短編
- ナノ -


 それを恋とまだ呼ばないで-1


 ガラルに越してきてから慌ただしい毎日を送っていたが、ようやっと段ボールの中身をバラすことも終わりかけてきた、新しい職場でも名前を覚え始めてもらえてきた頃。
 荷物の整理と家事に一段落をつけて、この周辺の散策に出てもいいだろうと思える気持ちの余裕が、その日にはあった。初めてスーパー以外にあちこち探そうと決めたので、メイクを気持ち丁寧にして、それなりに動きやすい恰好を作って街へと浮足立つままに出た。ここに居を構える前から気に入っている見慣れた筈のスニーカーが、新しい街へ飛び出す私の好奇心を反映してか、足にすっかり馴染んだそれが心なし鮮やかに見えた。
 新しい街の、新しいお店を見つけることは引っ越しの醍醐味と言えるだろう。友人にはそんな余裕ない、とげっそりする子もいるけれど、休日に寛容なガラルにおいてはこういう新規開拓がしやすくて、心機一転のためにも心底越して来て良かったなと思う。

 まだ入ったことのないブティックや雑貨店などを梯子して、趣味のものから生活雑貨まであらかた買い足してからようやく、両手が塞がってしまったことに気が付いた。同時に、その途端に襲ってくる足元の重怠さ。まぁ何の大袈裟もなく疲れてしまったわけで、すぐさま休憩しようと思い至り、道の端に寄ってスマホで近場かつ手頃価格のカフェを検索した。
 残念ながら都合よくそんな理想的な店はなかったけれど、優先は足を休めることなので、思い描いていた価格よりもほんのり上目のカフェへと入店した。テーブルと椅子の組み合わせ席とソファ席が混在するそこの入口で中をぐるりと見渡し、混雑する時間帯ではないのか客もまばらなようで、割かし空席は目立つ。荷物も多いからこれ幸いと壁際の端っこのソファ席にどさりと荷物を置いて、ガラルにいるのだからと普段はあまり飲まない紅茶を頼もうと思っていたけれど、悲しいことに茶葉の種類に疎いので当然メニューを見ても味の想像が付かなかった。思い切っておススメを尋ねれば喜んで教えてもらえたから、その通りの注文をした。この時期はダージリンのファーストフラッシュがおススメらしい。ついでなのでケーキも食べよう。
 そうして紅茶とケーキを堪能し、ケーキはあっという間に食べ終わったものの紅茶がまだ半分も残っているため、この辺は散策も済んだし、せっかくだからゆっくりしていこうと文庫本を開いた。電子書籍も読むが、今日は紙の気分だった。

 途中隣の席に誰かが座ったようで、つられて目が一瞬そちらに向いた。男性客で、帽子を深々と被っているから目元はこちらからだとよく見えない。もちろんそのままじろじろと関りもない客を観察する趣味もないため、すぐに活字へと目を戻す。ただ、他に空いてる席はいくらでもあるのにどうしてわざわざ隣の席に来たのかと、それだけは少し気になった。ガラルと私の故郷とでは他人との距離感がさほど変わらないと体感しているから、仮にガラルの人間でないなら何も気にしていないのではと思うのだけれど、解放感のある店内で隣の席に誰かがいることには、少し落ち着かない心地だった。



 それから暇な時にはカフェの新規開拓に勤しんでみたが、なんやかんやであのダージリンがおススメだよと教えてくれたカフェが気に入ってしまったようで、定期的にその店に通うようになった。財布との相談にはなるけれど、何よりソファの沈み具合が絶妙だったのだ。あそこがここら一帯だと一番リラックスできる。
 なるべく決まった時間に赴くようにしている。時間にうるさい土地で育ってしまったせいか、目的の時間を設定しておけば「行こうかな」という気持ちに自然となれて、そわそわしだすのだ。
 壁際端っこのソファ席は、最早私の定番席になってしまった。だからこそ赴く時間を決めている理由の一つでもある。この時間なら誰もあそこを陣取っていないから。

 しかし、どうしても不思議と言うか、気になることもあった。初日に大荷物を抱えて座った日に隣席に座った客、それと恐らく同一人物が決まってやって来るのだ。大体私が先に座り、少ししてからその客は隣に座る。この前思い切ってこっそり観察してみたのだが、相変わらず帽子が目深いので顔立ちはあんまり判然としない。けれど、すらっとした体格であることはよくわかった。テーブルの下で畳み切れずに持て余している足は、確実に私の長さの比ではない。そして、余計なことを気付いてしまったのだ。

 この人、多分いつも私と同じ紅茶飲んでる。

 別に、私に定番商品はない。気分に左右されることもあるけれど、大抵はすっかりと尋ねることにも慣れてしまったおススメを貰っている。というよりか、顔を覚えられてしまってカウンターのお姉さんに今日のおススメはこれだよ、と顔を合わせるなり教えてくれるようになってしまったから。そう言われてしまうと気の小さい典型的なカントー人たる私は、「じゃあそれで」なんて反射で答えてしまう。だって、紅茶はまだよくわからないしお姉さんの笑顔どこか迫力あるし。でも親しくなってきたからいっか、という納得なのかよくわからない気持ちもあるので、特に嫌ということもない。
 この人も注文を店員に任せるタイプなのかも、と自分で勝手に納得して、見ず知らずの人を意識続けることも疲れるので、さっさと紅茶を飲み干して今日も先に店を出た。



 だがしかし、あろうことかその後問屋も卸さず。
 いつも通りおススメを注文して、いつも通りの席でゆっくりとしていた日。いつも通り常連と言えるだろう男の客が私の隣席に着いた時。

「あ」

 えっ。とついうっかり、読んでいた雑誌から顔を上げてそちらを向いてしまった。何せごく間近でそんな声を拾ってしまったものだから。
 ばっちりと、帽子の真下にあるターコイズの瞳と自分のそれがかち合う。初めて正面からまともに見たその人は、小さく口を開けたまま、目が合ったからか一瞬で我に返ったようだったけれど、どうやら私がテーブルで広げていた雑誌に関心を向けているようだった。それはガラルのジムリーダーの一人、キバナ氏の特集ページである。

「……え、と、何か?」
「ああ、いや、いえ」

 煮え切らない態度を見せるその人は、気まずそうに目を逸らした後に小さく謝罪をしてきた。普段なら他人と気軽に話せるような性質ではないためそこで私も事を終わらせてしまうのに、どうしてだろうか、気付いた時には口から「キバナさんに興味があるんですか?」だなんて問うていた。
 恐らく初対面ながら初対面とはっきり認識していなかったからなのかもしれない。決まった時間に決まった席について、私と同じ紅茶を飲んでいる人。いつの間にかそういう先入観もあったから、大胆にも話を繋げてしまったのだと思う。

「あー……、まぁ、はい」
「そうなんですね」

 かと言ってコミュニケーション能力が高いわけでもないので、その後上手く話題を広げることもできないのだが。そもそも広げる必要もないのだろうけれど。
 けれど、しかし。

「お姉さんも?」
「はい?」
「キバナに興味ある?」

 男の方から話を続けてきて、最初は呆けてしまった。しかしどうしたことだろう、再びかち合った、穏やかであまりに美しい碧い瞳に魅入られてしまったかのように、操られたといってもいいくらいにするりと、私の口は言葉を漏らしていたのだ。

「……少しだけ」
「ははっ、少しなんだ」

 嘘を、口から出していた。特段キバナになど興味があったわけではなかったし、この雑誌だって目当ては違う特集で、偶々キバナの特集ページまで読み進めていただけ。キバナの名前もジムリーダーであることも最近になって覚えたばかり。
 じゃあなんで、咄嗟に嘘なんか吐いてしまったのだろう。


  ◇◇


「いつもこの席にいるよな」
「そちらもですよね」

 可笑しなことだが、そのまま会話は続いている。客席と客席の間隔を保ったまま、長いソファに同じように腰かけたまま、体を僅かにお互いに向けて。
 最初はキバナの話をしていたのに、今や話題は移り変わっている。ちなみにキバナについて何も知らないのが真実なので、突っ込まれても困るから最近になって興味が出て来たばかりなのだと、嘘に嘘を重ねた。そうすれば男は小さく笑った後に自身が知っているキバナについて面白おかしく教えてくれて、成る程本当にファンらしい。ふぅん、なんて相槌を打ちつつカップを口につけると、「俺と一緒だ」と自らカップの取っ手に指を掛けて空中で軽く揺らす。美味しいですよね、なんて当たり障りない返事だけした。
 そうして話がシフトしていくと、さきのような話となったのだ。どうやら相手を認識していたのは同じだったようで、そりゃあ決まった時間に決まった席にいるのだから、邪推するでもなく自然と言えばそうなのだろう。ちなみに男は恐らくタメ口だと思えるのが引っかかったものの、遠慮心を見せろよなんて到底言える訳がない。ガラル語は未だ完璧とは胸を張れないが、男の態度やニュアンス的にそうであると推察できる。

「……実はさぁ、そこ、この前まで俺の定位置だったの」
「え」

 ここで予想だにしない暴露に見舞われてしまった。目を丸くする私にくすくすと笑みを零すと、男は次いで首を微かに倒して悪戯気な顔をした。

「えっ、すいません、最近ここに通うようになったから知らなくて」
「ああ、いいよ。ごめん、ちょっと嫌味な言い方だったよな。ここは公共の場だし、いつも俺が使ってた席ってだけだから、お姉さんは悪くないよ」

 確かにその通りで文句を言われる道理はないのだが、新参は私の方なので少しばかり据わりも悪い。

「だから隣に座ってたんですね。私がいなくなったら移動しやすいように」
「うーん……違うけど、まぁいいか」
「……?」

 またしても曖昧な言い方をされて、眉間に皺を寄せてしまった。けれどそんなのどこ吹く風の男は「お、もう出なきゃ」とスマホをチェックしたと思えば帰り支度を始めた。いつもは私が先に帰るのに、今日はどうやら逆転のようだ。

「じゃあ、またな」

 そうひらりと掌を翳して、男は席を立った。会釈して男の大きな背中を見送ってから、ワンテンポ遅れた後にはたと気付く。
 またな?


  ◇◇


 疑問に思うも、またな、は、まぁ有り得ないことでもなかったわけで。

「へぇ、じゃあ最近になって越して来たんだ」
「そうなんです」
「だから初めてイリスを見かけた時に大荷物持ってたんだな」

 私がカフェに決まった時間、決まった席に座るように、彼もまた同様であるのだから、「またな」はまぁ、きっと可笑しくはない。敢えて時間をずらすことも出来たけれど、一度言葉を交わしてしまったから避けるのは後ろめたいと思ってしまえば、足は同じ時間帯に動いてカフェへと向かっていた。あと気にしすぎるな、と己に言い聞かせたことも一因にある。
 縁とは不思議なもので、名前も教え合い、既に数度二人共同じ席で話をしていた。

「俺はほとんどこの街で育ったなぁ」
「ナックルシティで生まれ育つってお洒落ですね」
「お洒落なの?」
「私からすれば」

 成程、だからこんなに外観もお洒落なのか、と彼の恰好を見て改めて思う。前々から思っていたけれど、自身のスタイルをよく理解したファッションだなと。絡まりそうな手足と高身長を生かした、私のセンスじゃ絶対に作れないような。

「イリスは?どっから越してきたの?ガラル語時々不便そうだしよその地方?」
「カントーから来ました。タマムシシティってとこ」
「聞いたことはあるな」

 軽くどんな街なのか教えてあげる最中、彼はうんうん適切なタイミングで相槌を打ち、とても聞き上手である。途中考えが言葉にまでならなくて詰まると言葉尻を拾って繋げてくれたり、自分から話を切り出してくれたり、そこまで話がうまくない私からすればありがたかった。

「そういえば、この前読んでた本、もう読み終わったか?」
「この前?どの本……?」

 どれだ?と首を傾げていると、彼がタイトルを教えてくれたから「ああ」と首を縦にした。

「読み終わりました。面白かった」
「俺もあれ好きでさぁ。イリス最初にそこ座ってた日、読んでただろ?だから気になってたんだ」
「……面白い本ですからね」

 ドキリと胸から音が鳴ったような錯覚を覚えて、顔を彼から背けてプレートしか乗っていないテーブルへと視線を落とした。
 困るのだ、こういう反応に逡巡するような言い回し。カントー人は言葉が遠回しで、悪く言えば下手くそと言われているし私もその例に漏れやしないのだが、彼もまた良くも悪くも言い方に時折問題がある。まだ名前くらいしか素性を知らない、片手で数えられる回数しか言葉も交わしていないのに。ガラルの人の気質と言われればそれまでだが、だからこそ気にしすぎるなって己に言い聞かせることになってしまう。

 “気になってた”の矛先は、一体何なのだろう。


20210105