短編
- ナノ -


 明け透け下心


 繁忙期というものはまったく。
 こなくそ、と思いながらひたすら目の前のタスクを消化するだけの虚しい時間。周囲が死んだ目をする最中、私も同じだろうなとせせら笑う余裕も皆無。だから、みんな自分の仕事が終わったらそそくさと退社していく。これがそれぞれに精神的にも肉体的にも余裕があれば助け合ったりもするが、今のシーズンはそれすらも上等な奉公精神になってしまうだろう。
 余計なことは考えるな。今は目の前のものを潰せ。その一心で、途中からは脇目もふらず書類の作成と整理に打ち込んだ。何度か目がちかちかとしたが、目薬をさしたり立ち上がって体を伸ばすなんてことも忘れて。
 気付いたら辺りはすっかりと静まり返っていた。ようやくきりのいいところまで終えたのと、お腹が元気な音を鳴らしたことで我に返ったわけである。んー、と唸り声を上げながら腕を伸ばして、くたびれた体にゆっくりと酸素を送り込んで吐き出す。首の筋が痛むのでぐるぐる。ここまで終わらせたのならば、見直しは明日でもいいだろうか。そんなことを回りが悪くなった頭で薄っすらと考えつつ。

「終わった?」
「は?」

 もう無人になったかと思ったフロアに、やたら軽い声が響いた。驚き隣を見やれば、デスクに頬杖ついて私を見つめるチリさんがにこやかに笑っていて、ぎょっと体が跳ねた。リアクションがお気に召したのか、チリさんはだはは、と肩を揺らしながら笑った。

「すまんすまん、驚かせたんね。やっぱりチリちゃんこと気付い取らんかったんか」
「いつからいたんです!?」
「さっきからずぅぅっとよ」
「声かけてくださいよ!?」
「えらい集中しとったから、邪魔したら悪いかなとおもて」

 ゆるく頬を持ち上げて笑うチリさんだが、その返答に一瞬で鈍くなった筈の頭が回転して、いくつかの疑問を打ち出した。さっきからとはいつからなのかとか。集中していたからって黙って隣に座っていたのとか。そもそもなんで貴女までまだ残っているのかとか。全て顔に出てしまったのか、チリさんは未だにゆるく笑ったまま答えをくれた。チリさんは私の顔から気持ちを読んで、先んじて言葉を発するきらいがある。

「帰ろうかと思ったらまだイリス残っとったから。こんな遅い時間に一人で帰るんは危ないやろ」
「え、いやそんなこと……ていうかすいません!?わざわざ私のために残っててくれたんですね!?すぐ帰る支度しますから!」
「ええって別に。チリちゃんが勝手に残ってたんやし。気にすることないで」

 その言い方はちょっとずるくない、と思うも、私のことを気にしてとっくに帰れた筈なのに残っててくれたとわかれば、申し訳なさが一気に天井まで突き抜けていくわけで。がたがたと椅子を鳴らしながら立ち上がって、慌てて荷物を纏める私と対照的に、長い足を伸ばして優雅に腰掛けたままのチリさんはといえば。

「イリスのかわゆい顔眺めとったら、アッちゅう間だったし」

 優しい顔でその言い方もちょっとな、なんて歩き始めながら思う。

「これからは気にせず帰ってくださいね。しばらくは定時で帰れないと思いますし」
「ん〜」

 これはその気がないな、とすぐさま察したが、長い足を私のペースに合わせて真横を歩いてくれるチリさんの気遣いが身に染みて、あまり強くは言えない。元々職員には気さくに話しかけてくれるし楽しそうに話を聞いてくれる人だから、自分だけ帰るって選択をさせられなかったのが申し訳ないことも相俟って、同じ言葉は続けられなかった。

「女の子一人で暗い外を歩かせられないやん。ええんやで」
「チリさんだってそうでしょう」
「やから、二人で帰っとるやろ?」

 口がうまいため何を言ったところでチリさんのペースになることは自明の理。ここは大人しく、感謝の言動をとるべきだろう。どの道一人で帰ることに寂しさとか怖さはあったから、チリさんが隣にいてくれることに安心は否めない。だから、ありがとうございます、と今度こそ伝えた。そんな私は、素直な子はかわいい、だなんてけらけら笑い返されるのだ。

「にしても、なんでこんな遅くまで残っとったん?他はみぃんな帰ったのに。いくら繁忙期とはいえ、根詰めるんはいけないやろ」
「キリのいいとこまで終わらせたかったので」
「せやかて、限度があるんやで。明日ははよ帰りや。でないと、チリちゃんがお迎えにいくからな」

 はぁい、とは返事をしたが、多分生返事になっている。だってこうしてチリさんと一緒に帰るのは悪くはない時間なので、また帰ってもいいかも、なんてつい思ってしまった。前々からよく話しかけてくれる人なので、結構打ち解けている空気は私達にはある、と内心ではこっそり思っている。前髪を少し切っただけですぐに言い当ててくれる人だ。元からの印象がかなり上向きなので、申し訳なさはもちろん残しつつもこうして一緒に帰るのは楽しいなぁ、だなんて。

「あ、そうや」

 チリさんが色々と話題をふってくれる最中。二人で談笑しながら歩いていると、おもむろにチリさんがポケットに手を突っ込んだ。何事かと思いきや、そこから取り出したのは小さなキャンディで、口寂しくなったのかと薄っすら思った矢先、ほい、と指先に摘ままれたそれを私に差し向けた。

「くれるんです?……あ!いちご味!」
「イリス、いちご味好きやろ」
「えー!ありがとうございます!丁度甘いもの食べたかった!」
「頑張ってるイリスにご褒美やで。ゆうて、飴玉一個じゃご褒美には足らんかもだけど」
「そんなことないですよ!」

 キャンディ一個ではしゃぐのも大人げないかもしれないが、本当に甘いものが欲しかったのでテンションだってあがるわけで。疲れで若干ハイになっているのもあるだろうが、こういうところがチリさんのいいポイントなんだよな。改めてその気遣いに感謝しつつ嬉々としてキャンディを受け取って、早々に包みを開いた。

「ご褒美、そんなうれしいん?」
「めっちゃ嬉しいです!」

 ご褒美って単語にも付加価値があるよなぁ、と舌で甘いいちご味を転がしながらしみじみと思った。大人になると褒められることなんてほとんどなくなるから。ご褒美って言葉がくっついてくるだけで慣れたいちご味が三割増しで美味しく感じるし、気持ち的にもこんなに嬉しい。そんな子供みたいなことを考えてにこにこしている私を、チリさんはこれまたにこにこしながら見ていた。



「ぎょうさんあんなぁ」
「明日の朝日……ははっ……拝んでいくかぁ……」
「しょげるなってぇ。チリちゃんも手伝ったるさかい」
「え!そんな!?悪いですって!ありがとうございます!」
「ははっ!素直な子ぉ」

 ぱっと目を輝かせてチリさんを見やったのは現金だったかもしれない。けれど、助けを申し出てもらえたのに素気無く断る程の精神的余裕などなかったのだ。チリさんだって自分の仕事に追われてようやく終わったのだろうに、またも残業に途方に暮れていた私を発見して、こうして隣に腰を下ろしてくれたのだから、この人優しさが菩薩レベルなのかもしれない。

「とりあえず、ここまで終わらせよか。優先せんでもええやつはチリちゃんが分けとくから、まずはそっちから始めとき」
「仏……?」
「そうやそうや、ありがたーく思っとき」

 なんだか後光が差しているように見えてきた。ふざけているわけではないがふざけている疲弊した頭が幻覚を見始め、眉間を揉む。しかしチリさんはそんな私を優しい目つきで見ている。前々からいい人だとは思っていたけれど、ここまで優しさがカンストしていると本当に同じ人間なのか疑わしくなってくるレベルだ。何が目的だ?とくだらないことまで考える始末だったが、金も地位もない事務員の私からとれるものなのなど何一つないと思うので、単にチリさんが仏なだけだ。
 とまぁ、チリさんが仕事を手伝ってくれるイベントが二日連続で起こり、なんとその後も、頻繁にラッキーイベントが勃発したのだから仰天である。いいや僥倖と言うべきかもしれない。そこまで切羽詰まっていない時は流石に遠慮するが、必ず分担を申し出てくれるのだから最近は頭が上がらなくなってきているし、チリさんを見かけるとすり込みされたように嬉しくなってしまう。なにせチリさんは、に、と口角を上げながら、毎度私にこう告げるのだ。

「えらいなぁ、ご褒美やで」

 最初こそいちご味のキャンディだったのが。少しずつご褒美がグレードアップされていき、ここ最近はムクロジのスイーツにまで変貌した。あのムクロジの、である。どうやらきちんと自分で足を向けて列に並んで買ってきているようで、まさかご褒美のためだけに?とおめでたい頭が弾き出してしまったが、まさかのその通りらしく本格的に頭が上がらなくなってきた。ちゃんと自分の分も買っている様子だが、私が好きなスイーツばかりが渡されるのだ。多分初日の死んだ顔が効いているのだろうと思う。憐れまれていることに悔しさも覚えない程、もう本当に地獄を彷徨っているような心地だったので、可哀想と感じてくれているのだろう。さすがは仏レベルの優しさの持ち主である。

「お、今日もがんばっとるなぁ」
「今日はそろそろゴールが見えそうなんですよ!」
「そっかそっか、ようやるもんや。そんじゃあ、ほい、ご褒美」

 今日も今日とて残業に身をやつしていると、まるで他の職員が帰ったところを見計らったようにチリさんが現れた。恐らくはご褒美持参だから、他の人に見つからないようにしているのだ。気になってそれとなく周囲に伺ってみたが、私以外にチリさんからご褒美を貰っている人はいなかったため、こうして人気のなくなった頃合いでチリさんは現れる。私も、別に毎日残業しているわけではなく、休憩中で一人でいる時なんかにもふらっとチリさんは現れるから、私をわざわざ探してご褒美をくれに来てくれるチリさんには、条件反射のように浮足立つようになっていた。今もそうで、案の定のご褒美にぱっと目を輝かせた。

「わーん!嬉しいです!これ食べたかったやつ!」
「この前そんな話しとったやろ」
「いつもいつもほんとすいません!ありがとうございます!あ〜〜砂糖が身に染みる……」
「ええんやで、遠慮せんとそうやってありがたぁく思ってくれた方がチリちゃんも嬉しいもんや」

 今日は最近テーブルシティにオープンしたパン屋のラスクだった。どのパンも絶品だが、そのパンを使ったラスクが美味しいって話をネットで見たので、ずっと気になっていたやつ。でもチリさんに直接その話したっけ?と一瞬首を傾げたが、誰にどんな話をしたのかなんて一々覚えてはいないので、どっかのタイミングでぽろっと漏らしたのだろう。最近はよく二人で帰っているし。

「どうや?仕事、辛くない?こんなに残業ばっかで嫌んならん?」
「んー、忙しい時は正直辛くなるけど、でも楽しいことも多いですよ」
「チリちゃんもおるしなぁ」
「いつも美味しいものをありがとうございます」

 手元のラスクを敬うように掲げると、チリさんはぱちりと瞬きをして目を丸くした後、くはっ、と気の抜けたように破顔した。

「すっかりご褒美が板についてしもうた」
「その言い方はちょっと可笑しくないですか?」
「もうチリちゃんイコールご褒美になっとるやろ」
「そっ……んなことはないですヨ?」
「なはは!ええって別に!」

 素直でいい、と褒められてきた結果、こうやってついついと本音をぽろっとしてしまう場面も増えてきたものの、それも軽快に笑い飛ばしてくれるのがチリさんという人である。本当にめちゃくちゃいい人すぎるよなぁ、と改めてしみじみ感謝を抱きつつラスクの箱を開けた。個包装のそれを一つ拾い上げて、目の前に持ってくる。小さくて細かい砂糖がまぶされたラスクは照明の角度によっては光っているようにも見えて、綺麗だと思う傍ら疲れた脳が早く寄越せといささか喚きだす。これもチリさんがご褒美として与えてくれなければ、中々手に入れられない代物だ。さすがに悪いなぁと思わなくはないので、近々何かしらお礼の品でも返そうと密かに計画している。

「嬉しい?」
「とっても!」
「そら良かった」

 ――ああ、まただ。
 掌サイズに満たない大きさのラスクの向こう側に。頬杖をつきながら足を組んで私を見やるチリさんのななめ顔は、見間違えようもなく優しい。仕事中の真剣モードではこんな穏やかな顔は拝めないし、基本的に一人で仕事をこなすかオモダカさんについて回るチリさんが、これ程までに波風のない顔をしている様は、ここ最近になってようやく知った。確かに元々気さくな人で、真剣モードの時以外はかなりフランクで、頻繁に話しかけてくれたりしたけれど、こんなにも凪いだ顔はこの数週間の内にすっかり見慣れてしまった。

「ご褒美あると、やる気出る?」
「もうそりゃあむっちゃくちゃ出ますよ!チリさん様様です」
「そっかぁ。なら、次はとっておき、用意したげるよ」
「え!?」

 思わずひょい、と首を伸ばして身を乗り出すと、なははと口を開けてチリさんに楽しそうに笑われてしまった。でも羞恥などなんのその。ここまで私の欲しいものを与えてくれるあのチリさんだ。そんな人のとっておき、なんて前置きに食いつかないわけがないのである。
 期待が200パーセント程顔に出てしまっているのだろう。それでもチリさんは嫌な顔一つせず、に、と器用に口角だけを上げて、私を見ていた。

「楽しみにしとってな」


  ◇◇


 ん、と長い腕が左右に拡がる。私はきょとんと目を丸めて、どういうことなのかとチリさんの頭から足先までを順に眺めてみた。相変わらず細いシルエットには、見慣れた服しか纏っていない。いつもご褒美だよ、と私に差し出してくれる紙袋は大抵黒いグローブの先に引っかけられているので、拡げられる腕に何も見当たらないのであれば、私にはチリさんの意図をわかりかねてしまう。
 とうとう繁忙の原因となっていた仕事に方が付いたので、正直期待ばかり膨らませていたのだが。まさかの手ぶらのご登場に厚かましいことこの上ないが、動揺は禁じ得ない。

「せやから、ご褒美やで」
「?」

 尚も意味がわからず首を傾げ続ける私に苛立つ気配も見せず、チリさんはにたりと、口を三日月型に動かした。お陰で薄い唇にばかりやたらと目が行ってしまう。形を変えた唇がもったいつけるように開けば、尚更。

「チリちゃん丸ごと、ご褒美や」

 どういうことだ、と一瞬思うも、遅れてなんとなくだが理解が出来てきた。ええ、と戸惑ってしまったが、そんな私など構いやしないのか、チリさんが一歩ずつこちらに歩み寄ってくる。拡げたままの腕が私の肩にそうっと置かれ、するすると下へと伝った後、掌をやわく拾う。一瞬じりっと拾われた指先が焦げた感覚がした。でもチリさんの笑顔は微動だにしない。

「イリスの好きにしてええんやで、チリちゃんのこと」

 ええ、と再び戸惑い顔の私と、最後にはチョコレートが溶けるように綻んでいくチリさんの笑み。先日貰ったチョコレートの味がかすれてしまいそうなくらいの、本当に甘い笑みである。

「ごっ……ほうび、チリさん?」
「そうやで。あ、リボン巻いとくべきやった?」
「いや別にそういう意味じゃ……」
「よかった。ありのままのチリちゃんの方がええかなぁと思ったんよ」

 まるで天才的な妙案だろうとでもいいたげな得意顔に変わったが、人間一個丸ごとご褒美と宣言されたところで、どうしたらいいのかわからない人生しか送ってきていない私は、右往左往するばかり。これはあれかな、プレゼントは私だよハート、的なものなのだろうか。生憎その経験も人生の中で出くわしてはいないので、ますます混乱してきた。
 けれども。チリさんの顔を見つめていたら、少しずつ、少しずつ、意味がわかってきたような。これは本当に、そのままの意味なのだろうと。理解してしまうが最後、目の前で惜しみなく晒されている溶けたチョコのような笑みの正体に辿り着いてしまって。
 嘘だ、とか。いやまさかとか。色々と否定を打ち出してみようとするも、砂糖の方が掠れて思えるようなべたべたに甘い笑みの前では否定論が今や成立しそうにない。だってそうなると、今までのあれもそれも、全部が全部。

「好きな子にはいい顔したくなるもんやろ?」

 またも私の表情から内心を見透かして、先手を打たれた。はく、と言葉を失くした唇が無駄な空気を吐いたが、なり損ねた言葉すらもチリさんはわかってしまうらしい。保たれる三日月型の唇は、けれどいやらしい形ではない。あくまでも甘く、優しく、そうして、緩やかに。

「チリちゃんこと、イリスはどうしてくれるんやろ。わくわくが止まらんわぁ」

 心臓がばくばくして、何故か汗が一つ滲んできた。首を傾けながら甘さを極限まで煮詰めた顔で覗き込まれて、拾われた指先をすりすりと擦られて。平静を保てる術があるのならば、今すぐ教えてほしい。


20240125