のままではあれど、あれこれと話をした結果、生きる世界がそもそも物理的に違うのではないか、というところに辿り着いてしまった。別の世界の話はアローラでは多く残るらしく、幸いにしてダンデもそういう存在についての文献があることを認知していたため、混乱と動揺に陥りながらも冷静にそこまで結論を導き出せたのは、さすがは十年以上チャンピオンとして数多のバトルを勝ち抜いてきた猛者である。



 早朝から顔を隠させたダンデと共にまだ静かなワイルドエリアはげきりんの湖の陸地部分へと降り立ち、恐らくは縄張り争いなんかを勝ち抜いた強者ばかりがここら一帯の草むらに生息することに内心おっかなびっくりする私をよそに、早速ボールからポケモンを出して顔や頭を撫でたりした後慣れた手つきでキャンプの準備をするダンデ。
 私の家は大型のポケモンを放せる造りではないからずっとボールの中にいたリザードンやオノノクス達は開放感のせいか随分と楽し気な様子で、それを本当に嬉しそうに眺めながらさっさと火を起こそうとするダンデに手伝いを申し出ると、なんだかこれまた寂しそうな顔をするのだから内心複雑だった。この数日で頻繁に見せるそれは、きっと死んだ私を思い出して忍ぶ感情をゆえんとするのだ。あるいは、もっと言えば、恋しがるかのような。
 可笑しな話だ。もう何年もダンデとはろくに顔を合わせていないし、ましてやキャンプだなんて一緒にするのはジムチャレンジ以来であるのに、今目の前にいるダンデにとってはそうではないのだ。私が知らない、経験していない私との思い出にこんな顔をされてしまうのはやはりいたたまれないし、何が一番不可解かと言えば、私が知らないダンデの中の私に、少なからず羨ましさを覚えてしまう馬鹿みたいなことで。

「ねぇ?」
「ん?」
「聞いてもいい?……そっちの私のこと」

 そうなるだろうと予感はあったが、わかりやすく眉を下げられてしまった。今この世界にダンデは二人存在しているので誰かに見つかるのはまずいからあまり外に長居はできないのだが、狭苦しくてその分距離も近しくなる家の中では少しだけ二人の空気が息苦しいから、わざわざこうしてトレーナーとして腕に覚えがある人間しか寄り付かない場所を選んで口火を切ったのだ。
 訊ねたはいいものの、そんなの話させてどうするんだって思いは確かにあった。ダンデにとっては故人である私の話などさせて、それは他の誰でもなく私の手で傷を抉るような行いではないかと自覚のようなものもある。あったけれど、好奇心とは似て非なる焦燥のようなものが胸の中には渦巻いていて、何かの確信を得たいようなつもりもあったのだ。
 だって、こんなに寂しそうで、愛しそうな眼を、時折向けられてしまうのだから。

「……いつも笑顔だった。人当たりがよくて、ダンデ、って呼んでくれる音がいつも耳に心地よくて」

 語らせてしまった口は重くはないが、絡まった感情が透けていた。火を見つめながらも、その目にこのぱちぱちと爆ぜて燃える火は映ってはいなさそうで。

「一時疎遠になってしまった時期もあったが、偶然顔を合わせた時にどこか他人行儀な振る舞いをするから、直感でこのまま疎遠でいることが酷く嫌だと思って、このままではいけないと強く思って、それから結構しつこく誘ったこともあったな」

 話を聞いている内に気付いたのだが、どうやらどこかのタイミングで私やこの世界のダンデと行動が異なっているようだった。ダンデの中の私は幼馴染であることに変わりはないが、ジムチャレンジは同じくバッジを集めきれなかったらしいのにエンジンジムの段階で躓いたわけではない。通ったスクールの名前は同じだが卒業後の進路が違う。ダンデと疎遠になってしまったことは同じなようだが、その偶然の邂逅以来ダンデからの誘いで少しずつ一緒にいることが増えている。

「凄く、楽しかったんだ。イリスといると昔の、幼い頃の気持ちに戻れるようで。ありのままの自分でいられるようで」

 そうして、数年前に事故で、ダンデを残して死んだ。

「もっと話したいことがあった。もっと二人でやりたいことがあった。もっと側にいたかった。……言いたいことが、伝えたいことが、あったんだ」

 それ以上を聞いてはならない。そうとわかっているということは、切られた言葉の先に予想がついてしまっている証拠に他ならない。自惚れだと自分を罵っても生まれた期待は、あの愛し気な眼差しも鑑みればどうあっても殺せない。

「やりたいことはすぐにやって、言いたいことはその場で言う性格なのに、イリスに伝えようと思えば思う程らしくもない怖さのようなものが胸の中にあって、先延ばしにした結果イリスは俺の側から突然いなくなってしまった。……君は俺の知るイリスではないのに。別人だと理解しながら、今すぐ伝えたくなってしまう」

 言って欲しくて、けれど言って欲しくはなくて。
 辿った道がどこからか違っていたとしても、紛れもなく目の前にいるのは私が知るダンデである。それはきっと私もそうで。同じ顔、同じ声、同じ癖。私が今知るのは疎遠となる前のダンデではあるが、少なからず立ち上がる際の体の動かし方だとか、笑う時に寄る頬の上がり具合だとか、そういったことは私が覚えているそのまま。性格や考え方だって大きく違っているわけでもない。
 だけど、知らない仕草だって当然あるのだ。一緒にいないから知らない、ということとは違う。それが決定的に、私が昔から勝手に想ってきたダンデではないと事実を訴えてくる。
 不意にダンデに抱き締められた時のことを思い出した。どうして私の家に、とか、たくさんのことをすっ飛ばして、ただただ放心して、凄くドキドキとした時のことを。大きくなった体にとっくに低くなった声。焼けそうな程の体温。愛しい恋しいと言葉にはしていないのに伝わってしまった啜り泣くような声。夢にまで見た、ダンデに求められるということ。
 だけどこの人は私が求めるダンデではない。私もダンデが求める私ではない。だからこうして傷を抉る形で話をさせたのにも関わらず、私は何も答えることが出来ない。私では、このダンデに答えをあげられない。



 ポケモンも解放出来ない単身用の女の部屋に成人した男が暮らすのには限界があって、寝る時もダンデはソファに窮屈そうに丸まって眠る。さすがに分別はきくので同じ寝室では眠れない。
 衣類は仕方ないから最低限買ってはきたが、馬鹿なことにそれだけで私の指先は震えてしまうのだった。あれは私の想うダンデではないのに、ダンデのためにこうして服のデザインに悩み、下着や靴下まで買い揃えるなんて。髭を剃るから男性用カミソリにシェービングフォームも。シャンプーやボディソープだって別に用意しなくても良かったのに、ネットで口コミを見てわざわざメンズのものを買ってしまった。
 ダンデの為の櫛も買った。一日に使うタオルの枚数が増えたから洗濯する回数も増えた。食事も二人分。どれもこれも痛い出費なのに、薄くなった財布を見てもちっとも私にダメージはなかった。悪いからとお金を出そうとするダンデにすらずっと臆病をして縮こまろうとしていた心が震えてしまう。

 なんて馬鹿な女なんだろう。ダンデに私がしたかったことを私が求めるダンデではない人にしてしまうのは、滑稽を通り越して最早おぞましいのかもしれない。
 そうまでしても私達の間の空気はあまり快適に回っているとは言えなかった。遠慮のような、微妙な透明の抵抗があって、笑うし会話もあるのにぴたりと寄り添う位置にはいない。なのに触れてしまっても嫌な顔をしないのだから、ぐずぐずに溶けそうで溶けきれない頭では泣けばいいのか喜べばいいのかも判断が出来ない。
 何よりおぞましいのは自惚れに溺れて勘違いしてしまうことだ。ダンデが求めているのはここにいる私ではない。私が求めるダンデもこのダンデではないのに、一見すれば私が知るダンデとなんら変わりないのだから。
 地獄に落ちてもいいからその肌に触れて、体の奥深くにまで触れて欲しいだなんて。ダンデ相手ならば心を砕いて柔らかくできるに違いないから、乱暴でもいいからそこまで触れて欲しいだなんてこと。本当に地獄に落ちるにしても思ってはならないのに。




 その日、ダンデは妙に穏やかだった。私の側にいる時は平静ではあるが遠い目をすることも多かったのに、なんだか言動も柔らかくて落ち着いていて。そこですぐにぴんときたのだ。
 多分、もうこのへんてこな共同生活が、終わってしまうのだろう。
 どうやって私の元へ来たのか。そもそも何故私の元にやって来たのかわからないのに、本人には悟ることが出来たらしい。昔から野生の感と言うか、そういうのに長けていた人間だったからかもしれない。
 最後、最後。と珍しくもない普遍的な二文字が頭の中でやけに点滅する。特別なわけではない筈なのに。もしもそう言いたいのであれば、この数日間の全て、何もかもが特別だったと言い切れてしまう。外に気軽にいけないダンデのために身の回りを最低限整え、家に帰ればダンデがいると逸る気持ちで帰路に着いた。人目を忍んで外に出るのには苦労したが、全部私が焦がれていたものばかりだった。
 私の求めるダンデではないダンデと、私がダンデとしたいことばかりした。ご飯を食べて、ダンデの服を洗濯して、外に出掛けて。偶然を装ってその体に触れてしまって。同じベッドでは眠れなかったけれど、ただいまとおかえりを、おはようもおやすみも交わせた。
 そのダンデは、きっと明日の朝にはいなくなっているのだろう。

 ダンデが私に優しくするのであれば、私もそう在ろうと無意識に思った。ダンデが美味しいと言ってくれた料理ばかり作り、ダンデの為にソファをいつもより念入りに綺麗にして。
 記念というわけではないが髪を乾かしたいと思い切って頼むと最初は面食らった顔をしたのに、次いでゆっくりと破顔して頷いてくれたから高揚を隠せない。一等大切な宝物を手にした時と心境は似ているのかもしれない。だから、バトル中風やポケモンの技の影響であちこちの方向に遊ばれる鬣のような長い髪を殊更丁寧に扱った。ドライヤー前のヘアミルクをつけて、温度に気を付けてドライヤーを当てて、ダンデの為に買った櫛で梳かして。
 私の髪も乾かすよ、と言ってくれたが、自然と首を横にしていた。

「おやすみダンデ」
「おやすみ、良い夢を」

 いつもの通り私は自分の寝室へ行くが、ダンデはもう定位置となってしまったソファで眠る。今夜もそれは変わりやしない。最後だからといって同じベッドを共有しようだなんて、そんな都合よい展開など起こりやしないのだ。
 でも、これが最後の言葉なのかと思うと、惜しいと思う気持ちがあることには否定も嘘もつけない。

「イリス」

 名残惜しく、後ろ髪も引かれる思いで振り切るためにもさっさと重たい足を動かして背を向けようとした矢先。ダンデが私の名を静かに呼ぶのだから心臓が跳ねてしまった。

「ありがとう、イリス」
「……こっちこそ?」
「君がいてくれなければ、俺は路頭に迷っていた。凄く助かった」
「私も、楽しかったよ。ただいまって言えることが、こんなに嬉しいことだったんだって思い出したくらい」

 それだけは本当のことだ。疎遠となってしまったダンデと同じ家に過ごせたという事実も舞い上がるものだったが、何より、一人きりだった空間に別の熱があって、温かな笑みで出迎えてもらえることの満足感を、今になって痛感できてしまった。それが姿だけでも愛しい人であるのならば猶更。

「……なぁ、覚えているか?ワイルドエリアで俺が君に言ったこと」
「……?」
「今更だけど、訂正したいんだ。君を、俺が知るイリスとは別だと言ったこと。確かに別の経歴があって別の人間であることは確かなんだろう。だけど、一緒にいてようくわかった。別人だけど、それでもやっぱり、同じだった。イリスは、イリスだった」

 それは、と思わず目を見開いてしまっても、ダンデはあくまでも凪いだ笑みで私を見据えるばかりで。

「生きる世界が違っていても、やっぱり同じだった。……俺は尻込みして最悪の結果を迎えてしまった。後悔はきっといつまでも尽きない。イリスも、臆病になっていると一番大事なものを取りこぼしてしまうぞ」

 そんなの、それじゃあ、まるで。
 けれど泣きそうな自分を堪えるのに必死で、何も言葉など出てきやしなかった。
 全く本当に、可笑しな話だ。互いを想う気持ちはきっと同じで、なのにそれを伝えるべき相手はそうではないとして今日まで接してきた。それが、最後はどうだ。
 もしも同じベッドで寝て欲しいと、抱き締めて欲しいと乞えば、目の前のダンデは頷いてくれるのだろう。あの何もかもを許してくれるかのような温和な笑みを私にくれて、たおやかにその大きな体で包んでくれる。だって、ダンデの言葉を肯定するのであれば、それは地獄に落ちてもいいだなんて大袈裟に自分を牽制して抑止するようなことではなかったのだから。あんなに必死に違う人間であると線を引こうとしていた私達が馬鹿に思えてくるくらい。
 一方で、そういうことではないともわかっていた。ダンデが私に伝えたかったことは、そういうこの場で短絡的に解決できて、手と手を繋いでこれにて円満、のようなことではない。


  ◇◇


 目を覚まして、静かな空気をいの一番に感じ取った。昨日までは私が先に起きて、まだソファで窮屈そうに丸まって眠るダンデのあどけない寝顔を眺めては嬉しいようなそうではないような、とにかく妙な悦に入っていたのだが、すぐに人一個分の気配が消え去ったことがまだベッドの中の起き抜けの頭だとしてもわかってしまった。
 ゆっくり、慌てることなくベッドから抜けて、寝室の扉を開けてリビングへ足を向ける。そこにあるソファから、はみ出る男のパーツは見えない。不思議と悲しみだとか、寂しさだとか、焦燥だとか、そういったマイナスの感情に苛まれることはなかった。
 足を進めてソファまで辿り着くと、案の定空っぽだ。誰も寝息など立てていない。そこに一枚のメモが置かれていることに気が付いたのでそっと、皺など寄らないよう気を配りつつ拾い上げる。

『ありがとう』

 これまた誰もが知って誰もが使う普遍的な言葉だ。もっと熱烈でも良かった。別れを惜しんでくれても。私を己のよく知る私であると最後に認めてくれたのならば、思いの丈を綴ってくれても良かったのに。
 でも、過去も現在も、歩んだ人生も、何もかもをひっくるめて、このたったの五文字だけが全てなのだろう。
 ソファの端っこには私が買って着せた服がこれまた丁寧に畳んで重ねてあった。変わりに最初にこの部屋で倒れていた時に来ていたあの赤い服が消えている。でも洗面所に歯ブラシやカミソリは残っているのだろう。
 どういうタイミングで、どんな風にこの世界から消えていったのかは私では知れないし、そもそもがどうやってこの世界にやって来たのかも、そして私の元へ来たのかもわからない。
 わかるのは、ダンデが置いて行ってくれた感情や、勇気だけ。

 寝室に戻ってスマホを持ち上げた。画面を明るくして、メッセージアプリを開く。めったに使わないトーク画面のせいで一番下にまで目的の名前は行ってしまっていたが、これからは叶うならば一番上にしたい。
 顔はもうろくに合わせていない。声だって直接は。チャンピオンではなくなったせいで、メディアに登場しなければその姿はあまり見られなくなってしまっている。

『久しぶり。元気?少し、話がしたくて』

 迷いに迷ったがそれがなけなしの勇気だった。せっかく背を押してもらえたのに、いざこうして気持ちを文字に起こすと喉も指も震える。それくらい、私達はまともに会話をしていない。
 返事がどう来るかは全くわからない。数分後かもしれないし、明日かもしれないし。だけど返事が絶対に来ると、それだけは信じられた。メッセージではなく電話かもしれない。なんだって構わない。
 心臓がどくどくと脈打ち、落ち着けるわけもなかったが待つしかない。祈りとはまた違うが、唯一好きな人とかろうじて繋げてくれる無機質な端末をぎゅっと握り締めて、直接この目で好きな人の気持ちの端っこだけでも触れられるのを待ちわびながら、寝室を出た。


20210604