短編
- ナノ -


 どうかこの世界を憎まないでおくれ-3


 イリスと一緒にいる時間は、それからもいつだって楽しかった。ネット廃人のくせして世の流れに瑣末も興味がないイリスは、当然俺がチャンピオンであることも知らなかったくらいで、知った後だって俺をチャンピオンネタでいじったりしない。俺のバトルだって一つも見ていない様子だったけれど、それでも全然構わなかった。
 もちろん空いた時間を全てあの家で過ごすために宛てている訳ではない。最優先はポケモンであるから、月日が経てば経つ程に比重はそちらに傾きつつある。でも、ふと「そろそろ寂しがってるだろうか」なんて思ってしまうことも多々あり。それを馬鹿正直に訊ねると怒声が瞬時に飛んでくるのだが。
 家族と共にいる時間ともまた違う。キリキリ文句を言われることがほとんどで、だけど紅茶と茶菓子が必ず出てきて、たったの二人だけどいつも賑やかで、どうしてか心から安心できる。イリスの家にいる間、俺はきっと英雄と持て囃されて皆に熱い視線を注いでもらえる、無敵のチャンピオンではなかった。

「なぁ、彼女できた?」
「またその話……」
「あ?年頃に訊くことなんてこんくらいだろうが」

 イリスと出会ってもう八年目を目前としている。俺も成人を間近に控え、あれこれやりたいことだって山ほど出てきて、だけど大きくなった名前と肩書きに縛られてしまうジレンマも正直なところ時々。そういうものから一切合切解放されるイリスの家に通うことを、俺がいつまで経っても止められる訳もない。まぁ、この家に来る頻度も昔と比べれば少なくなってしまっているのが現状で悲しいけれど。

「あっ!おまっ、ふざっけんな!そっちじゃないって言ってんだろ!」
「可笑しいな」
「なんでゲームでも迷子になんの!?どこまでプロ極めるつもりだよ!」

 株取引を終えたイリスが突然「ゲーム付き合え」と、あっという間にモニターをゲーム画面に切り替えてコントローラーを投げてきたから、一瞬ポカンとしてしまった。自宅にいる時に電話や、無理矢理登録させたメッセージアプリで参加を促されることは今までにもよくあったけれど、こうやって同じ空間にいる時に誘われたのは初めてだった。
 まだサービスが続く例のオンラインゲームの、結局育てられていない俺のアバターはほとんど役立たずで、HPがゼロになる度に「なんべん死ねば気が済むんだ!命を守る行動をしろ!」と言ったり「今だボスに突貫しろ!」と言ったり、どっちの言葉に従えばいいんだろう?と疑問に思う場面もあったが、隣のイリスが夢中で俺とゲームをしていることがどうにも嬉しくて、とりあえず気の赴くままにコントローラーを動かしているとまた死んでしまった。

「……蘇生アイテム底つきそうなんだけど」
「早く蘇らせてくれ!」
「ゲームだからって死んでも構わないって思うなよ」

 時々、こういうことを言われてしまうとドキリと胸が鳴ることも多くなった。念の為に弁解しておくが、色恋に通ずるトキメキの類などでは決してない。イリスは俺が誰に言うつもりもない秘密を握ってしまったことを知らないから、こういう発言は特に諭す為だったり、そういう大層な人間の気持ちで言ってくるわけでもない、いつも通り憎まれ口の一つに過ぎないのに。

「んで、彼女は?」
「飽き飽きだぞ、その話」
「はぁ?思春期なんて女作って食ってナンボだろ?」
「下品だぞ」
「下品なわけあるかよ!それがお前の年代では健全だろ!」

 本音を言えば、そういう話が全く来ていないこともなかった。年齢的にもそうだし、大人達が集められる場所に呼ばれればそういう誘いも掛けられるようになったくらい立場もしっかりとしているし、熱心なファンにその手の声を掛けられることもしばしば。でも、どうしてかそんなに興味がそそられない。色事に現を抜かすよりもポケモンに愛情を注ぎたい俺は、浮ついた話に未だ飛びつけないままにいる。
 避けたいという気持ちすらあるのに、こうやってずけずけと恥じらいもなく俺に話を吹っかけられるイリスは、絶対に怒られるから口にはしないが年の功なのであろうか。

「お前の周りは?友達とか、もう経験してるだろ」
「わかんないぜ」
「なんでだよ、思春期の男が集まれば猥談の一つくらいするだろ、隠すなよ」
「……しない」
「嘘だろ?」

 真相はその手の話には極力参加しないだったが、そもそも友達と呼んでもいい人間がいない。周りは俺を倒すべき存在として見据えているし、幼馴染とはもう幼い頃のような、距離なんか関係ないという風には話せない。一見昔と同じように接してくれてはいるが、細かな仕草や言葉から、手を引いてもらって走り回った頃の俺と今の俺を同一視しているようにはどうにも思えない。
 寂しいとか、悲しいとかは特に感じない。高みに昇る為にはそれ相応の実力を付けなくてはならない。付けられないのなら、そこまでの話だから。そもそも高みに昇る為に誰かの力を借りねばならないなんて、そんなのは真なる高みとは違うと思うから。切磋琢磨なら己自身でこなせる。

「……なぁ、今度誰か連れてきてもいいか」
「……あ?」

 だけど馬鹿正直に友達なんかいないって白状することにいささか抵抗を覚え、言ったら言ったでからかわれることは目に見えているので試しにそう請うてみると、腹の奥底から捻りだしたような低い声音が返って来た。同時に、今までボスを滅多打ちにしようとコントローラーを目を剥くような速度で捌いていた指がぴたりと止まる。

「……友達?」
「友達というか……あ、弟。弟とか」
「絶対許さない」

 間髪入れない、期待すら微塵も抱かせないような拒否。モニターの中の、動きを止めたイリスのアバターのHPがボスからの攻撃のせいでみるみると減っていき、レッドゾーンに突入する。

「そんなことしたら、あの、あれ……丸呑みするから」

 とうとうHPが尽き、アバターが地面にばたりと倒れ伏す。防御力が足元にも及ばない俺のアバターも時間をそうかけない内に同じ末路を辿り、画面いっぱいにゲームオーバーの文字が躍る。リトライ選択までのカウントを刻む数字が減っていく中、「飽きた」とぼやいてイリスはゲームをそのまま終了させた。
 嫌にも予感めいたものを覚えた。きっと俺が本当に誰かを連れてくれば、イリスはどこかへ煙のように消えて、俺の前に生涯現れてはくれないのだろう。


  ◇◇


 可笑しい。突然イリスと連絡が取れなくなった。登録していた番号に電話をかけても「現在使われておりません」なんて無機質な音声ばかり返されるし、メッセージアプリからも名前の表示が突如として消えてしまった。オンラインゲームはサービス終了してしまったので手懸かりには成り得ない。
 イリスと俺についての関係性を、未だにどう言い表せばいいのかわからない。男女のそれではなく、かといって友人と呼んでもいいものか。だとしても、イリスと出会ってから続くこの奇妙な関係を、俺は殊の外失い難く思っているのは偽りもなく確かで。だから本当であれば気付いた時点ですぐにでも突撃したかったのに、即座にはイリスの所へ向かえなかった。出会った頃と比べても大小関係なしに課せられる役割が格段に増えてしまった現在、そう簡単にあの森奥深くへ赴くことは困難になっていた。
 イリスと出会って、もう十年は経過している。十年の間にこんな事態は初めてで、そう易々と喧しい心臓を落ち着けることは無理な話である。気ばかり焦り、もしかして、を期待してコールだけしつこくするだけの日々。一日の連続があっという間にも過ぎ去っていく中、これでいざ突撃したらもぬけの殻でした、を想像するだけで肝が冷えた。

 ようやく得たオフにて迷子のプロらしく森を勘だけで進み、あの平たい家を見つけただけでどこか安心感を抱いたのはなんというか。丸ごと全て無くなっていたらという嫌な想像は、がんじがらめの毎日の中で膨らみ切っていたのだ。

「イリス!」

 焦りが拳にも遺憾なく発揮されてしまうようで、うっかりと破壊しかねない程度の力で玄関をこれでもかと叩きに叩きまくる。そうすれば、いつものようにイリスが「うっさいっつってんだろ!!いっつもいっつも!!壊したら一生許さんからな!!」なんて具合に怒鳴りながら玄関を開けて、怒りの形相のせいで眉間に皺を何本も刻んで、でもちゃあんと中に入れてくれて、紅茶を淹れてくれたりオンラインゲームに付き合わせられたり。そういう、もう俺にとっては“当たり前”のことが起こる筈で。
 なのに、どうして全然、出てきてくれないのだろう。

「イリス!……イリス!」

 どんなに大声で呼んでも、どんなに玄関を無遠慮に叩いても、イリスは一向に出てきてくれない。怒りと呆れを混ぜこぜにして、その顔に映すイリスが。

「イリス!このままだと玄関壊してしまうぞ!」

 しつこくしていればいつだって最後には、不服しかないけどしょうがねぇなって顔で迎え入れてくれたのに。

「……本当に壊すぞ!」

 このままだと本当に壊してしまう。俺の力でダメならリザードンでもギルガルドでも、ポケモンに指示してでも。

「……っ、……」

 この時に咄嗟に思い浮かんだのは、幼い頃に侵入の為に潜り抜けたあの窓で、一度そちらに回って中を確認する。カーテンで遮られているから室内の様子はわからなかったけれど、今度はそちらを叩くことにする。また割るぞ、と脅しだって添えて。それでも無音の反応しかないものだから、いよいよ壊すしかないな、と拳を大きく構えた時。
 しゃっ、と微かな音と共にカーテンが開けられる。そこからとうとう現れた、待ち望んでいたイリス。だけどその顔にはいつも通りの怒りも呆れもなく、見受けられたのは、単なる“無”であったから、体だけでなく頭も固まった。

「割ったら殴る。一生許さない」

 窓が薄いお陰でかろうじてそんな声が聞こえた。ここに来るまで散々顔が見たいと思っていた筈で、声だって聴きたかった筈で。なのにいざ本人を目の前にすると何も反応ができなくなってしまった。心の準備だとか、そういうものとは無縁の相手であるのにも関わらず。きっと、イリスが精巧な人形みたいな顔をしていたからだと思う。こんな顔、この十年の間に一度も見たことがない。


 今度こそ開けてくれた玄関から家に入り、いつものダイニングもリビングも兼ねる部屋に足を踏み入れた瞬間、あ、と吐息にも近い間抜けな一文字が零れていた。
 部屋が、綺麗になっている。それは掃除が行き届いているだとか物が整頓されてだとか、そういう意味合いなどではなくて。

「……どういうことだよ」
「お前丁度いいわ、それその箱に詰めろ。そんで代わりにリサイクルショップ持ってけ。金はやるよ」
「どういうことだって訊いてるだろ!!」

 たまらず腹の底から怒号にも近いものが飛び出た。けれどイリスは微塵も臆する様子もなく、俺を一瞥した後に淡々とモニターを同じイラストが描かれている箱へと詰めだしてしまった。
 あんなに部屋の一角を斡旋していた、ほとんど常に稼働していたモニターが、コードを抜かれて種類ごとにまとめて置かれていた。それに、本棚だってあんまりな有様だった。あんなにあった本が消えてすっきりとしてしまっている。書庫も知りたくないけれどもう空っぽなのかもしれない。

 どこをどう見たって、まごうことなく、ここから去ろうとしていた。

「……なんで」
「手伝わないなら帰りな。邪魔だ。もう飲ませてやる紅茶だってないから」
「なんでだよ!なんでっ、なんで!」

 どうして、なんで、こんな。頭を占める言葉はそんな三拍子ばかり。山のように言いたいことはあるのに、心が直面した現実に追い付いてこない。イリスの口から答えが出てこないのに、無駄に状況判断力を持っているのに、どんな言動を取ればいいのか、うまく自分を律することが出来なくて。もう俺は、イリスと出会った頃のような小さな子供ではないのに。
 声を荒げたからか、それともあまりにもみっともない態度を取っているからか。イリスが箱詰めを止めてしゃがんだ態勢のままこちらをのそりと見上げた。やっぱり感情を晒さない、嫌なくらい人形じみた顔で。

「見りゃわかんだろ。引っ越しだよ」
「なんで急に!どこに!」
「急じゃない。定期的に拠点変えてんだよ、私は。どこかはまだ決めてない。貯金あるしとりあえず適当にふらふらするわ」

 違うのに。そういうことを無感動に教えて欲しい訳ではないのに。それなのにどうして、本当に言いたいことが音になって出てきてくれないのだろう。

「……いつ、いついなくなるんだ」
「さぁ。片付いたらじゃん。他にも色々整理しなきゃならないことあるし」
「どうして一言も言ってくれなかったんだ」
「言う必要ないだろ」
「あるだろ!」

 無感動な瞳の、その奥に感情の揺らめきが見えない。ムキになるのは俺ばかりで、平然と必要がないなんて言われても子供のように口を荒げるしかない。けれど、語られた理由に納得してしまう自分も確かにいたのだ。
 こんな突然、俺に黙っていなくなろうとして。誰にも秘密は漏らしていないしこの場所のことも教えていないのに、この十年なんだったんだよって、俺だけが大事だったのかよって、許せないし、許さないって大声でぶつけてやりたいのに。

 だけどイリスは、一所に永遠に留まれるような人間では、ないのだろうから。

「……帰りなチャンピオン。自分の生きる世界に。私なんか忘れて、陽の下の明るくて美しい、お前の世界に」

 その言葉は、認めたくはないが、決定打だった。
 拳をぐっと握り締める。食い込む爪が痛かったけれど、胸の中に比べればどうってことない。
 根深く突き刺さった拒絶に、脇目もふらず、立場も考えず、自分の見てくれだって気にせず、無知で小さなガキのように、馬鹿みたいに泣いてしまいたかった。


20201207