短編
- ナノ -


 いつか太陽が消えてくれますように


「うーん……、ごめんね」

 誤魔化すような笑みはやはり決まりも悪かろうが、そうすることしか自分では導き出せなかった。
 真正面に佇むダンデ君は、今しがたまで浮かべていた真剣な顔をしまって、これでもかとしかめっ面を晒している。見飽きるくらいに拝んだ顔に、やはりにへらと誤魔化すような下手くそな笑みしか彼にはあげられそうにはない。
 明日も、明後日も、これから先もきっと、それしかあげられない。

「いい加減首を縦に振って欲しいぜ」
「前からそれは無理だって言ってるのに。あ、そこどいてね」

 濡れ布巾片手にダンデ君が腕組してふんぞり返っている場所からどかして、彼の後ろに隠れていたテーブルから順々に拭いていく。もう店終いの時間だし、椅子を上げてしまってもいいだろう。
 一つ一つテーブルを回っている間、ダンデ君は雛のように後ろにべったりと張り付き背中を追いかけてきて、だけれど私が振り向いてあげることも決してなく。それを申し訳ないと感じる必要も、同じようになくて。

「お客さん、そろそろ閉店ですよ」
「イリスが頷いてくれるまで俺は動かない」
「じゃあ鍵かけたお店の番人になってくれるのかな。明日の朝六時まで宜しくね」
「……意地悪なんだぞ」

 反射でははっ、と気持ちも籠っていない笑い声を出してしまったが、ダンデ君相手に特別気にすることではない。こうしてぞんざいに扱って少しでも気を悪くしてもらわなくては、ほとほと困ってしまうのは私の方。

「好きだ」
「はいはいごめんね」
「付き合って欲しい」
「はいはいごめんね」

 休まずさっさと手を動かし、耳に入る音は右から左へ。口から出て来る言葉ももうほとんど最近の定型句である。
 ひっつき虫のようなダンデ君への返事をおざなりにしつつ、とっくに考えずとも動けてしまうルーティーンの閉店作業を淀まずに終えて、いよいよあとはマシンの電源を落とすだけかなと考えていた頃に、ダンデ君が背後から腕を掴んできたのだから足も止まる。それには、隠すこともなくこれ見よがしな溜息を一つ。見咎めたのか、腕を掴む手に力が込められてしまった。

「俺でいいだろう」
「その自信、どこから来るの?」
「十年以上チャンピオンとしてガラルのトップを張った。今はリーグの責任者。バトルタワーも盛況。二人で一生不自由ない暮らしをおくれる貯えもある」
「今日はお金で釣る作戦?」
「あまりこういう自己主張をするのは好きではないが、富と名声は確かにある」
「お金は大切だねぇ」
「なら」
「でもごめんね」

 絶対に後ろを振り向かない私にダンデ君の表情は伺い知れない。毎日毎日手を変え品を変え、自己アピールに余念がない彼の今日のカードはお金のことだったが、彼の期待に反してそれに靡くような浅はかさも卑しさも持ち併せてはいない。お金は生きていく上に必要不可欠ではあるけれど、それにしたって。

「お金で愛は買えないよ。少なくとも、私にとってはそう」
「だって、もう他に晒せる手札がない」
「じゃあもうおしまいだね。ほうら、お帰りくださいな」
「嫌だ」

 より一層腕を掴む手に力が加わったかと思えば、そのまま強引に引っ張られ、膂力の差が比べるべくもないダンデ君の手にかかればあっさりと背中が彼の胸板にくっつけられてしまう。遺憾なことにくっつけられてしまった、そこそこ厚みのあるバトルタワーのオーナー衣装のそこからは、ダンデ君の肌の温度がそれ程伝わってはこないものの、すっぽり背後から抱き込まれてしまえば嫌でも高い温度がじんわりと体全体を包んでしまう。

「布巾、顔に投げるよ」
「かまわない。それでイリスが俺を選んでくれるなら」
「話が飛躍してる」

 まったく、なんて困った子だ。年上の女のエスコートなど十二分に心得ているだろうに、どうして私にそれの指一本分も働かせはくれないのだろう。いや、確か数回はそう接してくれていたな。迷子の末にダンデ君がこの店に辿り着いた、初期の頃の話だ。
 有名人が訪れることなど初めてでもないから営業スマイルで迎え入れたものの、正直きょとんとしたダンデ君の姿には可笑しさに笑ってしまいそうだった。他の有名人は素性やら正体を隠してこっそりここでティータイムを楽しむのが大半なのに、マントとユニフォーム姿のままここに辿り着いてしまった彼は、その後も同じ格好で堂々と来店するようになってしまった。それはこうしてチャンピオンを退いて纏う服を取り換えたところで、変わることもなく。
 ダンデ君なりの意志表示なのかもしれない。自分は大層な人間なのだと、私にアピールするための。

「俺を選んで欲しい。君が欲しい」
「あげられないねぇ」
「いいだろうもう。いい加減過去のことなど、」
「それ以上喋ったら本当に布巾投げるからね」

 先程それでもいいようなことをのたまったくせに、今度はその口を閉じるダンデ君に、持ったままの布巾をただ握り締めた。しかし、懲りない彼は再び一生閉じていて欲しい口を間もなく開いてしまうのだから。

「……過去は過去だ。新しい未来を求めるのは普通のことで、悪いことじゃない。新しい手を選んでも、罰は当たらない」
「布巾の刑」

 ダンデ君を振り返らないまま拘束される腕で懸命に動き、布巾を背後に放る。けれどパワーもスピードも明らか足りていないそれは、視界の端にかろうじて映っている彼の腕を微かに掠めただけで、放物線すらろくに描けないままに虚しく床へと落ちていった。
 ぺったんと床に張り付いた濡れ布巾に、私の心だってぺったんこだよって、いつも自分の主張だけぶつけてきて私を押し潰そうとするダンデ君に声高に叫んでやりたかった。

「……誰かを愛し続けるのは、悪いことではない。純愛とも呼べるものは、好印象だって多い。けれど、いつまでも恋人でもない故人に操を立てる必要性なんか、この世にはない」
「もうやめてよ、ほんと、帰って」
「自分から囚われたままにいるのは、やめてくれ」

 それなのに無力な人間らしく歯噛みするしかない自分が、途轍もなく嫌だった。

 ――好きだった人が、かつていた。ううん、今も好きなの。故郷で、同い歳の幼馴染と言える立ち位置の、同じスクールに通った人。お互いの家にお邪魔することも日常茶飯事、ご飯だって同じものを食べて。少しばかり病弱なその人は元気いっぱいに外を駆け回ることは難しかったけれど、熱を出してスクールを休んだその人に連絡事項や宿題を持っていくことも、看病を買って出ることも、私だけに与えられた特権だった。いつも悪い、だなんて殊勝な態度をとって曖昧に笑うその人を「らしくないこと言わないで」などと笑い飛ばすことも、私だけに許されたことだった。
 段々と、ベッドから起き上がれない日が続くようになってしまったけれど、その人の春のように優しい笑顔を間近で見られることが、嬉しくて、たまらなく嬉しくて。
 なのに、その人は結局、病に勝てずに若くしてこの世界からいなくなってしまった。運が良いのか悪いのか、死に目に呼ばれて立ち会った私は、受け入れがたい現実を前にして、成す術などあるわけもなく。その人は真っ白な顔で集まった家族それぞれに別れの言葉を贈り、最後に私には「ありがとう」とだけ告げて、雲と雲の合間を抜けて、空よりも遥か向こうへと旅立ってしまった。
 後日、亡くなったその人を送り出すために集まったクラスメイトやご近所やらに紛れて、ただ自分の無力感を味わったのをようく覚えている。自分の半身を失くしてしまったような、ぽっかりと空いた胸の穴は、ひたすらに底なしで。
 その人の体もこの世から隠された後になってようやく、ああ、好きだったんだと、あまりに遅すぎることにも気が付いてしまって。

 二人が十三歳の時分で、その人の笑顔のような優しい春の終わりを迎える間際の、初恋が停滞してしまった日の話。

「……誰かを好きでいることを、他人にとやかく言われたくない」
「自分から抜け出そうとしないくせに、俺の好意に反抗するな」

 幼い恋心を丁寧に包んで手放せないまま、体だけがこんなに成長してしまった自覚は残念なことに持っている。その人のことをいつまでもほんの少しだけも忘れられないまま、スクールを卒業して故郷を離れて生きて尚、夢でその人の死に際の顔が再生させることも少なくはない。ありがとう、という、もう本当にその人の声だったのか自信満々に断言できないそれに、いつも泣きそうになる。
 忘れてはならない。忘れたくない。あっという間に過ぎ去って唐突に終わってしまった無垢な時代の想いを、空に還したくはない。ありがとうなんて、私も返したくない。だから、もうずっと、他の人間に靡くわけもなかった。

 それなのに、ダンデ君がこの場所に迷い込んでしまったものだから。
 突然告白された時、私はあまりに楽観的な考えを抱いていた。これまでにそんなに多くはない好意を抱いてくれた相手が想いを打ち明けてくれても、一度誠意を添えつつ穏やかに断れば皆一様に引き下がってくれたから、ダンデ君もそうであると信じて疑わなかった。
 しかし予想外甚だしいことにも、ダンデ君はそこで折れてはくれなかったのだ。寧ろ火を点けてしまったのか、以来それまでよりも足繁くここまで通うようになってしまい、あまりに好意を退けたい頑なな私に何やら察しがいったのか、抵抗虚しく、口八丁手八丁なダンデ君によってその人のことを口から引きずり出されてしまった。
 誰にも言うつもりがなかった、私だけが大事にしたい、綺麗にしまっておきたいものだったのに。

「死んだ人間を想い続けなくてはならないなんて、誰が決めた。新しい手を取る人間なんて、数えきれないくらいにいるんだ」
「私がそうしたいの。私が、好きでいたいの。他の人なんて知らない」

 だって、そうしないと、一人きりになったその人が天国で寂しく思うかもしれない。
 人間は無慈悲な生き物だ。どんな思い出も簡単に記憶を薄れさせてしまう。それに伴った気持ちも、少しずつ失くしていく。今やその人の墓前に訪れる人間は、限られてしまっている。

「イリスが気持ちを手放しても、その人は」
「やめてってば!」

 ダンデ君の言葉の続きはわかりきっているから、出来るだけ声を張り上げて遮るしかない。非力な、病に負けて命の残りをただ刻むだけだったその人を前にして、何一つも出来なかった私には、それしか。

 好きなの。好きでいたいの。私が、そういう私でいたいの。永遠に、その人の事を考えて、覚えたまま、忘れないでいたいの。
 そうじゃないと、本当に、その人が完全にこの世界から消えてしまうような気がして。

「やめない。イリスが諦めないように、俺も絶対に諦めない。……好きだ。側にいて欲しい」
「勘違いしてるだけだよダンデ君は。ダンデ君を笑顔で迎えたのも、優しい声を出したのも、話を聞いたのも、相手がお客様だから」
「俺がそんな上っ面だけを見て人を判断する人間だと思うか?」

 毅然とした声音には喉がはり付いて、咄嗟に沈黙を作ってしまった。全く悪手である。それを、そうだと胸を張って即座に言い返せなかった。そうだって、言わなければいけなかったのに。
 わかっている。もしもダンデ君が上っ面だけで人を見て物事を定める人間だったならば、長い間チャンピオンなどという大役は務まるべくもなかっただろう。わかっているからこそ、私にダンデ君の問いかけを打ち消す意図の言葉は生み出せない。ダンデ君の人格や人間性まで、否定して叩き落としたいわけではないから。

「……好きに、ならないから。私はダンデ君を選ばないよ」
「好きになってもらって、選んでもらえるまで、俺もやめない」

 首と肩の境に顔がそっと近付けられた。ダンデ君の髪が肌を掠めて、瞬間的に走ったぞくりとした感覚にたまらず身じろいでしまう。それがわかってしまったのだろう、背後から抱く力が強まった。

「……好きだ。どうしても、君のことが好きで」

 可哀想なダンデ君。少しだけ歳が下の、可哀想な子。こんな子供の頃の恋愛を引き摺って、いい歳なのにも関わらずこじらせた女に哀願するしかないなんて。ガラルの大地に威風堂々と立つ彼にはおよそ似つかわしくないのに、プライドよりも女に縋るだけの、ダンデ君。
 ――でもそれは、ダンデ君の、精一杯の誠意なのだとは思う。勝利に貪欲で、自らの手であらゆることを掴める大きな手を持ったダンデ君は、私の意志も気持ちも丸ごと無視して強引に出ることだって、本当であれば容易な筈なのだ。
 その大きな手で人の胸の内をぐしゃぐしゃに掻き混ぜようとするのはいただけないけれど。それに人を抱き締める力がとても強くて、首と肩の境にかかる息が熱く湿っていて、いい加減解放してくれないだろうかと動きたくても、拘束してくる力も頑なで難しい。感情の振り幅が大きいダンデ君は、それが力加減に直結することも多い。

「……もう閉店ですよ、お客様」
「二人でここに閉じ込めてくれるなら、喜んでそうするよ」

 服越しでしか接触しない、私の素肌には決して触れないダンデ君こそ、変な操を守っているんじゃないの。じかに互いが体温を感じない分、意識してしまうダンデ君の吐息だけがただただ熱い。

 本当に、いい加減にしてほしい。潔く諦めて、私のことを解放して、ここから出ていって。
 そうでないと、きっとまた夢に見てしまう。その人の顔を水面が乱れるように掻き散らして、今夜もまた、春よりも優しくはない、眩い太陽のように笑うダンデ君の顔と声が浮かんでしまうかもしれない。私はまだ、それを許したくはない。


20201022