短編
- ナノ -


 それを恋とまだ呼ばないで-2


 彼との奇妙な交流はその後も続いた。順調とでも呼ぶべきなのか、もう完全に互いの事を認識してしまっているため、まるで待ち合わせでもしているかのような遭遇率で、もちろん座る席も変わらないまま。
 しかし、ある日にふと思う。元々私が座る席が彼の定位置だったのであれば、やっぱり彼に返した方が良いのでは?だなどと。公共の場だから、と彼はのたまったが、気が小さい私はそう考えてしまうと頭から振り払えなくなってしまい、心地悪さに次第に襲われてしまった。
 やっぱり返そう。馬鹿だがそう思い至った。

 という訳で、早速彼といつものカフェで出会った時。顔を見合わせるなりまるで知人のように手をあげる彼の為、私はさっと立ち上がって手ですすっ……と今しがたまで座っていた場所を示す。

「え、何?」
「どうぞ」
「は?」
「定位置をお返しします」
「どういうこと?」
「あっためておきましたので」

 そう言った直後に少し後悔する。ちょっと気持ち悪かったかもしれない。

「待て待て、急にどうしたの?」
「いえ。やっぱり元からの常連さんの場所を奪うのは良くないかなと思ったので、お返ししようかと」
「公共の場だしって言ったじゃん?」
「でもお返ししないと私の居心地も悪いので。では」
「えっ」

 さすがに座席交換してそのまま彼がこれまで座っていた隣席を陣取る度胸はなかったので、紅茶も飲み終えたことだしトレーと荷物を持って立ち去ろうとすれば、なんと腕を掴まれてしまった。えっ、はこちらの台詞である。

「いやいや、どこ行くつもり?」
「帰りますが」
「なんで?」
「なんで……?」

 何故そんなことを問われているのだろうか。腑に落ちない私に一つ、苦笑を漏らすと彼は「座って」と、あろうことか彼の本来の定位置、つまりは今の今まで私が奪っていた席へと誘導するのだ。

「ちょ、なんですか?」
「これは預かっておこう。人質ならぬ物質」
「あ!」

 腕を引かれ、けれど抵抗心で足に力を入れてたたらを踏んでいると、するりと鞄を奪われてしまったではないか。あたふたとして事態に追いつけないでいると、彼はそのままカウンターへと行ってしまい、次の行動を決められないまま目を丸くするしかない。
 座ってって、それはつまり、待ってろって、ことなのだろうか。
 荷物を奪われて店から出られなくされてしまった私は、やっぱり馬鹿だけれど、そのまま言われた通り大人しくソファに座ったまま、彼を待ったのだった。言い訳ならいくらでもあるから、きゅっと膝の上で拳を握って頭の中で言い訳を回し続ける。
 数分で戻って来た彼は、肩それぞれに自分の鞄と私の鞄を下げて、トレーには湯気の立つカップを二つ載せていた。

「お待たせ」
「……鞄」
「まだ預かってる。返したらすぐ帰るだろ」
「でも注文したやつ、もう飲み終わってるし」
「ほらどうぞ」
「……」

 そう言って、右手に掲げたカップを私に差し出してきた。そうして、私の隣の席へとゆっくりと腰を落とす。

「もう一杯くらい付き合ってくれよ。あ、中身はこっちと一緒だから。前も飲んでたし飲めないことないだろ」
「……お金」
「イリスの時間を貰うわけだから、俺が出すのは当然だろ?」

 別に、無理にでも鞄を取り返すことは出来たのだと思う。この後予定があるからと堂々とすればいいだけの話で。強く出れば彼はあっさり返してくれるような気がしたし、言われるがまま紅茶をもう一杯分付き合う謂われもない。私達はたまたまこのカフェで、隣同士で座っていただけの、本当なら一言も話すこともなかった他人同士なのだから。

「……もう一杯、だけなら」
「良かった」

 ――馬鹿だなぁ、私。

 カップを受け取り、その熱さに目を剥いた。目の端に彼がにたりと意地悪そうに笑うのを捉えて、ぐう、と唸る。
 しまった。こんなに熱いんじゃ、飲み干すまで時間がかかってしまう。猫舌まで見抜かれていたのか。


  ◇◇


 キバナの話で始まったのに、彼は最初の日以降キバナの話をあまりしなかった。私も全く興味がないので嘘を重ねることもなくて万々歳なのだけれど、代わりと言うか、彼についての話はとても多かった。趣味だとか、休日の過ごし方だとか。この前大笑いしてしまった珍事件についてだとか。彼はポケモントレーナーらしく、その手の話も多い。ドラゴンタイプをメインに育成しているらしく、私も草タイプ専門だがトレーナーだから、育成についての話は心なしか盛り上がったように思う。ドラゴンタイプが好きだからキバナのファンだったんですねと訊けば、彼は急に饒舌を止めて、なんだか曖昧に「そうなんだ」と笑っていた。
 しかし時々思い出したようにキバナの話が持ち上がるので、正直ドキリとしてしまう。色めく類のそれではなく、後ろめたさのそれだ。だって、ほとんどキバナについてはチェックしていないものだから。リーグ主催のバトルはほぼ見なくなってしまったし、キバナの特集など端から興味がないため、忙しさにかまけて全然追いかけられていないと嘘を混ぜた白状をするしかなかった。それでも彼は特に残念がる様子もないので、ホッと胸をいつも撫で下ろして終わる。

 かれこれ数ヶ月、彼とそんな交流が続いた。私は私で、彼と話をすることに最早抵抗感もなくなってしまっていた。時々彼の言葉に心が掻き回されるようなこともあったが、それもいい傾向なのかと、自身の変化を受け入れるようにすらなっている始末。
 ――少なからずカントーを離れるきっかけとなったあの人を思い出してしまうのは辛かったけれど、ほんのりと、胸が色づくのを無視できない状態にまで、最早なっていた。
 彼とは味の趣味が合うらしく、どうやらそのため毎回同じ紅茶を頼んでいたようで、そういうところもむずがゆいものの、悪い気はしなかった。

 ここのところベッドで横になっていると、自然と彼の笑った顔が浮かぶようにもなった。そうしてガラルへやって来る前の、友人の一人の言葉を不意に、思い出す。
 恋愛で傷付いた心は、新しい恋愛でしか治せないよ、だなんて。
 内容が内容だけに多くは語れなかったためそんなことを言われてしまったのだが、本質は違うのだと、結局言えずじまいでカントーを出てきてしまって、微かな引っ掛かりは残っている。あれは、それだけの話ではなかった。でももう全部終わったことで、周囲も許してくれて、慰めてくれて。みんな名残惜しいと言いながら、私の意志を尊重して後顧の憂いないよう此処まで笑って送り出してくれた。
 もういいのかな。新しい場所に来たのだから、次に目を向けても、いいのかな。



 その日は、いつものカフェの店内はとても賑やかで、私が入った時点でほぼ満席の状態だった。私と彼の定位置も見事に埋まっていて、どうしようと悩んでいると、片付けに奔走する顔馴染みとなってしまった店員の彼女に「ああイリス!ちょっと待ってて!」と声を掛けられてしまったので、言われた通り慌ただしい店内の様子を傍観しながら待つことにした。
 どうやら近場にて何か催しがあったらしく、その帰りの客が殺到しているらしい。出しては片付けての繰り返しよ!と嘆く彼女がわざわざ席を一つ空けてくれたので、せっかくなのだしそのまま席を貰うことにする。恒例のおススメを注文して、柔らかいソファではなく対面席の固い椅子に座りながら熱いそれをちびちび飲んでいると、少しずつだが客ははけていった。空席が出来るようになってもしかし、私と彼の定位置はまだ空かないのだけれど。
 でも、しょうがないことだ。店側と約束しているわけでもないし、私と彼はいつも約束をした上でこのカフェに来るわけではない。
 そういえば、その彼、今日は遅いなとようやく気付く。いつもなら大体これくらいのタイミングで来るのに。だなんて、期待をしている自分が確かに小さいながらも存在していて、なんだか急に気恥ずかしくなり、誰に見られるわけでもないのに俯いてしまった。
 自覚をまだ持ちたくはない。私と彼はこの店の中だけで成立している間柄なのだ。彼の人となりはもうわかったけれど、それですんなり意識するなんて、と自分で自分の胸の中を故意に荒してごちゃ混ぜにしていく。
 けれど、そうは自分で自分を律しようとしたところで、事が自分に上手く運ばれることもない。なにせ、件の彼が丁度店の入口に入ってきたのだから。反射のように胸がつきりとなり、思わずじっと見つめていたことに気付き目を逸らそうとしたところで、いつもの定位置に目をやっていた彼が不意にこちらへ視線を向けた。私と目がばっちり合うと、そのまま長い足であっという間に私の席の向かいまで来てしまう。

「あっち、空いてなかったからこっちにいるのね」
「……まぁ」
「今日は何飲んでる?」
「え?えと、……レッドブッシュティー」
「お。俺も丁度それの気分だった。それにしよ」

 つきり。音もでない筈のそれが、再び胸を襲う。
 私のプレートとそっくりそのまま同じプレートをトレーに載せて戻って来た彼は、まるで当然のように向かいの席に腰を下ろしたのでさすがに体を固くした。そんな私に気が付いたのか、彼もまた一度「ん?」と不思議そうにしたけれど、次いでようやく自分でも思い至ったのか「ああ、許可もなく悪い」などと、全く気持ちも籠らない軽い詫びを入れてきた。

「もう俺の中でこの時間はイリスと一緒にティータイム、ってつもりで」

 ――他意はない、はず。惰性の延長だ、この時間は。逸りかける心臓を押さえつける為に口を閉じて自身に強く言い聞かせる。

「そのブラウス、この前出た新作だろ。最近は随分と格好も可愛くなってきてるもんだ」

 そう、カップに口を付けながら、丸く柔らかくした瞳で、平然とそんなことを口にする。スニーカーを尻目に履いてきたヒールのあるパンプスの先が、むずりとする。
 心臓が喧しく、痛かった。だって、本当のことなのだ、彼の言葉は。

 ガラルに越してきた頃は、動きやすい恰好を重視していた。元来カジュアルな服装が好きなので、クローゼットの中身はそういう傾向に偏っている。だけど、最近ブティックを訪れて服を吟味する際には、これまで重きを置いていたカジュアル感から徐々に変化しつつあって。
 これを着たら、彼は新しい服だと気付いてくれるだろうか。この色合いなら、彼は褒めてくれるだろうか。
 思考するよりも早く頭に浮かぶのは、そういうありきたりなことばかり。
 カントーを出るきっかけとなるあの時のように、感情が絡まって、そんなことばかり。
 連絡先だって、未だに教えて欲しいって言えないのに。


  ◇◇


 認めてしまった方が、一層の事肩も軽くなり楽になれるのだろう。だけどどこかで怯える自分を抱えていることも事実で、どうしてもあと一歩が踏み切れない。そろそろ誤魔化しようもないような気もするが、のめり込むことにも抵抗が勝る。のめり込んだ結果があの最悪の事態なのだから。
 だけど、もう本当に取り返しがつかない所にまで来てしまっているのかもしれない。彼のことばかり思い出す日常は、彼を意識する毎日は、地に足をつかなくさせてばかりで。

 いつもの時間。いつもの席。期待が止められない私の浅はかさ。
 やっぱりいつも通り私が先に座って、少しだけ経ったら彼が来る。けれど今日は少しだけ遅くて、まだかな、なんて思う頃になってようやく彼は速足で店内へと入って来たのだった。相当急いできたのかと疑わざるを得ない様子で、薄っすらと褐色の肌に浮かぶ汗が、それをより助長している。
 入口から私がいつもの席にいることを認めた彼は、その瞬間ホッとした顔をしてから、にぱっとにこやかに明るい笑みを浮かべ、手もあげて私にアピールする。いつもそうやって嬉しそうにするから、馬鹿な私は自分に都合の良い勘違いをしかける。
 程なくして私の隣席へと辿り着いた彼は、やっぱり私と同じプレートを持ってそこへ座る。いつもは余裕と共に私の前に現れるのに、腰を落ち着かせた途端、ふぅ、なんて疲れたような溜息を吐いたのは、焦りを滲ませながら入店してきたことと関係があるのだろうか。よくよく見れば、僅かに顔にも疲れの色が浮かんでいるような気もする。

「どうしたんです?そんなに慌てたように」
「いや……、仕事場抜けるのに手間取ってさぁ、イリスもう帰ったかもって思ったら。良かったまだいてくれて」
「……」

 さすがにどんな反応を見せればいいのかわからなくて、きゅっと唇を引き結ぶしかなかった。私が休みの日でも彼は違うということは以前より教えてもらっていたが、それにしたって。
 またそういう、私に夢を見させるようなことばかり言う。

「だから、はい」
「……えっ」

 ずい、と目の前に彼のスマホが差し出されて、軽く揺すられる。突拍子もないことにポカンとしていると、「イリスもスマホ、出して」と催促をされてしまった。

「……え、と」
「そろそろ連絡先、交換しようよ」

 テーブルの上のカップを握り締めたままだった両手が、ぎゅうっと握る力を増した。ぶるっと唇が震えて、一気に高揚感が高まり、足の方から頭の天辺まで一気に突き抜ける。心臓が大袈裟に跳ねた。

「あれ、嫌?」
「っちが!」
「じゃあほら」

 満更でもない。そういう私の気持ちなんて、人の気持ちを汲むことに長けた彼には、きっと筒抜けなのだろう。もうそれでも構わなかった。ただ連絡先を、というだけなのに、私達は同じ方向を向いていたのだと、素直にも思えてしまって、気が昂るだけ喜んでしまって。
 気も逸るままテーブルに置いていたスマホを掴み、自分の番号を表示させてから彼を浮かれた頭のままおずおずと見やる。彼はいつもよりどこか甘い顔をするものだから、それが余計に今にも自覚を持つ寸前という、私の心に大きな影響を及ぼしていて。
 そうして、ふと、目に付いてしまった。相変わらず深々と帽子は被っているものの、普段とは決定的に違うことが、今の彼にはあった。自然と目がそちらに動いてしまっただけで、誓って言うが探る意図など決してなかった。

 それが、仇となった。

「……え、」

 社員証なのだろうか。恐らくIDパスの類い。首から下げたそれをどうやら外す間もなく店までやってきてしまったようで、顔写真もつけられたそれの名前が、当然読めてしまって。
 だから、目を疑うしかなかった。それが、彼の名前であるわけがないのに。

「……キバ、ナ?」
「え」

 ガラル語は、ほんの数ヶ月しかガラルにいない私では完璧とは豪語できない。でも、扱えねば仕事にも支障をきたすのだから、もう文字はすんなりと読めてしまえる。
 私の読み間違いでなければ、確かに、キバナと、表記されている。

「やべッ」

 一瞬驚いたような顔をしていたのに、ハッとした次の瞬間には掌で首から下げたそれを隠す素振りに、ぐるぐるとする頭で必死に作り出した否定要素が容赦なく弾かれてしまった。
 決定的だった。彼の名前は、キバナ。私が教えてもらった名前はそうではないのに、どうやら彼の本当の名は、キバナ。

「……ははっ、バレちった。ごめん。つい嘘吐いちゃったんだ」

 ――物音が一気に遠くなり、彼の声も、うまく聞き取れない。ざわざわと耳鳴りが両耳の奥でやかましい。

「悪かった。でも今日ちゃんと打ち明けるつもりで……イリス?」

 罰が悪そうに、けれどそこまで気にする空気も持たない彼が、沈黙したままの私を訝しむように覗き込もうとしてくる。
 近づかれては困ると、咄嗟に立ち上がる。信じられない気持ちのまま彼を見下ろせば、また驚いたようにターコイズの瞳を丸くして、私の突然の行動を呆然と追いかけていた。

「ご、ごめっ……なさ……、」

 冷や汗が頬を伝う。手足が冷たくて震える。フラッシュバックする、あの人の顔。
 そのまま鞄を引っ掴んで、勢いのまま駆け出した。後ろから私の名前を呼ぶ声が聞こえても、私は一刻も早くこの場を去りたかった。カップをまだ空にしていないとか、プレートの片付けもしてないとか、そういうことは真っ白になった頭にはなかった。
 駄目だ。ダメなのだ。彼がキバナであるならば、私は彼の近くにもういられない。

 キバナは――リーグ関係者は、ダメだ。


20210108