短編
- ナノ -


 愛ある食事

「他の女は私の事を羨ましいと言うけれど、代わってくれるのなら喜んで代わってあげたい」

 行儀よくテーブルの上の料理に順番で手をつけていくイリスの口は、もうずっと止まる気配を見せない。次々と空になっていく皿は見慣れた光景で、邪魔にならないよう重ねて端に寄せるのは俺だけに許された大役であり、しかしそれよりも彼女の唇を注視していたいので手だけは休まず動かしているものの、目の先は赤い唇から外れることは決してない。

「常に空腹と戦わないといけないこの底なしの空虚感は、簡単には理解してもらえない。それだけ食べても太らないのが羨ましいだなんて、私は適度な空腹で済むあの人達の方がよっぽど羨ましいのに」

 一枚、一枚。少しも間を開けることなく空けられていく皿。ブラックホールを体内に飼っているのではと見紛う程の圧巻さは、いつだって心地いい観賞だ。
 一見すれば女性らしい丸みを形成しつつ、きゅっと締まるくびれが悩ましい体つきは昔から同性より羨望を向けられるものらしい。女の体格に興味があるかと問われればそれまではノーとすんなり答えられたのに、イリスと出会ってからというもの、最早その答えは適正ではないのだと今や思い知ってしまった。

「ソニアやルリナも前にそう言っていたな」
「確かに体形に悩まなくていいのは良いことだけれど、私のこの悪性もよっぽど面倒なのに。これのせいで男がみぃんな離れていく。女からは嫉妬を向けられる。私はいついかなる時でも空腹と渇きを覚えてしまうのが苦しいのに。……ダンデ、ここからここまで追加していい?」
「仰せのままに」

 チラリとメニューを横目で見やりそう頼まれたので喜んで応じる。ウェイターを呼んで追加を頼み、山となった皿を片してもらう。その間もイリスは自身の前にまだ残る皿を黙々と平らげていく。既に顔を覚えてしまった山のような皿を下げる彼にとってもこの光景は見慣れたものとなってしまったようで、初めの頃のように慄いた様子は見受けられない。

「他の男が離れても、俺は違うだろう」
「ええそう、そうね、とってもありがたいしいつも感謝している。こんなに美味しい物をどれだけ食べてもいいだなんて、私こそ貴方とはもう縁を切れないかもしれない」

 スペアリブをナイフとフォークで綺麗に切り分けてから口に運ぶイリスの言葉に、ぬか喜びはしない。彼女は俺を資金源として歓迎しているだけであって、色事の対象としてその言葉を口にしたのではない。
 誤解されないよう弁明しておくが、資金源としての役割は自ら申し出たのであって、彼女から打診があったわけではない。寧ろ初めの頃はこれでもかと遠慮していたし何度か断りを入れてくれたものだが、厚意の元でこうして食事を提供しているだけであるので、とどのつまり全ては自己満足の範疇なのである。それをイリスが理解してくれてからというもの、個室であることも手伝っているが、こうして俺の前でだけでは何も気にすることもなく好きな物を好きなだけ胃に納めてくれるのだから、俺の体に走るのは悦びである他ない。

「あれ」
「ほらここだ」

 皿に残ったソースが指についてしまったらしく、短い言葉を発した後に視線を彷徨わせたのですかさずナプキンを手渡す。
 ありがと、と呟く赤い唇はルージュが僅かにとれてしまっていたが、油と脂のせいでテカリと艶めかしさを帯びていた。指を拭い、ついでにその唇を躊躇いなく拭いてしまったので艶は失われてしまったが、どうせすぐにまた艶を乗せるのもわかっている。

「ダンデは本当に食べなくていいの?」
「俺は腹減ってないから」
「もう済ませてきた?今夜もわざわざありがとう、ごめんね」
「いいんだ、俺がこうして誘っているんだから」

 本当は事前に腹を満たしてなどいないが、気兼ねなく食べてもらいたいから必要嘘である。それにこの位置は間近でイリスの常人よりも遥かに旺盛な食欲を眺められる特等席なのだ。他の誰でもなく俺の前でだけなら、こうしていかんなくブラックホールを発揮する様を少しでも見逃さないためには、同じように料理を食べながらではいささか難しい。

「そろそろ追加するか?」
「うん」

 先程追加した分を早々に平らげかけている。チラリと恍惚じみた上目だけが向けられれば、腰元がぞくりとした。
 平たい言い方をすればイリスは大食らいで間違いなく、その腹が満足を覚えることは稀有なことである。しかし彼女はがっつくでもなく品のある食べ方をする。自身の目の先にある馳走に我を忘れて手を伸ばすような情緒ない行動は絶対にしない。
 俺のように皿の上の物を飲み込むような真似はせずに、しっかりと味わい、咀嚼し、食材に感謝を覚えながら飲み込む。どんな時でも空腹と喉の渇きに苦しみ、こうして大量に胃に流し込んでも中々に満足感を得られないのは難儀だろうが、身に覚えのあるその空漠に寄り添えるのは世界にただ一人、己だけであると自惚れている。
 俺だけかもしれない。食事とバトルは、とてもよく似ているように思うのは。

「料理ってね、食べ物ってね、愛が詰まっているの。手塩にかけて育てられた食物に出会えることが、それを目の前に差し出されて丁寧に味わえることが、私は大好き。何もいつもお腹が空いているからこうして食べているわけではないの。人って愛がないと生きられない生き物だもの。こうして私だけに与えられた愛を食べられることが、とっても幸せ」

 勿論誰と食べるかも大切。そうやって愛と幸せを語る口元を拭ったナプキンに、赤色が移っていた。


 やがてとうとうデザートにまで辿り着いたのだが、ここまで至るのに相当の時間を要した。乱暴に流し込まないイリスは丁寧に食事するために時間を多くかけるのだ。その長い時間の間、ずっと彼女の口が空腹と渇きを鎮めるために淀みなく動き続ける様を、血肉とすべく喉が上下する様を拝めるので、何一つ不自由も退屈なこともない。
 食事する合間にルージュが落ちても尚赤い唇に延々と吸い込まれていく様が、とても美しい。唇から覗く白い歯列も、赤い舌も、何もかもが。うっとりと目を細めて舌鼓を打つその顔にも赤みが差し、ソースがついた唇の端をぺろりと舌が這う一連には、あられもなく幾度と生唾を飲み込んでしまった。

 食欲は三大欲求の一つである。貪欲で果てのないその欲は、けれど全てが似通っている。睡眠欲も、性的なそれも。
 イリスはどんな風に、人間を味わうのだろう。彼女が食事の為に動く唇を見つめると、いやそうでなくとも頻繁に妄想してしまう。
 その艶めかしい赤い唇と舌と白い指先は、どのように皮膚を愛するのだろう。

「うまいか?」
「ええ、とぉっても」

 ケーキの慎ましい切り分け方も心得ているイリスの瞳は、一旦の最後を迎えかけているせいかとろりと溶けている。こうしてある程度の満足感を得られても数時間もしない内に再び底なしの食欲を取り戻すのだから、次の約束まで手ずからそれを満たしてやれないことにはいつも寂しさが付き纏う。彼女の欲は全て俺の前でだけ曝け出して欲しい。

「……やだ、どうしてだろう、まだ足りないのかな」

 今夜はこれにて終い、と皿を全て下げてもらい食後の紅茶でイリスが自分を落ち着かせている最中、ぽつりと赤い唇が動いた。化粧のせいには見えない火照った頬に白い手を当てて、微かに首を傾げて俺を見ている。
 ゆったりと瞬きをする甘く溶けたままの瞳が、あまりにも婀娜で。

「ダンデが、とっても美味しそうに見えるの。格別なご馳走に」

 死ぬまで向けて欲しい眼差しだった。細胞の一つ一つが産毛立つ感覚。
 それって、どの意味の“美味しそう”なのだろう。


20200923