短編
- ナノ -


 カミサマのドンデンガエシ

 政略結婚ときいて、どんな結婚生活を思い浮かべるだろうか。
 フィクションにおいてそれは男女の間に冷たい風が吹き抜けるような寒さを感じさせる描写がほとんどで、愛し合った末のゴールインではなく邪な思惑を重ねて繋がりを強固にするための手段でしかならず、場合によってはその後しっかりと愛を育むケースもあるのはあるが、大抵は同じ屋根の下に暮らしながらも目はお互いよそに向けられたまま、だなんてことも多い。

 イリスとダンデも一見そうであると言えた。
 イリスがダンデに輿入れさせられたのは彼がバトルタワーを開く間際のことで、リーグ委員長にもなった彼に群がる欲に目が眩んだ人間は山ほどいた。もちろんそんな話を運営委員の重鎮が持ち込んできた際にはダンデもあからさまに渋面を作ったし、最後の最後まで抵抗を見せたものだが、あまりにも大きく揺れ動いたガラルの情勢と不祥事の色を薄くしていくためには、新チャンピオン誕生というビッグニュースだけでは事足りぬと判断され、マクロコスモスの重役達まで連日詰め寄ってくるのだから、結局ダンデは身を固めることで今後の援助も受けることができるようになった。
 ダンデはマクロコスモス所属ではないが、バトルタワーはローズタワーを改築して開くのだ。どうあっても切っても切り離せない間柄になってしまう。悲しいが前任のせいで暴落してしまった株価を上昇させるには大衆への心証操作も大事な措置の一つである。
 そんな中で多くの候補の中から家柄という出自だけではなく品行方正な出で立ちからダンデの指が最後に止まったイリスだが、彼女は期待など端からしていなかった。たったの一日顔を合わせただけの二人はその時点でもう結婚は決まっていたも同然で、いくらなんでもほんの数時間の間にお互いを尊重し合えるような愛を育めるべくもないと理解している。

 だから結婚してしばらく経っても一向にダンデがろくに名前を呼んでくれなくとも、バトルタワーで寝食を繰り返していようと、俺の家ってどこだっけ?状態になり道に迷って家まで辿り着けなくとも、アフタヌーンティーを嚥下するのと同じ感覚で平気に飲み込んでしまえる。

「お務めですか」

 “たまたま”玄関を開くという瞬間に居合わせて後ろからイリスがそう声を掛けても、ダンデから色好い返事が貰えた試しはない。素っ気無い「……今日は違う」だけでも、イリスに全く動じる必要はない。背中を向けられているのを良いことにその広い背中をじっと形良い瞳で見つめ、「いってらっしゃいませ」と油断すれば動いてしまいそうになる顔を無理に固めて声を掛け、しかし「行ってくる」と低い声が返って来たのでいささか驚いてしまう。
 ダンデが完全に姿を消し、その後を追うように数名の黒服が続いた所で、ふぅ、と小さく溜息を吐いてからバタバタと自室へと向かい始める。
 愛のない男と女だ。寝室を共有、という意識は少しもなく、ダンデとイリスの寝室は別々に設けてある。イリスの親が建てたこの家は外から見ても中から見ても豪邸と呼べるような大袈裟な造りをしており、長い廊下をスカートを翻しながら速足で行く彼女に掃除をしていた数名の女の使用人達がさっと両端に寄って真ん中を開けてやれば、「ありがとう」と息切らせながらも鈴の鳴るような心地よいソプラノで歌われる。だけれど彼女達がそのソプラノに良い思いをするかどうかは別の話で。

 またか。

 イリスの背中を見送る使用人が遠慮もなく呆れた顔をするのを、隣の使用人は咎めようとはしない。何故なら彼女もまた同じ顔をしているから。
 淑女と名高い奥様が膝丈のスカートをバサバサと翻しながら駆けていく様など最早この家の名物で、教育係でも何でもない彼女達にスカートを翻さないようにと注意するような権利はないし、どうせいつもの、と呆れてすらしまう使用人達は今日も平和だなとそれだけで日和ることができる。奥様の趣味は決して日和れるような生易しいものではないだろうが。口さえ噤んでおけば口座に毎月給金が振り込まれるのだからそれでいい。

 などと自分と家の世話をしてくれる人間達に思われているとは露知らず、いや思われたところでどうってことないこの家の奥様は、自分の寝室をバタンと少々手荒に開けて再びバタンと閉め、ベッドへと一直線に向かう。しかし天蓋の付いた柔らかくふかふかのそれに用はなく、傍らにしゃがみ込み、そこにある小さなサイドチェストをずらし、真下にある正方形の蓋を外す。
 早く、早くしなければ。気を逸らせつつ階段を駆け下りていく。この家の見取り図には存在しない地下空間を進むイリスは、真っ直ぐ降りた先にある扉を躊躇なく開き、寝室を開けた時とは打って変わりそっと静かに、淑女らしく丁寧に閉める。
 煌々と部屋を埋め尽くす光。絶えず動く人影。その部屋唯一の回転式のチェアに腰かけ、コードレスイヤホンを耳に差し込み、目の前に聳える部屋の一面を飾る巨大スクリーンを見上げて恍惚の息をそっと漏らす。

「……ハァ、素敵、ダンデ様」

 画面が四分割のスクリーンに映るは、休日となれば家をほっぽりだしてほぼ一日中入り浸っているワイルドエリアに向かっているのだろうダンデの姿。正面、後ろ姿、横顔、真上。四つのサイドから完璧にダンデを捉えている。

「あっ、そっちは違うのに!今日もなんて自分に素直なの!」
『……お嬢様、念のためお伺いしますが、御引止めしますか?』
「そんなのいいわ!お好きにさせて差し上げて!」
『承知致しました』

 イリスの御側付きとしても長い古参の黒服の一人がお伺いを立てるのを一蹴したイリスに、進言をした黒服が反言なく承服して、ダンデが道を逸れていくのに合わせて後ろを追う。このまま進ませればワイルドエリアには午前中に辿り着けないだろうが、世界に唯一、我らのお嬢様がいいと言うのだからそれいいのだ。

「道に弱い所も、あの方の魅力の一つなのだから」

 うっとり。熱っぽくなる頬に掌を添える。



 ――政略結婚でダンデの妻となったこのイリスは、何を隠そう、元よりダンデの熱狂的なファンであった。
 ダンデと結婚させられるまで、イリスの毎日はダンデで彩られていたと言っても過言ではなかった。時たま御来客もあるため自室には置けなかったが、ダンデ様部屋と自ら名付けたチープな名前の部屋の中にはこれでもかとチャンピオン・ダンデのグッズが保管されていた。中身がランダムのポスターは当然のようにコンプリートし、公式から販売されているグッズで手に入れられていない物などない。レプリカユニフォームだって、ダンデが宣伝した商品とそのキャンペーンに伴う非売品グッズだって。
 権力を誇示する性質ではなかったが何せ金には自信があるので、発売日当日にショップの開店と同時に飛び込むなんてこともザラであった。どうしようもない場合を除き自らの手足でそれらを手に入れ、ダンデ様部屋に自分のセンスで飾り付けていく作業はイリスには世界で最も楽しくて有意義な時間だった。
 チケットだけは自分の力で抽選に及んだ。当選したり落選したりと様々な浮き沈みがあり、だけどその過程すらも楽しかった。ただしプレミアムシートにだけは手を出さない。間近でダンデがバトルする様を目の当たりにしたならば、あのリザードンポーズを見てしまったならば、きっと泣き崩れて一生そこから動けなくなってしまうと謎の自信があったので。
 本当ならば自らが稼いだ金でダンデだけでなくリーグやスポンサーに還元したかったが、父親が過保護すぎるため一般労働を許して貰えないイリスはそこだけが小骨のように引っ掛かってはいても、ダンデ様部屋の中で息するだけで幸せの極致となれてしまうので、いつかは自分の金の全てを還元することを目標に、父親に与えてもらうなけなしの書類整理といった人の替えのきく仕事に精を出した。

 そんなイリスにダンデとの結婚話が舞い込んだのだから、イリスはその日が終わるまでにきっと死ぬのだと戦慄した。何を言う何を言われた、人知の及ばない天災にでも真正面から前触れなく襲い掛かられたような心地で即座に前後不覚となり、その場で頽れた娘に父親は歓喜のあまり失神しそうなのだと楽観視していたわけだが、実のところその娘の心の有様は天変地異よりもおぞましい物だったことは、終ぞ父の知るところではなく。
 命日。イリスの頭に点滅するたったの二文字。ベッドに入ることがこんなに恐ろしく思えた日など生まれて初めてで、一睡もできずに夜を明かしたイリスはその時一種の諦めにも似た境地に達していた。
 チャンピオン・ダンデとは、人生の全てである。全てではあるが、じゃあダンデの人生に関りたいだとか、存在を認知してほしいだとか、そんな大それたことを思って生きてきたわけではない。

 初恋と呼ぶにもおこがましく、イリスの中のダンデは最早神格化されていると言っても何ら可笑しくはないため、なるべく距離を保つことを自分の中で即決した。狂信的に、崇拝とも呼べる対象とおはようからおやすみまで同じ空気の中で過ごせるわけがない。その為政略結婚という初めから被る冠はある意味無敵だった。
 愛がない結婚。だから素っ気無い態度を取ろうと取られようと互いに特筆すべきことはない。寧ろ大歓迎。これで少しでも目を皿のようにして見つめてきた画面と額縁と雑誌の中では汲み取りきれていなかった優しさの欠片でも与えられてみろ。きっとどころか確実にぼろが出るどころではないに違いない。
 だって、これは政略結婚。ダンデから愛を貰える日は永劫に来ないだろうし、愛と呼ぶにも恐れ多いが、もしもその片鱗など向けられでもしたらその場で燃えカスにでもなり塵も残らないに決まっている。適切な距離で適切な枠組みを組んでそこから眺めているだけで十二分に満足だった。一人熱を入れて一人盛り上がる。それが今までのイリスの生き方であった。
 だがしかし、いざ共に暮らしてみると、それまで気付かなかった欲求に苛まれてしまったのだから。

 もっと知りたい。もっともっと、ダンデについて知りたい。

 妻だけに見せる顔が知りたいのではない。画面でも額縁でも雑誌でもない生身のダンデの生態がそれはもう気になって気になって、一人ベッドの上で夜を過ごすことすら困難を極めてしまった。壁を隔てたあちら側にダンデが寝ている。自分の絶対的な神が人間らしくどんな寝息を立てているのか、寝顔を作るのか、寝言は言うのか。
 一度気になりだせば収拾がつかなくなってしまい、初めは寝室にカメラを仕込むだけだったのが、気付けばリビングに。庭に。次第に家の中の様子だけではとうとう足らなくなると外でのダンデの姿を追いかけるようになってしまった。もちろんイリスに人をつけるような技量はないため、自身の側近に。
 お嬢様を守ることに特化した側近達は実に優秀で、お嬢様を守るためのスキルをこんなことに使っても良いのだろうか……?と疑問に思うことも稀にはあるが、大事なお嬢様たってのお願いを当然無下にしてはならないので、こうしてお嬢様の旦那様の代理ストーカーを毎日のように続けている。

「あっ……迷子になってる……ふふ」

 結局ワイルドエリアと別方向に進んだダンデは、道のど真ん中で立ち止まり首を傾げていた。その仕草は高性能カメラが余すところなく鮮明にイリスの前に映し出され、また熱い頬に掌をあてた。
 ダンデには魅力となるものが数多あるとイリスは常々思う。凛々しい顔立ちと雄々しいながら観客を大いに沸かせるバトルセンス。現在はタワー内にて無観客の環境下で圧倒的な強さを誇る。風に靡く紫の髪が、たなびくマントが、翻るジャケットの裾が、いつだってイリスの心を嵐のように掻き乱してきた。そういった容姿面だけではなく、強靭なメンタルに鋭い観察眼。厳しい意見にも卒なく対応し得る話術。まるで完璧とも思えるダンデに付き纏う、方向音痴というポイント。それはイリスにとってはマイナスポイントでもなんでもなく心の底から愛らしい一面であった。
 あれがあってこそのダンデ。一見すれば隙がないように思えるのに、道に迷った途端にたちまちこうしてきょとり顔を惜しげもなく晒す。ある種母性を擽るようなその一連の動作に自分があのダンデの名目上の妻であることなど関係なく胸の内が疼き、今日も素敵……、と甘い溜息を溢してしまう。要は痘痕も靨なのだ。
 スクリーンの中のダンデは、再び予測不可能の足取りで前進を始めたために側近が見失わずに追いかけるのも毎度苦労するが、やはり大事なお嬢様が満足できればこちらも満足なので、着かず離れずの距離からプロの技術をこれでもかと駆使してダンデを追いかけ始める。

 神のように崇めるダンデの人生に己は本来不要。同じ屋根の下、顔を合わせることがほとんどなくとも、口をきくことがほとんどなくとも、指一本未だ触れたことがなくとも、同じベッドの上で夜を明かしたことがなくとも、ダンデの全てを追いかけることに幸福を感じるイリスは、それでもう良いのである。


 
 結局ワイルドエリアにはリザードンの力を借りて辿り着いたダンデは、その後キャンプを楽しんだ後にリザードンの背に乗り帰ってきた。リザードン対策も万全の黒服達により送られてくる、広大で自然も豊かなワイルドエリアの一角で手持ちのポケモンと共にはしゃぐダンデの映像には終始呼吸を乱され、全てを見届け終えた後に平素の感情を消した顔のまま玄関まで出迎えに出たイリスが距離を保ちつつ、「お帰りなさいませ」と声を掛けたところでダンデからはまともな返事はないが、それで全くもって構わないのでイリスの心の中は憂いに波打つこともない。寧ろ、素っ気無い態度歓迎。
 食事はどうするか、風呂は。妻の標本のようなことを口にしてもそれは同じなのだが、今日はなんと、いつもと違ったのでイリスは寸での所でひっくり返りかける体をどうにかその場に押し留めた。

「今日も、変わりなかっただろうか」

 何がだ?変わりない?何が?
 ダンデとは同じ国に生まれ、同じ言語を操っている筈なのに、イリスには彼の今しがた発せられた言葉の意味が何一つわからなかった。ダンデの口が自分に向いた瞬間既に体内の水分が蒸発しそうになったのに、まさか、言葉まで。

「イリス?」

 目を見開いて硬直した名目上の妻の様子にダンデが訝しむ視線を送り、それが更にイリスに追い打ちを掛けていることに自覚がないのだからしょうがないとわかってはいるけれど。イリスが眩暈を覚えるのも致し方ないことだった。だって神にこの場で存在を認知されて剰え話しかけられてしまった。

「……か、かわっり、あり、ありませ、ん」

 変わりないってどういう意味だろう?思わなくはなかったが、これ以上ダンデの側で息をしているとその内心肺停止になりそうだったので、端的に、そしてスマートに切り返してよろけそうになる体をどうにか足を踏ん張って堪える。全く端的でもスマートでもないのだが、イリスにとってはそれが今できる精一杯である。

「い、いつものようにお食事、すぐにご用意できますので、ごゆっくりなさってください」
「君はもう食べたのか?」
「たべました」

 嘘だが。最早世界で何が起こっているのかイリスにはわからない。結婚してこの方、今このやり取りが最も長い会話である。
 その後自分が一体何を口にしたのか。再び舞い戻ったスクリーンの前でイリスは顔を覆って俯く。気分が優れないから先に休む、そうしっかりと言語に出来ていたと思いたいがどうにも記憶が薄いし怪しい。心拍数が上がり切って服越しでも血管が脈打っていることがようくわかる。うだる頭でくらくらした。

 今まで、何があった?

 現実を受け取ることを拒否するかのように思考が沈んでいくが、しかしダンデの食事風景は拝みたいのでどうにか顔を上げてスクリーンを見やる。しかしそこに既にダンデの姿はなく、絶望した。録画してあるので後からいくらでも映像は見直せるが、リアタイがモットーのイリスには辛いものがあった。
 そのダンデの姿は既に自室にあり、いつの間に、と唇を噛んで嘆いてしまう。ダンデが歩く姿さえも尊いものなので、リアタイできなかったのが非常に悔しまれた。
 しかしまだ浴室に入ってもいないのに服を脱ぎだしたものだから、更にイリスを精神的に追い込んでいった。そしてなんと、偶然にも仕込んだカメラ越しに、横眼ではあったが目が合う。不整脈が加速していく。なんて、セクシーな顔。

 イリスは正常さを失っていく意識の片隅で強烈に思う。
 この後世界は本当に終わるのかもしれない。




 長年チャンピオンとして観衆の前に立ち続けたのだ。それによりファンサービスが得意となったダンデにとって、これしきのこと造作もないことである。
 何せ可愛い妻のため。妻が楽しく生きられるのならそれに越したことはない。
 そろそろ指一本くらいは触れたいところではあるが、まぁそれは追々。

 ――政略結婚ときいて、どんな結婚生活を思い浮かべるだろうか。
 フィクションにおいてそれは男女の間に冷たい風が吹き抜けるような寒さを感じさせる描写がほとんどで、愛し合った末のゴールインではなく邪な思惑を重ねて繋がりを強固にするための手段でしかならず、場合によってはその後しっかりと愛を育むケースもあるのはあるが、大抵は同じ屋根の下に暮らしながらも目はお互いよそに向けられたまま、だなんてことも多い。

 愛のない政略結婚。そうして始まった筈のダンデとイリスの夫婦生活。
 しかしダンデは、妻が大好きなのである。


20201006