短編
- ナノ -


 ハッピーをくらえ


 帰宅早々、家のドアを開けた先で、真っ先に目に飛び込んできたのはイリスの意味ありげだが愛らしい顔である。ルームウェアのまま着替えもせず、にたにたと笑っているその顔はろくでもないことを考えている証拠であり、反射で口を引き結んだ。

「今夜も、泊めて?」

 はあ、とわかりやすい溜息を吐いた。でも、昨夜はソファの上でだらけたままおざなりに今日もここで眠る宣言をしていたので、こうして出迎えに歩いてきた上におねだりをするだけ、まだ殊勝と言えるかもしれない。

「いい加減自分の家に帰れ……」
「面倒なんだもん。こっちの方が職場も近いし」
「ならこの辺に引っ越せばいいだけの話だろ」
「簡単に引っ越しって言うけど、かなり大変なんだよ。ねー、いいでしょ?掃除も洗濯も料理もちゃんとしてるし」

 その辺に関しては甘えている自覚があるので、咄嗟に反論が出てこない。イリスが気まぐれに泊まるようになってからというもの、確かに家事のほとんどは彼女にしてもらっている。特に頼んだ覚えはないものの、何やら自主的に自分で動いてくれているものだから。もちろんここに泊まりたい下心から起こしている行動だとしても、実際あまり手を回そうとしてこなかった家の中のことをやってくれているので、助かっていると言えばそうなのである。
 けれども。イリスが家にいるのといないのとでは、心の持ちようがかなり変わる。困ると言えば困るのもまた真実なのだ。

「……それに、ほら」

 辿り着いたリビングで、ソファの上にジャケットを落とすと、下に着ているシャツの背中にイリスがぴたりと隙間なく張り付いてくる。狙ったようなタイミングで、実際そうなのだろう。

「宿泊代、ちゃんと今回も払うから」

 むにゅりと柔らかい感触が、背中を襲う。わざと下着を外して待っていたイリスが、汗で蒸れたままの背中に頬ずりしてから、ゆっくりと俺の脇腹から腹筋にかけて撫でて、ベルトの下へ指をもったいぶるように這わせる。ぞくりと肌が粟立ったのは隠せない。



 寝るようになったのは、そろそろ金をとるぞ、と半分冗談、半分嫌味で小言を口にしてからのことだ。
 ジムチャレンジ同期、でも彼女が早々に表舞台から去って以降は細々と連絡を取り合うだけ、だなんて脆いよすがを辿って俺の元へ突如やって来たイリスが、驚いて動揺する俺を尻目に、少しの間口をあぐあぐとさせた後に今夜泊めてほしいと口にして以降。行くところがない、と次いで困り顔で零された声を突っ撥ねられずに、正真正銘寝床だけを用意してしまったのが事の始まり。だが味を占めたように、それから事あるごとに俺の家にやって来ては泊めてくれとねだられることが増えて、それはもう両手では数えきれなくなった。

「またか……」
「お邪魔しまぁす」

 もうこれで何度目だろう。一度OKを出してしまったから、強く断れなくなった俺を見透かすように、イリスは俺の苦い顔を前にしたところで引こうとはしない。なんとも都合よく使われているものだ。そうは思うけれど、じゃあここで放り出そうなんて気になれないのだからお手上げだ。話をしている内にボロを出した彼女の、どうやら行くところがない、が嘘であることはとっくにわかっているのに、どうしてこうも俺の家に泊まりにくるのかわからない。理由を聞いたところでお決まりの「行くところがない」が返ってくるだけだ。自分の家はしっかりとあるのに、こうして泊まりにきて俺の家から職場へも向かっている。全くどうして俺の家にばかりこうして上がり込むのだろう。

「ダンデ、ここ借りるね」

 家主の許可も得る前に自分の化粧品を並べるイリスは、最早勝手知ったる他人の家を好きに使っている。家具とバトルに関係するもの以外は家の中にあまり置いていないので、だめだと言い張れる程のスペースがないわけでもない。それもまた一度許してしまったからだ。イリスは最近着替えも置き始めている。

「どうしてこうも、俺の家に来るんだ」
「だから行くところがないからだってぇ」
「自分の家も職場もあるのに?」
「自分のいるところじゃないって思ったらそうなんだよ」

 屁理屈ばかりで誤魔化すイリスは、シャワーを浴びたほかほかの体でくるりと振り返る。乾かしたての髪の毛がさらりと回転に合わせて軽く舞う。ついでにルームウェアの下の胸も重力に合わせて軽く。ふい、と目を逸らした。初めて泊めた日もそうで頭を抱えたくなったのをしつこく覚えている。寝る時は下着をつけない主義なのかは知らないが、そもそも付き合ってもいない男の家に軽率に泊まりにきていることに、もう少し考えを回してほしい。もちろん、泊める方も泊める方、だけれど。

「これでもう何度目だ……そろそろ金でも取るぜ」
「お金?」

 視線だけでなく意識も逸らすことに必死だったから、深く考えた言葉ではなかった。でも隠せなくなってきた苛立ちも多少なりと含まれていたのは確かで。人の気も知らないで無防備にしているイリスの本心もわからなくて。行く宛があるくせに適当な理由を並べて、あんな薄い服一枚で平然と笑っている。その迂闊さが憎たらしく思える瞬間もあるくらいに。だけど、こんなに近くにいてくれることに喜びが一切ないのか問われたら。

「うーん……手持ちは心許ないから、そうだなぁ、」

 悩む素振りに視線を上にした後、これまた無防備にとことことこちらに歩み寄って来たと思えば。

「……こっちじゃ、だめ?」

 やわく抱き着いてきた。いきなりのことに固まる俺に、イリスは変わらず無防備な風体で。そうして、執拗に胸を押し付けてくる。
 ますます喉が締まる。何言ってるんだとか、お前の頭はどうなっているんだとか、常識の中にいる俺の理性がもっともらしい糾弾を内心で暴れさせるが、一方で洗い立ての体やら髪やらの、俺と同じシャンプーの匂いとか、柔らかさとか、そういう甘ったるい要素が俺の行動の自由を端から奪っていく。乾いた筈の咥内に、じわりと粘液が生まれて、また乾いていく。
 差し出されようとしている、好きな女の体。

「わたし、ダンデなら……いいよ?」

 結局葛藤も虚しく、たくさんのことに負けて、馬鹿みたいに抱いた。


 それからというもの、対価方法を覚えてしまったイリスは毎回体で払うと言ってのけるようになってしまった。お前の貞操観念はどうなっているんだと詰め寄りたくなるのは正直なところだったが、じゃあそのまま放置して背中を向けられるのかと言われれば、そうもいかないのが残念な現実である。なにせ、好きな女だ。元々格闘していた理性と本能にあちらから手をかけられてしまったのだから、いくら躊躇はしてもその末に体に触れてしまったのだから救いようもない。

「今夜も泊めてー」

 遠慮すら見せなくなってきたイリスは、堂々と俺の家にやって来て、最近は手ぶらで来るようになった。すっかり部屋の一角を占領して、そこに自分に必要なものを並べているからだ。段々と口酸っぱく帰れということも面倒になってきたし、何より最低な形の宿泊代を既に何度も貰った手前、いきなり突っ撥ねるのも後味が悪いというか。負けたのは自分なので、気が引けて頑なに家から追い出そうという気が削がれてきている。
 何より、家にいたらいたで家事を一緒にしてくれたり、料理を作ってくれたり。今まであまり二人きりで関わってこなかった反動か、急速に知るイリスの人となりとか、生活の様子を知ることに嬉しさがあった。何より、他愛ない話をすることに癒されている自覚も出てきている。昨夜は疲れている俺を見かねて肩を揉んでくれたり。いつも頑張ってるねとか、大変なことも多いのに凄いねとか、ありふれた労わりの言葉なのに、不思議とイリスに貰えると疲れが少しずつ消えていく。幸か不幸か、もう彼女がこうして側にいることに慣れてしまった。

「あ、今夜の宿泊代だけど」
「え、ああ……」
「やっぱりまた、こっちでいい?」

 いつの間にか俺のベッドに先に転がっていたイリスが、パジャマにしているワンピースタイプのルームウェアから、するりと下着を抜いた。見せつけるようにひらひらと揺らして、かどわかす女の顔で笑っている。好きな女に誘われて今すぐ飛びつきたい気持ちと、こんな形で彼女に触れていてはたして良いのかと、よくできた理性がこの場に留めようと今夜も働く。全く今更なことばかりだが、いつもこうしてしばしの葛藤はしているのだ。このまま名前のよくわからない関係を、なあなあに続けていってもいいのか。とはいえこんな形で彼女が側にいることを許してから大分経つし、今更何を都合の良いことを言っているのかと。どんな理由であれ、最後に手を出したのは俺だ。

「だめ?」

 こてんと首を傾げた好きな女が、甘い顔で俺を待っている。か細く揺れる吐息や、微かに上下する胸元に、何より俺を待ちわびるワンピースの下に、ごくんと生唾は禁じ得ない。ぐるぐるとどうせ詮無いとわかりつつも、言い訳染みた言葉がいくつも俺を自戒に追いやっている。
 俺はこんな形でお前に触れたかったわけじゃなくて、気持ちを伝えたいとか考えていたわけではなくて、そりゃあいつかは距離を縮めたいとか考えていなかったわけではないし、遊びに誘いたいと思っていなかったわけではなくて。ただ笑っている顔を遠くから見ているだけで満足していたわけで、別に、本気で金を取りたいとか考えていたわけではなくて――。

「……好きなプレイ、なんでもしていいよ」

 三回は抱いた。


  ◇◇


 なんだかなぁ、と溜息が漏れた。取引先から戻る途中の街中、リザードンに先導してもらいながらタワーへ戻る間も、頭の中はイリスのことばかりだった。気分を晴らしたいがためにわざわざタクシーではなく地上を歩いているのにも関わらず、やはり頭が容易に軽やかになることは難しそうで、また一つ溜息が。
 気付けば一ヶ月以上、へんてこな生活を送っている。もちろん家に突撃してくるイリスに押し負ける俺が悪いし、宿泊代と称した対価を拒まないのだから彼女ばかりを責められない。それで律儀に毎回対価を貰っているのも俺である。

 でも、好きなのだ。側にいてくれることに喜びはあるし、楽しさもあるし、心地良さもあるし、御しきれない触れる悦びも。何をどう考えを巡らせたところで、行きつく終着点は「好きだから」のたったの一つしかない。イリスが俺をどう思っているのか、本心もわからないくせに、あの愛らしい顔で笑いかけられると簡単に陥落させられてしまう。
 とはいえ。このままでいていいとはさすがに思ってはいなかった。どこかで、はっきりと区切りをつけないといけない。このままじゃただの都合の良い関係でしかない。ここまで関わった以上は、タイミングを見計らって清算は必要なことだろう。

「わかんない……好きとか言ってくれないし、怖くてまだ言えないよ……」

 ――などと、くどくど考えていた自分が吹き飛んだ瞬間である。

「男って好きじゃなくても抱けるもんなぁ」
「あああああっやっぱり間違えたんだ……!あんなこと言わなきゃよかった……!」
「わかんないよ、いつかは好きになってもらえるかもしれないじゃん。一応尽くしてるんでしょ?」
「だって気が利くって思われたいもん!家事できない女って思われたくないし!」
「別に家事出来なくてもこのご時世うるさくないじゃん。世は共働き、折半の時代」
「でも!でも!ちょっとでもよく思われたい!」

 大通りにあるカフェのオープンテラス席で、偶然にもイリスを見つけたまではよかった。見慣れてしまった後ろ姿にわかりやすく心臓が疼いて、でも向かいに知らない人間が座っていたがために声を掛けるのを躊躇った矢先。耳に飛び込んできたのが甚だ予想もしていなかった台詞だったから、足先が縫われたように中途半端な距離で足を止めてしまった。

「なんかもう居てもたっても居られなくなって押しかけたまでは良かったけど……そこからどうしたらいいのか急にわかんなくなっちゃって……意識してくれてるのか全然わからないままだし、このままじゃただのセフレだぁ……」
「まずいきなり押しかけるところから間違ってたんだって」
「最初は遊びに行こうって誘うつもりだったの!でもいきなり連絡いれるの恥ずかしくなっちゃって、どうせなら顔見ながらと思って、右往左往してる内に気付いたら家に行ってた……」
「前提から可笑しいんだよなぁ……」
「そのまま本当に泊めてくれちゃうし……対価、も受け入れてくれちゃうし……このままいけば好きになってくれるかもって期待しちゃったけど、あれだけしてても嘘でも好きの一言もないし……どうしよ……」
「だから最初から好きって言っとけばよかったのに。ていうか、好きって言い合わなくても男と女なんてなるようになるもんだと思うけどね」
「なってないから困ってるんだよ!!」

 わああ、とテーブルに突っ伏して泣き崩れるイリスと、対面で座る女性は呆れとつまらなさを同居させながらそれを眺めている。恐らくは俺の知らないイリスの友人と思われるが、それにしたって言葉の数々が俺にも突き刺さっていささか頭痛がした。けれども、自分の痛みにばかり気を取られている場合ではなかった。
 さっきから、イリスは何を言っているのかと、思い出して一つずつ反芻する。指先がむずむずとして、かっと頭に血が集まる感覚。興奮を抑えきれなくてぶるっと身震いした。
 だから、縫われていた足を解いて、のしのしとイリスの背後に迫ってやったのである。

「……え、あっ!?ぅぇダンデ!?」
「ダンデ!?」

 最初に気付いたのは女性で、俺を見つけるや否や椅子から転げ落ちそうになる。同時に俺の名前を叫びながら勢いよく頭を持ち上げたイリスは、ぐるぐると頭をあちこちにやって、最後にようやく真後ろに佇む俺に気が付いて、潤んだ瞳を大きく見開いた。その涙のきらめきが陽に透けて、かけがえのない宝物みたいに酷く綺麗だった。

「……」
「……」

 目が合って互いの存在を認知したものの、先に口を開こうという勇気がないらしい。妙な顔つきのまま見つめ合い、でも先に我に返ったのは俺達を好奇心溢れる眼差しで見ていたイリスの友人なのだから、なんだか滑稽である。

「……あッ!?まさか!?好きな男友達ってダンデのこと!?まじでっ!?」

 まるで点と点が繋がったように。ぴこん、と頭に電球の効果音でもつけそうな閃き顔で友人が手と手を打った。先程までのつまらなさそうな顔が一変していて、野次馬精神が突き出している。
 その友人の言葉に、イリスの顔が夕焼けも負ける程に、瞬く間に真っ赤に染まった。

 そうして、脱兎と見紛う俊敏さで、突如として走り出したのである。

「なんでだ!?」
「無理無理無理ッ!!」

 反射的にリザードンも友人も置いて追いかけ始めたが、元々あらゆることで差がある我々である。そもそも足の速さもコンパスの長さも違うのだし、距離なんか瞬きの間に縮まってしまう。びゅんびゅんと風を切る音が耳の横で鳴るのが、なんだか軽快だった。
 けれども、その短い追いかけっこの時間で、脳内が嵐のように吹き荒れていたのは確かである。
 いつから俺のこと好きだったんだとか。なんでもっと早く言ってくれないんだとか、言えないからって行動がやっぱり突飛過ぎだとか、お前だって好きって言わなかったじゃないかとか。まずは自分のことを棚上げにしてから、イリスのこれまでの一連の言動に文句をつけた。次いで、ああ言ってもよかったのかと、一抹の後悔が走り抜けていく。

 とうとう掴まえたイリスは、服から覗く肌全部を真っ赤に染め上げて、はくはくと口を開けては閉じさせながら、自分を隠すように下を向く。そのあまりのいじらしさと、あんなに俺の前で女の顔を見せたくせになんだその態度、と愛らしさに気持ちがもう制御できなくなってきた。く、と唇を噛んだ抵抗も虚しく、イリスの腕を掴む力にも熱が籠るばかりで。

「……っ式は!!」

 だから、制御できなくなった気持ちは勝手に口から出て行った。

「シュートシティの大聖堂!!ガラル中に中継しよう!ドレスも好きなだけ選べばいい!そうやって、みんなに見せつけてやるんだ!!」

 今度はイリスがはく、と口を開けあぐねて、でも次の瞬間には湖みたいに瞳にたっぷりの涙を溜めてから、わああ、と大声で泣き始めた。小さな子供みたいに顔をぐしゃぐしゃにして泣くのに、世界で一番尊くて、愛らしくて、ずっと手放したくない美しい涙だった。

「……わっ、わたっ、私の意見も聞いてよおおおお!!」

 いくらでも聞いてやるって、有無を言わさず強く抱き締めた。


20240227