短編
- ナノ -


 それを愛と呼べるのか-5


 母親が中にいるからと、そのままついてくるように言われたので素直に後を追う。立ち止まったのは奇しくも俺だけが知る薄い紙にプリントされたあの見晴らしの良い場所。気温も下がっているせいで殊更冷たい潮風が時折容赦なく二人を襲う海面をすぐ目の前にして、イリスは夜色の海を静かに眺める。俺はずっとイリスのことしか見ていないが。

「……さよならって、言ったよ」
「それで本当に終わったと思っていたのか?」
「……」

 口火を切ったのがそれでも一方的に勝手をしたこと自覚があるらしく、逆に問えば罰が悪そうにイリスが眉を顰める。それを目の当たりにすれば、やはりあの別れの言葉が心からのものではなかったことをより強く確信した。
 確固たる決意には及んではいなかった。否、その時には離れなければと深く思ってはいたのだろう。でも、心根は正反対なのだから段々と決意にも綻びが生じていた様子。
 本当は離れたくないと思っているくせに。俺がイリスを欲しいと思うように、イリスもまた俺に対して同じである筈なのに。

「理由を教えてくれ。あんなメッセージを送りつけた理由を。どうあっても、きっと俺は納得しないだろうが」
「……遠距離に耐えられなくなったからだよ。それに離れていたら嫌な部分も見えてきた」
「離れていたのに嫌な部分?あまり聞かない意見だな」
「私はそういうタイプなだけだよ」

 水平線が暗闇とほとんど同化する、先が見えない黒い大海原を見据えるイリスの顔はあくまでも静かではあったが、努めて感情を制御しているようにしか見えない。俺には最低限の街灯しか光源もない頼りない明るさの中でも、それが手に取るように分かった。だって、俺も長年同じだったから。求められる役割や人物像に自分をはめ込むことは、随分と得意になってしまった。

「なら全部直そう。遠距離が辛いならもっと来る頻度を増やす。メッセージも電話も」
「……そういうのが嫌なの、もう面倒なの」
「面倒だと思われても俺がイリスから離れるなんてもう無理だ。こんなにも君のことを愛している」
「っ、だからダメなの!」

 愛している、に過敏に反応したイリスが歯をぎりりと噛み締めて。俺の言葉を否定したいからか、直後にイリスが大きな声を上げた。耳を小さな手で塞いで、俯いて目もぎゅっと閉じて。世界から隠れるために、殻に閉じこもろうとするように、幾許か体を縮こませて。

「だめなの……だめだよ……、そういうの全部だめなの……」
「ダメじゃない。俺は君が好きで、君も俺が好きで、それの何がダメなんだ」
「だめなんだよぉ……っ」

 泣きだす一歩手前の悲痛な声。泣いたら自分が劣勢になると思い込んでいるのか、さっきは俺と会った途端に泣き出したくせに今度は必死に堪えようとする。涙と暴発しそうな感情を一緒くたにして自分の中に押し留めようとする姿は、一見すれば哀れにすら目に映った。
 だけど、実のところ、多分そうなのだろう、という予感はここに来る前からあった。それこそあのメッセージを見た瞬間からそれは頭にあって、ああついにとうとう、とすら思って。知らなくていいことを知ってしまったのだと、鋭いと称された観察眼を用いずとも簡単に紐解けてしまって。
 だからイリスは、自分の母親に俺が見つからないよう、もう母親しかいない家からこうして遠ざけたのだ。

「だめなのっ、私達、好きでいちゃだめなの……っ」
「ダメじゃない」
「だめなの」
「ダメじゃない!」

 大きな声で否定してしまったのは、平行線の会話に埒が明かないと思っての行動ではない。ただ、俺の気持ちを痛感して欲しかったから。この身を散々焦がして、求めて、求められたくて、重ねた手から生まれた不思議なものを思い出して欲しかったから。
 そうすれば、びくりとイリスが震えた。驚いたのか萎縮したのか。どちらにしても、俺はそんな顔をさせたいわけではない。そんな顔で俺のことを見て欲しかったわけじゃない。ただひらすらに、好いた男としてその丸い瞳で見て欲しかった。俺達を取り巻く絶対的なものなんかなかったことにして、或いは平気で無視して、忘れた振りをしてでも。普通なんて言葉本当はあまり使いたくないけれど、ありきたりな恋人としてこれからも一緒にいたかった。
 どれだけ、俺達が好き合ってはならないとしても。

「……母親に、俺とのことは話したのか?」
「話してない。……話せることじゃないから」
「なら、大丈夫だ。誰も知らない」
「……え?」

 目を丸くした、まだ泣きそうな顔が俺を見上げる。結局全く機能していない耳を塞ぐ役割を担っている手を掴んで、いつかの、最初の日のように優しく手を重ねる。不思議なものを生んで、奇怪な現象だと思った。でもそれは、本当は不思議でもなんでもなかった。この感触を初めてだと思えなかったのも、同じく。

「誰も、俺達のことを知らない」

 俺はこの感触を、温かさを知っている。正しくは、限りなく酷似しているもの。
 ずっと、いつでも応援してくれる、ハロンの、家の、俺の大事な人たちと、これはとてもよく似た。
 だから俺は、その塩基配列全てを恋しく思ってしまった。

「……嘘、なんで、知って、」
「かつて異国からやって来たガラル人。数年後に再びやって来てこの地で家族になった。食堂のおじさんは、いい記憶力を持っている」
「っ!」

 ぶるりとイリスの唇が震える。慄いて、下手をすれば恐怖すら感じている様子で。信じられないと見開かれた瞳が揺さぶられた感情そのままに揺れて、ここでついに大粒の涙を零し始めた。俺が重ねる手が不意に引こうという素振りも見せたから、当然掴み上げて逃がしてやらない。

「ぜんぶ……全部知ってて、全部わかっててあんなこと……あんな……あんな、全部受け入れてって、そんな、そういう」

 慄く唇が震えを止められなくなっている。蒼白となる顔色。これに関しては自然の反応であると俺もわかっている。全部わかっていて、その上でああして何度も何度もイリスの腹奥深くに注ぎ込んできたのだ。今になって全部に気が付いた、合点がいってしまったイリスにとっては確かに只事ではないだろう。
 軽蔑してもいい。糾弾してもいい。一見すれば悪は俺の方だ。
 でも、俺は後悔していない。俺は君を女として愛している。

「なんでっ、なんでそんなこと……、わかってて今まで……知ってたならどうして!」
「愛しているから」

 感情が強烈に揺さぶられ、激情のまま咆哮されるより早く、強く言い切った。すると気圧されたのか、怯んでまた言葉を失くすイリスの、その青白い頬をなるたけやんわりと撫でてやる。潮風は涙を乾かしてくれないらしく、湿ったそこを掌で拭ってやる。

「愛している。何もかも、関係ない。俺はただ、君を愛してる」
「……酷いよ、酷い、ひどいひどいひどい……っ」
「愛し合ったらいけないなんて、そんなのわかっている。わかっていて、止められなかった。俺達がどういう関係なのか理解したうえで、それでもいいと思った」
「良くない……よくないの……っ!」
「じゃあもう、俺は好きじゃない?」

 敢えてそう訊ねれば、両目をひしゃげさせてぐっと唇を噛み締めるのだから。切りつけられて痛そうな顔で、そうだって心を広げたそうにするのに、中々口に出来ない。葛藤に葛藤を重ねて、嘘でも否定を言わなければと必死に自分を抑えつけようとして。俺はそういう一切合切をとっくに捨て去ったのに、イリスは俺のように簡単には割り切って受け止められないでいる。

「……好きだろうと、そうでなかろうと、もうだめなんだよ。今までみたいなこと、全部しちゃいけない」
「誰も知らない、全部、神様しか知らないことだ」
「だからって、」
「なら、俺を捨てられるか?」

 また、可哀想な顔をして言葉を失ってしまう。一体何を言っているのかと言いたげな瞳。だけど、そもそもの引き金を引いたのはイリスの方だ。

「俺は他の女のものになれって、まだイリスが顔も知らないような、イリスも知らない場所で、いつかに俺は他の人間のものになれって。イリスが俺に言っているのは、要はそういうことだろ」

 俺はそんなの絶対に許せない。他の女のものになることも、イリスが他の男のものになることも。執着やら固執やら色々と自分を日夜罵っては嘲ってきたけれど、それが正真正銘俺の本当の気持ちだから。
 だけどイリスが俺達に関する絶対的な事実に負けて別れを告げると言うのならば、遠くはない未来にもしかすればそうなることも無きにしも非ずで。このまま彼女に言われた通りもう会わないことを選択したとして、後々イリス以上に愛する人間が現れるかは知れないが、少なくとも今の俺の中ではそんな未来は有り得ない。生涯、イリスのことを忘れない。俺の心臓はもう、君に捧げると誓ったのだから。

「要らないって、心から言えるか。風船みたいに、諦められるのか」
「…………」

 逸らそうとする瞳も今は許せなかった。潤む瞳を見つめ続け、俺の言葉にどうしようもなく浮き沈みする機微の全てを取りこぼさない。具にイリスを確認しなくとも、その柔らかなのにイイコな部分を持つ心の中なんて、抗えない現実にひれ伏したいだなんて本当は少しも思っているわけがないと、ずっとわかっていても。
 イイコでいるために諦めてきた、殺してきた部分を、俺の前では失くしてきたのに。抑えが効かないくらい俺を求めて、行かないでとあの日素直に言えたのに。

「良い子でいるな。良い子でいなくていい。神様しか知らないんだ。何より、俺がいいと思って、もうずっとそう言ってきた」

 俺のイリス。健気なイリス。良い子でいたかったイリス。俺にだけは言葉を、心を、偽らないでおくれ。
 ぶるり、ぶるりと、断続的に唇も肩も震えている。自分と戦う姿は、一層のこと同情を誘うような哀れさでもなく、いじらしさすらもあって。

「……――や、だ」

 ぽとりと、静寂を保っていたかった噛み締める唇の隙間から、ついに心が漏れ出でる。

「やだ……、やだよっ、やだやだ、やだ……!とられたくないっ、誰かのものになんてなってほしくない、やだよぉ……っ」

 零す本当の感情に連動して唇がわななき、泉のように瞼の縁から涙が湧いては落ちていく。いくらでも零せばいい。生温い涙も気持ちも、全部俺の掌で受け止めてやる。
 感情を言葉で零しながら、行き場を求める手が、自身の頬に添えられる俺の手に重ねられる。重ねるというより、これは掴まれるというのが正しい。そんなに強く握らなくてもどこにはやらないのに。

「誰にもとられたくない、誰にもあげたくないっ、私の、私だけの……っ」
「そうだ。俺は、君のものだ」
「はなれたくないっ、一緒がいいっ、好きでいたいっ、……私だけみて、私だけ好きでいてほしい……ッ」
「だからずっとそうしてきたのになぁ」

 激しい感情の波に比例した生まれたばかりの涙が零れ落ちていって、俺達の手を濡らしていく。一度堰を切ったらもう止められなくなったらしく、嗚咽しながら体をその度に震わせるイリスを、こんなにも愛しく思う。

「おいで」

 俺は君に何を言われても揺るがなかった。だから君が自分で望んで、君が今度こそ選んで欲しい。
 そんな俺を前にしたら、ぎゅっと眉根を寄せたイリスが弾かれたように胸に飛び込んできた。とんっ、とそれは体当たりにもよく似ていて。そのままぎゅうぎゅうと抱き着いてくるから、俺も同じように華奢な体を包み込んで。改めて、冷たい潮風の中で互いの存在を感じ合って。

「……結婚も、できないよ」
「いいよ」
「ダンデさんの子供も、うめない、作っちゃいけない」
「凄く残念だし望んではいたけれど、イリスが居てくれるならもうそれでいい」
「もしも周りに知られたら、ダンデさんが矢面に立たされる」
「甘んじて受けて立つよ。それでイリスが俺を選んでくれるなら」

 心配事が尽きないなら、その都度安心できるまで全身全霊で尽くそう。神様に罰を与えられたならば、俺が正面きって対抗する。イリスが心から俺のことを想ってくれるよう、俺が全部。
 潮風が頬を一瞬、勢いよく滑っていく。イリスの髪が、俺の髪が、宙で舞う。寒いなと笑ったら、寒いねと涙声で笑ってくれる。その度にイリスの体が小さく動いて、夜闇でもわかる白い肌が揺れる。

「生まれてきてくれてありがとう。君が生まれてこなければ、君がこの世界にいなかったら、俺達は出会えなかった」

 どんな過程であっても、どんな理由であっても。それだけは感謝せずにはいられない。
 そうやって、父の白い肌と十歳にも満たない頃土産にと買ってきた船のミニチュアを頭に並べたら、それごと腕の中の愛しい存在を流れる血と共に、心から慈しんだ。


  ◇◇


 何故気が付いたのかと今更思い出して問うてみると、家で写真を見つけたから、らしい。父親がかつて異国から持ってきた、今や遺品となったそれを。

「……みんな笑ってる家族写真。父の、前の」

 気にしないようにして、だけど、もうそれでも構わないと決めたとして丸きり忘れた振りもまだまだ難しい。だからか少しばかり言いにくそうにするので、話題を作ってしまったお詫びの印がてら唇を寄せようとしたら、容赦なく掌で口元を覆われてしまった。外!とまたむすりとした顔で怒られる。
 でも、すぐにまたなんだか寂しそうな顔をして、俺の口元を覆う自分の手を眺めながら、滔々と語って。

「私が生まれて少し経ってから、母の元に来たんだって。だけどその後結局うまく行かなくて、私が大人になる前に何処かに行っちゃった。亡くなって、今頃になって引き取り先を探してたらしい遺品が家に届いて、その中に写真が……。確証はなかったけど、なんだろうね、変に確信はあった」
「……そうか」

 正直それには複雑な思いは抱けど、結果的に俺とイリスが巡り合えたのだからまぁよしとしておこう。

「イリス、そろそろだ」
「うん」

 キャリーケースを抱えて、二人手を繋いで、まずは荷物を預けるところから始める。
 ジョウトからガラルへの移住は諸々面倒な手続きはあるが、それでもイリスが俺の手を離すことはもうない。万が一家族の目に見つからないようこれまでイリスをガラルへ来させたことはなかったが、イリスが全部受け入れてくれたからもういい。万が一を考え、俺が彼女を家族の目から逃がせばいいだけの話だ。

「……飛行機初めてって言ったのに!」
「え?何かまずかったか?」
「初めてだからこそエコノミーに座りたかった!」
「そんな……」

 快適な時間を過ごさせたかったから最初からファーストクラスで用意したのに、イリスはガーン、と案内された空間を見た瞬間に口を開けてしまった。初めて飛行機に乗った際に用意されたのがファーストクラスで、以来ずっと同じようにしていたので、そういう頭でしかなかった。

「……でもチケットとか全部やってくれたし、ごめんね文句言って。もう乗れるかわからないしこれを楽しむ」

 住まいを意識して作られた空間で、イリスが少しばかり反省した様子を見せた後に、ふかふかのシートへと軽やかに座ってくれる。機嫌が戻って良かったと心底ホッとしていたら、そんな俺を見て目を丸くして、次いで可笑しそうにゆっくりと笑う。

「ダンデさんって、本当に私のこと好きだね」
「ああ好きだ。イリスを喜ばせたいと思うし、楽しませたいと思うし、君のためになんでもしたい」
「……ガラルってみんなダンデさんみたいな人ばっか?こう、ストレートというか、衒いないというか。父もそういうとこあったけど」
「気持ちを伝えることは大事なことだろ?」
「えぇ……馴染めるかなぁ」
「きっと大丈夫さ。何せこれから向かうのは、イリスのもう一つの故郷なのだから」
「そう……、だね」

 生まれ育った故郷へ、未練がないと言えば恐らく嘘であろう。思い出のたくさん詰まる土地から旅立ち、俺と共にいるために新たな故郷へと移る。決断させるまであまり時間を与えてやれなかったことはとても申し訳ないが、だけどこうして俺の側にいることが、全ての答えで真実である。
 なのにいざ飛行機が飛び立つぞという時になったら、個室タイプで作られたシートだからイリスとの距離が僅かばかりにも生まれてしまうので、そこだけは少し後悔した。
 安定軌道に乗ったら書斎スペースにもなる場所へ二人で移って、そこでようやく互いの手の感触を確かめ合えて大いに満足する。他にあまり客がいないとはいえ、完全に二人きりにはまだまだなれないからもう早速地上へ降りたい。

「……これからはダンデって呼んでいい?」
「え、いいぞ、嬉しい」

 肩を寄せ合って、温かさを教え合って。キスをしたいが怒られるだろうとはさすがに予想もつくから、やっぱり早く地上へ降りて二人きりになりたい。

「というか、ダンデ、でいいんだよね」
「他に何か呼びようがあるか?」
「……一個ね」

 あ、と浮かれていた頭が急に冷静さを取り戻す。見やれば、笑ってはいるもののやはりどこか懸念を拭い切れていない色。受け入れているけれど、でもそれは諦めにも似ていて、俺達しか許していないこと。イリスはついこの前知ったばかりだから、俺に対する感情の方が上回ってはいても俺のように完全に整理しきれていない。

「ダンデだ。……君だけのダンデ。ダンデと呼んでくれ」
「……ん」

 寄せていた肩に頭をぽすりと落として、次いで額を押し付けてくる。三つ下のイリスのこうした甘え方が時々子供みたいだ。小さい頃俺に甘えてきたホップと仕草がなんだか似ている。年下の血の宿命なのかもしれない。

「……今度兄妹プレイしようか。お兄ちゃん」
「いやそれは…………待て……?アリかもしれない」
「ぶっ」

 肩ごと体が小刻みに跳ねるように笑うので、はたしてそんなに面白かっただろうか。言い出したのはイリスなのに、とじとりと見つめたら、微かに顔を上げて上目遣いで俺と目を合わせ、悪戯そうに、だけど楽しそうに笑う。そうして戯れてくるのも、愛しくてどうにもしょうがなかった。


 イリス。三つ下の、俺の可愛いイリス。君を構成する遺伝子を、血を、その何もかもを愛している。だけど、求め合ったのもまた必然だったのだと、頭のどこかではわかっているのだ。出会い方が出会い方だったから男女の色事として成立しただけの。運命だなんて思い浮かんだ自分の頭は中々優秀であった。
 俺の側で生まれていたとしても愛していた。それはきっとホップに向けるような穏やかで、優しくて、単なる庇護欲で、激情にも劣情にも襲われない、今とは違う愛し方だったかもしれないけれど、君のことを必ず愛した。種類が違っても、絶対に。
 だから、君へのこの気持ちは、間違いなく、確かに愛と呼べるものだ。


20210301