短編
- ナノ -


 どうかこの世界を憎まないでおくれ-2


『お前の家を荷物の受け取り先にしたから、今度来るとき持ってこい』
「は?」

 あんな森深くに住んでいるくせして、潤沢なネット環境を持つイリスがスマホを持っているのは、別に可笑しな話ではない。何より諸々契約するためには連絡先が絶対不可欠なのだから、きっとそのために用意したのだろうとは容易に予想がつく。外界に交流を望まない素振りは幾度と目の当たりにしてきたので、元々特に必需品だと考えたが故の所持ではないだろう。
 それでも、ある日偶然イリスのスマホを発見した際になんだか変な感動を覚えたのは、もう随分前の出来事だ。登録以来一度も受信した覚えのない番号とイリスの名前が表示される画面に、はたと首を傾げる。あの時は歯を剥き出しにして拒否されたけれど、駄々と有り余る体力を生かして、無理矢理もぎ取ったイリスの番号から突然電話がかかってきたものだから少しドキッとした。
 幸いシュートシティでローズ委員長に貰った自宅にいたからすぐに電話に出られたが、仕事中だったりバトル中だったりしたら出られなかったので、連絡手段を増やした方がいいなと後になって気が付く。俺もホップに教えてもらって知った、最近流行っているらしいメッセージアプリをイリスはインストールしていない。

「なんで俺の家?というか、何で知ってるんだ?」
『一々最寄りの宅配ロッカーまで行くの面倒なんだよ。お前の家の住所?そんなん私にかかれば簡単なんだよ。なにせ魔女だから』
「いい加減引きずるの止めて欲しいぜ」
『つべこべ言わずに持ってこい!』

 言い切ると同時に、もうお前の話なんか聞かん!とでも言いたげな主張激しいブチッという音に、呆れにも似た気持ちが湧いてくる。もうイリスと出会って五年は経っているのだから、最初からなかったかもしれないが謙遜も遠慮も欠片もない。
 普段はやっかんだ言い方をしてくるくせに、こういう時ばかりはイリスも俺を頼る。頼ると言うよりか、単に都合の良いパシリ扱いのだろうが。外に出る理由が唯一荷物を取りに出ることだったのに、最早それすら俺に頼もうだなんて、本当に筋金入りの出不精なのだから。

 後日本当にイリスの荷物が届いてしまったので、玄関の隅に置いて「ふぅ」と溜息を吐いた。今度って言っていたけれど、約束を交わすでもなく気紛れに突撃しているのだから、この荷物がいつ自分の手元にやって来るかもわからないのに。一ヶ月に数度は訪れるようにしているが、チャンピオンとしての仕事だとかポケモン達の調整だとかで多忙を極めていれば、どうしても一ヶ月以上開くことだってザラにある。急ぎの品ではないのかもしれないからこそいつ来訪するかも知れない俺に任せたのかもしれないけれど、それでいいのか、イリス。
 でもなんやかんや思ったところでイリスの家には行くのだが。荷物を受け取ってから結局一ヶ月と少し経ってしまった上にこれまた突撃する連絡をし忘れたが、どうせイリスが家にいることは疑う余地ないし、わかりきった確定事項であるからして、いつものようにキリキリ文句を言ってくるだろうが、まぁいいだろう。
 最近はきちんと玄関を叩くようにしている。大きく、勢いよく、手首のスナップだってきかせて。同時に大声でイリスの名前も叫ぶ。客を招くことを考えて造られていないこの家にはベルなんてありがたいもの付けられていない。
 窓からの侵入を断念したのは、もうあの立て付けの悪い窓を潜れるような体は卒業してしまったから。イリスが俺を見る度にギョッと目を剥くくらい、ぐんぐんと体は成長している。
 前は窓をどんどん叩いて来訪をアピールしたが、力加減を誤って割ってしまい、ブチ切れたイリスにしこたま怒られて以降はきちんと玄関を叩いている。さすがにあれは俺が悪いので素直に反省しているのだ。

「イリスー!」
「今開けっからそんな何度も叩くな!玄関まで壊したら一生許さないからな!」

 だってこうしないと平気で居留守を使うから。

「ほら、ご所望の荷物」
「重いからやだ。部屋まで運べ」
「我儘だなぁ」
「お前に言われたくないね!」

 この五年ですっかりと慣れてしまったイリスの態度に笑いを零したまま、どうせモニター周りだと決めつけて向かい、扉を開けて、すぐさま異変に気が付いた。
 この家に部屋はほとんどない。広々とした一室がリビングもダイニングも兼ね、あちこち雑多に物が置かれていて、悪く言えば散乱している。モニター周りなんて特に酷くて、イリスの行動範囲があの周辺だけなのだと丸わかりなくらい。慣れた人間でなければ床に置かれた物を避けながら歩くのも少々難しい。
 そのダイニング部分に当たるテーブルに、普段はテーブルクロスと花しか飾られていないそこに、何やら豪勢な食事がこれでもかと用意してあった。目を丸くして背後からついてきているイリスを振り返り、顎でテーブルを示す。

「なんだこれ?」
「荷物持ったままそこ座りな」

 俺を追い抜いてすたすたとキッチンに行ってしまった、訊ねているのに何も説明してくれないイリスに置いてけぼりを食らった気分である。だけど、このまま段ボールを抱えたまま突っ立っているわけにもいかないから、言われた通りダイニングテーブルに備えられる椅子に腰かけ、膝の上で段ボールを抱え、並べられた料理ではなくキッチンにいるイリスの背を見つめる。せかせかと紅茶を淹れたり、バタンバタンと何度も冷蔵庫を開け閉めしたり。
 そうして最後に登場したのは、生クリームとフルーツがふんだんに乗せられるホールケーキ。

「おら、食えよ」
「なんだ?」
「そんで段ボールも開けろ」
「?」

 取り皿を渡されて反射で受け取ったものの、疑問が晴れることはない。この家の中で一切見たことのない光景を前にしてつい固まる。呆気に取られている俺に痺れを切らしたのか「とっととしな!」とイリスがカッカし出してしまった。あんまりカッカすると眉間の皺が深くなるぜと前回教えてあげたら脹脛をそれはもう力強く蹴られたので、一先ず見逃すことにする。
 とりあえず、段ボールをどうにかしよう。そっちに目を落としてからべりべりと段ボールのテープを剥がして蓋を開ける。蓋を開けて見れば、中身は様々なジャンルの本と、ポケモンのぬいぐるみと、男性用衣類。
 これ見よがしな主張の激しいテーブルの真ん中のケーキと、豪勢な料理。そしてこの段ボール。もぞ、と胸の中でくすぐったい何かが身を捩る。

「これでわかっただろ」
「わからないぜ?」
「なんでだよ!!」

 ダン!とイリスが怒りの拳を二つともテーブルに叩きつければ、ガチャンとナイフとフォークが皿と擦れる音が鳴った。

「おまっ、なんでこういう時だけ察しが悪くなんの!?わざとなの!?マジで全然わかんないの!?」
「わかんないぜ!」

 本当は、嘘だけど。でも惚けたフリを続けた。だってイリスにきちんと口にして欲しいから。

「……っ、お前誕生日だっただろうが!」

 瞬間ぶわりと巻き上がってくる、爆発しそうな程に激しい感情。
 チャンピオンの誕生日は、毎年盛大に祝ってもらえる。リーグ関係者だったり、街中の人だったり。家族だって当然。でもイリスは違った。俺の誕生日を教えてあるのにも関わらず毎年知らないような態度を取って、祝ってくれとこちらから意地悪の一貫として催促したら、ようやく「へぇへぇ、おめでと。より良き一年を」などと気持ちが全く籠らない言葉をくれるだけだった。無理矢理誕生日プレゼントと勝手に決めたあのカロス作家の本以降、イリスは頑なにそういう態度を崩そうとはしなかった。
 なのに、これは一体どうしたことだろう。どんな心境の変化なのだろう。でもそんなのだってどうでもいい。初めて、イリスからこうしてお祝いをしてくれるのだから。当日じゃなくて数日過ぎてからというのも、とてもイリスらしくて。

「嬉しいぜ!でもぬいぐるみは子供扱いが過ぎるぞ!」
「はぁ!?お前貰ったものにケチつけんの!?ほんとムカつくな!」
「チキンも美味いぜ!」
「おまっ、いつの間にっ、その油まみれの手であちこち触ったらぶん殴るからな!」
「にしたってなんで俺へのプレゼントをわざわざ俺に運ばせるんだ!」
「んなもん面倒だからに決まってんじゃん」
「ケーキも美味いぜ!」
「お前順番とか気にしないで好きなモンから食べるタイプだな?」

 ぎゃあぎゃあ普段と変わらない言い合いをしつつ、プレゼントを眺めながらケーキも料理もたらふく食べた。多分、全部手作り。文句なしに美味しくて、何よりこの出不精でやる気を微塵も感じさせないイリスが、他人を遠ざけているような節があるイリスが、こうしてわざわざ俺の誕生日を祝おうって気になってくれたのが、どうしようもなく嬉しくて。

「俺がいつ来るかわからないのに、よくこれだけ用意したもんだな!」
「お前が来るって、私にはわかんだよ」
「え、そうだったのか?魔女だから?」
「まじ黙ってろ。他人に言われるのと自分で言うのじゃ違うんだよ」

 そのままイリスは昼間から酒を飲みだしたけれど、俺はそれを咎めやしなかった。ここはイリスの家だし、別に飲みたければ好きにすればいいと思うし、何よりこうして過ぎた誕生日を祝って貰えたことにいたく満足感を覚えていたので、咎めるだとかそういう気にもなれなかった。

 でも、今は少しだけ後悔している。

「迷ったんだよぉ、考えたんだよぉ。アンタくらいの歳の子供が何を好きかなんて私には想像つかないしぃ、選びきれなくて全部買っちまったんだよぉ」
「酒臭い」
「いやいやすんなよぉ!」
「……」

 どこからどう見ても立派な酔っ払いが出来上がっている。その酔っ払いは何故か俺の隣へと移動してきて、俺の体を抱き枕のようにしてひっついてくるのだ。母親くらいの歳と思っているから正直女として意識しているわけではないが、何やら俺の体に回る手の動きがどうにも怪しく見えて仕方ないから、ちょっとだけ警戒する。
 とにかく鼻のすぐそばで酒臭い息を吐かれるのは苦痛であるからして、頬を張り手の要領で遠ざけようと試みるが、案外意固地なのかぐいぐいとこちらに余計に近付こうとしてくる。酔うと性質が悪くなるなんて聞いていないから対策ができてないぞ。

「お前なんか、あれ、筋肉ついただろ」
「どこ触ってるんだ!」
「ぷにぷにしてそうだったのに……うわ、ここもだ」
「イリス!」

 怪しいと睨んでいた手が思っていた通り服の上から体に触れだした。単に体つきの変化に興味を向けているだけでも、俺にだって人並みとは豪語できなくても僅かなりと羞恥心くらいある。咎める声を出してもケタケタと笑うばかりで、こんなイリスを見たことがないから、本当にどう対処すればいいのかてんでわからない。しかし酒のお陰でふわふわとしているせいか興味が移り変わるのも早いようで、筋トレの成果を無遠慮にいじるのは直ぐにやめてくれた。

「あー、お前ほんとでっかくなったなぁ」
「だろう?」
「あんなにちっちゃっかったのに、ほんと、人間の成長は嫌だねぇ」
「もっと筋肉つけて、もっと身長伸ばすぜ!」
「そのまんまでいいよぉ」
「嫌だぜ!」

 ――本当に、普段と全然違う。一つも言い返してこないし、なんだか吊り上がった目尻が柔らかくて、顔の筋肉に緊張もなく、酷く穏やかで。素直になっていると言えばいいのかもしれないが、イリスには似つかわしく思えないのが痛い所だ。
 でも、だからかもしれない。ふと芽生えた、悪戯心とは違うけれど、好奇心にも似た類かもしれない。
 今なら、今まで散々はぐらかされて適当をこかれてきたことについて、色々と話を訊けるかもしれないと、不意に思って。

「なぁイリス、イリスはどうしてこんな所に一人で住んでいるんだ?」
「人間が嫌いだからぁ」
「じゃあポケモンは?この家の周りにはあんまり近寄って来ないようだけど」
「嫌いだねぇ」
「え」

 訊いておいてなんだが、絶句した。世界は広いからそういう人間もいるとは思っていたけれど、いざこうして面と向かって口にされると、悲しいのか嫌なのか、わからなくなる。ポケモンが大好きでチャンピオンにもなった俺の前で、酔っているとはいえ平気でそれを口にされたのも、また。

「ていうか、この世界全部。全部無理」
「……だから、こんな所に一人でいるのか?」
「そうだよぉ」
「どうして、嫌なんだ」

 すると、いつからかわしゃわしゃと俺の後頭部を撫で回していたイリスが、ぴたりと動きを止める。明らかに纏う空気が変わった。数多のトレーナーと駆け引きをしながらバトルをしてきた俺には、それが容易にわかった。

「……どうしてなんて、単純明快な話だ。この世界は愚かだ。この世界に生きる全ての生き物も愚かだ。もちろん私も含めて」
「なんで、そんな」
「争うことを止められない。そのせいでどれだけの悲しみが生まれたか。3000年経って少しはマシになったかもしれないけど、生き物の根底はそう容易く変わりやしない」

 また出た、3000年ネタ。でも今のイリスは、普段のようにジョークを言うような顔をしていない。

「何度も争いがあった。何度も悲しみをばら撒いた。時に駆り立てられ、時に崇められ。私は何も関係がなかったのに……いや、止めるでもなかった私も同じか」
「何の話だ?」
「……かつて、王がいた。自分のポケモンを愛した王が。王の国は他国と戦争をしていた。人もポケモンも、皆が争った。その最中に王は愛するポケモンを失い、悲しみの末に命を与えるキカイを作った。それを使って王はポケモンを取り戻したが、愛するポケモンを奪った世界を許せなくて、キカイを最強の兵器に変えた。それによって戦争は終わったが、王は兵器の副作用によって他の生き物とは生きる時間が変わってしまった。私もまた同じだ」

 どこかで聞いたことがあるかもしれない。だけど、即座にどこで聞いた何の話なのか、思い出すことが出来ない。
 今までにただの一度も見たことがない、あまりにも、イリスが悲しそうな、痛そうな顔をしていたから。

「命令だった。王に命令されれば皆が従わなければならない。異を唱えては命を奪われるから。だから私達は王に従った。従って、兵器を使って、でも直前で恐れをなしたほとんどがその場を逃げ出した。残された王と、逃げろと判断しきれなかった幼い私だけが、あの光を浴びた」

 そんな、空想も甚だしい、絵空事。
 そうだって決めつける反面、こんな場面で嘘偽りを語るような人間とも、思っていなかった。

「もうこりごりだ。死んでしまいたかった時期も、幾度とあった。でもどうしても死にきれなかった。私だって元をただせばそこら辺にありふれるただの人間なんだ、恐怖くらいあった。解決策を探した。途方もない時間が私にはあるのだから。何百年とかけて、ようやく解決策がないのだと自分で見つけた」

 壁の本棚にびっしりと並べられた、床にも積まれた、夥しい数の本。通してもらったことがないがどうやら地下室があるらしく、その地下部屋を埋め尽くさんばかりの書庫であるらしい。そして潤沢なネット環境。全てが繋がったと腑に落とすのであれば、イリスは元から出不精な引き籠り体質で今の環境を整えたのではなく、結果的にそういう生活を送らざるを得なくなっただけということになる。

「だから、このまま自然に任せようと思った。やりたいことをやりつくそうと思っていた頃もあったさ。自分でも知らぬ人生の果てまで存分に謳歌してやろうと。でも、次第にそんな気持ちも失せていった。だから、いつかに一切を諦めた。そうやって延々と寿命を待っても一向にやって来ない。自分の生きるスピードが他者ともずれて、合わさる日が来ないことも、とうに知っている。かといって、王とは違い目的を持たぬくせに、自分からこの身に終わりを打つ気概もやはりない。もう命を見送るだけなんて、嫌なのに」

 その瞬間、今までで一番強く、だけど優しく、イリスが俺の体をゆるく抱き締めた。どこか、行かないでって追い縋るようでいるのに縋り切れていない、寂しさも微かに纏う、らしくはない抱擁だった。

「なんで何度もここに来んだよぉ……もう誰かを看取るのは嫌だ……」

 どうしてそんな声を出すんだって茶化したいのに、張り付いたような喉からは全く音が出てきてくれない。まるで見えないものに手を伸ばしているようなイリスは、きっと抱き着いているのが俺だなんて意識は残っていても、俺に言葉を向けている自覚も、下手をすればもうないのかもしれない。イリスの言葉をそのままそっくり受け入れるのであれば、それは恐らく俺だけではなくて、他の誰かを、途方もない数の人間を思って向けているのかもしれない。
 それを寂しいと感じていることを正直にのたまえば、イリスは少しでも正気に戻ってくれるだろうか。

「……なぁ、イリス」
「そういえばもう童貞卒業した?」
「……あぁあ〜……、もう……」

 台無しだ。急に話を変えてしまった、目元を赤くしたイリスはまだまだ酔いを醒ましてくれず、正気には程遠いらしい。

 そのまま眠ってしまったイリスをべりっと自分から剥がして、ソファに転がしてから、優しい俺はブランケットが見つからなかったのでその辺に適当に放ってあるローブをそっとかけてやり、作ってくれた料理もケーキもちゃんと残さず平らげた。母の手料理のようなその優しく温かみのある味を、なるべくゆっくり味わうよう心掛けながら。
 その後イリスが起きないものだから、戸締りを心配して起きるまで待つことにした。モニターは触れると鬼の形相をするので触れるのを避けて、本棚に隙間なく埋まる本を拝借して時間を潰す。思えば、出版年から考えても相当古い生体エネルギーの本なんて持っていたことも不思議ではなかったのだな。
 すっかりと夜も深まる頃合いになってようやく起きたイリスは、酔って俺に絡んだことを一切覚えておらず、けれど妙にすっきりとした顔をしていたものだから。意地悪のつもりで「このまま泊めてくれ」と頼んでみると、いつものようにキリキリ文句を吐き散らしながらも、俺の為に寝床を用意し始めた。もう、そうやってなんやかんや言いつつ俺の為に動いてくれるイリスの背中を見ても、単純に面白い人間だよな、なんて思えなくなっている。

 口が途轍もなく悪い、結局祝ってくれても「おめでとう」の一言も言ってくれない、迷子のプロじゃないと辿り着けないようなこんな森の奥の奥の奥の更に奥にひっそりと一人きりで住んでいるイリスは、思い返せば俺に嘘だけは吐いたことがない。それだけは妙に自信があった。


20201205