短編
- ナノ -


 誰かの願いが叶う頃、君はどこにも行けない-1


 ルミナスメイズの森で迷ったことが、イリスと出会うきっかけとなる出来事だった。

 森が目的だったのではない。その時はシュートシティから実家のハロンタウンに向かっていたのにも関わらず、気付けば薄暗く怪しげな光を内包する複雑な森の中で汗を大量にかいていた。
 ルミナスメイズの森の中においてはアーマーガアタクシーを呼ぶこともかなわず、大人しく素直にリザードンを頼るべきかと疲労が見え出した思考が首をもたげた頃。
 酷く、甘い香りがした。
 鼻腔に突然滑り込んできたそれは風に乗って運ばれてくるようで、木々の合間を縫ってこちらまでやってくるその香りに、理由もなく強烈に惹かれた。
 砂糖菓子のようでいて、アマカジの発する香りのようなそれ。言葉では表現の難解なそれに操られるようにふらりと体は動いてしまい、そのまま手引きされるように香りの元たる方向へと足は一人でに進み始めた。不思議なことにそこまでは迷うことなく辿り着けてしまったのだから、自分でも行動の理解ができない。

 そして、見つけてしまったのだ。
 少しだけ開けた空間にぽつねんと怪しげな光の中に置かれる、女を。
 木の株に腰かける女の衣服は、夜の闇を集めて縫い繋いだような真っ黒のワンピースで、裾には細かなレースが施されている。後に彼女直々の教えによりレースというのはいくつもの種類があり、あれはトーションレースという名であると知ることになるのだが、この時の俺にレースの知識など皆無なので、黒い女とひらひらとそよ風にも揺れるそれをただ眺めてばかりいた。

「あら、ポケモン以外のお客様なんて初めて」

 上から下まで真っ黒な女は、自身の髪を一房だけ纏めるこれまたレースの髪飾りをふわりと揺らし、前触れない来訪者たる俺を見て動じた様子もなく、一つ、淑やかに微笑んでみせた。

「なんてね。別に招いているわけではないのに、こうして集まってきてしまうのだけれど」

 柔和な笑みの女の周りにはルミナスメイズの森に生息する数種のポケモン達が囲うように集まっていて、恐らく俺のように甘い香りに誘われてのこのこと出てきてしまったのだろうと推察できた。なにせ皆一様に、誘引された原因だろう女の手元を覗き込んでいるのだから。
 ぐつぐつと煮える琥珀色の液体。ミツハニーの蜜を使った何かを煮ているのだろうかとも思ったが、それにしては香りがそれとは別な気がした。
 女はこの場所でキャンプ中なのかと考えたが、女の纏う得も言われぬ雰囲気が外でキャンプという解放感を見事なまでに打ち消している。それはこの不思議な空気を孕む薄暗い森の中においては妙に女を溶け込ませているのだが、キャンプという活動的な印象とはおよそかけ離れていた。

「……それは、何を煮ているんだ?」

 口から出たのはそんな問いで、もっと他にも尋ねるべきことはいくらでもある筈なのに、自分の口が選んだのはそんな言葉だった。
 女は俺の問いに一瞬表情を潜めた後、すぐにまた薄く唇を細めて小さく笑い、真っ直ぐにこちらを見つめると、森の怪しく幻想的な光に照らされている唇をゆっくりと開いた。

「毒薬」

 女の声の響きは、酷く蠱惑的に耳朶を擽った。



 イリスと名乗った女は、今しがた毒薬だと臆することなく告げた唇で、お茶でもいかが、とその後何でもないように続けた。椅子も何もないけれど、とさも申し訳なさそうにするが、女の目を見ればそれが真意でないことなどわかっていた。
 わかった上で、女の正面に座る。女の周りに集まるポケモン達は予定ない新参者など全く気にせずに延々と鍋に夢中である。
 一見すると温顔の女に意識の全てを集めている俺は、この時既に実家に帰ろうとしていたことなど、阿呆なことにすこんと頭から抜けてしまっていた。

「毒薬って、もっとこう……体に悪そうな色だと思っていた」
「あらいやだ、冗談ですって。これはただ滋養強壮にいいお薬」

 誘ったくせに茶の用意もせず、化粧で周りを彩った目を丸めた後にふふっと可笑しそうに笑う女だが、即座にそれを信用できなかったのは、この森の独特な雰囲気に充てられているというのも原因だっただろうけれど、女が「毒薬」と嘯いた際の瞳がどうにも嘘を吐いているようには見えなかったからだ。

「あ、信用していないでしょう。ちょっと舐めてみますか?」
「……いや、遠慮するよ」

 残念、こんなに甘くて美味しい上に体にも良いのに。さも本当にそう思っているように言って、匙で液体を掬って躊躇いなく自らの口にイリスは含んだ。ぷくりと厚みがあって色付く唇の中に消えて行く匙を、浅はかにも目がじっと追いかけてしまうのはどうして。
 美味しい、と呟いた後、数度匙で掬い、彼女は集まっているポケモン達にそれを与えだした。実際ずっと鼻に入り込んでくる匂いは甘かったし、ポケモン達も喜んでそれを口に入れていることから、確かに甘くて美味しいものではあるのだろう。

「その子達は、君の?」

 野生だろうとは思っていたが、何かしら口を開きたくてそんなことを今度は問うてしまう。

「いいえ、野生の子達。よくここで作っているから、すっかりと覚えてしまったみたいで。気分転換したい時にはこの場所に来るんです」
「よくないぜ、野生のポケモンにこういうことは」
「わかっているんですけど……欲しそうな眼で見られてしまうと、どうしても抗えなくて」

 困った風に笑う彼女は、初めて、同じ地表に生きる人間のようにこの時になってようやく思えた。
 薄暗い森の中でもわかるほんのり薔薇色に染まる頬が、ああ、この女も血の通った人間なのだなと、殊更に信憑性を与えてくれる。

「ああそうだ、だったらこれは?漢方薬。もちろん人間用の。疲れた体にはとてもよく効くの。まぁ、漢方だから決まった通りに飲み続けないと効果は表れにくいけれど」

 思い出したように鞄から袋を取り出したイリスがそれを俺に差し向けるが、怪訝にしていた表情を変えられていた自信はない。

「何故これを初対面の俺に?」
「だってチャンピオンはご多忙でしょう?」
「驚きだ、まだ名乗ってもいないのによく知っている」
「……それ、冗談ですよね?そうでなければ、嫌みになりますよ。貴方のことを知らないなんて、まだ自我を持たない赤ん坊くらいではなくて?」

 再び目を丸くして驚いてみせた彼女は、相も変わらず俺に漢方薬が入っているらしい袋を向けたままで。
 そして、僅かに首を傾げながら、ほんのりと目を細め、まるで恋する少女のように可憐に笑って、とっておきの秘密を打ち明けるように囀るのだ。

「それに、そうでなくとも知っているわ。私、ダンデのファンだから」


  ◇◇


 アラベスクタウンで薬屋を営んでいるイリスとは、何の因果か、その後も交流が続いた。両親は既に他界し、弟も離れて暮らしているとのことで、女一人で店を切り盛りしているらしい。
 決まった人しか来ないけどね、と笑った彼女と会うために口実を作っているのだと己が気付いたのは、あの森での出会いをはたしてからもう何度も彼女の元へ通った後だった。

「チャンピオンって、案外お暇なのね」

 同い年ということがわかり砕けた口調を頼み込むとイリスはすぐ了承してくれて、以来こうして友人のような振る舞いを見せてくれている。こういう時ばかりは、あの森の中の秘密めいた空気は纏っていない。

「シーズンオフの時は、大抵こういうものさ」
「それにしても、二週間に一度は見ているような……?」
「漢方を買いに来ているんだろ」
「忙しい身の上を思って一ヶ月分を処方しているのに」
「ああ、最近肩だけでなく目も凝るんだ。何かいい薬はないだろうか」
「……処方しているのは、そういうのに纏めて効くものなのに」

 呆れたように溜息を吐くイリスは、じゃあ少し処方内容を変えましょうか、次いで困ったように笑う。人間味の薄いと最初に抱いた印象を見事に変えてくれた、俺の好きな顔の一つだ。
 本当は必要のないカウンセリングを受け、手際よく調合していくイリスの体は、あの日とは違って清潔な白衣に包まれている。漂白されたそれは、暗闇を跳ね返しそうな程目に眩しい白さ。
 仕事だから着ているだけという白衣。陽の光など素知らぬような真っ白く陶磁にも似た肌にその白さは一見合っているようでいて、けれどその眩いまでの白さは見えている肌との境界を曖昧にして今にも溶け合ってしまいそうで、時々焦燥に近い不安をもたらしてくる。
 普段は暗闇を凝縮したような黒い服ばかり着ているのを知っているから、余計に言葉にはし難いそれに駆られることがままあった。目の前で棚をいじる彼女の白衣の下は見慣れた黒い衣服だったが、正反対の色の対比も目には届かず、上に羽織る白衣の方が視覚に与える影響は大きい。
 慣れた手つきであっという間に薬を用意し終えると、会計も済ました後イリスはこれまた見慣れた手の動きで奥を指差した。

「ダンデ、時間があるならお茶はいかが?ロズレイティーのいいのが手に入ったの」
「いただこう」

 休憩時間になったのだろう。誘いに乗ればイリスが店先のプレートを変えに行く。
 客がいないのをいいことに店の奥のプライベートスペースへ招いてくれるのはこれが初めてではない。それが気を許して貰えているのだとつい調子に乗ろうとする頭が確かにあって。
 イリスにこうして時間を割くことは、感情を言葉になかなか起こせない奇妙な感覚だった。シーズンオフとはいえやらなければならないこともやりたいことも山より高くあり、休日だって全てポケモンの為に費やすのが常だ。それなのにこうして適当な理由をつけて、ダンデだと周囲にバレないよう身を隠しながら足繁くアラベスクタウンまで通ってしまうのは、一体何故なのか。
 ここ最近見えない自分の心の内に悩む俺のことなど当然知らぬイリスは、白い地に控えめに花の絵の描かれたティーポットから液体を注ぎ、どうぞ、とカップを差し出してくれる。喉へ流し込んだそれは味の良し悪しなどわからない口なのだが、彼女手ずから淹れてくれたそれは、なんだか世界に特別な物に思えてしまって。
 がぶ飲みすると静かに怒りを表すのでなるべく性急にならないよう気を付けながら飲み込んでいると、そうだ、とイリスは呟いて立ち上がり、冷蔵庫へと向き合った。

「ケーキあったんだ。ポプラさんにいただいたの」
「ポプラさん……」

 名を耳にした途端反射で眉が中央へと寄ってしまった。最近顔を合わせたその人を思い出して、紅茶ではない全く別の苦みが咥内にじわりと広がる。
 ピンクだね、などと人の顔を見て開口一番にのたまい、何やら上機嫌そうな顔をして「アンタも人の子だったんだね」とよくわからないことを口にしたポプラさんに、ふとイリスのことを思い出して尋ねたことが少し前にあった。同じ町に住むのだから何か知っているのではないかと考えたのだ。彼女はあまり、自ら進んで自分の話をしない性分だったから。
 するとどうしてか、ポプラさんは彼女の名が俺の口から出た瞬間、片眉を吊り上げてしまったではないか。彼女が難しそうな、怪訝そうな顔をすると途端に威圧感が増すことは絶対に言葉にしてはならない。

「アンタたち、知り合いなのかい」
「ええまぁ。森の中で偶然」
「あの子の家族のことは……聞いているかい?」
「両親は他界していると。あと、離れた所に弟がいると。他に何か?」
「……いや、いいさ。だけどね、悪いけどあんまりあの子とは関わらないでおくれ」
「……理由を伺っても?」

 意味深な発言と瞼が僅かに伏せられる顔つきに、片眉が反応したのはこちらも同じだった。
 物事に理由が付き纏うのは道理で、納得し得る理由も告げられないそんな同調しかねる物言いに真意を尋ねようとしたが、今度は打って変わり、優しいのに悲しそうな、あらゆる経験重ねた老婆の顔で、ポプラさんは厳かに俺を見据えたのである。

「アンタの……いや、あの子の為だよ」

 年寄りの忠言は素直に聞いておくものだよ。そう締めくくられても、親切な老婆心とはどうしても受け取れなくて。
 ただただ、持て余している言葉にできない部分を、ざらりと撫で上げられただけで。

「いたっ」

 そう昔ではない回想に耽っていた意識を戻したのは、イリスのそんな短い悲鳴だった。
 ハッとして顔を上げてそちらを見やれば、キッチンで佇む後姿がすぐ目に入る。彼女は少しばかり前かがみになって顔を伏せたまま固まっており、何かあったのだと気付いて急いで駆け寄って前を覗き込むと、細く華奢な手で指を押さえていて、そこからぷくりと赤い雫が膨らんでは垂れていることに動転してしまった。

「どっ、どうした!?」
「指切っちゃって……でも平気よ」

 どうやらケーキを切り分けている最中に指を巻き込んだらしく、奪うように手を取って改めて見てみれば指の側面に切れた痕があり、そこから少量ずつ血が流れ出でていた。

「血が出てるじゃないか!えっと、こういうときは指を洗って、それで消毒と……」
「大袈裟だなぁ」

 可笑しそうに笑うイリスだが、なんだかその顔にどこか陰鬱な何かを感じ取ってしまうと、今度は逸っていた心臓が別の意味でドキリと鳴った。

「本当に大丈夫だから。それに……痛いことは、そんなに嫌じゃない」
「……どういう、ことだい?」

 赤く染まっていく指を睫毛を伏せて見つめ、イリスは確かにうっそりと笑った。ルージュの引かれる唇が、口角が上がったことできゅっと細くなる。
 ――それはまるで、初めて出会ったあの森の中にいた彼女を微かにも彷彿とさせて。

「痛みは、証だから」

 あ、マゾってことじゃないからね。ほんの数秒後に一変して悪戯そうに笑う彼女に、笑い返すなんてできやしなかった。
 俺は見逃していない。瞬く間だけ表に出された、痛ましげなのに恍惚とした、その仄暗い色を。

 消毒薬と絆創膏を代わりに取ってくると申し出ると、家の中で迷子になりそうだからと考える間もなく首を振られてしまって立つ瀬もなくなる。真っ向から否定できないのが余計に。
 大人しくしててね、そう小さな子供に語り掛けるように言い渡されてしまったので、仕方なく言われた通りテーブルについてイリスが戻ってくるのを待つことにした。手持無沙汰なことも手伝いぐるりと室内を見渡したりするが、何度かお邪魔したことのあるここに依然と変わった様子はない。
 家族写真の一枚も飾られていないこの部屋を何となく物悲しく感じてしまうのは、俺が家族に恵まれていることがゆえんなのだと思う。俺と同じく弟がいるらしいイリスにその話をねだっても彼女は頑なに話してはくれないから、もしかすればあまり良好な仲ではないのかもしれない。

 そうして室内を見回し、そこでふと、視界に留めたものがあった。隣室の扉だ。
 何の変哲もない木製の扉だったのだが、どうしてかそれから目を外せなくなってしまった。飾り一つない、他の部屋の扉となんら変わりないにも関わらず。
 まるで導かれるように体は立ち上がり、そこへ静かに歩み寄る。思えば入室を許されていたのはこのリビングだけで、そこ以外の部屋には立ち入ったことがなかった。この家に居住するでもない余所者が女の家を勝手に闊歩するのはよろしくはないので気にしたこともなかったが、今妙にもこの扉に、正確には扉の向こうが訳もなく気になってじっとしていられなくなっている。

 ――誰かに、呼ばれている気がして。

「何してるの」

 瞬間、肩が跳ねたのは恰好が悪かっただろう。けれど、気配もなく背後から声を掛けられれば嫌でも体が反射でそうなってしまう。
 振り返ればイリスが立っていたが、その顔を見てしまった途端、ぞわりと悪寒が走ったように背筋が冷たくなってしまった。
 そこにあるのは、生気も薄い無表情であった。感情の乗らない白い肌をこの場に晒して、幽霊だと言われても頷いてしまえるような薄ら寒い空気で、イリスはそこにいた。
 かろうじて現実味をくれるように指に絆創膏が巻かれていなければ、馬鹿な話だが本当にそうと思い込んでしまえたかもしれない。

「そこはダメよ。物置代わりにしているから、恥ずかしいけれど悲惨な有様なの。見られたくない」
「あ、ああ。すまない」
「いいえ。それよりほら、ケーキ食べましょう。血がついてしまった部分は勿体ないけれど、捨ててしまわなきゃ」

 幽霊から人間に戻って頬を色付かせて笑うイリスは、たった今自分が放っていて仕舞い込んだ空気をわかっているのだろうか。しかし素知らぬ雰囲気でくるりと背を向けられてしまうと、その薄くて小さな背中を見ると、もう何も言えなくなってしまった。

「……そうだ、私ね、貴方にお願いがあるの」
「お願い?」
「うん。サインが欲しいの」
「サインだって?」
「そうよ。チャンピオン・ダンデの、サイン」

 今度はとても俗っぽい人間になって請われた唐突な願いに、まだ何かつっかえているような喉を無理矢理開くと、彼女は顔だけで俺を振り返る。

「せっかくお近づきになれているのだもの。前に言ったでしょう?私、貴方のファンだって」

 そうやってまた、とっておきの秘密を披露するように振る舞うのだ。

 ケーキを胃に収めた後にねだられた通りサインを書いてやると、イリスははにかんでそれを大切そうに胸に抱いてくれる。
 一番ふさわしい所に飾るからね。彼女は蕾が綻ぶように笑った。


20200822