短編
- ナノ -


 それを愛と呼べるのか-4


 家に帰ると母さんに驚かれるのも今更の話だ。だけど、おかえり、と言ってもらえる安心感と心地良さ。外での肩書が全部外れて、ただの人間に戻れる瞬間。
 チャンピオンを退くまではあまり気にしなかったのに、しがらみがあれど自分で望んであの場所にいたくせに些細な事柄がこんなにも得難かったものだったのだと痛感したのは、今なら笑い話にしてもいいこと。にしても、家でゆっくり飯を食っただけであんなにもみんなに驚嘆されるとは思わなかったが。

「母さん。少し母さんの部屋で探し物していい?」
「え、何?何するの?」
「……父さんの」

 口にしなくてはならないからそうしただけでも、その顔色を見れば申し訳なさも募る。黙って部屋をいじくるのはマナー違反とはいえ、痛そうな、悲しそうな顔をされてはこちらも罪悪感に襲われてしまう。でも、母さんだって複雑さを抱えながらも今日まで思い出を手放せていないのだから。
 覚束ない了承を得てから母さんの寝室に入り、しまわれた四角いボックスを取り出して開ける。この家からかつてかき集められた、思い出の数々。それは写真だったり、異国の土産物だったり。とは言えこれらは全て、きっと父がこの家に置いていったものだ。持っていかなくてもいいとここに残していったもの。俺は小さかったから当時父母がどのような話の末に関係含めあらゆる整理をしたのかまでは知らないが、少なくとも俺はそうであると思っている。
 それなりに丁寧にしまわれている中身を掘り起こして、これまで記憶の淵に沈んでいた目的のものを探し当てて取り出す。一見、何の変哲もない模型だ。いや、どこからどうみても模型。観光案内所でも売っていそうな、高クオリティ過ぎず、かといって低クオリティともつかないような。両手で持てるくらいの船のミニチュア。
 一頻り眺めたら、なるべく同じ順番でボックスに戻す。これが自分のものだったら適当に放り込むが、これは母と父のものであるのだから、神経を使ってもう一度蓋をした。詳しい話は母さんにも、祖父母にも尋ねなかった。尋ねたら恐らくもう戻れない。母さんも、さほど俺に追及はしてこなかった。
 まぁ、事情を知ったところで最早、という感もある。何が起ころうと、俺はもうイリスのものだから。


  ◇◇


 例えば、浮足立ったまま飛行機に乗り込んでイリスの元へ向かった時。事前に伝えてはいたが空の中で早く早くと気が急いて仕方なかった。空港まで来てくれると言っていたから尚のこと。これまでの人生、ポケモンに関することや家族のことにしかこんなに心が動いたこともなかったのに。そこまで考えて、ならばこんなに気が逸るのもしょうがないことだなんて、また考えてしまうと自嘲の笑みを禁じ得なかった。
 長いフライトを終えて地上に降り立ち、到着ロビーで荷物を片手に辺りをキョロキョロしていると、後ろからとんっと軽い衝撃。今回は反動で跳ね返ることもなく、ちゃんと俺の背中にくっつけている。ぐり、と額が感情に素直に押し付けられるやわい感覚。

「……あいたかった」
「俺もだよ」

 荷物から手を放し、腰元に回る小さな手に二つとも重ねる。指と指の隙間に自分のそれを差し込んで、ぎゅっと。顔を見たいのは多分お互い山々だったけれど、少しの間二人の体温だけをそうして味わった。

 離れていた間まめに連絡を取り合って、周囲からは普段は放置気味のスマホを片時も手放さないことに目を丸められてしまう始末だった。別に笑われたってかまわない。これがイリスと繋いでくれる唯一の手段なのだから。通話も頻繁にしたし、リモートで顔を見せあいもしたものの、どれも逆に火を点けるばかりだったからお粗末なことで。なにせ画面越しでは相手の体温を知れない。荒い映像では細かな表情の動きが読み取れない。
 会いたい、会いたいと、そればかり積もって焦れる毎日。バトルタワーも軌道に乗り出した矢先でやりたいことを自由にやれているのに、我儘な欲求ばかりがずくずくと胸の内で膿んでいった。
 イリスもそれは同じなようで、約束通り彼女の家に入れてもらった途端にもう微塵も我慢が利きそうにはなかった。事実、吹っ飛ぶ寸前。我の強い小さな子供みたいに感情をむき出しにして、いつかの日のように玄関スペースできつく抱き締め合って、どちらからともなく噛みつき合って。久しい背徳の味に喉が喜びで鳴る。その間イリスの方から先に俺の背中を撫でたり襟足を撫でたりしだして、ずっとその手が忙しい。俺だけが触れたかったのではないと、それは何よりの証明である。

「……ベッド、連れて行って」

 両頬をするりと撫でられながら、息継ぎのために離した唇で囁かれた熱っぽさが、俺をこんなにも。
 ご所望通りにベッドで相手を性急に確かめ合った間、壁が薄いのだからとずっと口を口で塞いだまま。離れている間に実を結ばなかったらしい胎の奥深くに今日もまた種をこれでもかと植え付けてそれはもう悦に入って。
 体液でべたべただから風呂に招かれても、疲労はあれど身を焼き尽くしそうな熱は未だに消えないからここでも互い、素肌に触れずにはいられない。随分とまぁ積極的なイリスは俺に懸命に触れては隅々まで愛してくれた。足の間で揺れる丸い頭を撫でながら、それが言葉には到底し得ないような、神に罰ではなく祝福を与えて欲しいくらいの幸福で。

 さっぱりとしたら幾分気持ちも変わったのか、久方ぶりの触れ合いにある程度の満足感を得たからか、風呂から出たらご飯、という流れになった。肉欲だけの関係ではないのだから、ベッドの上以外でも二人の時間を充実させたいのだ。
 テーブルで振る舞われる気合の入った料理の数々は、それだけイリスの俺への関心の強さと比例しているのだろう。

「ダンデさんが帰ってからね、テレビ観てたらダンデさんが紹介されたからびっくりしちゃった。委員長って、リーグのだったんだね。無敗のチャンピオンとか、色々大々的に紹介されてたよ」
「……黙ってたこと、怒るか?」
「全然。ここに来てた時、ずっとありのままでいてくれたんでしょ?」

 俺のために渡してくれたフォークとスプーンを使って食事する俺の向かいで、はにかむ嬉しそうな笑顔。何も言っていないのに俺の心はきちんと伝わっていたようで安堵と共に、同じような笑みが零れた。

「でも、それなら知ったのは大分前ということだな。何度も連絡し合ったのに、今までその話しはしなかったよな?」
「だって別にいいもん。リーグ委員長のダンデさんが好きなわけじゃないし。なんか色々肩書きついてるみたいだけど、私にはウバメの森ではしゃいでたダンデさんの方が印象も強いから。あ、でもあの赤い服着て真面目な顔してたダンデさんは凄くかっこよかったよ」

 首を微かに傾ける仕草があざといというか。わかっていてしているのか、そうではないのか。どちらでもいいが、プライドも高い人間ならば肩書きも愛せと言うのかもしれないけれど、確かにそれに対する誇りは持っているのに俺はどうやらその類ではないらしい。
 湧き上がる感情と一緒に口の中の食べ物を咀嚼して喉に流し込んだら、フォークを置いてテーブルの上に置かれるイリスの手を取った。

「ありがとう」

 イリスが面食らった顔をした後、次いでゆっくりと破顔する。
 俺も、ありのままの君が好きだよ。



 例えば、二人きりで旅行をした時。旅行というか、イリスにとってはあまり遠出ではないがエンジュの旅館に泊まる計画を立てた話。ありきたりな男女の思い出を作ろうと思って提案したら、それはそれは嬉しそうな返事があったもので。エンジュに泊まったことはないから楽しみだと言ってくれたのでやる気も鰻登り。ネットを駆使してプランを練り上げ、気合と共にいざ迎える当日。
 空港でいつものように出迎えてくれたイリスの顔は、なんだか芳しくない。明るく振り舞おうとはしているものの、どこか憂鬱そうなものがちらつく。気掛かりがあるような、そういう顔色。
 あんなにも楽しみにしていたのに、と即座に表情を指摘してしまったのは我ながら早計だったかもしれない。なにせ人間の感情の機微に疎いと散々言われてきたこの性分。ポケモンのことに人間性の全てを振ってきた弊害なのでは、とまで言われてきた。ましてやまともに女を欲しいと思ったのも生まれてこの方イリスが初めてなのだから、まだまだ女心を汲む能力値が低い。
 案の定イリスは指摘された途端余計悲しそうにしてしまって、自分で招いた事態にも関わらず動揺してしまって。タクシー乗り場へ向かう道中繋いでいた手が弱々しく力を込めてくるから、あわあわと狼狽える。そんな格好悪い俺を責めるでもなくイリスが「……ごめんね」と俯きながら言い出したので、もっと狼狽えてしまう。
 本当はエンジュに泊まるのが嫌だったのだろうか。文面やリモート映像では凄く楽しみそうだったのに。俺が女心に疎いばかりに普段は鋭いと褒めてもらえる観察眼を発揮するには至らず、気乗りしない計画に無理矢理参加させてしまっただろうか。一瞬で頭を支配する己らしくはない弱気な考えにとうとう冷や汗もかいてきた頃。

「生理、なっちゃった」

 もごもごと、心底言いにくそうに唇が動いて、ようやく出てきた言葉。
 ぽかり、と思考に穴が空く。少しだけ間を置いたら、段々と言われたことの解釈を始める。
 そうしたら、どっと肩の力が抜けた。エンジュに泊まりに行くのが嫌なわけではなかったのだと心から安心できたのだ。

「……良かった、そんなことか」
「そんなことって……」
「いや今の言い方はないな。すまない。具合はどうだ?辛くないか?辛いなら抱えて歩くぞ」
「恥ずかしいから抱えなくていいけど、……がっかりしないの?」
「がっかり?何故?」

 だって、と言い淀む先が最初こそわからなかったが、もしや、と次第にあることに行き着く。ああそうかなるほど、なんて。大抵の男はここで言われた通り気落ちするのかもしれない。俺はあまりそういった話を周囲としてこなかったから他はよく知らないが。
 また不安そうな色に顔を染めて、顔を上げてくれないイリスが口を噤む。別に俺は怒りもしないのに、そうやってまた健気な素振りを見せて。

「正直な話、俺もそうしたいと思っていた。でも、俺はなイリス。君の体だけが好きなわけじゃない」

 体は魂の入れ物だ。俺はイリスそのものを、その魂を愛していて、でもその皮膚の下に流れる血も、塩基配列全てを恋しく思っている。なので不安がることも憂うることも何一つする必要はないのに。確かにこれまでままならない感情の赴くままに肉体でぶつかり合ってはきたけれど、俺の気持ちは何もそればかりではない。

「二人でたくさん、楽しいことをしよう。美味いものを食って、観光して、温泉もあるんだろう?内風呂も部屋にあるらしい」
「一緒に入れないよ」
「君を待っている時間はじれったくて、もっと恋しくなるだろうな」
「……」

 きゅっと、不安な気持ちを一人では持て余して、それを散らしたくて親の手を握る子供みたいに、イリスが俺の手をまた握る。可愛い手を、俺も握り返す。そうしたらようやっとイリスは顔を上げて小さく笑ってくれた。
 エンジュに着いて旅館に感動しつつ、スリッパを用意されて、そうだ靴を脱ぐんだ、と少しずつ慣れてきている習慣に倣って。部屋まで案内してもらう間も廊下から見える伝統的な庭に感嘆したり。エンジュシティは昔の時間を留めるような空気を未だに大事にしているから、ジョウトの中でも特にそれが顕著だ。
 部屋に入ったら畳だったのでこれもまた感動だ。初めて足で踏む感触に訳もなくはしゃぎたくなって、そうしたら目敏く見抜いたイリスがけたけたと笑う。また子供のようだと思っているのだろう。次に内風呂に二人また目を輝かせて、夕飯の時間までは街中を回ろうと決めたら、二人で観光がてらゆっくりと歩いて。

「腹痛くないか?」
「大丈夫って言ってるのにしつこい」
「でも……」
「あんまり気にされるのも恥ずかしいから。でもありがと」

 度々体の心配をするといたたまれなさそうな顔をされてしまって、そういうものなのかと改めて思ったりと。こういうのは人それぞれらしいが、辛いのを我慢させて連れ回すのも嫌なので。

「イリスはエンジュには来たことあるのか?」
「あるよ。子供の頃夏祭りがあって、その度に親に連れてきてもらった。わたあめが食べたくて」

 離れている時間が長いせいか、手だけは人前でも繋いでくれるイリスが回顧のせいか目を細めて、自分の思い出に優し気な顔で微笑む。子供の頃を話す時はいつもこうして穏やかな顔をするから、こんな顔で懐かしめるくらいに幼少期は家族で楽しく過ごせたのだろうな。
 夕飯の時間に合わせて旅館に戻り、豪勢な料理を堪能した後、風呂も別々で済ませて。浴衣が一人では着られずにイリスにヘルプを求めたらまた可笑しそうに笑われて。そうして、部屋を空けている間に用意されていた二組の布団を二人で見下ろしたら。
 小さな手の、人差し指から初めて中指、薬指、と順々に俺の手へ遠慮がちに絡められた。

「……一緒でいい?」

 断るわけもないし、最初からそのつもりだった。同じ布団に入って、抱き締め合ってそれぞれの体温を分かち合う。他愛ない話をしながら合間にキスもして。時々照れくさそうに、でも嬉しそうに笑い合って。昔小さなホップが家にほとんど帰らない俺を恋しがって一晩中離してくれなかったみたいに。それだけで、俺はこんなにも幸せな気持ちに浸ることが出来てしまうのだ。熱に浮かされたままやわくて白い肌に無我夢中で触れるのも大いに一興だし、ついつい欲で頭をめいっぱいにしてしまうことも多いけれど、繰り返すが俺はイリスの肌だけを愛でたいわけではない。
 その二つの丸い瞳も、そこを縁取るくるりとした睫毛も、赤くてふかふかの唇も、その艶のある髪の一本一本も、俺の名前を無邪気に呼んでくれる声も、重なった時に不思議なものを生んだ、俺に最初の気付きを与えてくれた細い指も。その透き通るような肌もその下に流れる血も、何もかもが愛しくて、もうどうしようもなくて。無垢な魂も、女として出来た器たる肉体も、イリスの何もかもが、本当に。
 引き返せるわけもないし、引き返したくもない。



 ――空の上で、イリスのことばかりそうやって頭に広げ、考え続けた。窓側に座って、そこからぼんやりと厚い雲を見つめたまま、実際そんな光景は目に入っていない。
 連絡が全く取れなくなってから、ほんの少しだけ時間を掛けてしまった。肩書きに影響する仕事は山積みで、休みには寛容なガラルとは言え業務を疎かにしてまでまとまった休日を得るにはいかないし、段階がいくつもあった。
 距離だけで考えても高をくくっているに違いないイリスは、俺がこんなにも早くガラルを出たとは思っていないことだろう。たまたまうまく仕事をまとめて終えることが出来たとはいえ、これまでの逢瀬の頻度からしても、既にこうして俺が空の上を渡っているとは予想出来ていない筈。あるいは、ジョウトへ向かうとすら考えてもいないか。仮にそうだとすれば、イリスは俺に別れのメッセージを送った時点でもう大きく見誤っている。
 長いフライトを終えたらようやく足を着けられるジョウトの地にて、イリスが出迎えてくれないから俺はこうして一人きり。だから、なるべく注意を払いながら前へ進まなければならない。
 まだあの家にいるだろうか。イリスの匂いが濃く染みついたあの家に、彼女は小さく納まっているのだろうか。それともとっくに引き払ってしまっただろうか。なんとなくだけれど、後者のような気もした。
 案の定というか、タクシーを拾って辿り着いたイリスの家はもう無人だった。まだ新たな入居者がいないようで、人の気配は全く感じられない。だから、早々にその場を立ち去る。多分、イリスは仕事も辞めただろう。となれば、コガネシティに留まり続ける理由だってないに決まっている。

 潮の香りがする街に辿り着いたらタクシーを降りて、臙脂色の屋根の家に向かう。目立つ色で良かったと心底思う。俺の家と同じ色だから他と比べてもわかりやすい。
 時刻は既にジョウトに足を踏み入れた頃から大分回っていて、灯台に明かりが灯る船に優しい頃合いになっている。
 暖色の光が見える臙脂色の屋根の家の呼び鈴を鳴らしたら、間もなく玄関の向こうからイリスが姿を見せた。そして、俺と目が合うよりも早く、その華奢な体が石のように固まる。靴を見ただけで非常識な時間帯の来訪者が誰であるかわかってしまったらしい。

「…………」

 俺の足元を見つめたまま、逸らせもしないでいるその顔色は、言ってしまえばとにかく悪い。

「イリス」
「…………」

 動揺と緊張が走っているのか、呼気がいささか乱れる様子。唇を噛み締めてどうにか色々と堪えているようだが、本当に俺から離れたいのであれば靴を見た瞬間に扉を閉めるべきだった。

「会いに来た」
「……なん、で」
「会いたかったから」

 俯いたままのイリスが、咄嗟に口元を覆ったが、次の瞬間にはぼたぼたと涙を零した。


20210227