短編
- ナノ -


 『前進』


「ごめんなさい、つい」

 誰もいない公園のベンチで泣いていたら、急にシャッターを切られた。驚いて涙も引っ込むというもの。目をぱちくりすると、きっとシャッターを切ったであろう張本人もカメラを胸元まで下げたら、目をぱちくりさせていた。マスカラとアイシャドウで色付けた瞳が、まるで信じられないと言わんばかり。私よりも相手の方が呆然としている。無許可でカメラを向けた当事者が何故そんなに驚いているのか不思議で、でも抗議する余裕もなくて、妙な心地にぎこちなく眉を下げたら、ぽろっと、目尻に溜まったままだった涙が落ちた。するとカメラを手にしたその人はハッとして、慌てたように再びシャッターを切った。
 また無許可に撮影された。怒るよりも、どうしてそんな必死になって私の泣き顔を撮るのかということの不思議さの方が困惑に勝ってしまったので、文句の言葉も出てこなかった。

「え、と。何か用事でもあるん、ですか?」
「……あっ!ほんとっ、ごめんなさい、そのっ、いきなりカメラ向けたのも、」

 縫ったように固まった口をこじ開けて出た掠れた声に、またハッとしたその人は、しどろもどろしつつ色々と言い訳をしてくれたけれど、どれも取り留めないことにしか思えなかった。それよりも、許可とか、涙の理由とかを問うでもなく、いきなり写真を撮られたことが、奇妙にも嫌ではなかった。今の私を客観的に形に留めるという行為に、どうしてか嫌悪を持てなかった。

「……いいですよ」
「ええ?」
「もっと、撮っても」

 今の私を世界から抹消したくて、だけどちゃんと世界に生きていたのだと、多分証拠が欲しかったのだ。気持ちの昇華の仕方がわからなくて、捌け口が見つからなくて、涙にするしかなかった私を、形にしてほしかったのだと思う。判然とはしないけれど、結局はそういうこと。
 カメラを手に構えたままのその人は、私の言葉をきっと頭の中で反芻しつつ、今更躊躇いを見せた。さっきは衝動のままシャッターを切っただろうから、理性が戻ったのだろう。だけどすぐ断りを入れられない辺り、まだ衝動を抱いている。

「……じゃあ」

 数秒の戦いの末、私の肯定を受け入れた人が、カメラを顔の前に持ち上げた。被写体にもう一度なったはいいものの、どう振る舞えばいいのかはわからず、許可を出したくせに突然どうすればいいのかわからなくなったのが見えたのだろう、何も気にしなくていいとお達しがあった。とはいえ、いざカメラを向けられている、と目に入れてしまったからか、さっきまでは自然と零れていた涙も出てこなくなってしまった。誰もいないから泣けていたのだから、誰かが見ていたら涙が引っ込むのは道理なわけで。

「……せっかくなので、このまま話、聞いてもらえますか」

 さめざめとした気持ちをわざと取り戻すために、そうカメラを向ける人に乞うたら、その人は僅かに首を縦にした。口を開かないのは、私の一挙手一投足を見逃すまいと集中しているらしい。

「ありきたりな話です。フラれたんです。ついさっき。さっきって言っても、もう三日は経ったかな。うん。三日前に、フラれました。他に好きな人が出来たからって。結構ね、長い付き合いだったんです。十代の頃からの付き合いで、最初はなんというか、ぎこちないというか、まぁまだ大人に届かないくらいの子供だったから、手探りで、手作りな、そういう恋でしたよ」

 記憶が順々に過去へ遡ると、意図せずとも再び鼻の奥がつんとしてきた。好きな人から好きだった人に、いいやまだ好きな人の、かつての幼い笑い方や、精悍に移ろった顔つきや、怒った顔や、様々な顔が映画のカットのように流れては、どこかへ去って行く。私の元からいなくなったそれの行きつく先は、私の知らない人のところで、もう戻っては来ない。

「大学も一緒で、就職先はさすがに分かれたけど、でも、結構、うまくやれてると、思ってたのになぁ」

 知っている筈なのに、人の心に永遠はないのだと。でも、今までそれは全部他人事だったわけだ。傷付いた友人たちが同じ話をしながら目の前で泣いて怒って悲しんでいても、それを慰めていても、どこかで自分とは違う世界の話だと漠然と思い込んでいた。なにせ長い付き合いだったから。だけど、最後に足を掬ったのはそういう驕りであったわけで。
 ふと、いつの間にか下がっていた視線を上げれば、きちんとレンズは私を向いていた。でも、あの時間も空間も切り取る音や、光は未だ瞬かない。カメラを構える人も、ずっと言葉を持たない。黙したまま、磨かれたレンズだけが私を。けれど私の挙動を、言葉を、逃さないという決然とした意思はレンズを介していても伝わってくる。なんて不思議な感覚なのだろう。初対面のあの人と、こんな人の寝静まるような時間に公園で、二人で。どうしてなのか、今この世界には私達しかいないような気さえしてきた。沈黙を乱すのは私の陳腐な失恋話なのに、どうしてなのだろう、この人にレンズを向けられていると、それは悪ではない気がしてくるのは。

「気付いたらここにいました。別に思い出の場所でもなんでもないのに。ふらふら歩いてて、多分誰もいないから目に留まったんだと思います。事実を受け止めなきゃいけないのに、そんなに簡単じゃなくて。今まで友達には早く忘れなよなんてのたまっておきながら、いざ自分の身に降りかかってきたら。悪いことしてきたなぁ」

 名前も知らない人は、口を閉ざして、相槌すらもくれないで、微動だにせずただただカメラを構えている。固唾も飲むようなその様子に、そんなに面白い話でもないのになんて思うけれど、相変わらず嫌な気にはなれなかった。
 そうして段々と理解してきたわけだ。私の言葉が、傷んだ気持ちが、あのカメラに吸い込まれているんだって。受け皿になってくれて、それで、多分だけど、決定的な何かを待っている。私にはわからない、あの人にだけ見える、何か。

「……変なの。お姉さんに話聞いてもらったら、ちょっと落ち着いてきました。客観的に見えるようになったのかな。なんかこの世の終わりみたいな気分だったけど、まだ平気だなって気になってきた」

 実際楽にはなってきた気がする。無意識に傷付けてきた友人においそれと話せることもできず、ずうっと自分の中で飼い殺しにしてきた灰色の現実。ようやく言葉にすることで気持ちが整理できて、人に伝えることが出来たから、死んだような頭が息を吹き返してきた。それが見ず知らずの、今ここで偶然会った初対面の人だったとしても。
 でも、きっと全く知らない他人だからこそなのだ。何も言わず私の何かを待ってくれているから、私の傷んだ気持ちが少しずつ少しずつ、柔らかく丸くなってきている感覚。さっき泣いた姿を撮影されたにも関わらず怒ることもなかったのは、他でもないあの人だったからだと思う。同情するでもなく、ありきたりな慰めをするでもなく、私の何かを待つだけの人に、ほんのりと解放感が浮かんでくるような。

「……ありがとう」

 くしゃっと、強張っていた頬を持ち上げたら、顔が動いたせいか涙がとどまっていられなくてまたぽろっと落ちていった。ありがとうは、話を聞いてくれてありがとうなのか、それとも別の意味なのか、自分でもよくわかっていないのに、これもぽろっと落ちた言葉である。
 そして、その瞬間になって、とうとうシャッター音が鳴り響いた。たったの一度だけ。待ち侘びていたものがとうとう訪れたのだと報せるその音を聞き留めて、鳴らし終えて、私達の瞳がまた繋がった。高揚を露にするその瞳に、灰色だった世界が色付いて見えるようになれた私が、自分から笑いかけた。いつの間にか、胸が澄んでいた。


  ◇◇


 周囲からやたらと視線を感じるので、肩を縮こまらせながらさっさと進んだ。堂々としていればいいのだとわかってはいるが、好奇心に留まらない視線の数々に、後悔とまではいかないがもう少し考えるべきだったのかもしれないなんて、本気ではないがくだらないことを考えていた。

「あ、きたきた!こっちだよ!」

目的地の前に立っていたサザレが、私を見つけた途端はしゃぐように手を振り始めた。そのせいでますます注目を浴びてしまって、やっぱりもう少し考えるべきだったのかな、なんて。

「もう、遅いよ!待ちくたびれたじゃんか!」
「ごめんって、仕事が長引いて……うわぁ」
「あははっ!予想通りの反応だ」

 サザレの背後にある、大きく引き伸ばされた一枚の写真に、思わず一歩引いてしまった。ポケットに手を突っ込んで笑うサザレをじとりと睨むも、本気で私が嫌がっているわけではないともうわかるようになってしまったらしく、響く気配も微塵もない、どこ吹く風といった態度である。

「こんなのが賞を撮るなんて、世も末だ」
「お、それは遠回しにワタシをディスってる?」
「被写体の話ですよ」
「被写体がいいから、今ここに飾られてるんでしょ」

 くしゃくしゃの顔で、不器用に笑いながら、涙を零している女。あの夜の、サザレに傷んだ気持ちを受け止めてもらった瞬間の私が、そこにはいた。だろうとは薄々感づいてはいたが、私の涙を待っていたなんて趣味が悪いなと、一見すれば思うかもしれないが、この涙はきっと特別だったから。それを感じ取っていたからこそ、あの夜サザレは黙ったままひたすら私の涙を待っていたのだ。

「ま、お陰で吹っ切れたから、もういいけど。……ただ恥ずかしいんだよ、自分の写真なんて」
「もっと胸を張りなって。評判も良くてさ、またイリスをモデルに写真撮ってほしいって依頼がいくつもきてるんだよ」
「全部断りなさい」

 くは、と相も変わらず笑うだけのサザレ。言葉にはしないがその手の依頼は断っているだろうことはわかっているので、互いに上辺だけの軽口に過ぎない。あの夜の涙が、あの夜が特別だっただけなので、もう私に被写体の価値はないに等しい。期待には応えられない自負があった。どの道、サザレもこれ以上私を世に晒すことはしないだろう。世には出せないプライベートショットは数多あるが、全部サザレのお楽しみコレクションの範疇でしかない。あれで案外、サザレは独占欲が強いのだ。

「……にしても、我ながら最高の一枚だ」
「自画自賛だぁ」
「したくもなるよ。本当に、とっても、綺麗だもん」

 サザレに残してもらった、引き受けてもらった涙は、終わりの合図だった。それは同時に始まりにもなって。好きだった人のために流して、でも好きだった人のために流したわけじゃない最後の涙。サザレと出会えたからこそ世界に落とせたもの。だからサザレは私にずっとカメラを向け続けていた。
 あの夜サザレに出会っていなければ、私は今頃どこで何をしているのかわかったものではない。吹っ切るのに時間もかかったろうことは想像に難くないし、いつか前を向けるようになったとしても、少なくとも私の隣にサザレは一生いてくれなかった。行き場のない傷んだ気持ちと涙を外に出すことも出来ず、自分の中で燻ぶらせて、容易に前を向けなかったに違いない。
 どこかで予感があったのかもしれない、今になってもみれば。なので私も、嫌悪感を抱かずにサザレにカメラを向けられるのを許していたのだろう。

「ほんとに。ほんとーに、すっごく、綺麗だ」
「……うん」

 自分の写真だけれど。でも、本当に、酷く綺麗だった。自分の顔という話ではなく、一枚の写真そのものが、とても綺麗だ。くしゃくしゃの顔で、ぎこちなさそうに、でも軽やかに笑う頬と、そこを流れる透明な一つの涙。終わりと始まりの象徴。眩しく光り輝くでもなく、公園の限られた光の中で、薄く浮かぶだけのそれ。被写体の私も特別美人ではないし、腫れぼったい瞼と強張った頬を持ち上げた、ぎこちない笑い方。なのに、不思議と目にする人たちに、綺麗だと思わせる。サザレの腕がいいのも勿論だが、我ながら、意味のある涙だからこそ綺麗だと感じている。

「あの日、あそこにいたのがイリスでよかった」
「私も、サザレでよかったよ」

 一つの写真を眺めながら、自然と手と手が絡んだ。私の、大きく引き伸ばされた泣き顔の前で。前進のために零した涙を、サザレに切り取ってもらった奇跡の夜の前で、私達は手を静かに繋ぎ合った。私達の手の中には、過去ではなく未来が握られている。


20240326