短編
- ナノ -


 僕ら息をしてる


 イリスの空間は聖域にも等しい。
 彼女のいる空間はとても澄んでいる。何故ならこんなにも呼吸がしやすくて、綺麗な酸素で満ちているから肩の力を抜けて、健やかな寝息だって立てられてしまうから。夜遅くまで居座ると「邪魔」と胡乱な瞳で見つめられ、泊まりたいと願うと一蹴されてしまうけれど、最後には「好きにすれば」と俺を見ないまま表情も出さずに許しをくれるから、俺はお言葉に甘えに甘え切って頻繁にイリスの作るこの聖域の中で静かに夜を越して、そうすれば穏やかな気持ちのまま朝の光でこの身は包んでもらえる。
 イリスは無駄なことが嫌いだが、じゃあ効率的に生きているのかと言われると決してそうではない。例えば俺は料理が面倒だし手早く食べられるものが好きと思うが、イリスは時たま面倒そうにすることはあれど「食事は命の糧」とよく俺に告げて素材から調味料一つにまでこだわることもあって、最後には二人分作ってくれる。シャワーも面倒だと文句を垂らせば「体と心の洗濯」と丁寧に風呂場を洗って俺をそこに押しやる。機嫌がいい時には湯を溜めて、俺を一番目に任命したらそこへ沈めにかかる。
 洗ってくれないか?と同世代の女には効果覿面の角度で覗き込んで請うと、即座に鼻で笑われてしまった。面倒だって。

 イリスの空間は聖域に等しい。イリスの側が、イリスの作る空気が、俺をたくさんのことから解放して楽にしてくれる。イリスの近くにいる時、俺は英雄と称賛されるチャンピオンなどでは途端になくなってしまって、そんな背中に張り付いたものなど聖域に一歩足を踏み入れてしまったら聖なる力で弾け飛んで行ってしまう。そんな自覚を持っていて、それは本当に聖なる力が働いたかのようで、あるいは魔法や呪いといった不思議なことの類が解けたかのように。俺はそれを、いつからか嬉しいと思うようになっていた。
 聖域へ身を寄せることとなった始まりが自分を取り巻くあらゆることに膿んでいた時期だったからかもしれないが、最早刷り込みにも近いイリスへの言葉などでは到底表せそうにない感情を、俺はずっと丁寧に、きっと生涯大事にし続ける。

「イリス、ほら、俺が映ってる」
「ふぅん、テレビ映えしてるね」
「そういうのは、少しくらい本から顔を上げて言うべきセリフだぜ」
「今ね、ヒロインが波に攫われていったの。その子が助かるかどうかの方が大事」
「俺の試合よりも?」
「もちろん」

 もちろん。俺の試合よりも、文章の羅列の中でヒロインが助かるかどうかの方が、重要。俺の試合なんかちょっとも興味を持たないイリスの脳内では本の文字列が映像化されて映し出されていることだろう。
 それを嬉しいと、俺は思っているのだ。テレビの俺にも、隣の俺にも、一切頓着しないイリスのこの空気が、俺をいつだって楽にしてくれる。先が見えない真っ暗な穴に落ち続けて、やがて安心して足を着けられる場所に辿り着けたように。溺れて手は水を掻き分けるだけで浮上できなかったのに、水面にやっと顔を出せたような。
 イリスは、俺に好意を一つも抱かない。男女の好意など到底有り得ない。イリスは俺を見ない。視界に入ったところで、そこに熱を籠めることは絶対ないし、人間として少なからず好意はあるかもしれないが、それ以上でもそれ以下でもなく。
 人間としては好いてくれている、と日和った見方をついついしたが、もしかすればそれも実際どうなのかはわからない。居てもいなくてもどうだっていいのがイリスにとっての俺で、何をしようと興味の矛先を微塵も向けてはこない。カップも皿も一通り割ったが、「あーあ」とつまらなさそうにぼやいて「片付けるからどいて、邪魔」と手でしっしっ、と払ってのける。責めることもせず、弁償を求めるでもなく。それなのに食事や風呂を用意してくれたり、優しさがこれっぽっちもないわけでもない。好意の有無は関係なく、面倒なことは嫌いなくせに、存在が面倒だとのたまう俺をいつだって追い出すこともない。

「皿くらいどんどん割っていいよ」
「どんどんいいのか?」
「うん。お詫びで毎回ケーキ買ってきてくれるから」
「タダでケーキが食べたいだけだろ」
「まぁね。それに皿なんかなくたってご飯もケーキも食べれるし」
「ラップでも敷いて?」
「うん。ラップがなければフライパンのまま。フォークが無ければ手で食べる。今世界に溢れるあらゆるものは、人間が使いやすいように作ったものだけだから。使わなくたって生きていけるのが、本来の人間の姿なんだよ」
「で?次は何をご所望だ?」
「モンブラン」

 お礼、のつもりという訳ではないが、皿洗いを買って出たら案の定いつものように落として割ってしまった。音を聞きつけてイリスはキッチンへ顔を出し、そして「あーあ」とやっぱりいつものようにぼやく。普段からあまり表情が変化しない彼女は、こんなことがあっても残念がるようには見えない。

「ケーキじゃなくて皿を買ってこようか」
「どうせ割るでしょ。まぁでも、割るなら自分が買ってきた物の方が気も楽?」

 口の中がざらつくようで、もごもごと舌で口の中を舐め回した。
 興味を抱かないのに、好意を生まないのに、どうやらまだまだ、イリスは俺を近くに置くことを許してくれるらしい。

 イリスの側は酷く安心できる。だって、イリスは俺を好きにはならないから。チャンピオンとしても、男としても、俺を好きにはならない。俺はせいぜい知人A。毎日のように家に転がり込んでだらけきるだけの、ごろごろしているところに食事を用意してもらって、ごろごろする間に風呂も用意してもらって、ごろごろしきった末に泊まりたいと駄々を捏ねるだけの面倒な人間。それは子供の世話をするのとどこか似ているのかもしれない。自分でも言うのもなんだけれど。

「邪魔」
「ぐえ」

 靴を脱いでくつろぐスペースにしているカーペットの部分でだらだらと寝転んでいると、通りがかったイリスが俺の背を踏みつけていった。真上にある本棚から本を取りたかったらしいが、わざわざ踏みつけて取るなんて。

「邪魔って言ったじゃん」
「踏む前に言ってくれ」
「勝手に上がり込んで勝手に寝転んでおいてよく言う」

 文句はあっても言われた通りだし、何より家主はこのイリスなのだから、俺にそれ以上文句を言う権利はない。
 そうやって俺を邪険にするところが、俺はどうしようもなく好きだ。でもこれは、女として見る感情ではない。

「泊まりたい」
「またぁ?」
「ここで寝る」
「お好きにどうぞ。歯だけは磨け」

 イリスの平淡な声音で体を浸して、そのまま眠る姿勢になる。この聖域の中ならば、俺は絶対にすぐに寝つけてしまって、なんなら聖域の外で眠るとよく見てしまう悪夢にだって襲われることはない。俺が死ぬまでチャンピオンでいる悪夢。
 目が覚めたら、もうカーテンは開いていて、そこから優しくて眩しい朝の光が俺を包んでくれる。背後から「寝癖すご」とイリスに笑われることも含め、全部俺のかけがえのない聖域の中の朝。


  ◇◇


「ねぇ、ココア飲む?」
「ココア?」
「うん」

 いつものようにイリスは自分の寝室。俺はリビングの、あのくつろぐカーペットの部分で寝る準備をしていると、突然イリスがそんなことを言い出したから驚いてしまった。泊まりたいと駄々を捏ねて、最早慣れたことだから胡乱な目で「好きにすれば」と欠伸しながら言ってくれた先程のイリス。それがどうして急に、と思わなくはなかったが、彼女が気紛れを発動するのはこれまたいつものことなので、そんなに眠気がないことも相俟って大人しく頷くと、イリスがそれをしっかりと見届けてからキッチンへと向かった。
 どうしたのだろうか。と思っている間にイリスはさっさとお湯を沸かせて、エネココアの袋から取り出した粉末を溶かしカップを両手に俺の元へやって来る。右手に持つ俺がこの前買ってきたカップを差し出してきたので、ありがとう、と一言お礼を言ってからそれを受け取る。その後イリスは、あろうことか俺の隣に腰を下ろした。やっぱりどうしてしまったのかと目を瞬かせる俺は傍から見れば間抜けかもしれない。これまでは自ら俺の隣にやってくることはしなかったし、イリスの隣を陣取るのは俺の役割だった。なのに、こうして寝る時間なのにベッドには行かず、ココアまで入れて、剰え俺の隣に座るだなんて。

「呆けてないで飲みなよ」
「ぁ、ああ」

 ず、とイリスは俺を見ずに先にカップに口を付ける。真似して慌てたように口をつけたら、絶妙な甘さ加減と温かさに、なんだか胸のこわばりがゆっくりと解けていくような感覚を覚えた。じん、と遅れて指先が温まる。もう一口飲めば喉が更に温まって、食道を温かさが落ちていく。それにどうしてこんなに安堵できてしまえるのだろう。

「ねぇ」
「ん?」

 ず、と再びイリスがココアを口に含む音。次いで、やっぱり俺のことなんか見ないで、彼女は唇を開く。

「楽しかった?」

 あ、と音もない声が落ちた。それはこの聖域には落ちず、きっとココアの中に落ちたに違いない。

「もう一人で、ご飯食べられそう?もう一人で、お風呂入れそう?もう一人で、寝られそう?」

 理解してしまったが最後、途端にじわりとココアとは比べようもない熱い何かが目の端から滲んできてしまっても、みっともないとわかっているのにそれを隠せなかった。だって手はココアの入るカップで塞がっているから。
 こんなことのためにカップを握らせるなんて、相当意地が悪いな。

「もう、私の助けは要らない?」
「……要る、まだ、目を開けたばかりだから」
「そっか、この前生まれたばかりだもんね」

 さっきは声になりきれなかった音をココアに落とせても、この込み上げてくる熱いものをそのままココアの中には落とせないから、額までそれを持ち上げて阻止する。額をカップに落ち着けて、温かみを分けてもらう。そうしたらカーペットにとうとう熱くて透明な雫は落ちてしまったので、見てもいないくせにイリスが「カーペット汚したら怒るからね」とあの表情が薄い顔で言うのだ。カップも皿も割っても怒らなかったのに、もうそういう時間は終わってしまったらしい。

「もう少し、もう少しだけ。まだもう少しだけ、ご飯も、風呂も、寝る時も、一緒にいたい」
「いいよ生まれたてのベイビーちゃん」
「はは、ベイビー」
「そう。これから色んなことができるようになる、息の仕方をゆっくりと覚えていく、無限大の可能性を秘めたでっかいベイビー」
「なら褒めてくれ、もうココアが飲める」
「そういうのはもう私じゃない人にしてもらいな」
「ああ。でも、それはこれからの話だ。今はまだ、俺はイリスの横にいる」
「はいはい、えらいえらい」
「適当すぎるぞ」
「注文が多い」

 堪えられなくてにへらと笑ってしまうと、目の端でそれを捉えたらしい。イリスが微かにこちらに顔を傾けて、そうしてゆっくり、淡く、その表情を緩めていく。俺が見てきた中で一番優しい微笑み。出来の悪い子供に手を焼いて、それでもしょうがないなぁ、と、そういう。いつものようにそう思っている筈なのに、呆れた顔ではなく、今日ばかりは。

「よく頑張ったね、ダンデ。おめでとう、これからは毎日が新しい世界だよ」
「ありがとう。すごく、楽しみだ」
「そんで早く彼女作ってそっちに行け」
「酷い言い草だ」
「結婚式呼んで。そんで豪華な引き出物頂戴」
「結婚できるかもわからないのに」
「確かに。ダンデ結婚に向かなさそうだし」

 こんなに軽口を長々と続けられたのは初めてかもしれない。イリスはこの前まで、俺が負けるまで、俺の前まで決して饒舌ではなかった。言葉少なに、けれどそれは俺の存在をやっかんでいたからでもなくて。イリスの性格ならば、心の底から俺を邪魔だと疎む気持ちがあれば最初の段階で固く玄関も窓も閉じて俺の侵入を指先だけも許しやしなかっただろう。なのに今までそうはせず、ずっと、俺の聖域でいてくれた。
 ありがとう俺のライナスの毛布。でもそれを言葉にしたら、どうせまた鼻で笑われてしまうだろう。

「でも彼女作れるかな。俺が今一番安心できる場所は、ここなのに」
「やめてよ未来の彼女に私とどっちが大切なのとか睨まれるの嫌だからね」
「ここ以外にこうやってゆっくりできる場所が作れる気がしない」
「作れ、そこは励め」
「明日もきっとここに来る。それで、ココアを作ってもらう」
「エネココア持っていっていいから自分の家でお飲み。……まぁ、でも」

 でも、とそこで言葉を一度切ったイリスは、また俺のことなんか見るのをやめて、ココアを一口飲んでからやっぱりゆっくりと口を開いた。その音の出し方はつい見惚れてしまうくらいに、とても優しく、生温い二酸化炭素を吐き出していく。

「息の仕方を忘れそうになったら、来てもいいよ」

 なのにそんなことを言ってくれるから、俺は聖域だったここから抜け出したいと思えなくなるのに。


20210324