短編
- ナノ -


 御伽噺を始める

※ポケマス軸


 カランコロンと鳴るベルの音がとても軽快だった。ドアを開けた先にある、静謐ささえ漂わす店内。けれどこちらを圧倒させる極彩色の楽園のようにも見える。所狭しと鮮やかな生地の並ぶそこは、こじんまりとしているのにどこまでも世界が拡がり続けるような、油断すると極彩色で果てのわからない深淵へと吸い込まれてしまいそうな、不思議な錯覚を覚えさせた。
 無人かと最初は思いきや、よくよく目を凝らすと、一番奥に小さな人型を見つけた。大きな棚や机の上には畳まれた生地やらハサミにミシン。それらに押し込まれるようにちょこんと椅子に座り、ほんの少し首を傾けて目を閉じるその小さな人形――いや、微かに胸元が動いていることからかろうじて人間とわかるその少女は、俺が目の前にまで歩み寄ってもちっとも動く気配がない。
 しかし、それにしても。まるで生きている人間には思えない程精巧な作りをしている少女である。評判を聞いて足を運んだものの、少女は店主の娘であろうか。昔テレビで観たジョウト地方特集でピックアップされていた人形を彷彿とさせる小さな女の子を、眠っているのをいいことにまじまじと観察する。不躾なのは甚だ承知しているが、疑ってしまう程に人形染みているのだ。
 肌が真っ白なことも人形を思わせる一端だろう。人形は人形でも、ビスクドールではなく東方の人形。エリカに似たそれは着物だと以前教えてもらった。かといってマーシュのように独創性を感じさせるものでもなく。後頭部には大きめのリボンをつけており、髪色にいたく映えているのに馴染んでいるものだから、あわや体の一部だと思わせてくる。

 彼女は正にトリックスターさ。そうしみじみと語っては笑う、この店を紹介してくれたギーマの横顔を不意に思い出す。哀愁を感じさせつつもどこか恍惚としたあの色は、果たして。

「本当に不躾ね」
「!」

 旋毛から毛の先を。顔のラインから首元を。なだらかな体の表面を下に追って足の先まで。一頻り眺め終えた後になって、どこからか凛とした声が響いた。思わずびくりと体を震わせて左右を見やるも、そこにあるのは赤や青の生地やらレースばかり。

「どこを見ているの?ずっと目の前にいるのに」
「……喋れるんだな」
「人形だと思った?もう耳にタコ」

 人形だと最初に勘違いしたものの、しっかりと人間であることは理解していたのに。いざその睫毛を瞬かせて小さな唇を動かす様を目の当たりにするのは、酷く可笑しな気持ちにさせられる。真っ黒い瞳に真っ黒な睫毛の影をさして、桜色の唇が楚々と開く。見えないベールが少女から広がったように見えて、目をぱちりとさせる。世界に隠されるように存在を小さくして目を瞑っていたのが嘘のように、今や彼女を中心に世界が確立されているのだ。
 そうして嫌な程に痛感するのだ、己の考えが間違いであったことを。痛烈に正常な認識を叩き込まれる。この少女こそが、この世界の主であることを。

「ガラルのチャンピオンね。ああ、今はもう違うのだっけ?」
「少しややこしいが、ここにいる俺はどちらでもあるんだぜ」
「ここは不思議の国だもの。ややこしいけれど、理解はしている。貴方以外もみんなそうだもの」

 黒い睫毛が強かに上下する。先程まではか弱くて不思議な人形をしていたのに、今では数百年を生きた老齢のような落ち着きさを払っていて、見ていると時折脳がバグりそうになる。東洋の人間はガラルの人間からすると外見と年齢が釣り合わないと驚かされることも多く、彼女もそれに当て嵌まるのかもしれない。とはいえ彼女の容姿はやはり少女にしか見えず、どう考えても年下としか思えない。

「で?わざわざここを尋ねたということは、仕事の依頼でいいのね」
「ああ。俺にマジコスを誂えてほしいんだ」
「ムゲンダイナをパートナーにイメージした、ね」
「なんだ、知っているのか」
「当然」

 そうっと椅子から立った彼女が、早速手慣れた様子でアンティークな桐棚から黒い生地を見繕い、糸を集め、彼女が持つとちぐはぐな大きなハサミを手にする。歳の割に話が早いなと舌を巻いて感心しながらその挙動を見守っていると、彼女がくるりとリボンをひらひら揺らしながら振り向いた。そして、俺に一言淡々と告げるのだ。
 脱げ、と。

「脱げ?いきなりか?」
「そうじゃないと採寸できないでしょう。鍵はかけておくから、さっさと裸になりなさい」
「裸!?そうまでしなくても採寸はできるものだろう!?」
「数ミリが命取りになることもあるの。だから裸が一番」
「さっ、すがに、初対面の女性の前で……それに、まだデザインも何もできていないだろう」
「そんなの、頭の中にある。問題ない」

 平然と裸を要求する彼女に動揺するも、精巧な人形染みた少女はそれでも全く顔色を変えない。寧ろさっさとしろと言わんばかりにどこからかメジャーを取り出して、見せつけるようにびしっ、と伸ばしてみせた。

「最高を望むのでしょう」
「は、」
「私のところへ来たということは、つまりはそういうこと。私は私の納得できる方法でしか服は作らない。私は最高を生み出す。貴方も最高が欲しい。そして何よりも求むるは最強。私の作るマジコスがあればそれに近しくなれて、きちんと一致している。できないと首を振るのなら他を当たりなさい」

 滔々と語る小ぶりな唇は、寸分の淀みもなく。それが当然であると言わんばかりの表情には羞恥も憂いも欠片も映さず、ただただ最高の品を用意することへの妥協を許さない。咄嗟に息を呑んだ。あまりに、その黒い真珠のような瞳の強さに魅入ってしまったのだ。濁りを跳ねのける、黒々と光沢のあるそれが、何もかもに真剣さを望んでいる。だから、裸になろうと何を恐れ戦くのかと、本気で考えていることがようく見て取れた。

「貴方もプロなのでしょう。観客を一喜一憂させて、決して自分を落とすことを許さないプロ。最高を求む者が、たかがその体を見せることに怖気づくとは、がっかりだわ」
「……」

 敢えて煽る言い方をしていることはわかっている。彼女もそうわかるように話している。でも、それが逆撫でしてこないかと言えば。プライドを揺すりやしないかと言えば。
 何のためにここへわざわざやって来たのだ。この先、あのムゲンダイナと共に道を進むことが叶うのだ。一つの山を越えて、更なる高みを目指すのだ。そのために、マジコスを纏うと決めた。自分が満足できるバトルをするため、そして観客を興奮させるバトルをする。そのために、今この一瞬で裸になることくらい、どうということはない筈だ。

「……いいだろう、受けて立とう、そのバトル」
「いいねその目。強い意志を感じる。じゃあこっち、ここに立っていて」
「けれどその、やはりこんなに幼い君に全てを見られるのは気が引けるということだけは、どうかわかっておいてほしいんだぜ……」
「幼いも何も、私は貴方よりも年上だから。仕事柄男の裸も見慣れてるし、安心しなさい」
「!?」
「ギーマはさっさと裸になってくれたのに。ガラルの人間は妙なところで躊躇するなぁ」

 色々と絶句していると、俺を指定した位置に無理矢理立たせた、俺の腰より少し上くらいまでしか背のない彼女が、下から覗き込んで、ゆっくりと微笑んだ。それは、今しがたまで少女の顔をしていたくせに、あまりに妖艶で、熟れた笑みである。小さな見目に反する婀娜なそれに、確かに心臓が一度熱くなった。これから裸を見られることへの抵抗感ではなく、この微笑みを向けられていると、血液が沸々として熱くなっていく感覚がする。黒真珠の魔力にでも当てられたかのように、一瞬何もかもが遠くなる。デザイン画はいいのかとか、いきなり採寸するのかとか、頭の中で細々とあった疑問が白い絵の具で塗り潰されるようにあっという間に消えていく。ただただ、とにかく、彼女の手にかかることに、愉悦を覚えていた。
 彼女の小さすぎる手が俺の手を握った。冷たいのに熱い、奇妙な温度を持っていた。鼻腔を擽る甘い匂いは彼女から放たれている。砂糖菓子のように甘ったるいのに、フレグランスのようにくどくはなく、かといって爽やかでもない。とてつもなくアンバランスすぎる色香だった。

「――委ねなさい、ダンデ」

 優しく名前を囁かれてようやく、彼女の名前も聞いていなかったことを思い出した。


  ◇◇


「うまいだろう?」
「最高だわ。ガラルの人間はスイーツには妥協しないってのは本当だった」
「だからダンデって呼んでくれよ、イリス」
「はいはい。ダンデ、紅茶おかわり」

 桜色の唇から俺の名が紡がれることに、むず痒い恍惚を覚えてやまない。
 あの日、人形が歩いて喋っているようにしか見えなかったイリスが、こうして目の前で紅茶とスコーンに舌鼓打っていることに喜びが禁じ得ない。こうしていると不思議な魔力を取り除かれた小さな女の子にしか見えないのに、実体は俺よりも年上で男の裸にも動じない肝の据わった女性であるのだからたまらない。

「そんなに喜んでくれるのなら、ガラルから取り寄せた甲斐があるってものだぜ。お、ここ、カスがついてるぜ。はは、甘いものには目を輝かせるし、案外子供染みているよなぁ」
「年上になんて口利くのかしら」
「食べカスつけたまま文句を垂れても可愛いだけだぜ」

 そうっと指先で口の端のスコーンの欠片を拭うと、触れたその柔らかさに心臓が跳ねる程に驚かされた。固い陶器でも木でもなんでもない、正しく生きている人間の、女性の柔らかさに、どくどくと脈が打っている。もっと触れていたいと、頬を包んでむにむにと堪能すれば、むすっと頬を膨らませてジト目で睨まれてしまったけれど、何をしたところで今は可愛いしか出てこない。

「いい加減にしなさい……」
「この小さな体のどこに、食べたものが収まるんだろうなぁ」
「怒るわよ」
「こんなに柔らかくて、こんなに小さくて、こんなに甘くて……」
「むぅっ!」

 ばしん、と頬を包む手を叩かれても、羽虫にあたった程度の衝撃にも満たない衝撃でしかない。彼女の極彩色の城の中ではどうしようもなく世界の中心だったのに、パシオの一角にあるテラスでスコーンを頬張るイリスは、小さな見目に相当する女の子にしか見えない。なのに口から飛び出る言葉は不遜で、私はお前よりも長く生きているのだぞ、と醸してくる。それも彼女の性格の一つであることはわかっているが、高い空と澄んだ空気の中にいると、ただ背伸びをするようにしか見えなくて、ギャップにも思えなくもないそれに、もうずっと心臓が弾んでいた。

「今手をどかさないなら、もう二度とダンデの服は作らない」
「それはぜっっったい嫌だぜ!」

 横から抱き着いて、腕に簡単に収まってしまう小さすぎる体をぎゅうっと閉じ込める。また嫌な顔をされてしまったが、ここでノーを言い渡されたら困るので、何が何でも留まらせないといけなかった。

「イリスじゃないとだめなんだぜ……あの日、俺の全部をイリスに差し出しだんだ。きちんとこれからも委ねさせてくれないと」
「変な言い方するな。それに、手をどかせって言ったでしょう」
「手はどかしてあるだろ」

 微妙に体から手は浮かせているのでセーフだ。そうにまりと笑えば、はぁ、とお腹から溜息を吐かれてしまった。それすらも甘い匂いがして、顔を寄せたらぎゅっと顔を顰められてしまった。こうしているとベビーポケモンにしか見えないので、可愛くてたまらない。
 だけど、俺はこれから先忘れはしないだろう。あの日、俺の体の隅から隅まで触れた、彼女の手を。冷たいのに熱い、不思議な温度の掌が、素肌を這ったあの歓びを。
 生まれて数年の少女のようでいて、時代の変遷をずうっと見守ってきたような老獪さを持つイリスから離れることなど、もう考えられそうにないのだ。

「……あまり調子に乗らないで」
「っ……!」

 冷ややかなのに丸い瞳で諭されると、途端に体が固まってしまう。そうしてぶわっと汗が噴き出すのだ。柔らかくて、小さくて、冷たいのに熱い手が俺に触れたら、もっと。


20231213