短編
- ナノ -


 私が欲しかったもの


 ダンデが大嫌いだった。今もそれは多分変わっていないのだろうが、正しく言えばそれは恐らく関心が最早ない、に近いのかもしれない。
 昔はどちらかといえば好きだったと思う。同年代の子供が限られたあの田舎町では歳の近い子達が嫌でも一緒くたにされてしまうから、関わりを持たず生きることすら難しい。あの頃はあまり性差なんて気にしない年頃であったから着替えだって目の前で出来たし、そのくせ戯れに軽いキスくらいならしてみたり。

 そのどちらかと言えば好きだった筈のダンデが嫌いになったのは、偏に彼がハロンを出てチャンピオンに到達してしまって以降あっという間に大人の顔をするようになったからだ。わかりやすく思春期に陥った当時の私は大人という存在が酷く煩わしくて、なのにその忌み嫌う大人に嫌が応にも近づいていく自分の体も嫌で嫌でしょうがなくて。身長が伸びて嬉しがった頭が、すらりと伸びる足へ憧憬を抱いていた幼い心が、次第に泣くようになってしまった。
 女の子から女へ扱いが変わっていくことの恐ろしさがぽっかりと大口を開けて、毎夜襲ってくる。泥だらけになって遊んでいた友達が急にしおらしく家の中の遊びを選ぶようになったり、一緒にいると噂が立つからと異性の子供を遠ざけるようになったり、或いはわざと近づいたり。まだまだ庇護対象のくせに大人の真似事ばかりして、自分を大きく見せたり。早い段階でそういったことに拒否反応を覚えた私がダンデを嫌悪するのは自然と言えただろう。
 テレビの中でしかめったに拝めなくなったダンデの顔は、目にする度に変化していく。隣で馬鹿みたいにふざけて笑い合った少年の未熟さが、インタビューの受け答えをスムーズにこなすことで失われていくのを感じていた。あのダンデのことだから品性を求められても嫌がると思っていたのに、幼い内からダンデは大人の世界に順応していったのだ。元から好きなことへの情熱だけはある子供だったが、粗雑に見えて吸収も早い子供だった。わかりやすく、ダンデはふざけ合った幼馴染の男の子から、大衆が褒め称える、例え子供であろうと肩書のせいで容赦なく幻想すら抱くチャンピオンへと変化していく。それ程ダンデの実力が凄まじかったのだが、少なくともテレビの画面や雑誌の表紙を飾るダンデは、私の知る男の子ではいつしかなくなっていた。
 私が嫌った大人へと、ダンデはあっという間に仲間入りしてしまった。


 ブラジャーを買いに行くのはあまりに屈辱だった。服のサイズも変わるのが怖くてわざと食事を抜いても、体質なのかつく所に肉はつくばかり。そうして私が自分の体が変わっていく恐ろしさに日々慄いて傷ついている間に、ダンデは声変りをしていた。柔らかそうだった頬は少しずつ細くなり、身長がぐんと伸びて、肩幅も広くなっていく。
 私達は私達が顔を合わせなくても毎日変化していて、ダンデは私がこんなに毎夜泣いていることなど知らないだろうが、毎日のようにメディアに登場するダンデの変わり具合は嫌でも目にしてしまうから、敢えて見ないことを選択した。その内名前を聞くことさえ辛くなり、ヒーロー待遇の町から出ていくことを決めた。本当はガラルから出てしまいたがったが、女にほとんどなっている体なのに年齢で見ればまだまだ子供だからそれだけは許されず、仕方なく進学を機に生まれた町を出て寮制の学校へ移ってみたものの、即座に後悔する羽目になった。

 どこでも良かったのが本音で、学費や土地の発展も考えてエンジンシティを選んだのだが、本当に馬鹿だった。そこはジムチャレンジの開会式が行われる場所なのに。街中はチャンピオンの色ばかり目について落ち着かなかったし、時々迷子になったダンデを街中で見かけるのだから自分の思考力の甘さには蹲って頭を抱えてしまいたかった。
 その頃のダンデは、正に少年を卒業した青年と言っても差し支えない程に体の造りが昔と変わり果てていた。腕にも足にも筋肉がついていることがよくわかったし、首回りも太くなって喉仏だってぐっと出っ張っている。横顔だけでも精悍さが伺えて、大人の面影をしっかりと持っている。一歩が大きくて、一人でどこへだって行けるような。親の許可を一々貰わないといけない、きっとそんな子供ではもうなかった。
 そう、あとは女子校を選んだのもいけなかった。別にお嬢様が集う学校というわけでもないからか、年相応と言ったらいいのだろう、思春期真っ盛りの同性ばかりで苦痛でどうしようもない。ファッションから若手の俳優、音楽、最近ナンパされた、と話題は多岐に渡っていたが、やはりチャンピオンは皆の目を引く。ナックルやスパイクのジムリーダーも盛り上がる話題の一つだったが、無敗の男は思春期で女になりかけの子供なのか大人なのかカテゴリに困る子達の楽しいお喋りの種だ。
 ルームメイトも最悪だった。ダンデのファンを豪語するその子は毎日動画を見返すし、グッズは部屋に飾るし、何度中指を突き立ててやりたかったか知れない。

 有体に言えば私も思春期を拗らせていたのだろう。大人になりたくなくて暴れ回りたかった私は、時の流れと共に大人にならなくてはならないことが理不尽に思えて仕方なかった。
 食事を抜いても体は凹凸が出来て、もうブラジャーをせずに外を歩けない。子供にしがみついていたい心のまま体だけが大人になって、周囲もそういう扱いをする。女に生まれただけで懸念されることが山程あるのもどうしてなのかとがなり立てたかった。夜道を一人で歩いたら危険、派手な香水もメイクも短いスカートも男を誘惑する。子供だから、と心配されていたことが、今度は女だから、に変わったところで結局変わりやしない。

 知らない男と寝たのもきっとそういう拗らせた心のせいだったと思う。初めての酒にハイになっていたのも原因。女子校だったから出会いも少なくて男と付き合った経験がない、というのも声を掛けてきた相手には高ポイントだった。それは友達が呼んだそのまた友達だったが、全部頭だか心がバグを起こした結果だ。大人になりたくなくて、女になる自分が嫌でしょうがなかったのに、私は大人と女になりかけの状態のまま男と寝たのだ。
 今振り返っても当時の自分の気持ちはよくわからない。自棄になっていた訳でもないはずだ。好奇心が勝ったのかもしれないし、逆に孤高の狼を気取った反骨精神で生きてきた筈の自分にとうとう負けたのかもしれない。最中のことはほとんど覚えていないから何を言っても的を得ない。
 だけど一個だけ強烈に覚えている。目を閉じて暗闇の中初めての女の痛さと快感を味わっている途中。名前を思い出せない男の首に必死にしがみついて「だんで」と呼んでしまったことを。
 酔っていたから男も気付かなかったようだが、自分の口からその名が出てきた瞬間夢から覚めたように頭がクリアになって、そして堰を切ったように泣きじゃくった。我に返ったから、女を嫌った自分が女として酔い痴れていたことも、学校を卒業して大学に進まないからこれから大人の仲間入りをしなくてはならないことを思い出したことも、顔も見たくない名前も聞きたくないと逃げた筈の男の名前をあろうことか違う男と寝ている最中に呼んでしまったことも、何もかもが一気に襲い掛かってきて。
 全部終わった後、気持ち悪くて、気持ち悪くて。酒のせいではないとはっきりとわかっているから、余計に涙が止まらなかった。


 就職口に悩む私とは正反対に相変わらずダンデはチャンピオンを続けているようだ。
 残念なことに逃げても逃げても追いかけるようにダンデの情報はそこら中にあるわけだから、こちらが見なかった振りをしなくてはならない。ダンデがチャンピオンになって以降一度も会っていない私のことなどとっくに忘れていると決まっているのに、私ばかりが存在に目くじらを立てる様は滑稽以外の何物でもない。だとしても、自分を否定するのと同じように、ダンデも否定してみせたかった。私が嫌った大人へ一足どころか何百歩も先に仲間入りしてしまった少年のことを否定の象徴として据えることで、己を大事にしたかったのかもしれない。

 けれど私が最後に行き着いたのは夜の世界だったのだからどこまでいってもお笑い草である。単に給金が破格だったというのもあるが、それは上り詰めたらの話で、新人が得られる金額なんてたかが知れていても、疲れていたからこそ伸びてしまった場所でもある。
 女が職場で求められることなんて、やっぱり予想となんら変わらなかった。選んだ所が悪かっただけだろうが、いくら社会全体が声を上げてお偉い人が政策を立てようと価値観が古い人間はどこにいっても存在する。私はお触り人形じゃねぇんだよ、そう内心舌打ちすることにも相当参っていた。
 何よりかつてがなり立てたいくらい忌み嫌った女という性を遊ばれることが耐え難くてたまらなくて。なりたくて子供から大人になったわけでも、少女から女になったわけでもないのに。仕事そっちのけで声を掛けてくる輩が多かったのも腹立たしかった。彼等からすれば私は上物らしく、どこに行っても汚い大人の手が伸びてきて発狂寸前。もちろん同じように社会に辟易する女はどこに行ってもいたが、そうしなければ働いていけないというのが口癖なのだからとうとう発狂して中指を立てずにはいられない。まぁ、だから職場から追い出されてしまったのだが。

 その私が女を売るのだから本末転倒と言わず何と言うのか。
 家賃、その単語が職場を追い出されて以降脳裏でずっと蠢いていた。一人で生きていけないのなら実家に戻るしかなくなる。でもそれは絶対に御免だった。どうしてあそこへ戻れるというのだろう。あんな、ダンデを個人ではなくヒーローとして扱う場所に。
 大人になることも、女になることも嫌でしょうがなかった。でも現実を見てみろ。私はもう大人にカテゴリされる年齢であるし、腹に宿った時から女。何十年前と比べれば女の扱われ方は随分と向上した、だなんて言われた所で私が生きるのは今であるのだから耳には入れられない。
 仕事として割り切れば気持ちが違うかもしれない。そう考えている時点で割り切れていないのに、本当に我がことながら馬鹿なものだ。
 拗らせた思春期の時期はとっくに過ぎている筈なのに、そういう歳であるのに、根付いた反骨精神みたいなものが微かにも体のどこかに残っている。残っているのに、私は金のために女を武器にしなくてはならない世界へ入ってしまった。

 適材適所、という言葉を便利な言い方だと思う。能力に当て嵌めて適度な役目を与えるそれは理に適っているようで突出を中々許容してくれない。女とは、男は、もその一つだ。
 でもこれも適材適所と言ってしまえるのかもしれなかった。なにせ不思議なことに夜の世界はなんだか私に合っているような気がしたから。女として扱われることを許容できたからではなく、人を見る目が開花したと言えばいいのか。夜の世界にやってくる人間は本当に多種多様で、女を食い物にしたい輩から寂しさを紛らわせるためだけに訪れる客もいる。時には人生相談するためだけに来る人間もいるのだから、夜の世界というのは一概に妄りがましい場所とはくくれない。
 書類や上司のスケジュール管理に明け暮れた日々が嘘のように昼夜が逆転した生活は、時々中指をぶっさしてやりたい人間に当たることはあれど、経験を積む内に評判も立ってそういう不躾な輩は少しずつ少なくなっていって、他人の人生に一瞬でも触れられることが楽しめるようにもなった。

 女を売る、とは自称したが、実際はそれ程ではなかった。枕営業はご法度であり隠れて客を取る女も時々いたが、私はその類ではない。ここに来る前、就職して以降それなりに仲を深めた男と寝たことはあるが全員長続きしなかったし、この世界に入ってから枕を一緒にした人間はいない。私は、女という性を売っているのではない。
 そこまでになってからようやく気が付いたのだ。嫌った女という事実が、いつの間にか自分に馴染んでいたことに。時が気持ちを整理したのか、本当に思春期が発端のマジックのようなものだったのか。少なくともがなり立てたかった気持ちは遠い過去のものだと、そう考えられるようにもなっていた。女である以上纏う危険性はまだ変わらないが、ティーンの頃みたいにそれに嫌悪を抱いて泣くこともすっかりとなくなっている。
 それはつまり、あんなに煩わしたかった大人に、いつしかなっていたことの証明だと思う。子供と大人の境界は肉体では定義されているが、精神面ではあやふやだ。肉体と精神が釣り合って初めて、自分が大人になってしまったのだと、そんな自覚が急に沸いてしまった。

 そんな自覚を持ってから一年も経たない頃だ、すっかりと忘れた筈のダンデが私の世界にやって来たのは。

「初めてのお客様なのですが……」

 私を呼びに来た男が言い淀む姿に最初は心を乱すこともなかった。言い淀まねばならないような顔が割れている人間がこの世界に来ることは珍しくもなんともない。ここは場末でもなくシュートシティという一等地にある場所だ。著名人が選ぶには十分な程に名も通っている。
 指名をされることも可笑しな話ではない。そこそこ経験も年数も積んだ私の名は自分で言うのもなんだがそれなりにこの世界では有名になっている。評判を聞きつけて一目、と顔も名もガラルでは知られる人間から選ばれることも珍しくはないことだった。
 VIP用個室も変なことではない。そういう、この世界に来たことを知られたくない人間は大概金がある。だから、いつもと変わらないと、そんなつもりだった。
 そういう、つもりだったのだ。

「……久しぶりだな」

 色んな感情を拗らせてここまで生きて来たが、この場ですぐさま首を吊りたいと思ったのは、実はこれが初めてである。

「俺のこと、覚えているだろうか」

 そんなセリフ他の人間なら嫌味でしかないのに、この男が口にするとそう聞こえないのも不思議なことだ。お前の顔なんて三歳児でも知っているし、街中でチャンプを讃える歌を口ずさむ子供とすれ違ったことだってある。
 あの、私の隣から消えた日から数か月前までチャンピオンとして生きて国中からそう扱われてきた男。何百歩も先に、私よりもうんと早く、大人になってしまったダンデ。幼さを顔からも捨ててしまった、歯の抜けた顔なんてもう絶対に見せない私の少年だった人。

「……貴方のことを知らない人間なんて、このガラルでは潜りですよ」
「そういう意味じゃなくて。なぁ、イリス」

 名前を聞きたくない、顔も見たくない。そうやって逃げて生きてもやはりガラルにいる内は土台無理な話だった。テレビにも雑誌にも街中でもこの人間からは逃げられやしなかった。知りたくない情報ばかりが頭に入り込んできて、興味なんか欠片もない振りをして。
 あんな奴大嫌いだ、といつの間にか神に誓うみたいに自分の中で敬虔そうに指を組んでいた。そうしたら自分の中でダンデについての一切は通り抜けていくようになったのだ。耳に入っても瞬時に抜けて行って、視界に入っても認知されない。ダンデという男はただの風景になった。ただの記号になった。関心がないと装えば話題からも逃げられる。興味の欠片もないと、無関心であると言い聞かせてきたのに。
 そうやって忘れた筈の顔が、幼い頃よりも少し分厚くなった唇が、この世界では呼ばれない私の本当の名を呼ぶ。少年のソプラノを捨てた声が、私の名前を。

「……その名前は呼ばないでください」
「すまない。でも、俺はイリスと話したくて、会いたくてここへ来たんだ。……だけど良かった、俺のことちゃんと覚えていてくれたんだな」

 知らない振りをするにはダンデはあまりに有名過ぎた。観念して隣に座り、注文は、と催促したら慌ててメニュー表を上から下まで忙しそうに見るのだから、どんな気持ちで私を待っていたのだろう。

「私これが飲みたい。お腹も空いてるからこれも」
「じゃあそれにする」

 鼻で笑ってしまいそうになった。意地悪で一番値の張る物をねだったのに。

「……いつぶりだろう、顔を合わせるのは」
「さぁ」
「ハロンに帰ってもいつもイリスは留守だったし、いつの間にかハロンを出ていたから、本当に、久しぶりで……、え、と」

 歯切れの悪さは私が相手だからなのだろうか。バトルコートでは威風堂々としていたダンデのこの態度は、経験から見れば遊び慣れてないと見抜けてしまう。けれど今隣にいるのは曲がりなりにも昔から顔も名前も知る私だ。知り合いがこういう店にいれば大抵は複雑な心境になるだろう。

「ここへはどうして?」
「イリスに会いたくて」
「そうじゃなくて、誰から」
「君のご両親から。この前家に帰った時に偶然会って」

 なるほど、と合点がいった。ダンデは恐らく私の両親から説得を頼まれて来たのだろう。あの人達は娘がこういう職にいることをずっと不安視している。立派な成功例が同じ町にいるものだからよく比べてもいたし、頼れる大人の男の知り合いに頼んで辞めさせたいのだ。

「残念だけど私、ずっとここで働くつもり」
「……?ああ、いや、そうじゃないんだ。そういうつもりで来たのではなくて」
「じゃあわざわざ、どうして?女と遊びたくて?それともからかいに?」
「何度も言っているだろう。会いたかったからだ」
「……」

 会いたかったから、なんて。そんな単純で短絡な理由が、大人の世界で通用するのだろうか。小難しい理屈で固めて行動するのがもっぱら大人のやり口だ。本当にそんな子供みたいに感情に従って行動したのだろうか、ダンデは。
 沈黙がしばし続いた。あれこれ考えているのは二人とも同じで、そうしている間に注文したものが運ばれてきたからこれ幸いとそれに手をつけ始める。酒が回ればダンデの心意も吐かせやすくなるだろうから、どんどんグラスを勧めた。私の隣から消えて十年以上経っているから酒の耐性はとんと知らぬことだが、アルコールで気が多少は昂ぶるだろう。
 案の定数杯飲ませれば薄暗い照明の下でもその頬が赤らんできているのが見えた。目元が僅かに緩んでいる。

「それで?どうしてここに来たの?」
「会いたかった」
「……どうして、来たの?」
「会いたかったんだ、イリスに。顔が見たくて、そうしたらこんなにも綺麗になっていて、声もあんまり変わっていないから心地良くて、でも胸がドキドキして、落ち着かなくて、どうしてもっと早く会いに行かなかったのかと後悔しているくらいだ」

 これは、と心なし距離を取った。なんだか雲行きが怪しいような気がして。しかし鋭く察知したダンデが急にこちらを向いて、あっという間に手を攫ってしまった。

「あたたかくて、柔らかくて。こんな素敵な女性になっていたんだな」

 血の気が引くような感じがして手を引き抜きたいのに、ダンデはその分掴む力を強めた。嫌だ嫌だと心が暴れている。この世界で自分を制御することはとっくに上手になった筈が、まるで昔のように心が否定を叫んでいる。

「好きだ、好きなんだ……、昔からずっと、君が」

 丸めた瞳が、薄暗い照明にも映える金色のそれが、反吐が出そうなくらいに甘くて。

「どうしても忘れられなかった。イリスを想い続けることがやめられなかった。どんな風に成長しているのかも知らないのに、勝手に想像しては思いを馳せてきた。初恋だったんだ」

 言葉は、瞳は、こんなにも甘ったるいのにも関わらず、私の手を掴む力は決して緩まない。

「チャンピオンではなくなったが、その分これまで得られなかった自由を得られた。好きな人に気持ちを伝えられる自由も」

 やめろよ。私が否定した大人の顔を今更少年に戻してくれるな。泥まみれでも手を繋いで帰った時のように私の手を握るな。そう叫びたくても呼吸が乱れているせいでまともな音にならない。

「好きだイリス。好きだ」

 この期に及んで私を置いて大人になったその姿で目の前に現れて、少年の面影を宿すな。
 知らないくせに。私がどんな思いで今日までを生きてきたのかを。
 大人と女を疎んで、そういう対象で見られても必死に耐えてきた。私が泣いている時ダンデはバトルを楽しんでいた。私が名前も思い出せない男と寝ていた時パーティーで成人を祝われていた。ままならない立場なんて知ったことか。愛を囁きたかったのならもっと早い内にそうできた筈なのに。
 私への気持ちが自分の立場に負けていたから、ダンデは私よりも早くに大人になって、ハロンを出た私を追いもせず、ずっとチャンピオンでいたんだろ。

「……だ、から、何」
「これからは俺の側にいてほしい」
「今の私のこと、何も知らないでしょう。ダンデが好きだって言っているのは昔の私。泥だらけになって遊んで怒られても笑い合った、初恋の思い出の中の私」
「今目の前にいるイリスが愛しい」
「本当にそうだって言える?もう十年以上会っていなかったのに」
「じゃあこれから知っていく。俺のことも知ってくれ」

 これでは私の残像に恋心を抱く哀れな男だ。私が昔のままだと思っているのなら見当違いも甚だしい。今の私は、女を嫌っていた私を欠片くらいは残しつつも女に順応して生きる私なのに。そんな葛藤すら、ダンデは何一つ知らないのに。
 ――けれど私だって、ダンデがどんな風にして大人になったのか、ならざるを得なかったのかを、微塵も知らないのだ。私の隣にいなかったダンデのことなんか、私では。泣いた夜があったかもしれない。怒ることもあったかもしれない。歪だろうと大人にならなくては自分を守れないことがあったかもしれない。でもそんなの全部、側にいなかった私では露もわからない。

「……好きだ」
「キスしたいくらい?」
「ああ」
「抱きたいくらい?」
「……ああ」

 吐きそうだ。

「……はっ、はは、あははッ!」

 もう何がなんだか。頭がクラッシュしそうで、胸が張り裂けそうで。どうして自分が笑っているのかもわからない。わかるのは突然笑い出した私に驚いて目を丸くするダンデの間抜けな顔だけ。けれど好都合で、掴まれていた手が抜けたのでありがたい。
 だから、ぐいっと開いていた距離を詰めて、太腿に掌を這わせた。昔のひょろっとした名残なんて全くのない、硬くて逞しい太腿だった。同じく逞しい体にしだれかかり、下から覗き込むようにすれば狼狽えているのが丸わかり。

「いいよ、キスしても」
「え」
「抱かせてもあげる」

 正面から内側へ。鼠径部の近くまでゆっくり。指先でカリカリと引っかくと、面白いくらいに大きな体は震えた。

「今の私のこと、知りたいんでしょう?」

 耳の穴に吹き込めば私とは違う色の肌に鳥肌が立つ。初ったらしい反応だと口角を上げた。
 恋だったのかなんて、そんなの私にもわからない。気持ちが発達するよりも前にダンデは私の隣から消えた。そうしてうやむやに何もかもがなってしまったからこそ、私はあんなにも思春期を拗らせたのだろう。こうして紐解いてしまえば、あれを単純に思春期と呼ぶべきではなかったのかもしれない。
 今だったらわかる気がする。私が大人になることを、女になることをあんなにも嫌ったのかを。

 私はただ、ダンデに隣にいてほしかっただけなのに。一緒に毎日を生きたかっただけなのに。こんな、大人になってからもう一度キスがしたかったんじゃない。


20210526