短編
- ナノ -


 あなただけが好きでした。

※死ネタ


 好きだった人が此度、息を引き取った。若い娘の訃報に彼女と繋がる人間達はこぞって悲しみを露わにし、幾人もの人間が花を片手に亡骸の元へと訪れた。
 それに漏れず棺の中に綺麗に納められている物言わなくなったヒトに会いにきたのだが、頭の中にあるのは「何故」などと単純な疑問ばかりで、それをぶつけた所で誰からも本当に欲しい正解が貰えないこともようく理解していた。
 つい先程知った、細い体を蝕んでいた病のことなど、その方面に明るくない己が説明されたところで右から左だろう。それに、今更正解が与えられても、もうどうにもならない。

 好きだった。今も好きだ。君だけが特別だった。
 今世の何もかもから脱却し、永遠の眠りについた美しいイリスに、許されるならばこの場で冷たい唇に口付けてしまいたい。


 未練がましいとそしられれば甘んじて受けよう。棺の中のイリスに別れを言葉では告げられても心が離れがたいと叫び続けており、立ち尽くした俺に声を掛けてくれたのは彼女の母親で、良ければ、という厚意の元彼女の部屋に入れてもらう。年頃の女性の部屋らしく明るい色彩が詰まる久方ぶりのその部屋は、カーテンが開けられていることで陽の光を柔らかく取り込んでいるのだが、酷使した瞳には少々痛いくらいだった。
 部屋の中はイリスの残り香がまだあり、最後に彼女と顔を合わせたのははたしてどれ程前のことだったかと思い出そうとして、簡単に記憶の引き出しが開けられないことにようやく気付く。本当に、どれくらい会っていなかったのだろう。
 幼い頃は会うことに理由なんて必要なかった。子供が少ないこの生まれた町では近しい距離にいることは当然のことで、探さなくても隣にいることが日常だった。それが段々と距離を開けるようになり、それは俺がチャンピオンとなったことが一番の要因だけれど、実家に顔を出してもイリスの顔を見なければ帰って来たという実感も持てなかった。ふんわりと出迎えてくれる彼女の「おかえり」が、たまらなく好きだった。彼女の無垢な優しさは、その場限りでも自分を優しい人間にいつだって変えてくれる。
 ダンデ君、と呼んでくれる彼女の声は、何よりも耳に心地よく届いた。

 恋心に気付いたのはもう随分と距離が生まれてからの事で、気付いた瞬間すぐにでも会いたくなって、恥も外聞もなく伝えたくなって、イリスの部屋に飛び込んでベッドに横になっていた彼女に真正面から気持ちを叫んだが、するとあまりにも予想外なことに、はらはらと泣き出してしまったではないか。
 静かに流れていく涙は、瞼に鮮やかに焼き付いている。声も上げずにただただ涙を音もなく流すだけとなったイリスに頭をガツンと殴られたような気分だったこともよく覚えている。
 そんなに、嫌だったのか。俺の事を、君はそんなにも嫌っていたのか。動揺して固まる俺に、しかし彼女は思い返せば色味の悪い唇で言い放った。

「ごめんね、ごめん」

 “ごめん”の中身を教えてもらえなかった、残酷な夜だった。
 今ならばわかる。あの時既に、病の種が彼女に根付いていたのだろう。



 イリスの母親から連絡があったのは彼女の体が焼かれて灰となってから少し経った頃で、遺品を受け取って欲しいという内容であった。いくらなんでも拙い関係でしかなかった他人たる自分はそんな大事なものを受け取れない、と何を受け取って欲しいと願われているのか聞くこともなく早々に辞退を申し出たが、母親は頑なに受け取ってくれと縋ってくる。
 そうして言葉では抵抗するのとは裏腹に内心この手に収めてしまいたいという邪な部分を見透かしたように、とどめを俺に刺したのだ。それは全部、貴方の為に残されたものだから、と。
 最初の数行しか読んでいませんが、貴方へ宛てたもので間違いありません。これは、貴方のモノです。貴方に全部、任せます。でもこれだけは伝えておきます。貴方の気持ちは、貴方のモノです。貴方は自由です。
 手渡される際に、母親は言った。


  ◇◇


『手紙なんて書いたことがないので、形式がわかりません。調べればそんなのすぐにわかるけど、これは宛先のない手紙になる予定だから気にしなくてもいいでしょう。手紙というより日記のようなものになるかもしれません。貴方に読んでもらえなくても、私は別に構いません。
さて、簡潔に記すと病気になりました。何の病気かはあまり言いたくありません。貴方に教えるつもりもありません。病名を教えてもらったけれど、それを口にする度に、ああ私はそういう病気を持った病人なのだ、と思ってしまうからです。余命まで宣告されました。それも本当は認めたくないので頭の片隅に寄せておきたいです。死にたくないのに死ぬかもしれない病だなんて認めてしまいたくはない。死にたくないなんて当然でしょう。
まだまだやりたいことがたくさんあります。お洒落したいし、化粧品も欲しいし、美味しい物もたらふく食べたい。旅だってしたいです。今更ジムチャレンジに興味を持っていなかったことを後悔しています。そのせいで私はこの町で寂しい思いをずっとしていました。イリス、と呼んでくれる元気な声が聴こえない毎日が、こんなに虚しいものだなんて、思ってもみなかった。貴方がいないので、今もとてもつまらないです』

『貴方の顔を見ました。テレビでです。いつの間にかすっかりと背が大きくなって、顔立ちが男らしくなってきましたね。貴方の成長を貴方が顔を見せに来るよりも先にテレビで知ってしまうことは、なんだかもったいない心地です。貴方がチャンピオンにならなければ、貴方は私の隣にいてくれたのでしょうか。毎日会いに来て遊ぼうと言ってくれたのでしょうか。
時々夢を見ます。貴方がチャンピオンではない夢です。テレビで見た姿そのままの貴方が私の手を引いて遊びに連れ出してくれる夢です。それは海だったり森だったり、テレビでしか見たことがないワイルドエリアに似た場所だったり。貴方はすぐにポケモンに夢中になってしまいます。でも私もポケモンを追いかけて走り回っているので全然気にしません。夢の中で捕まえた炎の鬣をなびかせるポニータ、ガラルにはいないと現実で知り残念に思いました。カントーなどにはいるそうです。いつかカントーに行きたいです。ニビあられが食べたい。
多分、もう行けないけど』

『病院で病気の進行状況の検査をしました。少し結果が悪いそうです。医者の顔がいかにも、といった感じで顰められていてつい笑ってしまいました。手術に堪えられる体力がないからこうやって病院で診てもらうだけの日々は悲しいので、なるべく笑うようにしています。
貴方の顔を見ても笑うようにしました。この前より背が少しだけ伸びたなとか、声が低くなったなとか、なんだか肩幅急に逞しく大きくなってないか、とか。雑誌も買ってきてもらっています。でも、貴方の笑い方はすっかりと、大人らしくなってしまいましたね。
私は最近痩せました。本当なら嬉しいことなのに、寂しいです。肺が苦しい』

『今年のチャンピオンカップも勝利で終わりましたね。お疲れ様でした。あと、大事な日の前で忙しいのにこの前は会いに来てくれてありがとうございました。きちんと笑えていたでしょうか。咳ばかりで心配させましたね。ごめんなさい。だけど貴方が大人の笑い方ではなく私が大事にしている記憶の中の笑い方を見せてくれて、でもチャンピオンカップについて話す貴方の顔はやはりチャンピオンの顔をしていたので、私も戦わなければ、と思えました。
久々に可愛い服を着られてとても楽しかった。だけど長い時間ベッドから起きていたので疲れが顔に出ていなかったでしょうか。それにうちのリビングってそうだこんなに広かったっけと今更思ってしまいました。あと、階段の上り下りがなんだか億劫でした。
なんだかなんて、自分で自分を誤魔化していて、馬鹿みたい』

『どうしよう、戦い方がわかりません。医者も笑ってくれません。私だけが笑っていて寒々しいです』

『久々にペンを握りました。文字がうまく書けません。歪な字ですが許してください。まぁ、宛先のない手紙だから謝る必要もないのだろうけれど。
オカルト番組で死後の世界について特集がされていました。死後の世界って本当にあるのでしょうか。綺麗なお花畑だと嬉しいです。そこに紅茶とお菓子があればなお。でもそういうのってきっと天国と呼ぶのでしょう。地獄だったらどうしよう。それともポケモンになれるでしょうか。そういうポケモン、いましたよね?ポケモンになれれば、貴方とずっと一緒にいられるでしょうか。貴方の為に戦って、貴方に笑い掛けてもらって、貴方に褒めてもらって、貴方と一緒に寝るの。毛足が長いポケモンだったらブラッシングをきちんとしてね。
でもね、星になれたらなと思います。空から貴方を見守る星。朝も昼も夜も、そこにずっといるから』

『外で走り回りたい。でも体が言うことをきかなくなってきている。咳ばかりで疲れる。高熱も続いている。貴方のバトルが、貴方が見たい』

『昨日程世界を恨んだことはありません。ごめんねしか言えなくて、ごめんなさい。嬉しかった。嬉しいです。今もずっとそうです。貴方のことしか考えられません。貴方の言葉ばかり頭に響いています。今、涙が落ちて書ける部分がどんどんなくなっています。文字が飛び飛びだけど許してください。でもいいよね、貴方に出さない手紙だから。
好きです。大好きです。側にいて欲しい。貴方の笑った顔が世界で一番大好きです。私を呼ぶ声が大好きです。そう、言いたかった』

『眠るのが怖い。明日目が覚めなかったらどうしよう。もう二度と貴方の顔を見られない日が来ることが怖い』

『今日は医者の前で笑えなかった。今までどんな気持ちで笑っていたっけ』

『お母さんと喧嘩してしまった。ごめんね』

『手紙の筈なのに最近結局日記のようになってきていました。また手紙の体で書きます。
活躍が目覚ましいですね。もしかしたら貴方は死ぬまでチャンピオンでいるのかもしれませんね。でもそれって、少し悲しいことかもしれません。チャンピオンの貴方は眩しくて目が焼けそうなくらいで、だけど同時に窮屈そうです。だなんて、主観の話なので聞き流してください。
私のごめんねは気に留めていないでしょうか。貴方に影響していないでしょうか。私のせいで貴方の調子が崩れてしまうのは嫌なので、そうであれと願います。
私のせいでなんて、何様だろうね』

『私が死んだら、私のことは忘れてください。私は貴方とただ家が近くて、昔ちょっと遊んだだけの、故郷が同じだけの人間です。ただそれだけの人間です。貴方に何もあげられない人間です。人は最後に必ず死にます。私はそれが寿命より前だっただけのこと。
貴方と出会えただけで幸福なことだったのだと今は痛感しています。貴方のお陰でなんとか戦ってきました。貴方がガラルに希望を与えているように、私も希望を貰っていました。その希望を胸に抱いて、生きました。不思議なものです。もうすぐ死ぬって、わかることなんだって初めて知りました』

『星になります。貴方を空から見守る星に。貴方が私を見つけられなくても、私はきっと貴方を見つけられる。この体がなくなっても、魂だけはなくならないでほしい』

『なんで死ななくちゃならないの?なんで私なの?ただ普通に生まれて暮らしていただけなのになんで?死ぬのを待つだけなんて馬鹿げてる。馬鹿げてるのにどうしようもない。
死にたくない。貴方に会いたい』

『もし星になれないなら来世が欲しい。貴方と同じ時代にもう一度生まれたい。たとえ見つけてもらえなくても』

『貴方が好きです。どうしようもなく好きです。貴方に会いたいです。貴方に好きだと言いたい。抱き締めてほしい』

『忘れてなんて嘘だ。忘れてほしくない。死んで星になりたくなんかない。来世なんていらない。今がいい。死にたくない。ずっと側にいたい。
私が死んだら貴方は私ではない誰かと恋をして結婚するかもしれない。いやそうに決まっている。もう私は貴方と恋も結婚もできないのだから。そんなの絶対に嫌だ。私ではない誰かと幸せになるなんて嫌だ。あの日言っていれば、ちゃんと返事ができていれば少しは変わったのかな。あの時は忘れてほしいなんてドラマのヒロインのようなことを考えていたのだからなんて頭が悪いの。忘れてなんて言いたくない。永遠に覚えていてほしい。私のせいでもう誰も好きになれなくなってしまえばいい。私が貴方にしがみついているように貴方にも私に一生しがみついていてほしい。私がいなくなった明日を嘆けばいい。やっぱりあの日気持ちを伝えておけば良かった。
私の遺灰は、埋葬しないで貴方に向けて撒いてほしい。はは、呪いの儀式みたい。冗談だよ』

『取り乱してしまってごめんなさい。全部見なかったことにしてください。錯乱していました。
もう時間が残されていないとわかります。両親にも手紙を書きました。ちゃんと読んでもらうための手紙。
貴方への手紙はどうしよう。こんなに何枚も書いてしまって、引き出しの中が貴方への手紙でいっぱいです。読んでもらえない手紙、どうしよう。明日全部燃やしてしまおうか。
などと、もういい子ぶってもしょうがないのにね。自分では出しにいけないから、引き出しの中に全部残していきます。見つかっても見つからなくてもいいです。貴方の手に渡ろうと渡らなくてもいいです。もしも読んでしまったのなら、(続きはぐしゃぐしゃに塗り潰されている)』

『ダンデ君好き。大好き。元気でね。ばいばい、おやすみ』


  ◇◇


 綯い交ぜの感情が全て熱い雫と変わり外へとぼたぼたととめどなく出ていくのを止めようとも拭おうともしなかった。頭の中もあまりに忙しい。ただそれでも、君も同じ気持ちでいてくれたのかと喜んでいる自分も確かに此処にいた。
 水滴の痕をいくつも残した便箋は何枚もあり、日付こそ記されていなかったが状態から長期に渡り書かれたであろうことがうかがえた。全て、俺のことを想いながら一字ずつ丁寧に、時には乱暴な筆跡で書かれている。
 これは熱烈な愛の手紙であり、呪いの手紙でもあるのかもしれない。なにせ、もう俺は君を忘れたいなどと思うことは今後決してないのだから。

 君はもう雲と雲の間を抜けてその先へと行ってしまっただろうか。夜空に煌く星になれただろうか。それとも、透明な姿で俺のことをあの優しい顔で、すぐ近くで見ているだろうか。ポケモンになって、草むらで待っているのだろうか。
 一枚一枚、丁寧に畳んでしまうための箱を探したが、君にお似合いのデザインが見つからなかったから、外に出られる顔になったら買いに行くよ。大丈夫。君の好みはもう随分前から知っている。君にぴったりな箱を探し当ててみせる。
 どれだけ受け入れたくなくとも、君がもうどこにもいない毎日を俺はこれからも生きなければならない。君を想いながら眠りについて当たり前にくる明日の連続の中で呼吸していく。だけど俺が死ぬまでずっと、君は俺の中に生きるんだ。春を迎えて蕾が花開いたような笑顔で俺に「おかえり」と言ってくれた、時が止まった姿で。君の言葉通り、君がいなくなった明日を嘆き続けて。
 君が俺の情熱をもういいよって教えてくれるいつかの日が来るまで、俺はそうやって生き続けるよ。
 ありがとう、俺に手紙を残してくれて。お陰で君の気持ちの多くがわかったんだ。きっと書かなかった気持ちも数えきれないくらいにあっただろうけれど、君が教えてくれるいつか会えるはずの日に全部教えておくれ。

 それまでどうか、君だけを想い続ける俺だけを見つめて、待っていてくれ。
 ばいばいおやすみには何も返さない。「おかえり」を貰える日まで、どうか。


20200918