気取られない愛を温める行い
「あ、そうだこれ」
言葉少なに差し出されたのは包装される飴で、プリントされる文字を読めば、ネズが日頃愛用しているボイスケアの飴だった。
「くれるの?」
「はい」
「……?ありがとう」
そのままネズは私から目を外し、作曲の続きを始めてしまった。どうしたのだろうかと疑問に思ったが、この男が口数少なく気紛れなのは今に始まったことではないし、突然愛用の飴をくれたことに対する追及をして彼の音楽の邪魔をしたくないと思い、冷めた紅茶でも淹れ直そうと何度かいじったことのあるネズ宅のキッチンへと向かった。
◇◇
「……おあようございまず」
「わっ!?何!?風邪!?」
「まぁその……うん」
違うけどね、とは言える筈なかった。ガラガラ声を心配してくれる同僚には悪いが、曖昧に笑って誤魔化すしか術はない。
口が裂けても言えるか、昨夜ベッドの上で夜通し啼かされたせいだなんて。
いくら仲が良好の相手とは言え、職場の人間にそこまで赤裸々には語れない。
昨夜彼氏がはげしくってー、と人目も憚らない奔放な女の先輩もいるにはいるが、私はそういうタイプではない。大人しく風邪気味を装って「お大事にね」とか「具合悪くなったらすぐ言ってね」等々かけられる優しい言葉に一々良心を痛ませた。
「なんか、なんか喉にいいもの……あっ、飴ならあるよ。のど飴じゃないけど」
「じゃあ貰おうかな……あ」
同僚がポケットから探し当てた小さな包を見て、そうだとこの時にようやく思い出す。飴ならあるじゃないか。
「そうだ、飴あった。喉にいいやつ」
「なら今すぐ舐めな!」
「うん。飴、せっかくだから貰ってもいい?後で舐めるよ」
「もちろん!」
鞄に入れたままのボイスケアの飴を口に入れ、同僚の厚意も受け取る。本当に風邪だったならばこの飴の正しい使い方ではないが、真実は風邪ではないのでいいだろう。
飴はスースーとして、ちょっと草っぽいというか、でも砂糖がまぶされているから咽たりするような味ではなかった。ネズがいつも舐めているものだし効果はお墨付きだろうと信じて、口の中でころころと転がした。
案の定しばらくすると今朝方よりも大分マシになったので、飴を貰えていて良かったなと、あの日のネズの気紛れに心底感謝した。
「手を出して」
「ん?」
ネズ宅に着いて早々に手渡されたのは、見覚えのある小さな包装。以前大変世話になったボイスケアの飴だった。
「またくれるの?」
「ええ」
「なんで?」
「まぁ、持っておきなさい」
「……?」
妙に含みを残して、そのままネズは背を向ける。久々に二人でデートした帰りにいつものようにネズ宅へお邪魔したのだが、このタイミングで思い出したように渡された飴をじっと見つめる。
紅茶淹れてください、と角から顔だけを覗かせて催促されたので、飴を鞄に投げてから返事をして室内を進んだ。
◇◇
「……おあようございまず」
「デジャブ。いや、世界が繰り返されている?」
「冗談を……」
「飴は?」
「ある」
「これもお舐め。いつこうなるかわからないイリスの為に用意してある」
「ありがどね」
すっかりと慣れたものだ。同僚も、私も。
もう何度目だろうこのやり取りは。同僚の言葉通り時間をループしていると言われても今なら信じられてしまうかもしれない。それくらい、朝のこの会話が定型化してきている。
デスクに着いて鞄から飴を取り出す。ネズが最近頻繁にくれるやつだ。それを舐めるところまでがお決まりのパターンになっている。
「本当に風邪なの?最近多くない?」
「いや……今回は、その、あれ、ほら、声の出し過ぎというか」
「流行のカラオケとか?」
「そう、それ」
さすがに言い訳が苦しくなって別の言い訳を考えた所、同僚が都合の良い勘違いをまたしてもしてくれたので食い気味に乗っかる。実際、本当に声の出し過ぎのせいだ、これは。
しかし、ほんと、昨夜のネズは容赦がなかった。朝から不健全だが、思い出さずにはいられない。
ライブの後だったから興奮が引かなかったというのもあるが、マリィちゃんが友人宅にお泊りに行って家に二人きりだった、というのも大きいだろう。ベッドに行く前から手が伸びてきて、そこからはあっという間だった。野獣、だったな。不埒な回想に、じんと体が熱くなる。
いけないこれから仕事、と口の中に放った飴をころころと転がす。気を抜くとピンク色になってしまう頭を鎮めてくれるような爽快な味に集中した。
「にしても、その飴なかったら大変なことになってるね」
「ね、本当に」
「まぁそうしたら私が用意してる飴があるけど。ちゃんとのど飴に変えてあるから」
「なんか悪いね……ん?」
この飴がなかったら、大変なことになっていた。
私の為に、用意してある。
互いに面識もない二人の人間がもたらしたことが、繋がらない筈の二つの点が、私の中で線となり結びついてしまう。その直後、顔が青ざめた後に沸々と熱くなってきた。これは羞恥などではない、怒りである。
◇◇
「ネズ!!」
「ああ、いらっしゃい。どうぞ」
「……」
仕事帰りに真っ直ぐネズ宅に向かうと、出迎えて玄関に通してくれたネズは挨拶もそこそこに平然と私へ何かを手渡そうとする。
喉をケアしてくれる、いつもの飴である。
「……わざとか」
「なんですか?」
「わざと!!この飴くれてたんでしょ!!」
「……ああ、やっと気付いたんですか」
しれっと答えるネズに、ガソリンを投げられた気分である。怒りの炎が爆発寸前な程に轟々と燃えている。
この飴は予告とアフターケアを兼ねる代物だったのだ。喉を潰す程にこれから抱くぞ、という。潰すからこれで治せよという。
そんなことに気付きもせず呑気に飴のありがたさを何度も噛み締めていた私は、あまりにおつむの弱い馬鹿過ぎて今にも悔し涙が出てきそう。
「このっ……この……!」
「いえね、こう、ふと思いついて」
「思いつきで喉が潰れるくらい抱かれて飴で回復しとくってセルフケアさせられてた私、情けなくて情けなくて今怒り心頭なんだけど」
「でも役に立ったでしょう、これ」
そう淡々と言って、未だ自分の手に置いている飴の包を揺らすネズ。
本当に役立ったのだからそれだけは否定できないのは確かで。抗議の声を途切れさせ黙った私へ「ふっ」と勝ち誇ったように笑われても、唸ることしか私にはできない。
「で、どうしますか?今日はこれ、要らねぇんですか?イリスの着替えも下着も、きちんと乾いてますよ」
「……」
ネズは言葉少なく、気紛れな男である。
妹やポケモンには惜しみない愛を向けるが、私にははたしてそれのどれくらいの量を持っているのだろうと、たまに考えることがある。付き合ってからの時間はそこそこ。優しくされることもある。邪魔をすれば鬱陶しそうにすることもある。ベッドでは一方的なことも多い。ノッてくると私も動くが、そうでないと早い段階にこちらが余裕をなくすので、基本的には。
本当に時々、私はこの男にとって、何なのだろうと見えない不安に駆られることが、ある。
けれど、ならば、この飴はどう捉えるべきだろう。家を訪れる度に激しく抱かれるが、ただ都合よく抱ける体と認識しているのなら、飴など渡す必要もないのだろう。
黙りこくったままネズを見上げる。ネズは標準装備の、けだるげな瞳をしていた。
そんな男が、私がいつ泊まってもいいように置いている着替えを、下着を洗濯して干したのか。
「……もらう」
にんまり。意地悪そうにネズが口角を上げた。
20200812