短編
- ナノ -


 ラストラブ


 朝が来ることを、忘れることなく毎朝必ず祝福している。目が覚めて、カーテンを開けたら明るい陽の光が世界を包んでいて、鳥ポケモンが木の枝にとまって囀っていたり、向かいの家の夫人がベランダの鉢植えの花に水をあげていたり。そういう、ありきたりで何の変哲もない日常を確認することが、私にとっての幸福の一つである。

「おはようイリス」
「おはよう、ダンデ」
「俺の目が覚めるまでは隣にいて欲しいんだぜ」
「ごめんって」

 同じベッドで眠ったダンデよりも先に目が覚めてしまったから、一通りあどけないながら不精髭の生えた男性的な寝顔を愛でてからシーツより抜けたのだが、お気に召さないのか背後から抱き着いてきて首筋に顔を埋めてぐりぐりとしだしてしまった。私も少し迷ったけれど、今日も新しい朝が来たことを確認することもとっても大切なことだから、どうか許して欲しい。
 まぁ、ダンデが私の隣に寝ていた時点で、新しい朝が来たことはわかっていたのだけれど。

「おはようのキスを」
「歯を磨いたらね。寝癖と髭も整えてきてね、私の愛しいダンデ」

 口を尖らせ少しだけ不満そうな顔をするから、しょうがないなって軽く笑いを零した後に頬にキスをしてやった。
 ありきたりな朝を確認することが幸福の一つだけれど、こうしてダンデと触れ合えることこそ、世界で最も尊く大切なことである。


 ダンデがバトルタワーへ出勤し、私も自分の職場へと向かう。いつもと変わらない顔ぶれと仕事内容。変化のない風景。それでいい。そうでなければならない。仕事でミスして上司にお咎めを受けようと、それすら今や得難い大切なこと。昔は自己嫌悪に陥ることも多かったが、ダンデのお陰でそう思えるようになれた。
 お昼休憩の時にスマホを眺めていると、ダンデから着信があったので、嬉々として応答する。いつもそう。時間が少しでも持てればこうしてお互いのことを考えて、相手の声を聴きたくなって。私も電話しようかなって考えていたタイミングだったから、本当に嬉しい。
 他愛無い、私が用意したお弁当を食べながら味の感想を教えてくれたり、今晩の夕飯のリクエストをされたり。仕事が終わったら待ち合わせをして材料を買いに行こうって約束を交わして。日常の些細なやり取りが、私はとても大好き。


 来期のジムチャレンジの計画を進められることをダンデはいつも喜んでいる。次こそ。今度こそ必ず成し遂げると、毎回かなり意気込んで。次も、その次も、またその次も。きっと訪れると願う。世界中の人が考えることもなく明日が誰にも平等に訪れると思い込んでいるように、それは訪れるのだと。夕飯中でも熱っぽく来期の話をしてくれるから、私もとっても嬉しい。ダンデがこうして楽しそうにしていると私も同じ気持ちになってしまう。ダンデの望みが今度こそ叶って欲しいし、それをすぐ隣で見られる日々がこんなにも美しいものだなんて、かつて世界に埋もれるだけだった透明な私は知る由もなかった。
 ダンデが私を見つけてくれて、選んでくれて、愛してくれて、教えてくれて。こうして側を許してくれるから、現実的には私はずっと透明なままかもしれないけれど、少しくらいはこうして色を付けて貰えたの。
 ダンデはポケモンと戯れる時間だって惜しまない。異なる言語でも話をして、愛でて、労わって。ダンデはポケモンの為に生まれたような人間だから、彼のポケモン達もそれをきっと理解している。ダンデとポケモンはどうあっても切っても切り離せない関係にいる。
 顔を撫でて、抱き締めて、明日もどうか、と祈りをいつも溢しながら。ダンデはポケモンを心から愛している。私も、ダンデのポケモンも、そういうダンデも、心から愛している。


 おはようも大事だけど、おやすみも大事な挨拶だ。だって明日も言えるかわからないから。

「愛してる。明日も明後日も、その先も」
「私も、愛してる。世界で一番、ダンデが好きよ」

 愛だっていつ囁き合えるか知れない。これでお終いかもしれないし、明日も無事に交わせるのかもしれないし、次にダンデと顔を合わせた時には、また私は何も知らない透明に戻っているかもしれないし、そうとなればこの左手にダンデが嵌めてくれた指輪は消えているだろう。最悪の場合、もう二度とダンデの顔をこうして間近に見ることもできないかもしれない。

「……なぁ」
「ん?」
「子供……、欲しいんだ」

 素肌の温度の高さを知らしめられる最中にて、ダンデのその発言。それには微かに目を見開き、ダンデのせいで白く染まっていた頭が途端に動きを止めてしまう。思考停止は最も忌むべきことだが、そればかりは仕方ないのだ。

「……でも」
「今度こそ、今度こそ大丈夫かもしれない。俺は、イリスとの未来が欲しい」
「……私も、私もね、欲しいの。欲しかったの、ずっと。何度も何度も夢見て、その度に潰されてきて。考える事すら止めるようになってて。……私も、ダンデとの未来が欲しい。終わらない明日が欲しいの」

 感極まったかのようにダンデの顔が歪み、唇がぶるりと大きく震えた。衝動のままに唇を求め合い、互いの体を掻き抱いて、引き寄せ合って。隙間も殺して肌を重ね合い、手をきつく握り合い。明るくて希望に満ちる明日は欲しいけれど、今ばかりはこの夜が永遠であればいいとすら思ってしまった。
 永遠がないのであれば、どうかこの夜ごと私達を切り取って、どこかへ置き去りにしてほしい。誰の目に触れない、隔絶された、私達だけが許される場所に。
 神様も知らない世界が欲しい。


  ◇◇


 それは仕事の途中だった。退勤まではまだ時間もある、大事な会議の最中。
 それはいつも突然にやって来る。朝も昼も夜も関係なく、私達の都合など無視して、私達にそれは襲いにかかる。
 でも、それに気付いているのはほんの一握りである。だから私の周囲に座る同僚や上司達は微塵も気付くことなく会議を先程から変わらない面持ちで進めている。世界の異変に全く気付くことなく、そんな意識すら抱くこともなく飲み込まれようとしている。仕方ないのだ。彼等はそういう風に出来ている。
 かつては彼等と同じであったが、もう私はそうではない。なので大事な会議の最中であろうと椅子から勢いよく立ち上がり、脱兎の如く部屋から抜け出した。こうなってしまえば仕事だとか社会的立場だとかなんてどうだっていい。後ろから戸惑う声や怒号が届いても、もうそんなの何の役にも立たないし、私の心にまで届きやしない。だって私の頭にも心にも、たったの一人しかもういないの。
 スマホだけを握り締めて会社を出ようと社内を走りながらダンデへ電話をしようと慌てていると、タイミングを図ったようにダンデから着信があり、その瞬間には堪え切れない大粒の涙が零れ始めていた。
 ダンデ。ダンデ。世界で唯一の人。私を透明から引き揚げてくれた人。

「家で待ってるから」




 私よりも後に家に帰って来た切羽詰まるダンデは、私を見つけるとそれはもう力強く抱き締めてきた。逃がさないように、消えないように。そういう強い気持ちが言われなくても読み取れて、私もだよって強く強く抱き締め返した。
 窓の向こうでは、おぞましい暗闇が大口を開けて、音も立てずに、こちらへどんどん迫ってきている。

「次も、次も必ずイリスを見つけるから」
「うん、見つけてね」
「それでまた愛し合って、結婚するんだ」
「また同じ指輪がいいな。これ、気に入ってるの」
「結婚して、同じベッドで眠って、キスをして、ご飯を食べて、他愛ない話をして、それで次こそ、子供を腕に抱くんだ」
「……私も、そうしたい」
「一緒に老いて、最後まで、きっと」

 無意識にまだ平たい腹に手を置くと、ダンデの温かい手が優しく重ねられる。ごめんね、ごめんね、次こそ会おうね。そう心の中で何度も謝罪しても足りないけれど、馬鹿の一つ覚えみたいに、嗚咽を止められないまま繰り返して。
 誰も悪くない。誰も悪くないの。私を毎回必ず見つけて愛してくれる、世界の仕組みをいつも教えてくれるダンデも悪くないし、ダンデに見つけてもらって前回までの記憶を取り戻してしまう私もきっと悪くない。この世界をプログラミングした神様だって悪くない。この世界の主導権を握っている数多くの神様だって、何も悪くないの。
 私達は、この世界は、初めからそういう風に出来上がっているのだから。

「愛してる、愛してるっ」
「私も、愛してる」

 世界を書き変える暗闇がすぐそこにまでやって来ている。0と1で構成される世界を最初に戻す、本当ならたったの数秒で事足りてしまうこと。
 次はどうなるだろう。また透明になった私は、他の透明な人達と同じように何も知らないまま考えることもなく明日が来ると思って、くだらないことに一喜一憂して、初めはダンデのことをただのチャンピオンとしか思わないのだろう。そして、神様がこの世界の為に作ってくれたダンデが私を見つけてくれたらやっと私の本当の世界が、毎日が始まる。ストーリーが終わってからでないとダンデは私を見つけられないから、その頃には既にチャンピオンではなくなっているダンデ。彼と触れ合うことで明日が必ずやって来ることは世界の真理ではないと思い出し、いつ訪れるかわからない暗闇を恐れながらも些細なことを慈しみ、愛を育み、次こそはと願い続ける。
 最後の悪足掻きではあるけれど、お互いを絶対に離さないというつもりで抱き締め合って、唇を重ね合いながら、「愛してる」をひたすらに伝えあった。

 そうして、間もなく世界が一度綺麗にまっさらとなる。けれどそれは無情でもなんでもないことだから、誰を恨むこともない。
 やがて新しい神様がこの世界に降り立つ。容易いリセット方法で、繰り返し、期待を抱きながら、この広大で狭小な私達の――剣と盾の世界に。


20201218