短編
- ナノ -


 秘密


 オーナーの迷子癖にはほとほと困ってしまう、まったく。タワーの中でもすぐにこれだと、まるで小さな子供を叱る際の親のような気持ちになってしまうのは成人男性には失礼極まりないと承知しつつ、彼の周囲にいる人間は大抵同じになってしまうのだから私だけを責めないで欲しい。私は直接関りを持たないポジションにいるからまだマシだが、オーナーと直接パイプを繋いで日々仕事する人たちはもっと気苦労も絶えないに違いない。

 だから、本当は私が今こうしてオーナーを探しているのは、本来なら可笑しな話なのである。私が今手に持つこの経理部門の書類は直属の上司に提出すれば済むだけのもので、専用ボックスにその人が不在中であろうとひらりと置いておけばいつもならばそれで終わる。なのにそれを手にしたままバトルタワーのあちこちを駆け回っているのには理由があって、しかもその理由も理不尽極まりないことで。
 締め切りを勘違いされていたのが運の尽き。私に伝達ミスをした上司が直接上に持っていけとのたまうので、内心滅多打ちにしてやりたい気持ちを押し殺して「かしこまりました」と引き攣った笑顔で答えられた私は称賛に値する筈。などと自分で自分を慰めていても事態は解決しないのでフロア移動して提出先たるオーナーの姿を探している道中なのだが、いかんせん大抵こういう場合にはそうそううまく事は運ばない。
 誰もが皆口を揃えて、あっちで見た、と言う。最初こそ言われた通り素直に言葉に従ってあっちへこっちへと移動していたのだが、これが両手の数を超えたとならば話も別である。
 どうやら天性の迷子癖のせいで行方知れずとなっているのが現状のようで。いくらバトルタワーまでは迷わないと公言していようと、タワー内部で結局迷うので認識を改めて欲しいと、これまでなら微塵も思いもしなかった文句ばかり口の中に溜まる一方。

 私は、元々ダンデのファンではない。長年チャンピオンであった彼の功績は素晴らしいものとは思うけれど、彼の記録は歴史に名を刻むに足るマスタード氏の記録を上回ることは終ぞなかったわけだし、顔面の出来栄えの高さを評価する声もあるが、それは別に好みの類でもなく。ポケモンは好きだが応援している俳優がいるので、チャンピオンに傾倒する頭ではないのだ。
 だから、周囲のスタッフはオーナーに対し決して悪い口を影でも利かないが、私は違う。
 本当に良い人だよ。
 ダンデが人にパワーを与える力はいつも凄い。
 等々良い話しか聞かないが、傍から見ていれば確かにそうなるのだろうとは思っている。けれどそれは彼に近しいポジションで働くスタッフであったり、元々チャンピオンの彼に好意的な人間が前提だ。オーナーを嫌っているわけではないが、嘘偽りない本音で申せば特段興味がない、というのが全て。なので、心の中で上司の悪口をこっそりと叩くのと同じ心境で、オーナーへの文句ばかりがつらつらと頭の中で並べられていくのだ。

 さて、オーナー捜索を開始してから数十分。とうとう私はタワーの外へと出てしまった。あちこちたらい回しにされた結果、こうして出入り口から抜けてしまって。仕方ないのだ、最後の目撃証言が「そういやさっきちょっと休憩と言って外に出て行ったよ」だったのだから。それならタワーを既に後にしているのでは?と問うと首が左右に振られ、それはないとはっきりと断言される。なんでも、いつもものの数分で戻ってくるため外出ではない筈とのこと。何のために?と問えば、これにもまた首を左右に振られてしまう。
 一体いかなる理由でわざわざタワーから出て、その敷地内で何をしているというのか。はぁ、と重い溜息がさっきから止まらない。勤務時間のロスをしていることでただでさえ頭が痛いのに、一向に目標に到達できずに疲れも出てきている。
 さっさと探し出して終わりにしなければ。その一心で、手始めにタワーの周りを回ることにした。そして、そう時間を掛けない内に思わず目を瞠ってしまったのだ。
 オーナー、見つけた。見つけはしたのだが、なんだかここから見ても纏う雰囲気が、いつもと違う気がしたのだ。彼はタワー周囲を囲う林の木々の一本にこちらに背を向けて寄り掛かり、時折その幅のある肩が揺れている。
 オーナーは、いつでも快活な笑顔で私達スタッフに接してくれる。なのに、ここから見える微かな横顔は、どことない憂いを帯びているようにも見えてしまって。バトル中であれば真剣な顔つきを見せるものだが、カメラとマイクを数えきれないくらい向けられてきた彼は、スタッフの前の彼は、これまでにあんな顔を見せたことがあっただろうか。

「俺に用事か?」
「……ぁ」

 いつの間にやら自分で自分の時を止めていたような気もした。その歯車を回してくれたのは、当然近場に佇んでいたオーナーしかありえない。ハッと我に返り目をぱちりと開閉させると、彼は困った風に私を見やっていたのだ。
 これまた、いつの間に。いつから私に気付いていたのかと。それ程近付いてはいなかった筈なのだが、思っていたよりも人の気配に敏感なのかもしれなかった。

「……あ、の、えと」
「君は確か経理の子だったな。さしずめ、その書類がここにいる原因か?」
「そう、です。提出期限が誤認されていたようで、その、申し訳ありません」
「いいや。それにしても、こんな所まで。俺の執務室に置いてくれれば良かったのに」

 そう言われてようやく、そうだそうすればよいだけの単純な話だったのだと今更になって思い至って。あるいは彼に近しいスタッフに預ければ良かったのだ。なのにどうしてか直接渡さねばと思い込んで、聞き込みした人々にもオーナーの所在を尋ねるだけだったから、誰もそのことを指摘することもなく、こんな裏手の方まで。
 くすりと責めるでも呆れるでもなく、オーナーは笑った。変な人間か頭が回らない人間だと評価されるかと思いきや、どうやらその笑みにはそういった感情は乗っていないように見受けられる。ホッとすると同時羞恥に襲われてしまうが、そんな私の伏した瞳の矛先は、間もなくとある一点へ向くこととなる。

「……たばこ?」

 オーナーの右手には、何を隠そう煙草が一本、握られていたのだ。煙が上るそれは、明らかについ今しがた火を点けて使われていたものである。私の零した呟きにオーナーも「そうだった」と小さく漏らし、片手にしていた何やら小さな物にその煙の立ち上がる部分を押し付けた。携帯灰皿だろう。

「煙草、吸っていらしたんですか?こんな所で」
「ああ。喫煙所はなんだか居心地が悪くてね」

 カチンと音を鳴らして灰皿を閉じると、今度は自嘲気味にオーナーが笑う。

「みんな、俺が顔を出すだけで驚いてしまうんだ。俺と煙草がどうにも結びつかないらしい」

 確かにその通りだなと、思ってしまった。品行方正と言うか、そうと表すには快活かつ朗らかな笑みではあるが、悪い噂を聞いた覚えがない人間である、オーナーは。スキャンダルらしいスキャンダルとも縁遠い、ガラルの皆が憧れて然るべきの人物。煙草は嗜好品であるのだから特に後ろ指を指されるような良からぬ物でもない筈だが、だったらダンデがスモーカーである、と言われてすぐに想像が出来るかと言えば、それは私でさえ否なのだ。

「だから、こうして誰かに見つかりにくい場所で隠れて、わざわざ?」
「ご明察。この時間は職員の出歩きもほとんどないから。ともかく、こんな所まで足を運ばせて済まなかったな。俺ももう戻るから。その手に持っているのが俺に提出する書類かな?だったら貰おう」
「え、ああ……、はい、お願いします」

 妙に胸に違和感があるというか、ざらりとした感触の悪いものが広がっているような。正体の見えないものを覚える中、オーナーがたった今しがたまで煙草を持っていた指を私に向けてきたので、変に心臓の鼓動が速まるのを感じながら私の指の跡がついてしまったそれを手渡す。

「そうだ」

 ぼんやりとする私に、去り際のオーナーがほんの少し顔を寄せて、囁いた。

「俺が煙草を吸うこと、どうか内密に頼む」

 煙の香りがする言葉が、私の耳付近にまとわりつく。

「君と俺だけの、秘密にしてくれ」

 たまらずオーナーを見上げると、きゅっと目を細めて、悪戯そうに、けれどどこか艶めかしい形のまなじり。心臓の鼓動が速いせいで痛くて、ふぅ、とか細く吐息を漏らす。
 どうしてだろう。先程直接オーナーが煙草をふかす姿が見られなかったことを、こんなにも惜しいと思ってしまったのは。


  ◇◇


 それ以降、どうやらオーナーは私を個人としてしっかりと認識してくれたようで、擦れ違いざまには一声かけられるようになった。名前も覚えてくれて、イリス、とあの元気な顔で笑い掛けてくれる。元々風通しの良い環境だとは思っていたし、オーナーが我々スタッフを気に掛けてくれていることは皆わかっているので、今のところ周りから追及もなくて。
 そのオーナーからは、今日も煙草の匂いはしない。ぬかりなく匂い消しの消臭スプレーも携帯しているようで、喫煙の後は全身にふりまいている様子。
 とある日にタワーへ挑戦にやってきた年端もいかぬ小さな子供と楽しそうに話をしている場面に出くわして、ダンデのファンらしきその子の為にしゃがんで目線を合わせるオーナーを見たら、そうか子供を前にすることも多いのだったなと、スタッフへ匂いを誤魔化すためだけに消臭スプレーが必要ではなかったことを知った。
 だけど、それを惜しいと思う気持ちが、未だに消えないのだ。もうほとんど思い出せないオーナーの煙草の香り。自分は吸わないから即座に銘柄も言い当てられないあれ。
 品行方正、英雄、太陽。オーナーをこれまで讃えてきた言葉はいくらでもあって、その全てが肯定的な明るい単語ばかり。
 そのオーナーが、無敵のダンデだった人が、職場の人間の目から逃れるためにあんな裏手の林の中で、隠れて静かに一人で煙草をふかしていた。その事実が、いつまで経っても私の中に残って、度々大きくも顔を出したそうにする。
 私の目を、眩ませようとする。



 もうすっかりとあの煙草の香りを忘れてしまった頃。オーナーは気さくに声を掛けてはくれるが、それ以上何が起こるわけもなくタワートップの顔を拝んで談笑するだけの日々。
 転機は突然だった。大袈裟な物言いをしたが、単純に偶然にもオーナーが一人で外へ出る瞬間を目撃したのだ。そうしてすぐさま、頭の中であの日の煙草の煙が蘇る。
 煙草だ。そう察した途端、私の足はオーナーを追いかけるために動いていた。
 果たして予想通り、前回出くわしたのと同じ辺りにオーナーは向かっているようで、時々ふらりと別の方向を足の先が向くことはあったけれど、最終的にあの林の木々の一本付近に辿り着き、その木に自身を隠すようにしてポケットから煙草の箱を取り出した。
 一般的な種類なのだろうか。マーケットにも売っているような市販の物であろうか。煙草に詳しくない私では、それがどれ程の価格なのかも想像できない。
 白い煙草を口に咥えたら、私が知らない形のライターで火を点けて、やがてはゆっくりと白い煙を宙に吐き出す。合間にその横顔はどこかを見つめる素振りを見せ、また口に咥えて。また合間に灰を携帯灰皿に落として、どこかを見つめているような。遠くにある何か、私が知る由もない、彼にしか見えない、何か。
 その彼の横顔を見ているだけで、もう、こんなにも。

 ああ、ああ。ようやくその姿を目の当たりにすることが叶った。

「今日も書類の締め切りを間違えたのか?」

 オーナーに見つかっても可笑しくはない。なにせ、ふらりふらりと、引き寄せられるかの如く私は彼に近付いていたから。あまいかおりに誘われるポケモンでもあるまいに、私の体はとうとうオーナーのすぐ側にまで寄ってしまって。

「にしては手ぶらだな」

 一度見つかってしまったからだろう。喫煙を隠す様子もなく、右手の指で煙草を固定したまま、オーナーが私に笑い掛ける。やはり普段よりも明るい色が鳴りを潜めた、何かを憂うるような、何とも言い難い表情で。穏やかなのにメランコリックのような、アンニュイな多くを語らない顔つきが、風に攫われる細い煙が、私の目をこんなにも奪ってやまない。
 そしてついに、くん、と鼻が煙を捕らえた。私の日常生活では嗅ぎ慣れない独特の匂い。苦々しいのに、ほんのり甘さを含むような。一度、二度、と鼻腔を通る度に、私の頭の中が吸い込んだ煙で満たされるかのように白んでいく。

「……この匂いが気に入ったのかな?」

 ぼんやりとしているから、うまく答えることが出来ない。何か口にした気もするが、多分そうです、だろうか。きっとオーナーの口にした通りではないだろうが、いかんせん今は思考が薄くなっているから。

「初心者にこれはきついだろう。向かないからやめておきなさい」

 窘められても、そうではないのだと、私は口を開けない。
 ただただ、くゆる煙の香りばかり、それを片手に私を見やる姿を、自分の中に刻みつけたくて。



 忘れない内に、とスマホで煙草の銘柄を調べても、それが本当にあの香りを持つものなのかはわからない。実際自分で吸ってみないと解明できないだろう。オーナーに尋ねれば教えてくれただろうに、わざと訊かなかったから自力で探し当てるしかない。
 その日以降買い物の際に煙草を買うことが増えた。職場の喫煙者に特徴を伝えて教えてもらう手もあるが、名前は出さずに済む話でもこれは私とオーナーの秘密だから誰にも口にしたくはない。
 煙草は初めてだから、本当に最初はうまくできなかった。咽て涙目になりながらもなんとか香りを確認する。でも、中々当たりに行きつかない。もしや市販品ではないのだろうか。オーナーに安っぽい銘柄は似合わないなとこの時ようやく思い至ったが、それでもだからこそ使っているかもしれない、と相反する意見が自分の中で巻き起こる。
 オーナーが煙草を吸い始めた理由を、私は知らない。いつからと時期も知らないけれど、チャンピオンを退いても尚、彼は人の目から逃れたあの場所で孤独に煙をくゆらせていたのだ。時折どこかを見つめる仕草を見せ、喧騒から隔絶されたいかのようなあのアンニュイさが、わざわざ高級品を求めて、それで自分を慰めるだろうか。
 私はダンデのファンではない。ファンではないから、彼の委細を知らない。知らないけれど、彼はわざわざ値段のするものを選んで孤独な時間を作らないだろうと、それだけは妙な自信があった。

 ドラッグストアでも買える消臭スプレーは、あまり煙草の匂いを私から消してくれないらしい。そのせいで同僚に「煙草?」と確認されることが増えてしまった。
 一応出勤前だったり職場では吸わないようにしているのに、それ程煙草と言うのは鼻につく残りやすい匂いなのだ。健康リスクを推したり禁煙だったり電子タバコが普及する昨今、喫煙者が肩身の狭い思いをする世の中。かと言ってそう簡単にやめられるものではないとは承知の上で吸い出したが、私は別に煙草を好き好んで始めたわけではない。ストレスの発散でもなく、モチベーションを保つためでもなく。
 ただただ、あの香りを引き当てるためだけに。

「イリスも吸い出したのか?」

 いつものようにオーナーと擦れ違いざま挨拶を交わせば、彼の鼻がひくりと小さく動いて私の愚行を的確に言い当ててしまった。ええ、まぁ、と煮え切らない返事をしたら、オーナーは少しばかり眉を顰めてしまう。

「まさか俺のせいか?」
「……そういうわけではないです」
「本当に?そうであるなら申し訳ないと思って。煙草は始めるのは簡単だがやめるのが難しいし、金もかかる」
「本当に違いますから」

 周囲を気にして小声で囁き合う私達である。けれど、私の注意はそちらにまで向けられない。目の前のオーナーばかり、気にしてしまって。彼からは今、あの私が探し求める香りがほんの少しも嗅ぎ取れない。鼻が吸うのは爽やかな香りばかりで、既に一服し終えた後と見受けられた。私が使う消臭スプレーとは違い、彼が使用するものは大変効果の得られる代物のようだ。

 やがて、とうとう私はあの香りに行き着いた。苦々しいのにほんのり甘い香りのするやつ。オーナーの言葉から香った、あの。これだ!とその瞬間脳が歓喜の声を上げるようだった。なのにそれこそ瞬く間の、喜びも刹那の話で。
 歓喜に脳が喚いたのも束の間。すぐに、違う、と自分の脳が今度は否定の声を上げる。可笑しなことだ。私はこの香りを求めて煙草など始めてしまったのに、ゴールに辿り着いた途端にこうなるとはどうして予測できようか。どうにか一本を吸い切り、続いて二本目、と試してみたけれど、終ぞあの一瞬で脳を染め上げた喜びが再び顔を出すことはなかった。違う、違う、と悲痛な声を代わりにあげる。
 そうすると不思議なもので、やはり体を支配する脳がそんな声を上げるからであろう、胸の内でも同じ声が上がり始めるのだ。妙に違和感があるというか、ざらりとした感触の悪いものが広がっているような。
 そうして、そうまでしてようやっと、私が求めていた物が単にこの香りではなかったことに、気付いてしまったのである。



 意識すれば胸の逸りが顕著になり、なんだか四肢の末端までもがざわめいているような。オーナーに声を掛けるだけでこんなにも胸のざらつきが増してしまうなんて。

「お疲れ様です」
「おつかれさ…………、もしかして」
「やだ、わかりますか?匂い消し使ったのに」

 だなんて、嘘八百。わざと匂いを纏ったままこうしてオーナーの前に現れたのだから、我ながら頭の悪いことだと思う。

「やっぱり俺のせいじゃないか」
「そうではないですよ。私が、ただ吸ってみたくなっただけで」
「ほら、だから俺のせいだろう。それに初心者には向かないとも言ったのに」
「あの、それより、今夜一杯付き合っていただけないですか?」
「一杯?」
「ええ。相談があって」
「俺にわざわざ、直接?……とは言いたいが、いいよ。付き合おう」

 ぶわっ、と足元から歓喜の波が這い上がって来た。強かと言われてしまうかもしれないが、きっと誘いに応じてくれるだろうと予感を持っていたのだ。
 秘密を共有する手前なのか、はたまた言われた通り誰にも漏らしていない信用感からか、オーナーの私に対する態度は以前と比べても近頃かなり柔和になったと自覚がある。それこそ、彼に近しいポジションで仕事をするスタッフ等と比べても格段に。擦れ違えば必ず言葉を交わし、距離がある場面でも目が合えば微笑んでくれる。
 品行方正、英雄、太陽。無敵のダンデ。もしもそれに思うところを抱えていた結果が煙草で、あのアンニュイな顔であるならば、きっと、それも自惚れでもないのだろう。彼は、人には知られてはならない部分を持っていて、それはほんのり暗いものかもしれないし、ただの人間臭さなのかもしれない。どちらにせよ、ならば私の誘いを断ることもないのだ。

 指定した時間に指定した場所へ現れる可能性は残念ながら低いと思えたので、他よりもわかりやすかろうとあの林の木々の一本を待ち合わせ場所にした。予想通り若干ながら時間がずれたが、オーナーはちゃんと私の目の前に現れてくれた。それに、仄淡い嬉しさと言うか、なんというか。
 忘れた振りをして逃げることも出来たのに、彼は私が誘った通りこうしてやって来てくれたのだ。それは、私の自惚れと繋がっている浮ついた勘違いではなかったという、確かな証明で。
 アーマーガアタクシーで移動し、私が選んだ個室完備の酒場に着く。爽やかな香りを纏うオーナーは物珍し気な顔をするでもなく私の隣を行くのだから、どうやら煙草だけではなく酒にも嗜みがあるらしかった。こればかりは当然と言えるだろう。かつても含め立場上酒とは切っても切り離せないに違いない。

「個室を選んでくれたのは、俺のためか?」
「はい。好きなだけどうぞ、ここなら誰にも見られませんから」

 喫煙可のためテーブルに備え付けの灰皿を向かいのオーナーの前へ指先で差し出す。だけど店員の目を警戒してか注文をしてからと言うので、バッグから自分の煙草の箱をそっと置いた。その時には丸めた目をすぐに細め、次いでにたりと彼は笑った。ああ、そんな、初めて見る顔。

「悪知恵が働くんだな」
「オーナーが誰にも知られたくないって言うからですよ」

 店員が入ってきたところで、こうしておけば吸っているのは私と思うだろう。オーナーが自身のイメージを守りたいのであれば、私は私の為にもきちんとそれを約束したい。
 ともかく注文はしなくてはならないのでそれぞれ好きなアルコールを頼み、それがテーブルに運ばれてからまずは乾杯を交わす。お疲れ様、だなんて色気の欠片もない言葉で。

 そうして、とうとうその太い指はジャケットのポケットに伸び、小さな箱を取り出した。私に翳して見せ、いいか?と要らない確認をしてくれる。どうぞ、と微笑めば、彼も同じように笑って箱を開けた。
 慣れた手つきで一本取り出し、口に咥えてからジッポーで火を点ける。最初に目撃した時は知らなかったが、煙草を始めたせいであれの名前も知ってしまった。
 瞼を僅かに伏せ、指で挟んだ煙草を静かに吸い始める。深く息を吸い込んだら、ふぅー……と煙を外へ吐き出して。私はと言えば目の前の、一挙手一投足、何もかもを見逃せやしない。とうとう見ることが叶った、と以前思っていたのに、私はこれが見たくて見たくてしょうがなかったのだ。
 正面からようやく瞳におさめられた、オーナーが煙草の煙をくゆらせる姿。こんなにも近い位置で、誰も知らないオーナーのこんな姿を、仕草を、表情を。何もかも秘密を許された私だけが知ることができて――。

「視線が随分と熱烈だな」

 口角を上げる何も咥えていない口元が、えらく色っぽいというか。煙草を吸う男にこんな感想を抱いたのは、これがれっきとした初めてである。

「……隣に、行ってもいいですか?」
「どうぞ」

 ゆっくり立ち上がり、うっかりと足を踏み外しそうな覚束なさでオーナーの隣まで移動して。また酷く頭がぼんやりとする。早速この空間一杯を満たす、苦々しくてほんのり甘い香り。彼に近付けば近づく程、その香りが濃くなる。四肢の末端までがざわつくようで、ヒールの中の爪先を丸めたり伸ばしたり、もぞもぞと落ち着きを既に失くしていた。

「すぅー……はぁ」

 目の先にある細くて白い一本の煙草。それを固定する大きくて太い指先。灰となった部分を灰皿に落とし、また唇で挟んで。どうにも大人しく座っていられなくて崩れそうになる体をボックスソファに手をついて落ちるのを堪える。心臓が痛いような気がして、片手で服の上からそこをぎゅっと掴んだ。前のめりで下から覗き込むと、ゆっくりと胸元が膨らむのも見られて、ほぅ、と息が漏れた。
 不意に、こちらを向いていなかった瞳が横に流れて、どうしてか息が乱れている私に向いた。なんだか、うだる頭を見透かしたように、意地悪そうに瞳の形は歪んでみせる。

「……すっかりとこの匂いがお気に召したようだな」
「あ……、はい、好き……これ、すき」
「自分でも吸い出したくらいだもんな」

 そうだけどそうじゃないの。そうだと思っていたけど、そうじゃなかったの。
 言葉になりきれない息だけが口から漏れてしまって、きっとそこまで目敏いオーナーは見抜いているようにも思えるのに、彼は私の言葉の表面ばかりを擽ってばかりで決して確信には触れようとしない。私が相談のためにこの場を作ったわけではないと、最初からわかっているくせに。

「もっと、」
「ん?」
「もっと、近くでみたい、もっと近くでかぎたい、顔っ、かおにふきかけて」

 欲そのままのような言葉が口から出てきてようやく、そうして自分の気持ちを知った。体温が徐々に上がってくるよう。はふ、と熱い息を吐いて、オーナーを見上げる。彼は特に驚いた気配もなく、くつりと喉で底意地悪そうに笑った。
 ああ、またそうやって私が知らなかった顔を。

「いいよ」

 許しが貰えたので気も逸るままにやりやすいよう体を更にオーナーへ寄せようとすれば、何故か頭を押さえられてしまったので、う?と最早ろくな言葉も吐けない私に、彼の顔が近付いてきて。
 口から煙草を抜いて、直後に、ほんの少し開けた口の隙間からあれが、あの香りが、とうとう、私に。
 ――顔中を真っ向から襲う苦々しくてほんのり甘い香りが、これまでで最も濃厚なそれが、瞼を閉じた私の顔に吹きかけられて。肺に溜めたそれを、全部。
 なにせ至近距離での煙たいそれにはさすがにごほっ、と咳をしてしまった。でも、煙は一瞬で晴れてしまったけれど、確かにそれは脳を直接焼かれたような衝撃であった。またあの、歓喜が湧いて今度こそ体中を駆け巡る。体温が一気に上り詰めて、足先がぎゅっと丸まり、体が一度強張った後に弛緩する。顔の筋肉も溶けたみたい。ドクドクと、口から飛び出しそうな程に心臓が躍動している。似通った感覚を私は知っているが、しかしこれを性的快感と片付けるのはあまりに御粗末であろう。
 咥内に知れず唾液が溜まっていたが、それを飲み込むことも忘れて恍惚な気分なまま、うっとりとした心地でオーナーのジャケットの裾を乱暴に掴んだ。

「あっ……、もっと」
「もっと?」
「もっとぉ……」

 ぼんやりとした頭の中ではたったの一つのことしか残っていない。オーナーは咎めることもなく、私の痴態を嘲笑うでもなく、どこか楽しそうに瞳の形を歪めて笑うばかり。
 でも、灰を落としたら少し短くなった煙草を再び咥えて。その間、瞳はずっと私を捉えたままで。頭を押さえたままだった掌が予兆もなくするりと撫でたものだから、余計に息も乱れて絶え絶えとなってしまった。

 品行方正、英雄、太陽。いくらでも肯定的な言葉で讃えられてきた輝かしいオーナーの、ファンでもなかった私しか知らない姿。後ろ暗い思いを抱えて始めたのか、理由は知れない。ただ、そんなこともどうだって良い。オーナーの、子供のヒーローでもあるダンデの、彼のこんな姿が、顔が、見られるのはきっと私だけ。この秘密の香りを堪能できるのは今、私だけ。背徳的で、絶対的な、濃密な匂い。彼に興味を欠片も持っていなかった私をここまで落とし込んだ、魅惑の、私達の、私だけの秘密。私だけに見せるわるいところ。
 だからもっと、もっと欲しい。全部私に余さずぶつけて欲しい。もっとその煙たくて真っ白な秘密、私にぶっかけて欲しい。


20210307