短編
- ナノ -


 待ち望んだ朝がきた(拍手お礼)


 目を覚ました先に、ダンデはいない。
 そんなの、いつものことだ。いつものことだから、特に気に留める必要はない。一人分空いた空間を睨む必要もない。
 ないのにね。

「……馬鹿だなぁ」

 本人にもぶつけられない虚しい独り言もいつからか癖になっていた。
 どれだけ同じ時間を過ごそうと、同じベッドで眠りに就こうと、朝がやって来たら愛する男は目の前から消えている。それは野次馬に勘ぐりを入れられるような下世話な関係などではなく、偏に生活リズムがずれているからである。私よりもずっと早く起きてガラルの英雄として外に出て行かなくてはならないダンデは、こうして私の家に泊まったら朝早くに一度自宅へ戻り、着替えてから仕事へ赴く。さすがに女の家から一目でダンデとわかる格好で出ていけないから、昔からそうしているのだ。

 しかし、思うところが山のようにあれど、ここでごたごたと文句を垂れていた所で何も実を結びやしない。ダンデがそういう存在であるとわかった上で共にいるのだし、文句を言った所で事態はどう変わるというのか。
 冷たくなったシーツをさらりと一撫でしたのは、我ながら未練がましいかもしれない。空想でならいくらでもそこにダンデの姿を描けるのに、現実は誰もいない隣のスペースがそこに広がるばかり。今日は休みだし二度寝して惰眠を貪ってもいいけれど、抗えない現実に浸るのも精神に毒なので、テキパキと朝の行動をすることにしよう。
 のそのそとベッドから抜け出して、朝ご飯何があったかなと冷蔵庫の中身に思いを馳せながらこれまたのそのそとドアまで歩く。しかし、寝室のドアを開いてすぐに違和感に気が付いた。どこかで水の音がするのだ。これは恐らく、蛇口から水が出る音。
 昨夜はしっかり栓を閉めたはずなのに、もしや誰か、不届きな侵入者が?
 物取りだったら怖い、でもはたして物取りが水場を使うだろうか。そうおっかなびっくりしつつじりじりとすり足で気配を窺っていると、次の瞬間には拍子抜けするほどあっさりと解決してしまったので、正直、驚きのあまり後ろに倒れそうだった。

「起きたか?」
「……?ダンデ?」
「そうだぜ」
「なんでいるの?」
「寝ぼけているのか?」

 壁が邪魔をして私からは死角にいたらしいダンデが、顔をタオルで拭きながら、私に微笑みかけている。なんて可笑しな話だ。ダンデはもうとっくにこの家を後にして、今頃着替えて仕事に向かっている筈なのに。

「……?そっくりさん?」
「酷いぜ!」

 けたけたと、ダンデが笑う。それが妙に明るく見えて、陽の光が部屋を満たしているからだとようやく気付く。昨夜閉めたカーテンは、ダンデの手が開けてくれたらしかった。いつもは、一人で起きて煮え切らない思いを抱えながら私が開けるのに。

「仕事は?いつもはもうとっくに、」
「休みだぜ!」
「やすみ……、ぁ」

 ――そうだ、ダンデはもう、チャンピオンじゃないんだった。
 つい先日新チャンピオンへの引継ぎも済んだと言っていたのに、寝起きの頭ではあまりにも既視感のある朝だったので、しっかりと思い出すこともできていなかった。

「え、休みでも……帰らなくていいの?」
「どうして?」
「…………はは、どうしてだろ」

 途端に何もかもが馬鹿らしくなり、体から力が抜けてしまった。朝になったらダンデは隣にいない、それが当たり前だったから、こうしていざダンデの顔を見ても頭が早々に追いついてこない。いつも通りではない朝が、なんだか変な感じ。これはあんなにも待ち望んだ朝で、枕を濡らしてまでほしかった筈なのに、誰もいない朝に慣れきった体では素直に受け止められないのは、我がことながら難儀なものである。
 当のダンデはタオルを置いた後、眉を顰めながら自身の顎に手を添えて、落ち着かなさそうにしている。そうして、とうとうよく見知ったダンデと異なる点を見つけてしまうと、知らず目を瞬かせた。

「まいったぜ、髭を剃ろうと思ったら置いていったシェービングフォームの中身が空っぽだったんだ」
「だから顔を洗ったのにこんなにもワイルドなのね。シェービング、前に使ったの大分前だもんね。私も切れてたの気付かなかった」
「……」
「ダンデ?」

 不精髭なんて、初めて見たかもしれない。朝目覚めた後のダンデのことは一切知らないから、そんな顔すらも新鮮にこの目には映る。そうまじまじと見つめてしまったら、急にダンデが黙り込んでこちらをじっと見下ろすものだから、どうしたのかと不思議に思っていると、不意に、ダンデの手が頭の横を優しく撫でてきた。そのままするりと掌は移動し、耳の後ろに髪をかけたら頬を包むように当てられる。顔を洗っていたせいか、とてもひんやりとしていて、少しだけ肩が跳ねた。

「……寝癖、ついてる」
「えっ、やだ、嘘」
「本当」

 くすくすとダンデが可笑しそうに笑う。でも私は恥ずかしいから同じように笑えなくて、その場で適当な箇所を掌で押さえる。そうしたら「そこじゃない」と、またダンデが楽しそうに笑うの。
 けれど、少しの間くすくすと笑い続けたダンデは、突然眉を下げて困ったような顔をした。楽しさの余韻を残しつつ、どこか寂し気なそれに、どうしてだか胸を突かれたような気がした。

「……知らなかった。イリスは、寝癖も気付かないくらい、朝はこんなに無防備な姿だったんだな」
「……私も、ダンデの不揃いな髭、初めて見た」
「……ごめんな」

 んーん、と首をふった私は多分、ダンデとそっくりな顔をしているのかもしれない。今、お互い同じ事を考え、同じ気持ちになっている。それは新鮮さを見出すものだったり――今までの後悔だったり。
 本当に、知らなかった。私は今の今まで朝起きた後のダンデを知りやしなかった。こんなに髭がボツボツと生えることも、まだ少し眠そうな締まりのない顔も。好きな男の、そんなことも、これまで知ることは叶わなかった。合わない生活リズムとままならない立場に胸を痛めて、悲壮感に浸って、一人きりの朝をやり過ごしてきた。
 でもそれは、ダンデも同じことだったんだ。それを嬉しいと素直に言っても、今なら許して貰えるだろうか。

「暫くは、こうやってゆっくりできるんだ」
「そうなの。何か、やりたいことある?」
「イリスの作る朝ご飯が食べたい。ソファで隣り合って話がしたい。二人でゆっくりと外も歩きたい」
「……いくらでも作ってあげる。でも、朝ご飯を食べたら買い物に行ってくるから。シェービングフォーム買ってきてあげる」

 寝癖は一先ず諦めて、頬を包んでてくれている大きな手に自ら手を重ねた。どうしてだろう。何故だか鼻の奥がつんとしている。ずっと一人で夢見てきた光景に出会えたから感動でもしているのだろうか。そう自分でも大袈裟だとは思うのに、静かに体の奥から上ってくる感情が抑えきれなくて、少し、困る。
 チャンピオンであろうと、チャンピオンでなかろうと、私はダンデが好きだ。ダンデそのものが愛しくて、訪れることがないと諦めていた朝を喜んでしまうのはチャンピオンを退いたダンデには申し訳ないけれど、でも、本当に嬉しくてたまらないの。恐らくダンデもそれをわかっているようで、その優しくて穏やかな顔を見てしまったら、もう駄目だった。嫌な部分も許されてしまったら、もうしょうがないでしょう。

 目頭が熱くて、みっともないがつい鼻を啜ってしまうと、ダンデの指が目尻を拭ってくれた。我慢できずに滲ませた視界に、目の前にある何もかもがとても眩しい。