短編
- ナノ -


 いつか繋がる空の下

 久しぶりに目にするローズさんは、髭が大変ご立派なことになっていた。隣のダンデは幾度か面会に訪れていたようだからとっくに見慣れた姿かもしれないが、この場を訪れるのが初めての私にとっては当然それに当てはまらない。
 記憶の最後にあるローズさんは、あのブラックナイトの日の液晶画面に映った姿。綺麗に整髪料で整えられた髪に、蓄えた髭。品ある上質なスーツを着こなし、知性だけでなくユーモアまでも兼ね備えた、誰もが尊敬する姿のままで、瞬く間にガラルを混沌に陥れた。
 けれど、今のローズさんは。

「もしかして、イリスさんですか?」
「え、あ、はい。そうです」
「ダンデくんからいつも貴女のお話、伺っていますよ」

 僅かに肉の落ちたように見える体躯。ボツボツと不揃いな髭に、伸びて下を向いている髪の毛。支給されているであろう質感の悪そうな衣服。それでもどこかしら上品な印象を受けるのは、ローズさんが私の生きた倍はあるだろう長い時間に培ってきた性質に間違いない。それは生まれ持った気質なのかもしれなくとも、穏やかな物腰はメディアを通して見ていた頃の彼とあまり相違ないように思う。
 見目がこうして変化していてもそういう所が腐らないのは、特にこういった場所に精通していないから想像の範疇からは抜けないが、凄いことなのではなかろうか。彼のこれまでの生き方を、暮らしぶりを考えれば、刑務所の塀の内側は決して楽な場所ではないだろうに。

「初耳です。ダンデ、いつもどういう風に私のこと話すんですか?ダンデ全然ローズさんと会った日の話をしてくれないんですよ」

 挨拶を終えてすぐさま、名乗るよりも前にもたらされた話題を聞き捨てるわけもなく、釣り針に向けて泳ぐように飛びついた。尋ねたことは実際、本当のことだ。ダンデはほとんど、ローズさんと何を話したのかは教えてくれない。

「貴女の存在が力になっているだとか、支えてくれているとか、料理が少しばかり、」
「そこまでにしてください!」

 少しばかり。その先は簡単に予測できてしまったので、じとりと目を明後日の方にやって冷や汗をかいている隣のダンデを薄目で睨んだ。料理がそんなに得意ではないことは自覚しているが、それをローズさんに話したのか、わざわざ。

「ダンデくんにとっては貴女の数多くある愛嬌の一つですよ。貴女は彼にとても愛されている」
「……ありがとう、ございます」

 含みも感じられない穏やかな笑みを向けられれば、現金にも悪い気はしない。けれど機嫌が直りかける私にダンデがホッと息を吐くのが見えてしまったので、今だけだぞ、と心の中から未だ目を逸らす男に念を送る。詳しい話は帰ったらだぞ、心の準備をしておくように。

「で。こうして二人揃って遥々会いに来てくれたのですから、本日は一体どんなお話をしてくれるんでしょうか」

 指を組んで私とダンデを硝子越しに見ているローズさんに、その僅かに細めながらも見透かすような瞳の色に、ああ、と思い至る。
 洞察力の鋭い彼はきっと、ダンデが私を連れ立ってこの場に現れた時点で察しがついていたのだろう。ダンデも観察眼に優れてはいるが、ローズさんは伊達に長年実質のガラルのトップを張り、面の皮の厚い人間や二枚舌を捌いてきたわけではない。ダンデだって少なからず、人を相手取るノウハウの大凡は彼から教授されているのだろうから。

「彼女と、結婚します」

 ローズさんの柔らかそうでありながら凛としたものを残す佇まいを見て、自然と背が伸びたダンデが、あくまで端的に伝えた。これはやはり最初から察していたと考えて間違いないようで、ローズさんは驚く気配も全く見せずに「相談ではなく報告なんですね」と微かに笑った。心なしか、笑うと刻まれる目尻の皺が深くなったような気がする。

「イリスさんとの惚気は何度も聞かされていましたが、結婚の相談まではされていなかったので、わたくしびっくりですよ。成程。ダンデくん、自分でしっかりと考えて、自分で決めたんですね。お二人ともおめでとうございます」
「……本音としては迷いました、貴方に相談するか。だけど、自分の考えだけを信じたかったんです」
「とてもよいことです。ダンデくんはもう、立派な大人ですから」

 ダンデはローズさんの言葉に、自然と口を噤んでしまったようだった。繰り返すがローズさんとここでいつも何を話しているかは知らなかったので、自分一人で導き出したことなのだと私もたった今知った。結婚しようとプロポーズされた際には喜んで号泣したけれど、どうやらその時点でダンデの心中では、想像していたよりも遥かに複雑なことが背景にあったようで。

「ローズさんには、本当に、感謝しています。してもしきれません。貴方がこの硝子の向こうにいることが、今でも歯がゆい。貴方のいた座に居座ることも、時折。まだ気を抜くと、貴方の事を委員長と呼んでしまう」
「板についてきていますよ、委員長。ダンデくんはわたくしとはまた違うベクトルで物を考えられる人です。わたくしとは別の視点から行動を取れる人だ。今もそうですが、今後もガラルは、わたくしがいた頃とは一味違った盛り上がりを見せてくれると思っていますよ。体を動かすのが大好きなダンデくんにとっては、室内に詰めることも多いバトルタワーと二足の草鞋を履くのは大変でしょうが」
「貴方ほどではないです。委員長でありながら大企業を多く取りまとめていた、貴方ほどでは」

 ローズさんの指が自分の髪をくるくると弄ぶ。私でも知っている彼の癖だ。

「……そっか、そうか、そうです。そうですよね。もう君は、立派な大人なんだ」

 明るいグリーンの瞳を隠すように瞼が静かに閉じられ、その自分に聞かせるような声音には、二人の歩んだ道の全てを把握していない私でも、底知れぬ感慨のようなものを見つけられた。あの暗くなった瞼の裏の景色は、何となくだが想像がつく。
 ダンデにチャンピオンとしての道を歩かせたのは他の誰でもなく、このローズさん。ダンデの性質を生かしながらも英雄として適切な場所へ運ぶために育ててきた人。
 親元から離れて大人に囲まれる世界に生きることを余儀なくして、しかしその手をしっかりと繋ぎ、時には先導し、時には目を離し、チャンピオンとしてのダンデを形成する助成を行ってきた、ただ一人の人。

「貴方に、式に参列してほしかった」
「わたくしもよくオリーヴくんに窘められましたが、君も大概、無茶なことを言い出しますねぇ」
「貴方に、貴方だからこそ」

 堪えるように拳をぎゅっと握るものだから、迷った末に上から掌でなるたけ優しく覆った。ハッとして、私を見やるダンデにへらっと笑い掛けた。私もそうだよ、と伝わっただろうか。
 理解のある、その場を取り繕うイイコな女の素振りを見せてもいいが、ダンデはあまりそういう類を好みはしない。

「……ダンデくんがイリスさんを選んだ理由、わたくしにも少しわかりましたよ」
「そうですか?ローズさんにそう言ってもらえるなんて光栄です」
「貴女が側にいてくれるなら、ダンデくんも過ちを犯すこともないでしょう。わたくしのようにね」

 穏やかな顔つきから一転、自嘲気味に笑う顔は、けれど何処か悪戯っ子の色を内包する子供じみて見えた。誰かに隠していた悪さがバレてしまった時のよう。
 この人はダンデの父親ではないが、ずっと共に在った人だからか、不思議な所に繋がりが生まれていたのだと今更になって痛感した。似たような顔、ダンデもよくする。

「写真、持ってきてもいいですか」
「はい。ぜひ見せてください。イリスさんのドレス姿、わたくしも楽しみです」
「ダンデのタキシードも期待しててくださいね!」
「はは、そうですね。……そろそろ時間ですね。改めて、二人の新たな門出を心より祝福しますよ」

 もうそんなに時間が経ったのか。名残惜しいが、と後ろ髪引かれる思いで立ち上がったところで、不意に名前を呼ばれた。つられてダンデも動きを止め、二人でローズさんを見つめる。何故ダンデではなく私だけを呼び止めたのかと首を傾げながら。

「ダンデくんのこと、宜しくお願いしますね。幸せにしてあげてください」

 瞬間、胸が張り裂けそうになった。呼吸が詰まる。ダンデにもわかったのだろう、隣で息を止めた気配がした。

 世間では、ローズさんを仇にでもしたかのような人間が、どうしても一定層存在している。評判も良かっただけに彼がしたことに反感を抱いてしまうのだ。好意を抱いていた反動とも言えるかもしれない。ローズさんが多くを語らないままに縄を掛けられてしまったのも原因の一端だが、それにより憶測が憶測を呼び、これまでの功績すら貶めるような糾弾も見られる。人間、優先的に目に入るのは良いことよりも悪いことばかり。
 ダンデがいてくれなければ、下手をすれば私もそうなっていたかもしれない。ローズさんは、個人の欲望の為にブラックナイトを引き起こしたわけでも、ムゲンダイナを扱おうとしていたわけでもないのに。

「……二人で幸せになって、じゃないんですね」
「……おや、言われて気が付いてしまいました」

 結局ローズさんは、ただただ、ガラルが大好きで、そして今となっては、育ててきたダンデがきっと心の片隅では大切なだけで。大切だけど、大切なだけでは事は簡単に成り行かなくて。

「……幸せにしますよ。私が幸せにします。そうすることが私の、二人の幸せになる。約束してもいい。間違いは絶対に起こさせない。笑いたい時は笑って、怒りたい時は怒って、叱らなきゃならない時は叱ります。わからなければ、頬でも尻でもひっ叩いて目を覚まさせます。ダンデも、そういう私だから好きだって言ってますから」
「……本来なら、わたくしがこんなことを言うのは違うのでしょう。ですが、敢えて口にしますよ。……お願い、しますね」

 二つの目尻が再び、ぎゅっと深い皺を刻んだ。

 貴方の轍を、そのままそっくり歩ませはしない。貴方とダンデは、似ていても全く別の人間だ。貴方が今までダンデをどう思っていたとしても、貴方がダンデにどんな価値観を与えていたとしても、これから先側にいる私が貴方の願いを汲み取りつつも、私なりの幸せをダンデにばら撒き続けていく。
 優しそうに微笑むローズさんの顔に、どうしてもそうであれと願ってしまう。ダンデをチャンピオンに据えた思惑が確かにあったとしても、小さな子供をここまで大きくしたことに対する愛情を願わくは持っていて欲しい。愛情とまではいかずとも、どうかそれに近い涙が出るように温かい、何かを。

 私もダンデも信じていますから。貴方の言葉を、これから先、ずっと。
 そしていつか必ず、同じ空の下で会いましょう。


20201003