短編
- ナノ -


 どうかこの世界を憎まないでおくれ-4


 イリスは、俺の名前を呼んだことがない。なんやかんや毎年過ぎた誕生日を祝ってくれた時だって、まるで頑なに。いくら他者に人間の感情だとか機微に鈍感だと謗られていても、それくらいはとっくに気が付いていた。気が付いていた上で、何も指摘しなかった。イリスが天邪鬼なことは元より重々承知していたし、呼んでくれるなら呼んで欲しいけれど、何よりイリスと一緒にいた時の俺は、多分チャンピオンでもダンデですらもない、ただの一人の人間だったから。
 なのに、最後の拒絶の言葉が、よりによってチャンピオンだった。俺をダンデともチャンピオンとも呼ばなかったイリスが、俺をチャンピオンと呼んだのだ。それを決定的と言わずに、なんと表現すればいいのだろう。
 イリスの拒絶の言葉と人形のような顔に結局とぼとぼとトンボ帰りしてしまってから、わかりやすく物事に集中できなくなってしまった。俺がこうしてチャンピオンの役目の為に外を歩いている間に、家族と連絡を取り合っている間に、面倒な食事をとっている間に、イリスの紅茶に慣れてしまった舌が他の紅茶に物足りなさを感じている間に、イリスはいなくなっているかもしれない。あの口振りとイリスの特殊性を鑑みれば、きっとガラルを出るつもりなのだろう。そうやって、人目から逃れるようにして長年生き延びて来たに違いない。森の奥の不可思議な人を丸呑みする魔女でもないのに、そんな風にしか生きてこられなかったのか。

 相当キてるな、と自分で強く自覚して頭を抱えたのは、情けないことにバトルにもそれが表れてしまったから。イリスに帰ろと言われてから一週間程度しか経っていないにも関わらず、あっさりと俺の中の言葉にはできないものに翻弄されていた。見逃すには決して小さくもない、かといって自分で処理できるかと問われれば難しいと言わざるを得ない大きさ。持て余せないもののせいで、恐ろしい程の不安のせいで、そろそろ限界なのかもしれないととうとう悟ってしまう。
 鈍感だと言われ続けている通り、未だに気持ちの整理がつかない。イリスに対するこの気持ちの答えが出ない。イリスが好きだ。でもそれは、女としてのそれなのか、人間としてのそれなのか、俺には答えがうまく出せない。
 だけどはっきりとわかっているのは、このままイリスがどこかに消えてしまうなんて、絶対に嫌だってこと。子供じみた駄々が体の中に燻り続けていることだけ。

 もう街が寝静まるような時間帯だったけれど、思い立ったら即行動が信条で、着の身着のままで家を飛び出した。もちろん、行き先はたったの一つ。
 迷子のプロはいつまで経っても健在だ。他の誰が辿り着けなくても、俺だけは辿り着ける。複雑な木々の迷路を抜けて、夜の闇だって野生の勘には勝てない。だけどどうしてだろう、今夜はいつもよりも早く辿り着けたような気がした。正直昔から森の木の配置だとか間隔だとかは全く覚えていないのだが、それにしたって。
 イリスの平たい家は、明かりが点いていない。草木も眠るような時間なのだから可笑しなことではないが、ドクっと嫌に心臓が脈打つ。勝手な予感だが、イリスがこの地を去る際には家ごと潰していくような気がしていたのだ。
 微かな期待が胸に淡く滲む。まだ居るなら寝ているかもしれない。でも会いたい。会ってなんて言えばいいのかはわからないけれど、とにかく。だからどんどんと玄関を叩きに叩きまくった。当然と言うのは悲しいが、反応はない。この家の玄関をこんな大胆に叩く人間は俺しかいない筈だから、例え聞こえていたとしても反応があるわけがないこともわかっている。
 それでも叩き続けた。ご近所がいないからこんな時間でも声だって張り上げて。
 森の静けさに負けない静寂ばかり返ってくる。だけどやめない。イリスが根負けするまで、絶対に。
 今度こそ割るか、とまた思い至って窓へと向かう。一生許さない、なんて空耳が聞こえたが別に構わない。一生覚えていてもらえるなんてそんな嬉しいことないよ。
 そうして、すぐさま違和感に気が付いた。カーテンが引かれていなかったのだ。そのお陰で真っ暗な室内が外から見えてしまっていた。そそくさと窓に張り付いて中を覗き込む。傍から見れば不審者極まりないが、繰り返すがご近所もいないから安心して覗けた。

 しかし無遠慮に覗いて、中の様子に目を見開いて、そのまま息がぴたっと止まった。

「っ、イリス!!」

 ――床にうつ伏せで倒れ伏している。顔は見えないけれど、どうにも寝ているようには思えなかった。

「イリス!イリスッ!」

 いつかのように窓をバンバンと叩いて呼びかけても、一向に体が身動ぎする様子もなく。意識がないのかもしれない。そう考えた瞬間、ゾッとした。
 窓を壊して、嫌駄目だ、壊したところで此処から中へ入ることはもう出来ない。だったらやっぱり玄関。そう狙いを変えて駆け出し、再び玄関前までやって来て、全力でタックルする。もう壊したらなんだって話、頭の中にほんの少しも残っている筈もなかった。
 死んでたら、どうしよう。そういう嫌な想像ばかり頭に広がるものだから。
 こう言ってはなんだが、古い家だ。いつ建てられたのか知らない、まず真っ当な建築会社に依頼して建築されたかすらわからない古い造りの家は、俺が全力でぶつかる度にギシギシと嫌な音を立てたが、存外呆気なく玄関が内側へと吹き飛んでいった。ホッと息を吐く間もなく、足がもつれそうになりながら荒々しい足取りで中へ駆け込み、いつもの部屋のキッチンの近くで倒れ伏しているイリスを直接この目に認めて、ぶわっと得体の知れない衝動に横から殴られる。血の気が引く思いだった先程ともまた違う、自分でもよくわからない激的な感情。

「イリス!!」

 駆け寄り体を起こすが、真っ白い顔色にまた息が止まりかけた。かろうじて薄いながら呼吸を確認できても、あまりに軽い体だったから戸惑いが遅れてやってくる。ちゃんと中身が詰まった人間であるはずなのに、いつの間にかこんなに華奢な体になっていて、昔俺の脹脛をそれはもう力強く蹴った、赤く腫れた箇所が視認できる足だってまるで棒のようだった。

「イリス!イリス!」

 どうしよう、どうしたらいいのだろう。救急車、病院、でもどれだけ待つかわからないし、そもそもイリスを病院に連れて行ってもいいのだろうか。懸念が山ほど思考に降り積もり、でもすぐにでも対処しなくては、と沸騰しかけている頭をなんとか落ち着かせようと一旦息を吐いて集中する。
 なりふりは構っていられないが、公的機関に連れて行くのは得策か俺にはわからない。だったら、思い浮かべられるのはただの一つしかない。


  ◇◇


「いいですかチャンピオン。頭を打っているかわからない状態で、無暗に患者を動かしてはいけません」
「はい……」
「足の骨が折れているだけで頭は幸い打っていないようですが、リザードンに乗せて運んで来たって?いいですか、貴方のリザードンはそれはそれはもう優秀なポケモンだってガラル中知ってるし私だってそうですがじゃあ運んでもいいかって言ったらそうじゃないんですよ」
「緊急事態だったので……」

 深夜に俺の家まで無理に呼び出してしまった、幼い頃より懇意にしている担当医の御冠具合に、言い訳もろくにできず少しずつ委縮して閉口していく。叱られていることはごもっともな意見だけれど、イリスが特殊だから色々と一般的な対応ができなかっただけで、俺だってどうしようってちょっとは悩みましたよ先生。でもそれを素直に告白することも難しいから、こうやって大人しく肩身を縮こまらせて叱られるしかないのだ。

「……まぁ、訳アリみたいですし、何よりこんな時間ですし、私も朝早いですし、これくらいにしますけど」
「ありがとうございました、先生。非常識な時間だったのにこうして来ていただいてしまって」
「往診だって私してないんですよ、本当は。だけどあんなに切羽詰まった声出されたら、無視してそのままもう一度寝るなんてできないですよ」
「……本当に、ありがとうございました」

 思いついた手段はこの中年の医者に連絡する、しかなかった。言葉通り業務外の仕事を任されてくれて、こうしてイリスに処置を施してくれたのだから、もう今後少しも頭が上がらない。
 こういう場合のベストは闇医者なのかもしれないが、生憎俺にそんな都合の良い知り合いも伝手もなかった。

「……あんまり言いたくはないんですが、チャンピオン、この患者とはどういうご関係で?ああ、下世話な話を聞きたい訳じゃないんです。ただ、その」
「それは、どういう?」
「この患者、お幾つですか?一見まだ若そうなのに、触診した限りだと筋肉があまりに乏しいというか……レントゲンを撮らないと断言できませんが、恐らく骨も大分脆くなっているかと。折れたのもそのせいでしょうね。有体に言えば高齢者に頻繁に現れるような症状が見られました。何かしらの基礎疾患だとか、過度なダイエットだとか、ご存知ないですか?」
「……いえ、特には」
「……あまり追及されたくない様子なので、これで帰りますが。あとで治療費と出張費を貰えればそれで結構ですので。先に言っておきますが、この患者渡航者なのか知りませんが医療保険に何も登録してないようなので、割とお高いですよ」

 医者の問いに、何も答えることが出来なかった。イリスの秘密についてここで語るわけにもいかないし、何より、初めて知る事実ばかりだったから答えられるべくもない。
 医者が帰り、俺のベッドで眠るイリスは相変わらず顔が白いままだったけれど、とりあえず命に関わるような重篤な状態ではなかったようで、それについてだけは心底胸を撫で下ろすことがようやくかなった。だからといって頭の喧しさがぴたりと止まるかと問われれば否で。
 ベッドの横に椅子を引っ張ってきて座り込み、その青白い寝顔を眺める。こうして見ていると、長生きをし過ぎている人間には全く見えない。母親くらいの年代だと思っていたけれど、こうしてよくよく見てみると、出会ってからさほど顔つきが変化していないことに、今更ながら気が付いた。滅多に帰れない実家の母や祖父母は、ああ老けたな、と思ってしまう瞬間もあるのに、イリスに外見的な変化がさほど現れていないことに、その特殊性を知っていたくせにこの期に及んで気付くなんて。
 体についてだって何も気付かなかった。秘密を握ったなんて自分で勝手に特別感を覚えておいて、実際はイリスについて具には知らないことばかりだったと、酷く痛感して。

「……じろじろと、やかましい」
「……!イリスっ!」
「だぁ、うっせ、視線だけじゃなくて声もうっせ、ほんとうるさいお前」
「元気過ぎるなイリス!良かった!」

 いつの間にやら目が覚めていたのか、静かな室内で突然イリスの声が聞こえたものだからそれはもうびっくりしてしまった。弾かれたように体が立ち上がってしまうと椅子が反動でガタン!と音を立てて倒れてしまったので、余計にイリスの顔が顰められてしまった。
 でもそんな顔だって嬉しくてたまらなくて。拒絶された瞬間や、血の気が引いたあの瞬間を思えば、憎まれ口だってしかめっ面だって腕を広げて抱え込みたいくらい大歓迎だった。

「ってぇ!足いた!」
「折れてるぞ!固定してあるから動かすなよ!」
「……あ〜〜〜〜、やっちまった。あん時目眩も起きて、そのままぷっつんかぁ……」
「鎮痛剤飲むか?市販のだけど」
「お前なんでそんな、わくわくした顔してんの?失礼過ぎるだろ」

 あ、と思うも束の間、これ見よがしな盛大な溜息を吐かれてしまった。次いで、咎めも含みつつ呆れたような、最早諦めの境地にも近い眼差しが、ゆるりと俺を向く。

「……白状しろよ、今何考えてんのか」
「これで暫くどこにも行けないな」
「は〜〜〜〜〜〜〜〜」
「溜息が長いぜ!」

 眉をぎゅっと寄せて、目もぎゅっと瞑って、さっきよりも大きな溜息が室内に満ちる。だけど白状しろと言ったから白状したのに、そんなのあんまりだ。

「……ていうかさぁ、ここ、お前の家?なんで?」
「倒れてるイリスを見つけて運んで来たんだ。医者も呼んで診てもらって。あ、これからの注意事項書いてもらったからちゃんと読むんだぞ。俺も介助するから!」
「……うち、来たの」
「ああ。嫌だって、行かないでくれって、多分言いに行ったんだ」

 会って何を言えばいいのかわからないと思っていたけれど、こうして実際に会ってみると、多分そうだったように思う。いや、それしかなかったのだろう、拒絶を受けた上でわざわざ突撃しに行ったくらいなのだから。

「言ったじゃん、私なんか忘れろって。聞き分けろよ。引っ越すって言ったじゃん」
「そもそもなんで突然あんなこと言い出したんだ」
「あー、足痛い、眠い」
「誤魔化すなよ」

 掛け布団を頭からすっぽりと被って話からも俺からも逃げようとするから、布団を下から引っ張って無理矢理顔を露出させにかかる。腕力も膂力も体力も雲泥の差なのだから、綱引きの拮抗状態になるわけもなく、それはもう簡単に布団から顔を出させるのに成功した。ただし、目は泳いでいたし、口も引き結んで「何も言わないぞ」っていう意地と言うか意志だけはありありと顔に表れていた。

「……何も言わないならこのままキスしてやる」
「私ちょっと前にお前のバトル観に行ったんだけどさぁ」
「喋るのかよ。……え?なんだって?」

 意地っ張りな頬だって鷲掴みしてオクタン顔にしてやろうと手を伸ばそうとした矢先、思いもよらない発言に耳を疑い、伸ばしかけていた手を引っ込めてしまった。

「あの引き籠りの出不精で洗濯物を外に干すだけで干からびそうになっていたイリスが俺の試合を?」
「こっちこいぶん殴る」

 つい素直な気持ちを言葉に出して疑ってしまったけれど、話の続きをお願いしたいので「で?」と促してやった。

「……初めて、お前のバトル直接観たよ。これまで全くこれっぽっちも興味なんかなかったけど、たまたまチケット手に入ったから、まぁたまにはいいか、クソガキがどんだけ粋がってんのかこの目で見てやるか、なんて気まぐれで」
「いつだ?どのバトルだ?誰との?」
「……そんでさぁ、お前って、凄い奴なんだなって、やっとわかったんだよ」

 俺の言葉など丸っと無視してイリスが胸から吐き出したそれには、飽きもせず「あ」であった。
 俺はその手の話、この十年の間に数多の人間より嫌でも聞かされてきた。手酷く投げつけられてきた。高みに昇れない言い訳に俺を使うな、と心の中では一蹴してきたけれど、他の誰でもないイリスの口からそういう内容は聞きたくはない。でも、本当は聞きたくないけれど、イリスがせっかく話をしてくれているのだから、ぐっと我慢する。

「クソガキが、いっちょ前に今この時代の先頭に立ってやがった。私の膝くらいしか背もなかったガキはとっくに大人になってて、ご立派な髭まで生やしやがって、本当にチャンピオンだったし、噎せ返るような人間達の熱気の中で、堂々とバトルして、しっかりと“チャンピオン”してやがった。それで馬鹿なことにようやくその時になって強く思い出したんだよ。ああそうだ私は、この世界が大嫌いだったんだって」
「膝くらいは言いすぎだろ。腰くらいはあった」
「ミジンコみたいだったろ」
「ミジンコは初めて聞いた!」

 間髪入れずに「話を脱線させんな!」と怒られたけれど、脱線させるようなことをイリスが言うからだろ。

「……この世界が大嫌いで、人間もポケモンも大嫌いで、眩しい物はもっと嫌いだ。私とお前じゃ生きる世界があまりにも違いすぎる。私がいるのはもうどこにも行けない、何にもならない世界だけど、お前の世界は違うだろ。だけどあんまりにも間抜けな顔してうちに来るから、お前があんまりにも喧しいから、そういうことをいつの間にか考えないようになってた。何のためにあんな森の奥で一人生きてきたか。クソな話だよ、ほんと。私が一番そうだ。私がどんなに途方もない時間世界を恨み続けてきたかっての。……本当はあの家で最後にしようと思ってたんだ。そのつもりで家なんか建てたし、がっつり物も本も買い込んでたし。定期的に拠点変えるのもいい加減面倒になってたし。なのに、なんでかお前があそこに辿り着いちゃったから」
「引っ越しは老体には大変だから止めといた方がいいぜ」
「……老体?」
「あ」

 すい、と誤魔化せるかわからなくても視線を明後日に向ける。眉を跳ねさせて怪訝そうな顔をしたのも一瞬で、さっとイリスの顔色が悪くなる。

「……おまっ、まさか!なんでだよ!なんで知ってやがる!」
「……初めて誕生日を祝ってくれた日、イリス酔った勢いで、俺にぺらぺらと」
「嘘だろ!!マジか!!」

 酔った勢いというか俺が促したのだが。ほんの少しだけ話を捏造した気もするが、ほぼほぼ合っているからいいだろう。

「……はぁ。じゃあ何、お前、私が3000年以上生きてる化け物だって知った上で家に来てたの」
「化け物じゃないだろ!」

 瞬間、喉を詰まらせたイリスが、まるでか弱い少女みたいに泣きそうな顔を作った。唇を噛んでぐっと堪えている様子だったけれど、薄っすらと目尻に涙が浮かんでいて、今度はこちらが絶句する番だった。顔を逸らされたことで我に返り、どうしてかこのまま畳みかけなければ、と気が途端に焦りだして。

「化け物なんて言うな。イリスはイリスだろ。少なくとも俺が十年過ごしてきたイリスを化け物だなんて思ったことは一度だってない。そんな風に思ったことなんかないから、誰にも言わなかったし、イリスの家に行くことだって止めなかった。……楽しかったんだ。イリスがいつまで経っても俺をただのガキ扱いするから、必ず紅茶とお菓子をくれるから、誕生日だって祝ってくれたから。ゲームに付き合わされることだって全然嫌じゃなかった。下手くそなままだったけど、凄く楽しかった。それにな、俺もよく言われるんだ、化け物って」
「……」
「俺は俺を化け物って思わない。だから、イリスだってそうだ」
「……自分に優しい言い訳じゃん、それ」
「それの何がいけないんだ?」

 ぐし、と乱暴にイリスが、自分の目元を拭う。身も世もなく泣き伏したりしないところは流石と言えるかもしれないが、もう少し自分に素直になって感情を晒してくれてもいいのに。

「……だけど、やっぱりダメなんだよ。私はこのままこの地に居られない」
「なんでだよ!」
「お前みたいなやつ、時々、いたんだよ。それは友人として受け入れてくれたり、恋人として迎えてくれたりした。だけど、私にはそれは瞬きしてる間の出来事だった。気付けば一人減り、二人減り。いつの間にかもう覚え続けるのも諦めてた。もう墓だって残っちゃいない。人間、百年も生きるか生きないかだ。そもそも、外見が老いるのがこんなに遅い私が、そいつらとずっと一緒に居られるわけがない。ある程度の年数を過ごせば、外見の差が顕著になる。人の集落で私がずっと生きていけるわけないだろ」
「……だから、どこかに行こうとするのか」
「そうだよ。大体百年が目安。そりゃあもう色んな地方に行ったよ。その途中で解決策だって探した。だけど、見つかる訳がなかった。こんな体、私と王しかいないんだから。どっかの研究者に捕まったこともあったけれど、結果も出せず先に死んじまった。王を見つけようと思ったこともあるけど、見つけた所でどうにもなんないし。だから、寿命を大人しく待つしかないと結論付けた。自分で死のうとしたこともあったけれど、なんでだろうね、結局できなかった。私は多分、人としてちゃんと死にたいんだよ。こんな体のまま、途中で、終わりたくないんだ」

 納得できる理由か、と言えばそうなのだろう。時間と共に老いて死に行く人間の自然の理から逸れたのであれば、共同の中で生きていくことは難しい。人は自分と異質の存在を忌み嫌う。多くは語られなかったが、きっとそういうことに幾度と傷つけられて、ぶつけられてきたに違いない。

「本当は、あの家で寿命まで待つつもりだったんだ。……結構、ガタはきてるんだよ、体も。うっかり骨が折れるくらい。顔だけはそこまで老けてはいないけど、何せ3000年は生きているんだ。いつ顔にも表れるかわからない」
「追いかけっこしたのに。俺の脹脛蹴ったりしたのに。老体に鞭打ってたのか」
「お前に老体って言われるとクソムカつく」
「ガタきてるなら、行くなよ。行けないだろそんな体で。無理するなよ」
「無理しないといけないんだよ。もうあの家を隠しておくことだって難しい。私の力も体が老いるのと並行して弱まってきている。もう森を動かすことは、そう簡単にできることじゃない」
「……ん?」
「ほんとさぁ、お前のせいでいっつも大変だったわ。ほんとなんで毎回毎回辿り着けんの?」
「どういうことだ?」
「どういうことって、そのまんまの意味だけど。……は?」

 イリスが目を丸くしてこちらを見ているけれど、多分俺も同じ顔をしていると思う。甘い雰囲気も全くない中、数秒見つめ合っても、二人揃って綺麗に話を飲み込めないでいる。

「森を?動かして?」
「そう、動かして。動かすって言うか、ちょっと木の配置変える感じだけど」
「森を?動かせる?」
「動かせる。……ちょっと待て、私全部話したんだろ?」
「3000年生きてる経緯は」
「……」

 目をそっと瞑ったかと思えば、どっと疲れたようにイリスが脱力した。俺は変わらず頭に疑問符を引っ提げたままなのだから、ここまで話したのならもう全部話して欲しいと催促すると、そりゃあ鬱陶しそうにされてしまった。

「あれだよ、今で言うサイキッカー」
「イリスが?」
「そう。もう物を移動されるだとか、気配を感知するとか、それくらいしか出来ないけど」
「……あ、だから俺が来るとわかるって言ってたのか」
「そーだよ。あながち、森の魔女も言い得て妙ってこと」
「本当に?それに3000年生きるサイキッカーって、少し設定盛り過ぎじゃないか?」
「うっせぇな!そういう人間なんだからしゃぁねぇだろ!」

 ほら見ろよ!とイリスが指を端のテーブルに向けた途端、そこに置いてあったリザードンのぬいぐるみが浮いたのだからギョッとした。それはふよふよと頼りない勢いで空中を移動し、やがてイリスの枕元にぽとんと落ちた。
 別にサイキッカーはこの地方だけではなくよその地方にも大勢いるから存在を疑ったわけではないのに、天邪鬼だからか意地だかプライドに火を点けてしまったらしかった。

「……お前これさぁ」
「イリスがくれたやつだぜ!」
「まだとっておいてんの」
「他のぬいぐるみも本も服も、これまでくれたプレゼント全部あるぜ!」
「……」

 またそうやって、泣きそうな顔をする。でも、わかっていないだろう、イリス。今まで顔と口があべこべになっていたこと。どこかに行かなくてはならないって諦めながら、顔がその言葉に伴って動いていなかったこと。
 寂しいって顔、俺にずっと見せていたこと。

「なぁ、やっぱり嫌だ」
「何がだよ。まだ行かないで〜って言うんならその口」
「行かないでくれ」
「まだ喋ってる途中だったろうが!」

 ――いつものようにキリキリと文句を言うイリスが、これからも変わらず見られるんだって漠然と思っていた。見られなくなるかもなんて、思ってもみなかった。
 十年当たり前にそこにいて、3000年とか大変だなとは思うし凄いなとも思うけれど、じゃあイリスに対する気持ちが変わるかって言えばそうではなくて、人間が嫌いだとか世界は愚かとか呪詛みたいに吐くくせして俺を無意識にでもその懐に入れようとしていたこととか。そんな、俺と一緒に過ごしてくれたイリスが、いなくなるかもなんて想像、欠片もしたことなくて。それは想像させるようなことを、イリスがしなかったからで。

「3000年生きてようと、サイキッカーだろうと、俺にとってのイリスは、出不精の引き籠りで、ネット廃人で、ゲーム廃人で、体力がごま粒くらいしかなくて」
「おい」
「口が途轍もなく悪くて、臍が曲がってて、文句ばっか達者で、俺が突撃しにいくとこれでもかって顔を歪めて追い払おうとするくせに紅茶を淹れてくれて、お菓子を食べさせてくれて、行儀が悪くてもなんにも言わないで、帰り道を心配してくれて」
「……」
「ずっと、楽しかった。何度も言うけど、本当に楽しかったんだ。イリスといる時だけは、きっとチャンピオンでも誰かに望まれるダンデでもない俺が、あの家にはいたんだ」

 最初の頃は本当に何度も追い出されそうになった。少しずつその怒りの度量が減って行って、口では嫌がるのに些細なことでも俺に優しくしてくれた。どう考えたって、俺に絆されていただろ。人間なんか嫌いなんてのたまうくせに、俺のこと、受け入れ始めていただろ。

「他の人間なんか知るもんか。俺だけがイリスの全部を知っていて、イリスの全部をそれでいいと思っている。これからもずっとそうでありたい」
「……お前、私より先に死ぬんだよ。私は嫌だよ、アンタの墓前に花を添えるなんて」
「わからないじゃないか。もう体がボロ雑巾みたいなんだったら、案外俺と同じくらいの時期に死ぬんじゃないか?」
「今ボロ雑巾っつったな」
「俺の寿命に間に合わなかったら…………どうしよう」
「なんで私に訊くんだよ!」

 本当にどうしよう。でも、ガラルじゃない、どこか俺の知らない場所でひっそりとまた孤独に生きて、誰にも存在も死も悟られないままいつ来るかもわからない終わりの日にそっと息絶えるなんて、そんなの俺は絶対に嫌だ。

「……うん!俺の寿命に合わせて死んでくれ!それか俺よりも前に!俺が天への旅立ちの門出を祝ってやるから!」
「……お前さぁ、すっげぇこと言ってる自覚ある?人間としてもアレなんだけど」
「そんなに可笑しいか?」
「……お前に友達ができない理由わかったわ」
「なんでだよ!それに友達くらいいる!」
「嘘吐け。昔から友達できないくせに。見栄張りやがって」

 呆れ返った声を出した後、聞いてられんとばかりに顔を覆われてしまった。何がそんなにダメなんだろう。

「とにかく!どこにも行かないでくれ!俺がイリスを看取りたいから!俺も出来得る限り長生きするぜ!」

 掌で覆った下から、くぐもった長い長い大仰な溜息が聞こえた。その手首を掴んで無理矢理顔から剥がせば、ほうらまた泣きだす一歩手前にいるものだから、掴んだ掌に自分のそれを重ねて、握り締めた。

「俺は、この世界が好きだ。色々悲しいこともあるけれど、俺とイリスが生きる世界に垣根なんてない。俺の世界も、イリスの世界も、同じだろ。だから今こうして一緒にいるんだ。だからどうか、俺が好きな世界を少しくらいは好きになってくれ」
「……善処するよ」
「それに何より、イリスが3000年生きてくれて良かった。そうでなかったら、俺はイリスと出会えなかった。イリスが大好きだから」
「……お前さぁ、ほんと、私のこと好きすぎるんじゃない?」
「悪いか?」
「それプロポーズ?」
「え?」
「真面目に不思議がるなよ!」
「そういうんじゃなくて、イリスのことは好きだけど、なんていうかその……、えっ、どうなんだろう……あ!あれだ!多分、もう一人の母さんみたいな」
「かあさん」
「もしくは祖母ちゃん?いや年齢的にもっと……」
「はっ倒すぞガキ!」

 はっ倒せるならはっ倒してみろよ、と煽って見ればみるみると目を吊り上げるものだからとうとう笑いを堪えられなくてぶはっと噴き出すと、呆気にとられたような顔をした後に、ゆるゆると目尻を下げていくのだから。

「……一緒に生きようとは言われたことあるけど、俺の寿命に合わせろなんて言ったのは、アンタが初めてだよ」
「やったな」
「喜ぶんじゃねぇよこんな超理論で。……でも、まぁ、もうごたごた考えなくてもいいかもね。とりあえず暫くは」
「なんで暫くは、なんだ。もう小難しいことは要らないだろ」
「いやだってお前の寿命に合わせなきゃならないしね。なぁ、ダンデ」

 すり、と俺に一方的に握られるままだった掌に、擦り寄るような手の動きが感じられた。

 悪戯そうに笑うイリスはこの世界で誰よりも長生きで、これまで誰よりも終わりなき希望と絶望に襲われてきたであろう。けれど、人の数千倍悲しみと寂しさと付き合ってきたイリスが誰よりも優しい人間あることは、きっと世界でただ一人、俺だけが知っている。


20201210