短編
- ナノ -


 新しい世界で君と得るもの


 好きな人がいる。俺が何度告白しようと首を縦にしてくれない意地悪というか、不思議な人だ。
 それはまだまだ未熟な頃の話。チャンピオンの栄光を勝ち取って数年の頃。ティーンのど真ん中。俺の心がじくじくと膿み始めていた時。

 ポケモンとバトルが大好きで、だからチャンピオンにまでなった。でも、チャンピオンという立場には想像以上の足枷がぶら下がっており、大衆の前では理想を前面に押し出すよう求められるために、バトルを楽しみたいという願いとのギャップを次第に痛感しては心の奥底に本心をしまう癖を持たなければならなかった。だけどなにせ若い時分だ、歳も歳なせいか、爆弾を自らの内に潜めていることにもある日突然気が付いてしまった。
 このままではいけない。自分でもちゃんとそう思えていたのだ。だから自分の手で爆発させないためにもコントロールを施す必要もあった。それは笑顔で隠す悲惨なやり方しか、ポケモンとバトルとチャンピオン像しかわからない俺には見つけられなくて。
 その頃にイリスと再会したことが転機だったと言える。昔、ホップが生まれる前にはハロンタウンからいなくなってしまった女の子。あどけない小さくて素朴だった女の子は、すっかりと十代半ばの女の子になっていて、最初は全く気が付かなかったしそもそも存在すら忘れていたのが正直な話である。

「こっちに帰ってきたらダンデ君がチャンピオンになってたものだからちょっと驚いちゃったよ」
「よく覚えていたな、俺のこと」
「ダンデ君はね、自分が思っているよりも昔から強烈な個性だったんだよ」

 イリスに誘われるがまま近くのカフェに入って、向かいの席でにこにこと笑う彼女は随分と元気そうで、見るからに活力に溢れている。昔彼女がよその地方に越したことはかろうじて覚えてはいるが、俺は残念ながらそれ以上を知らない。近所の記憶が朧気になってしまうような同い年の女の子よりもポケモンが自分の世界の全てだったから、あの頃引っ越したという事実以上のことを知ろうともしなかった。
 ついこの前までイッシュにいたというイリスは、親の都合でまたガラルに戻ってきたらしかった。振り回されて大変だよ、と笑う彼女だが、確かに辟易とする顔色は見せれども、心底うんざり、といった風には見えない。どちらかといえば楽しんでいるような節があった。それがどうにも、再会したことでようやく今更になって思い出す記憶の淵にひっかかっている幼い彼女の面影と、なんだかうまく重ならない。
 こんな子だっただろうか、イリスは。

「イッシュはどうだった?」
「すっごい楽しかったよ!みんなパワフルで、引っ込んでるとすぐに置いてかれちゃうの!ついていくのに最初は必死だったけど、段々と自分の主張とか通せるようにもなってきて、そういう私をみんな笑顔で迎えてくれた」
「だったら嫌だっただろう本当は、こっちに戻ってくるの」
「う〜ん、そうだね。こっちで過ごした期間よりも向こうにいた年数のほうが長いから、もう私の故郷はここ!みたいに思ってたけど、でもいつまでも不貞腐れてもいられないしね」

 幼い頃と比べて大分多弁の、身振り手振りが喋る間忙しいイリスは、最後には小さく笑みを浮かべて大人しく目の前のティーカップを上品に口に運んで傾ける。よく見るイッシュの人の仕草そっくりだと思っていればこれだ。影響を多分に受けているようなのに、こうして細かな仕草を拾って見るとどうあってもガラルの人間だと思えた。

「……私、イッシュで過ごせて良かった。引っ越す時は自分が違う世界に連れていかれる心地で怖かったけど、凄く充実した生活を送れた。変われたな、と思う部分もあるし変われてないな、と思うところもあってね、でも向こうで過ごしたから持てた考え方もあるんだ。だからガラルに戻ってきても楽しい」
「……?」

 首を傾げる俺は不思議そうな顔をしているように見えたのだろう。くすりと笑ったイリスは、丁寧にカップを戻した後、晴れやかな朝の陽のように優しく笑った。

「楽しもうって思わなければ何もかも楽しくないから。もちろんどうしようもないこともあるけど、自分でそういう気持ちでいないと、楽しいって思う心が動き方を忘れちゃう」

 そうして微笑むイリスは、昔の面影を自らの意思で変化させた彼女は、つい目を細めてしまう程に眩しい。



 眩しさを忘れられない俺の手はその後頻繁にイリスの元へと伸びていく。彼女はそれに嫌な顔を一つもせずに応えてくれたから、ますますそれは止められなかった。
 イリスを愛したのはある種必然のような気もする。様々な面で羨ましがられる経験の方が多い俺であるが、彼女は俺にないものを持っていて、それを驕りもせず、自惚れもせず、見せびらかすでもない。それは本当はちっぽけなことなのかもしれない。人によっては別に羨ましいと思うようなことでもない。俺も別に、羨ましいと思っている訳ではない。ただ、息苦しい一人の夜にあの眩しさが側にあってくれれば、きっと魘されない穏やかな眠りに就けるのだろうなと、そういう。
 膿んでいてそれを周りの大人にはぶつけられなくとも、元来前しか見えず、ブレーキの利きが悪いと指摘されていた俺だ、恋心に自覚を持ったらそのまま時間を置かずにイリスには想いを告げて。星が珍しくも一面に散らばる夜空の下。雰囲気など二の次にして呼び出したイリスに真正面から気持ちをぶつけた。
 何も恐れがなかったと言えばいいのか、しかし恐らくもそうだった筈。だって自信があったからだ。それは自分を取り巻く環境や立場からくるものもあったし、何より彼女からの俺に対する感触がどうしても悪いとは思えなかったから。好意的な感触にますます愛しさが助長され、やがてこれが恋だと自らの手で名前を得られたことに舞い上がって。今も大差ないとよく笑われるが、良くも悪くも若かったから、というのも一因だっただろう。

「……今は無理かな」
「え」

 そして俺はすぐに叩きのめされるのだ。他の誰でもない、好きになった人によって。

「ど、どうして」
「それがわからない内は、かな」

 眉を下げ、申し訳なさそうな顔が惨めさを煽るようだった。まさか断られるだなんて。そうショックを受けるくらいの自信があったのに、イリスは星が瞬く空の下で首を振るばかり。

「おれ、俺っ、は!絶対幸せにする!ポケモンのことを優先するだろうが……いやもちろんイリスのことも優先する!仕事も優先するけど……でも、でも!休日は一緒にいるし、退屈はさせないから!」
「なんだかプロポーズされてるみたいな気分」

 可笑しそうに茶化して笑うくせに、いいよ、と彼女はどうしても笑ってくれない。優しいのに眩しいあの笑顔は、この夜空の下であの日のように微かにも煌めかない。

「……楽しいよ、ダンデ君といるの。昔はあんまり一緒にいなかったのに、それを惜しいと思えるくらい」
「ならっ」
「でもね、今のダンデ君は私といてもいつか苦しくなるだけだと思うんだ」
「……?」

 言葉の意味がわからなくて目を丸めるしかない俺に、イリスはあくまでも穏やかな口調で続ける。

「ダンデ君は、この夜空をどう思う?」
「夜空……?……星が、いっぱいだな」

 指を空に向けるのにつられて夜空を仰げば、そこにあるのは星と月しかない。普段よりも見える星は多いけれど、何かおかしな点があるのかと目を凝らしてみてもそこは何も変わらない。

「答えがそれしか出てこない内は、やっぱり」

 顔をイリスに戻した俺に、今度はどこか寂しそうな顔をした彼女。その理由は、どうしても当時の俺ではまったくもってわからない。

「少なくともチャンピオンでいる内は、きっと」

 何一つ理解が出来なくて。夜空に対して星がいっぱいだと感じる以上の何を感じればよかったのかも、何故イリスがこんなに寂しそうな顔をしたのかも。

「もしそういう日が来たなら、私も」

 唯一理解出来たのは、俺は好きな人に見事にフラれてしまったということだけ。



 要は丁重に断る理由付けをしたかっただけではないのかと、まだまだ若くて尖りもあり、その上膿んでいた俺はついそんな風に解釈してしまった。なまじ優しいからうまく話を逸らしてその話を切り上げたかっただけでは。思い込むと一本、というところもあった俺は、それがまるで世の真実であるかのように徐々に勝手な解釈を受け止めだしていた。
 けれど諦められたかどうか、というのは別の話である。諦められるわけもなかったという方が正しいかもしれない。元々ちょっとやそっとのことじゃ折れない性質なのだ。一度断られた程度ですんなりと欲しいものを諦められやしない。だからその後も伸ばす手は引っ込められなかったし、一緒にいる口実だってあれこれと探してイリスの側にいようとした。側にいようとして、気持ちだって凝りもせずに伝えて。
 その度にイリスはちょっと困ったような顔をして絶対に首を縦にしない。一度だけ躍起に駆られて強引な手段に出ようとしてしまったこともあるが、それでも彼女は俺に優しく許して、その後もそう在り続けるのだから本音はたまったものではない。どうして、やはりこんなに俺のこと。そう都合よく捉えざるを得ないくらい、気持ちだけは頑なに突っ撥ねようと何が起こってもイリスは俺を拒むことだけはしない。
 イリスはよく俺に謎かけのようなことを投げてきた。最初の告白の時、俺に星空をどう思うかと問いかけてきたのを皮切りに、気持ちを告げる度に、俺がいかに彼女のことを考えているかをプレゼンする度に。

「紅茶は何が好き?」
「あの道端に咲く花はどう見える?」
「ワイルドエリアで迎える朝は?」

 どう思うも何もない。紅茶は飲めれば渋くなっていようが構わないし茶葉も何でもいいし、野花は野花にしか見えないし。でもワイルドエリアで迎える朝は清々しいような気もする。考えぬいてそう答えると、少しだけイリスが嬉しそうな顔をした。

「私はダージリンが好き。特に夏摘み。香りが一番豊かで飲む前からワクワクするの」
「あの道端の花は誰に踏まれても時間を掛けて絶対に上を向くの。たくましいよね。でも色合いも綺麗。灰色の道の彩になってる」
「私もワイルドエリアで迎える朝は気持ちいいと思うよ!」

 最後にそう教えてくれたイリスの笑顔は、正に花咲くようで。俺が眩しいと思う笑顔の一つ。それにつられて俺も知らず笑みを作っていた。初めて彼女が俺の回答を聞いて笑ってくれたからだ。後になって思えば、あまりに単純すぎることにイリスが笑うのが嬉しかったからそうなったのだ。

「じゃあほら!今夜のこの夜空は?」
「星が少ない」
「う〜ん、もう一声」
「……」

 もう一声、と言われても何も浮かばず口を噤んでしまうと、イリスは嬉しそうに笑っていたのが嘘のように途端に寂しそうな顔をする。さっきまでの笑みがさっぱり消えて、いつものように。
 何故。どうして。そう問いたくても、彼女が答えてくれないとわかっているから、俺はそれ以上を臆病でもないのに言い出せない。

 そんなことを一年、二年と続けている内に。お互いに一つずつ当たり前だが歳をとっていく。彼女は通っていたスクールを卒業してとっくにカレッジに進んだし、俺はそういう環境の変化はないが負けもしない。
 でもなんとなく。なんとなくだが、俺がただチャンピオンではなくなったとしてもイリスは気持ちに易々と応えてくれないような気もしていた。一つの指標としてあの俺をフッた日に示しただけで、本質は違うのだろう。それをわかっていながらも、負ける気は毛頭なければ、イリスから離れたいと思うこともない。矛盾なようでそうでもなく。二兎を追う者は一兎をも得ず、が近しいのかもしれない。だとしても無理だ。俺は絶対に誰にも負けない。



 頭を殴られたような気分、というのはこのことに違いない。男の影などないと思い込んでいたイリスが知らない男とランチしているのを目の当たりにすれば動揺するのも必然。

「……そんな不機嫌になる?」
「……」
「あれは大学の友達だよ。次の発表のためにペアを組まされたから、ランチがてら会議してたの」

 だからって。そう言いかけて慌てて唇を噛んだ。
 イリスにはイリスの世界がある。俺もまたしかり。俺がポケモンのことだけに一喜一憂し、仕事に、バトルに没頭している間に、イリスは勉学に励んで、友人等と良き交流を持つ。イリスだけではなく、同世代のほとんどが。本当はもっと幅広いたくさんの人達が。知っていた筈なのにまるでたった今初めて知ってしまったような心地なのが自分でも驚きだった。

「……ダンデ君、本当に私のこと、好きなんだね」
「なんだそれ、俺の気持ちを疑っていたのか。そうだずっと好きだ。今すぐその口を塞いでしまいたいくらいに」
「……」

 苦虫を噛み潰したようなイリス。いつもみたいにさらりと俺の気持ちをあしらうでもなく、どこか曖昧に笑う。君が笑うだけで俺の世界は馬鹿みたいにパッと明るくなるのに、どうしてそんな顔を俺の前でしてしまうのだろう。
 後ろめたさを少しでも感じているのならば、一分一秒でも早く俺の気持ちにイエスをくれて欲しい。


  ◇◇


 微妙な隙間を生んだ気がしたそれから時間などあっという間に過ぎ去り、でも変わらずイリスが一度も俺の気持ちに首を縦にしてくれないまま、とうとう俺がチャンピオンの座から落とされることになってしまった。叫びだしたい程に悔しいのに新たな未来へ行けることへの高揚感を覚える中、最近言葉を交わしていないイリスからある日連絡があった。

「遊びに行こうよ」

 きちんと待ち合わせ場所を決めて、大分時間に遅れてはしまったがイリスは笑顔で俺を迎えてくれる。朝は雨が降っていたが俺が待ち合わせ場所に着く頃にはすっかりと上がり、なんなら雲も流れて太陽が雲間から覗いている。
 特にチャンピオンカップの話を持ち出すこともなく、まずはご飯、と指を道の先に示してイリスは俺を先導する。微妙な隙間なんかまるでなかったかのように俺達の空気は酷く穏やかな気がして、俺の前を往くイリスのスカートが歩く度に揺れる様がどうにも愛らしく見える。

「ダンデ君、ダンデ君、みてみて」
「ん?」
「花に雨粒が乗ってる」

 路傍の花の話だ。ほら、としゃがんで地面から生えている小さなそれを見て微笑むイリスが、次いで俺を仰いで「どう?」と尋ねてくる。感想を求めているらしい。

「きれいだな」
「……!」

 目を見開いて、一度ぱちりとしたら、唇をぶるっとさせた後に、大きな向日葵のようにイリスは笑った。

「ダンデ君何頼む?」
「……どうしよう」
「……ふふっ」

 カフェに入って向かい合うイリスは、またしてもにこにことする。メニュー表を必死に目でさらう俺にそんな顔。でもこれは、全然、馬鹿にしているような仕草でもない。

「ゆっくり決めよう」

 また向日葵みたいな笑顔。

 目的地へ向かう道中は俺の迷子癖を危惧してイリスが先導していたが、腹ごしらえを済ませショッピングも楽しんだら、予定コースは一旦終了らしい。いつものようにもう解散するのかと思いきや、イリスは俺をステップでも踏むように軽やかに振り返って、楽しそうに俺を見やる。並木道で翻ったスカートが、イリスにはとっても似合っている。

「ぶらぶらしようよその辺」
「ぶらぶら?」
「うん。好きに歩いて、疲れたらどっかで休んで、またお腹が空いたら何か食べて」
「散歩?」
「ちょっと違うけどそんな感じかな」

 なんとなくも言わんとすることはわかる気もした。まだきちんと言葉に起こせやしないけれど、この目に映る景色があの紙吹雪が舞った日から少なからず変化したせいか、逸る気持ちのようなものにも襲われない。早く手持ちのメンテナンスをしなくてはだとか、次の試合に備えて戦略を見直せねばだとか。いつでもイリスと一緒にいる時間は大事だったが、今はこの時間に優しい気持ちのまま浸ることが出来る。

「あー……、めっちゃ歩いた」
「疲れたか?」
「ちょっとはしゃぎすぎたかも……足絶対むくんでる」

 結局陽が暮れるまで自由に歩き回ってしまって。さっき発見した道端のベンチに二人でどっかりと座り込み、ふぅ、と大きな息を腹から吐き出す。

「でも楽しかった、すっごく」

 上半身を少しだけ畳んで、下から俺を悪戯そうに見上げてくるイリスに、そっと笑い返した。俺と再会してから一番と言ってもいいくらい楽しそうにしていた彼女の一つ一つを、俺は今鮮明に思い出せる。路傍の花をかわいいと笑い、紅茶とケーキが美味しいと笑い、俺が道を間違えそうになると腕を引いてそっちじゃないよと笑い、疲れたと口にしながら満足そうに笑う。同じ笑顔なのにその中身の気持ちが全部それぞれ異なることも、ようく伝わってきた。

「ダンデ君ほら、今日は星が綺麗だ」

 ふと、といった風にイリスがもう暗くなった空を今度は見上げる。つられて同じ方向を向けば、街の光のせいで薄くはあるが普段と比べれば大分光が強い星が点々と広がっている。星によっては今にも落っこちてきそうだった。

「今夜の星空はどうですか?」

 イリスは俺を見ず、星を見上げるまま問うてきた。俺も、真似をしたつもりはないが星から目を外さなかった。

「綺麗だな、とても」
「……うん、綺麗だね」
「暗い空によく映える。眺めていると気持ちが落ち着いてくる。……こんなにゆっくり星を眺めて、星だけではないけれど、焦りを感じない自分でいられたのは、一体いつぶりだろう」

 ずっと前だけを見て走り続けてきた。本当に前だけを。後ろも、下も、上も、どこにも目移りせずに。だから道端の花なんか気にしたことなかったし、星の数や美しさに感嘆する時間もなかった。そういう時間を無駄なことと切り捨てもしてきたのだ。

「イリスと一緒だから、きっと」
「きっと?」
「こうしてゆっくりできることを悪くも思わないし、今日一日を無駄とは全く思わない。やっと、君が俺にずっと何かを問うていた意味がわかった気がするよ」
「……ねぇ、紅茶は何が好き?」
「ダージリンかな。イリスと初めて一緒に飲んだ店のやつ」
「そこに咲いてる花は?」
「タフな花だな。踏まれても折れていない。その上色味も綺麗なままで」
「二度目だけどこの星空は?」
「こんなに美しいものが頭上にあったことに気付けて幸せだな。イリスが一緒だから気付けたし、君がいるから殊更美しいと思えるよ」
「……私のこと、どう思う?」

 星空からとうとう目を外して隣を見れば、イリスも星空をもう見上げてはいなかった。そこにいるのは上体を僅かに畳んで膝の上で握り拳を作り、それをきゅっと口を結んで見つめる、俺がずっと好きな人。輝きを一度しまって、再び目を細めてしまうくらい眩しくなる君。
 今日こうして、改めて眩しくて愛しいと思った人。

「結婚したいと思う」
「……話が飛躍しちゃったね」
「飛躍していないさ。好きだから結婚したい。それだけの、複雑なものから単純に変わった話だ」

 いつも前を向いて花開いた笑顔を浮かべるイリスが下を向くから、その視界に入り込むために膝の上の拳を自分のそれでなるたけ力弱く包んだ。勝利だけを握るための掌ではないから今は力強さなんてちょっとも要らないものだ。

「イリスがいてくれたからたくさんのことに改めて気が付くことが出来た。君と一緒にいると世界が変わっていく」
「……チャンピオンのままでいたかった?」
「そうかな、負けたくはなかったし。でも、本当はただ楽しいバトルがしたかっただけだったんだって思うよ。それに今はそれだけじゃなくなったから、得られるものがある」

 思い返せば初めて触れるイリスは、夜風も気にならないくらいに熱い。赤みが差す頬はもう陽も沈んでいるから誤魔化しも言い訳も持てないだろう。

「結婚しよう」

 何年もの間決して首を縦にしてくれなかったイリスが、飛躍だ、とからかった俺の言葉に首を動かした瞬間から、きっと眩しくて美しいまた新たな世界が始まるのだ。


20210527