短編
- ナノ -


 煙に巻いて頂戴よ

 ネズとのキスは、いつも煙草の味がする。それをきっかけにして煙草を吸い始めてしまったのに、ネズは毎回文句を垂れる。苦い。不味い。人とキスしておいてそんなクレームを入れるなどと本来ならば許されるべくもないが、後にも先にもネズとのキスが苦くて不味い女は私だけで十分なので、最近は吸う本数が増していくばかりだ。
 煙を吐くと途轍もなく安堵できた。結局のところ吐いた息をまた吸っていることは一先ず差し置き、煙を吐けば吐くだけ、いつだって自分に吐く嘘が、自分自身を薄めることがかなっているような。
 それに、側に在るのが心地いい男もこの果てなき世界においてそうそういない。さながらネズは、私の安定装置と言い表して良いのかもしれない。辛い現実での生き方は精神を削っていくだけのもので、一人寂しくベッドの上に寝転ぶと、そのまま溶けて消えてなくなればいいのにと稚拙にも毎夜願ってしまう。空気に混じってくゆらせる紫煙のように、細く長く、ゆらゆらと、消えてしまえばいいのに。

 辛い現実の中見は様々だ。仕事関係。対人関係。理不尽な社会の仕組み。そこにがなり立てて牙を剥くような激しい音律を与えてくれたのがネズであって。ネズの言葉が、ネズの音楽が、ネズの煙草の味が、いやネズという一個の存在そのものが、私を手放しに楽にしてくれた。
 ステージの上に立つと乱暴でエネルギッシュに見せるのに、そうではない時の、私といる時のネズは飄々としてはいるものの甘ったるい男だ。それは言動が歯の浮くような、という意味合いではなく。
 ただただ、ネズと在ってこの男のモノであると思わせてくれることが、日々起伏の激しい胸の内の漣を酷く穏やかにしてくれる。

「あ、切れた。……ネズ」
「ゼッテェいやです」
「まだなぁんも言ってないよ」
「これ以上不味くなるのはご遠慮願いたいね」

 ねだったところで一本もくれるワケないとは予想していたが、案の定である。手元になくなったから人に貰う、という一番簡単な手段が瞬く間に潰された。一早く手に入れられないとわかれば途端に神経がピリッとしだす。煙草というのは始めるのは簡単だが、やめるのは難しい嗜好だとは有名な話だろう。

「……買ってくる」
「行かせませんよ」

 腰を浮かせようとしたところで手首を掴まれてしまう。そのまま強引に引き寄せられ、目と目がしっかりと合わさった後に噛みつかれた。口付けなどと生易しい表現とは遠い、正にかみつく。寂しさが食われていく恍惚を、自分が薄まっていく感覚を確かに覚えた。

「……まだニゲェ」
「今さっきまで吸ってたんだから。それに、ネズも同じだって」

 そもそもがネズの口の中が煙草の味をしていることから始まったのに、毎度毎度飽きもせずにそんなことを。

「私は好きだよ、ネズの」
「覚えさせたのは失敗でした」

 私には最適解だったよ。ネズの煙草が私をより一層変えてくれたの。
 ネズが私の側にいて、あの苦くて不味い、だけど頭を落ち着かせてくれるものを教えてくれなければ、私は今もまだ換気扇に吸われる煙のようにいなくなってしまいたかったと思う。私の中であの煙草の銘柄とネズは最早イコールで結びついており、どちらが欠けても私の不安定な中見はもう固定されない。

「……ほんと、失敗でしたよ」

 突然現れた、ネズ愛用のそれと遜色ない程の苦々しいかんばせと眼に、何をそんなに憂いているのかと見透かすことが困難になってしまう。煙草の味を教え合うキスを本気で厭うているわけではないと実のところわかっていたのだけれど、であればこの男は何に対してそんな憂慮を抱えて、今私の目の前に晒しているというのだろうか。

「あんまり、傾倒してはいけないですよ」
「何のこと?」
「あんま、自分で自分をイジメんなって話です」

 ますます理解をし損ねた。合わさったままの瞳の奥が、ゆらりと揺れている。天に沖する煙ともまた違うその揺れ方は、はたして何を伝えんとしているのか、私では読み取ることが難しい。

「やめられる時にやめておかないと、練習をしておかないと、いつか後悔するのはお前だよ」
「肺の心配をしてくれてるの?それなら、ブーメランだって」
「俺はいいんだよ、リスクを恐れる人生なんかつまんねぇですから。でも、イリスは違うでしょう」

 本当にわからなくて少しずつ眉が寄っていく。リスクを承知の上であることなど、こちらも同じであるというに何を問題視しているのだろう。
 ネズは正に煙のような男ではあるが、時折こうしてしっかりとした実体を表し、そして酷く精巧な人間らしい口をきく男でもあった。ペラペラと回る口ではなく億劫そうな言動が常で、自ら音楽の上に乗せる言葉は汚かったり、綺麗事を根こそぎ剥いだような雑言だったりするのに、こうして社会に優遇されるような優等性を見せつけられてはほとほと困ってしまう。アンニュイを売るのであれば、それを貫いて欲しいと願うのは独り善がりであろうか。

「もう甘さで満たされないってのは厄介だ。俺はダメなヤツであるけど、誰かを道連れとか、そういうのは考えていないんですよ」
「ダメとか言わないでよ。ネズに救われた回数なんてもう指じゃ足らないし、いつだってそうなのに」
「一人で歩けるようになっておかないと。俺から巣立つ日の為に、自分の足で」
「……何それ、別れようって話?」
「そういう物理的なことじゃないよ」

 頭を落ち着かせるものがないから少し苛々しているのかもしれない。知らぬ合間にネズを睨みつけていたことに、自分の口から出た剣呑な声音のお陰でようやっと気が付いた。それでもネズは憂うる瞳を別の色に塗り替えることもなく、平素通りの単調なのに私の耳を強かに打ち付ける音を唄うのだ。

「共倒れなんて、御免なんだよ」
「もたれかかられることが好きなくせに」

 苦みの残る口で囁けばとうとう憂うるかんばせも瞳の色も変えるのに成功して、隠すことなくにたりと笑みを浮かべてしまった。
 ネズの本質などとは、私ではその構造把握に努めるには至難であるが、少なからずこうして私に対してはそうであると端からわかっている。なにも、求めるのは私ばかりではない。

「ネズが側にいてくれると、息を吸うのがとても楽だよ。ここにいてもいいんだって、此処で生きてていいんだって安心できる。苦くて不味いもの、もう忘れられない味」
「……銘柄、変えるか」
「そこで禁煙って頭にならないところが好き」

 きっとネズから巣立ったところで、遅かれ早かれ頭も舌も同じ味を求めるであろうことは火を見るよりも明らかであり、ならば死ぬまで同じ穴に落っこちたままにいたい。甘い希望の味なんて、くそくらえ。


20201011