短編
- ナノ -


 美しい瞳


 ネズともマリィちゃんとも、非常に良好な関係を結んでいると思う。ネズにいたっては恋人関係にあるため良好でなければ話にならないものの、彼の妹たるマリィちゃんも、決して自惚れではなく姉として慕ってくれているように見える。二人の家にお邪魔すれば三人で談笑することも多いし、家族ぐるみで付き合いがあれば交際期間のその先を憂うる心配もぐっと低下するため、個人的には既に家族に等しい雰囲気を漂わせているのではないかとさえ思っていた。
 そう、思っていたのだ。

「嵐、明け方まで続くらしいって」
「そっかぁ、でもしょうがないね」
「そうだね。それに、あたしは嬉しい」
「……私も、もう一泊できてうれしい」

 横目に見る限り、スマホで気象情報を追っているマリィちゃんの顔は、画面から離れてはいない。だから、交通機関がストップしたせいで止む無くもう一泊することになったことへの、旅行気分から来る発言だったと決めつけ、牽制の意味合いでもってそう返事をした。
 恋人の妹と仲が悪くないのは、とても喜ばしいことなのであろう。かくいう私も最初は凄く嬉しかったし、何より安心できた。ネズが妹に不器用ながら愛情を注いでいることは前からようく知っていたし、今年16になった彼女は今や風格もでてきた栄えあるジムリーダーで、スパイクタウンの看板とも呼べる。ネズと今後の関係を続けていく上でマリィちゃんは避けては通れない道であり、その彼女に悪くない感情を持たれることは、きっと本来ならば手放しに歓迎すべきことで。
 なのに、どうしてだろう。まるで本当の姉妹のように仲が良い、とスパイクタウンの住民にも言って貰えたのに、これからホテルの同じ部屋で一夜を明かすことに、なんだか居心地の悪さを感じてしまうのは。

「マリィちゃんシャワー浴びた?まだなら先に浴びてきていいよ。私ちょっとネズのとこ」
「一緒にはいろ」

 こちらの言葉を遮ってまでもたらされた言葉に、しまった、と自分の口を呪った。なんと軽率であったことか。マリィちゃんには悪いがつい眉を顰めていると、のそりとマリィちゃんがスマホから顔を逸らし、こちらを見やった。途端に出会うネズとよく似た色の、美しい瞳。練習の賜物か、メディアへの露出が増えた影響か、笑顔は以前よりも楽にできるようになったらしいが、そこにあるのはいつも通りの感情をあまり乗せない顔つきで。そのせいか、殊更奥底の真意が見られなかったから返事に窮した。
 恋人とその妹と仲睦まじく旅行なんて、はたから見れば羨ましがられるのかもしれない。恋人や嫁ぎ先の家族との折り合いがどうしても、などといった話はあまり珍しくはないし、その点においては私も大層恵まれているに違いない。恋人の妹と仲良くできて、話も弾むし、買い物だってできることはとってもありがたいことで、私もかつてはずっとそうありたいと未来を夢想したりもしていた。

 ――していた、のに。

「え、と、でもほら、二人だと狭いし」
「平気」
「でも、その」
「イリスはイヤ?」
「……そう、じゃ」

 そうじゃない。そうじゃないのに、どうしても素直に「いいよ」が出てきてくれない。相変わらず美しい色の瞳が私に真っ直ぐ向けられ、表情は雄弁でない分、マリィちゃんの瞳はいつだって力強くて、なのに愛らしくて。彼女はいつも瞳で物を語る。
 逸らしてしまいたい。これ以上平常心を装ったまま見つめ合っていられない。だけど、ゆらりと揺らめく瞳をまるで捕らえられてしまったかのように、結局ずっと自分の意志など失くしたように視線を外せないままにいた。
 物を語る美しい瞳は、今この時、情熱を宿している。見間違いでもなく、自惚れでもなく。薄く灯した火が先程からちらつき、やはり女同士ならばと同室になるべきではなかったと今更嘆いたところで最早詮無い。

「……マリィのこと、きらい?」
「えっ」

 思いの外至近距離でマリィちゃんの声が聞こえたものだから、パチンと目が覚めたような心地だった。可笑しなことである。マリィちゃんと目を合わせていたはずなのに、いつの間にやら彼女はすぐ目の前にまで迫ってきていて、瞳を見ていたようでその実心あらずだったことにようやく気が付いた。だからこそ、マリィちゃんはこうして距離を物理的に詰めてきたのかもしれない。
 ――すぐ目の前に、マリィちゃんがいる。こちらを覗き込むようにする、愛する男の愛する妹が。

「そんなわけ、ないよ」
「じゃあ好き?」
「もっ、ちろん。大好きだよ。ネズの妹だし」
「……あたしもイリスのこと好いとう。でも最後は余計」

 16歳になって少女から大人の女への階段に足をかけた、昔から可愛かったのに綺麗さも併せ持ったマリィちゃんの今しがたの言葉が、私の言葉と同義であることを願ってやまない。それはもちろん、兄の恋人であるから好きなのだ、という。なにせマリィちゃんは初めて会った頃にはにかみながら言ってくれたのだ。こういうお姉ちゃんが欲しかった、と。だからこそ家族に紹介されることへの緊張と不安も緩く解けて浮かれたし、安堵したし、ネズだけではなくマリィちゃんも大切にしようと強く思った。マリィちゃんが始まりの日に私のことをお姉ちゃんとして望んでくれたから。
 そうでなくては、私は。

「ねぇ、一個訊いてもいい?」
「え、な、なに?」
「アニキとは、もう何回シたん?」
「……え?」

 予想だにしていなかった問いかけに驚きで目を見開くと、くすりと小さくマリィちゃんが笑う。それは恐らく私を馬鹿にしてのものではない。完全に彼女の掌で転がされているような気がしてならず、その手の話は普段から進んでしないマリィちゃんの口から出てきたこともショックではあった。
 もう遠回しですらない下世話な問いに絶句して固まれば、それを良いことにマリィちゃんの唇が耳のすぐ横まで近づけられて、手が、膝の上で知らずきつく握り締めていた拳に、そっと、乗せられて。

「シャワー、一緒に浴びよ」
「っ、」
「寝るのも、同じベッドで寝よ」

 二つベッドがあるのに、わざわざ。
 顔真っ赤、と瞳を細めて笑われても、もうまともなことを言える気がしなかった。大人としても、兄の恋人としても。そもそも本当はネズと同じ部屋が良かったのに、今頃もしかすればネズに抱いてもらっていたかもしれないのに。
 だけど、今こうして私を取り巻く現実は、頭に描いていたそれとは全く別の物。私の間近にある確固たる現実は、交際も浅い内から恋人として紹介された、愛している男の妹の感情を私では断定できない薄い笑み。共に買い物に出れば手を繋いできたり、周りに誰もいなければ腕を絡めてきたり。ネズの家にお邪魔した時も必ず隣に座る。そうして、ネズの目を盗んでは手の甲に指先を擽るように這わせて、動揺する私の反応を素知らぬ顔で窺う。

 初めこそ懐かれたのだと嬉しく思っていたのに、それが今や、どうだろう。
 どうして、マリィちゃんの瞳が物語ることを、こんなにも邪推して警戒してしまうの。

 言葉を失っている私を誘導するようにマリィちゃんの手がとうとう握った拳を開いて、指一本ずつをゆっくりと絡めたらそっと引かれ、そうすれば何故だろう、すんなりと体は立ち上がってしまった。
 俯く私をまた覗き込んで、愛らしく、マリィちゃんが笑う。恋人と同じ色の、火を灯してちらつかせた、美しい瞳で。無垢であれといつも願ってやまなかった、雄弁に物を語るそれ。

「夜は冷えるけん。ちゃんとあったまらんとね」
 

20210204