短編
- ナノ -


 鍾愛が白む空に溶けるまで


 仕事が終わって家に帰ろうかと予定を立てていると、携帯に連絡が入って、予定は当然そちらが優先になる。こういうことがあるから、わざわざ勤めていたウラウラ島のマリエシティからメレメレ島へと戻ってきたのだ。
 リリィタウンまで駆け足で進む。早く、一秒でも早く、あの人に会うために。
 私の為にタウンの入口で待っていてくれたプルメリさんは、駆けてくる私を見つけて手を上げてくれた。彼女の前で一度止まって乱れた呼吸を整える。プルメリさんは申し訳なさそうな顔をしていて、呼び出したことを悪いと感じてくれているのだろう。

「すまないね、仕事上がりだろう」
「ううん、他に予定もないから平気ですよ」
「毎度アンタの手を煩わせるのもと思ったみたいで先にアタイが呼ばれたけど、やっぱりダメだったよ。アンタじゃなきゃ、ダメなんだ」
「それこそ大丈夫ですよ。お気遣いありがとうございます」

 プルメリさんが気を揉むようなことではない。本当に、遠慮なく私を呼んでくれていいのだ。そのために、私はいるのだから。
 いつもすまない、お願いだよ。そう伏せた睫毛を震わせながら懇願され、私は笑顔で頷いた。

 ハラさんの家に上がらせてもらって、中ではハラさんが困り果てた顔で一室を見つめていて、ああ今日はお風呂場なのかってそれだけで理解した。ハラさんはお邪魔させてもらった私に気が付いて、少しだけ肩の力を抜いて詰めていた息を吐きだせたようだった。

「…すみませんなぁ、いつもいつも。不甲斐ない師です」
「そんなことないですよお師匠様。大丈夫。私は大丈夫ですよ」
「今ハウが側におります故、代わるよう言いましょう」
「いいですよ、私がもう行きます。あ、そうだ、その前にお台所借りますね」

 プルメリさんのように眉を下げて申し訳なさそうな顔をしているハラさんに微笑みで返して、台所で甘いエネココアを作ってからお風呂場へ向かう。近づくにつれてぼそぼそとハウ君の声が聞こえるようになって、でもそれは会話としては到底成り立っていなくて、今日も噛み合わなくなってしまったらしい。
 コン、とお風呂場の扉を叩けば、すぐにペタペタと足音がこちらへ向かってくる。
 扉の向こうから現れたハウ君は今にも泣きそうな顔をしていて、私の顔を見た途端にぐうっと喉を詰まらせた。眉尻がこれでもかと下がっていて、そんなハウ君の頭を労わるように撫でてあげる。安心したのか強張っていた指先が解けて、ぐすっと鼻を啜る音がやけに大きく耳についた。

「…ごめん、俺じゃやっぱりダメだった」
「ありがとうハウ君。大丈夫だからね」

 唇を震わせているハウ君は腕で瞼を乱暴に擦った後、そっと体を動かして私へ道を譲る。彼の頭をもう一撫でしてから譲ってくれた場所へと足を踏み入れるために歩みを再開する。

 お風呂場はまだお湯を溜めていないからかひんやりとしていて、こんな所にどれだけの間いたのかわからないが、とっくに体は冷え切っているに違いない。エネココアを持ってきて正解だった。
 すぐに丸まった背中が見つかって、体は床の上に置いて、浴槽の淵に額を押し付けてだらんと座り込んでいた。お尻が冷たそうだ。ストッキングを脱ぎ捨てて、素足で浴室へと入り、ぺったんと音を立てながらグズマ君の元へ近づく。

「グズマ君」

 頭の後ろに名前をかけてあげると、ぴくっと微かに肩が揺れた。良かった、まだちゃんと私の声聞こえているね。グズマ君の隣にぺたんと座って、剥き出しのふくらはぎがとても冷たいけれど、グズマ君に比べれば可愛いものだと我慢する。
 目は開いていたけれど、何を見つめているのかはわからない。浴槽の淵に置かれた額はまだ持ち上がらないから、少し顔色が悪い頬へとマグカップをとん、と押し付けてあげる。

「グズマ君の為に持ってきたの。あったかいよ」

 浴室の床にだらりと放られていた指が微かに震えて、のそりと額が上がった。スローモーションで体を起こして隣で同じように座り込む私をようやく見つけたグズマ君の額は当然真っ赤で、ふふっと笑ってしまった。おまぬけさん。

「寒かったでしょ。大丈夫だよ。飽きるまで私もここに一緒にいてあげるからね」

 空いている手で真っ赤な額を擽るように撫でてあげると、グズマ君の大きいのに小さくなっている体がゆらゆらと揺れた。

「……あ…」
「ゆっくりでいいよ。喋りたくなければそれでいいし、何かあるならどんどん言ってね」
「……代表…」
「代表はね、カントーだよ。ごめんね」

 虚ろな瞳に今日はこっちか、と頭の片隅で薄く思う。この前は激情型だったから、今日はその反対。わかりやすくていいね。
 マグカップを無理やり握らせて、温かさを思い出させてあげたかったけれど、中々口をつけてくれない。でも焦ってはいけない。この状態のグズマ君には、ゆっくりさが必要なのだ。
 でもね、ちょっとカチンときたからね。私の声に反応してくれたのにルザミーネさんのことを探してるなんて。私だって一端の女なんだよ。

 それにね、私まだ許してないよ。あの子にグズマ君の大切なもの、あげちゃったこと。

「大丈夫。グズマ君は悪くなかったよ。ただ代表を止めたかったんだもんね。グズマ君は悪くないよ」

 爪で傷つけないように指先で頭を撫でながら、何度も繰り返した言葉を贈り続ける。本当にグズマ君は悪くなかったよ。悪いのは全部ルザミーネさんだもの。
 そして、みんなに望まれて求められることに乗じて、こうやって心の空漠に滑り込んで甘い蜜を啜る私も。

「ごめんねグズマ君。グズマ君のこと一人にして。寂しかったね。私もね、凄く寂しかったよ。ずっと会いたかった」

 グズマ君の瞼がピクッと痙攣した。声は出なくても段々と口が開いてきたから、カップを傾けてあげれば素直に飲んでくれて、ホッと一安心する。

 幼馴染のグズマ君が島めぐりを達成したにも関わらずその後上手くいかなかったことなど、彼を追いかけるように島めぐりをした私は全部知っている。カプに認めてもらえなくて、キャプテンにもなれなくて。
 ハラさんの下で同じように師事していた間も、ずっとずっと鬱屈としたモノを抱え込んで頭を掻きむしっていたことも、全部知っている。知っていて、何もしてあげられないまま、親の都合という理由だけで私はグズマ君を置いてウラウラ島へと引っ越してしまった。
 ハラさんの下に残りたいってお願いすればいいだけだったのに、それをしなかった私はまだ何もわからなかった浅薄な子供で、こんな未来、足りない頭じゃ一つも想像できやしなかった。
 その上、この前まで同じウラウラ島にいたのにグズマ君は私を探してくれなかった。だから、少しだけ私も意地を張ってしまった。ちっぽけな感情なんてかなぐり捨てて、全部グズマ君に差し出してしまえば良かったのに。
 私が側にいたとしても、何も変わらなかったかもしれないけれど。


 グズマ君はカップからそっと口を放して、その際に口端からココアを零してしまって、赤ちゃんみたいで可愛いって笑いながらハンカチで拭う。そうしたらグズマ君が消え入りそうな声で私の名前を呼んだから「なぁに?」ってお母さんみたいに優しく応えてあげた。
 グズマ君がどれだけ冷たさを振りまいても、私はいつでも温かさをばら撒いてあげるからね。

「…どこにいってたんだ」
「ごめんね、お散歩がね、長くなっちゃったの」
「俺が一番って言ったのに」
「ずっとそう思ってたよ。今でもそう。グズマ君がね、世界で一番だよ」
「要らないって、言われて」
「私には必要だよ。他の誰でもないグズマ君だけが必要で、ずうっと一緒にいたいよ」

 きっと頭の中も瞼の裏もめちゃくちゃになっているだろう。アローラ初のチャンピオンに話を聞いた限り、ルザミーネさんに随分と酷い態度を取られたらしく、あの人の現状を鑑みれば普段は意識を保って修練に明け暮れ、ヒトとして生活を送れていることは僥倖だろう。
 こうして時々自分を見失っちゃうけれど、でも今みたいに私を探してくれるから、私はその手を絶対に振りほどかないよ。

 いい子。
 グズマ君は偉いね。
 グズマ君が世界で一番大好きだよ。

 マグカップを床に置いて、肩に手をおいて膝立ちして少しばかり背を伸ばしてあやすように耳に直接吹き込んであげると、グズマ君の体がふるりと身震いした。
 力強く閉じ込めるように抱き締められて、逃げないよって頭の後ろを撫でてやれば、ポロッと一粒だけ涙を零した。グズマ君の真っ赤な額が私の肩の上に落ちてくる。今日は良かった、軽かった。これで終わりだろう。

 明日になれば、また元気になる。元気に大切なポケモン達と戯れて、ハラさんに憎まれ口を叩きながら厳しくしごかれて、ハウ君にからかわれて大声で怒鳴って、バトルツリーに顔を出したりして。そうやって、グズマ君は自分の足で背を丸めながら立つのだろう。


 浴室の中の気配が落ち着いたのを感じたのか、風呂場の扉を控えめにノックされて返事をする。ハラさんとハウ君が、私を抱えて眠っている子供みたいなグズマ君を見て穏やかに溜息を吐いた。やっと安心できたのだろう。
 しかしハラさんにいたっては次の瞬間に罰が悪そうに目元も口元も歪めてしまい、恒例の謝罪が口にされるのだろうと予感できた。

「いつもいつも、申し訳ない」
「何度言うんですかそれ。毎度毎度、私は大丈夫ですって言ってるのに」
「ここ暫くは安定していたのですが、こういうのは安心した矢先にぶり返すのですな」
「グズマさん、ついさっきまで俺とバトルしてたのに…」
「やはり、もう一度エーテル財団にお預けした方がよいのでは」
「えっ、ダメですって。最後には酷くなったじゃないですか。あそこは一番ダメ。私全く負担になってないし、またこうやって私の力で落ち着くならいくらでも協力します。だからグズマ君を一人にしないであげてください」

 エーテルはダメ。あそこには代表の影があるもの。いくらUB研究に噛んだビッケさんが面倒を見てくれても、場所が場所だからグズマ君のフラッシュバックが重くなるだけだった。たくさんの研究員に囲まれて、暗い影に染まって怯えたグズマ君はどれだけ心細かっただろう。
 だからといってカントーはもっとダメ。ルザミーネさんと同じ末路なんて、絶対に許せない。グズマ君はまだ意識があるし、こんな状態にならない限りは普通に生活できる。今みたいな状態になっても、私が側にいて解決するならいくらでも飛んでくる。

 だから、これ以上私からグズマ君を離さないで。

 グズマ君を運ぶために腕を自分の首に回して二人は抱き起こす。くたっと力の抜けたグズマ君の姿は、まだプルメリさん以外の元スカル団のメンバーには見せられない。慕ってくれる人達に心配させたくないし、グズマ君のプライドだってある。
 それに、これは全部、私の特権なのだから。

 ベッドに寝かされても、私が起きるまで手を繋いであげる。悪夢に魘されるなら額にキスをしてあげる。代表って呼んだら、私の名前をもう一度丁寧に教えてあげる。体の震えが止まらないなら私の体温を分けてあげる。
 だから、これからも遠慮なく私を呼んでね。いつだってグズマ君の所へ駆けつけるから。グズマ君の為にこっちに戻ってきたんだよ。本当は片時も離れず側にいたいけど、そうやって私が隣にいることを当たり前に思って呼んでくれなくなったら困るから、目が覚めたら私は帰るね。


 そうやって、いつまでもいつまでも、私に手を伸ばしていてね。