短編
- ナノ -


 愛のため


「ダンデの馬鹿!出てく!」
「好きにしろ」
「〜〜っこの髭もじゃあ!!」
「もじゃじゃない!」

 自分で言い出した癖に手酷い傷を作ったような顔をして、イリスは泣きじゃくりながら二人で住まう家を飛び出していった。
 あっという間に閉まった玄関扉の無機質な音を聞き終えると、重い溜息を堪えられなかった。
 付き合いはそこそこ長い。共に暮らしてもいる。普段は春の陽射しのように暖かい笑顔を浮かべにこやかにしているのに、何でスイッチを押してしまうのか未だにわからない。何処にあるのか見当もつかない見えないスイッチを押してしまうとぷんすか怒りだし、大体はそれも可愛いと思えることがほとんどなのだが、今日は残念なことに、思えなかった。

 何がきっかけだったのか疲れた思考ではすぐに思い出せなかった。それくらい、些細なことだった筈。記憶から簡単に抜けてしまうような、俺にとっては何も可笑しなことではない、さして気に留めるようなことではないこと。だけど、彼女にとっては我慢できなかったこと。夥しい人間がいるのだ、自分の常識は他人の地雷と鳴り得る。
 多分きっかけは些細な事でもそれを起爆スイッチにして、溜めこんできたあらゆることが爆発したのだろうと、今は思う。口論は途中から趣旨がずれていってしまい、彼女はどんどん感情的になっていく。そのせいかますます話が通じなくなり、結果、あれだ。

 なんてことだろう。こっちは、指輪まで用意していたのに。

「……腹が減ったな」

 口論が始まったのが夕飯時の手前だったからイリスはまだ料理を用意していなかった。食事についても文句を言われたな。
 脈略もなく感情を剥き出しにした飛び飛びの文句の一つにそれがあった。関係を始めたばかりの頃は美味しいと言って食べてくれるのが嬉しいと言っていたのに、先程はもっと味わえと怒っていた。言っていることが二転三転されるとこちらも混乱してしまう。

「……」

 静かで空っぽのキッチンを見て、再び溜息が漏れた。
 仕方がない。いつ彼女が帰って来るかもわからないのだから。


 テイクアウトの品を片手に下げ、すっかり陽の落ちた夜道を歩く。普段ならこんな時間にイリスを一人きりなんて絶対にさせないが、スマホを置いたまま出ていってしまったのだから連絡のしようがない。鍵をポケットにしまう癖があるようで、持ったまま出ていったからこうして家を閉めても平気で外に出られる。何より、二人の家に俺一人だけでいたくなかった。じっとしているとどうしても、痛いと言いたげな彼女の顔がずっと浮かんで消えてくれない。
 探しに行けと彼女に好意をひらすらに向けている自分が囁くが、一方で未だに腹が立って虫がおさまらない自分がそれを阻止している。予定を全て崩された上に、今まで見たことがないと言っても過言ではない程に彼女が爆発する様を目の当たりにしたのだ。喧嘩もしないような関係はうまくいかないとは聞くが、少し、らしくもなく、堪えている。
 一人でいさせることに不安はあれどあの様子では顔を見せた途端再び噴火しそうに思え、彼女自身も夜の外で一人きりになることに怖さを抱いていたからきっと実家か友人宅にでも行っているだろうと楽観的に考えて、とにかく空かした腹をなだめてやりたいと帰路を急ぐ。

 しかし、突然。

「おにいさん」
「!?」

 テイクアウト品が入る袋を引っ張られ、体が跳ねた。
 慌てて周囲を見渡すも、誰の姿もない。確かに気配はあるのだがそれに感づけない程ぼんやりとしていたのかと思うとゾッとした。まさに死角からの訪れであった。チャンピオンではなくなったが、かなり前から全ての人間が俺に対して好意的でないことを知っていた。

「ここ、ここですよ」

 その時。焦りを募らせる俺など露知らぬような、足元からの呑気な声。
 声の軌跡を辿ってぐっと下を見やれば、そこに居たのは明らか小さな子供だった。いや、この位置からだと顔は見えない。リザードンを模したパーカーのフードを目深に頭から被っていることと、暗さが相まって鼻から上は影となっておりはっきりと人相も見えないのだ。子供だと認識できたのは、舌足らずな口の動かし方と声の幼さからだった。それと、多分女の子。
 適当な恰好をしてきてしまったからもしやファンに見つかってしまったのだろうかと表面上は笑みを浮かべ「どうしたのかな?」としゃがんで声を掛けて、内心さっさと帰りたいと決して外にバレてはならない気持ちを抱いていると、その子は俺の顔を間近で見ても口元しか見えない顔で反応することもなく、くいっと親指をどこかへ向けた。

「そこでいっぱいひっかけていきませんか」
「は?」


  ◇◇


 少女は何故か頑なに名乗らず、こんな時間に外にいることを咎めても一向にこちらの話を聞こうとはしなかった。
 親は、家は、こんなところにどうして一人で、そう問い質そうとしてものらりくらりと……というか、全く会話が噛み合わない。どうやらこの少女、とにかく自分の主張を押し通したいようだ。

「だからちがうのです。ちょっとそこのベンチでどうですか?」
「……すまない、もう一回いいかい?」
「またまちがえた。えと、とにかく、こっち」

 ガサガサと袋を引っ張りながら俺を引こうとする。その小さな背の後方にあるのはベンチで、そういえばベンチがどうと言っていたな。

「ベンチに座ればいいのか?」
「!そう、そうなのです。たちばなしもなんですから、どうぞ」
「はは、大人みたいな喋り方をするな」
「そう!そうなのです!わたくし、おとなですから」

 俺の言葉を褒めと受け取ったのか、声のトーンがわかりやすく上がった。
 もしかすればイリスが帰ってきているかもしれない。そう逡巡はあったものの結局素直にベンチに座ることにした。ここでこの小さな少女を夜闇の往来に放置する程ろくでなしでもない。ざっと見渡した限りは近場に親らしき人間が見つけられず、出くわした以上こんな時間に放っておくことなど大人としてできやしなかった。
 二人で隣り合って座ろうとしたところ、そこで少女がベンチに上がれない身長だとようやく気が付いた。失礼、と声を掛けてから両脇に手を差し入れ持ち上げてやり、そっとベンチに下ろす。

「ありがとうございます」
「どういたしまして、小さなレディ」
「さてほんだいですが」
「いきなりだな」

 小さな女の子に振り回されるのは情けないかもしれないが、本当にこぉんなに小さな子供なのだ。その内親が迎えに来るかもしれないし、もしかすれば少女も心寂しく手持無沙汰なのかもしれない。その間の暇潰しに付き合ってやることにした。

「じつはわたし、うらないしなのです」
「占い師?」
「そうです。それでですね、しそうがでていたのでこえをかけたのです」
「死相!?」
「あ、ちがう、そうじゃない」

 少女がぱたぱたと、首を左右に振ればリザードンの顔をしたフードが空気と当たり音を鳴らした。子供、子供の言うことだ。しかし不可解なことに、この少女の言うことを素直に聞き留めて反応する自分がいた。
 現実と架空を区別できない歳だろうに、この子供の話を世迷言とばっさりと切り捨て無下にしようとしない自分が、理由もわからずに確かに存在している。今なお顔が見えない、変に落ち着きのある雰囲気を纏っているからかもしれない。

「あなたではないです。あなたのおくさんです」
「残念だが、俺は結婚してないぜ?」
「まだけっこんしてない……?じゃあ?こいびと?」
「……」

 頭に、今どこにいるかわからないイリスの顔がぽんと浮かんできた。
 奇妙な少女ののどかな空気に当てられたのか、あんなに昂りせめぎ合っていた両極端な感情が静まりつつあった。少しずつ冷静になってきた今となると、ちょっと言いすぎたかもしれないと反省できた。
 だけどそれにしたって、彼女だって容赦ない言葉を俺に浴びせたのだ。ぽんぽんなどと生温い言葉の弾などでは決してなかった。普段は聞き分けがいいくせに、よりによって今日初めて火山の如く噴火して、その結果がこの有様だ。
 今、どこで何をしているだろう。外は寒くはないが、一人だとすれば怖がりなイリスだけでは心細くないだろうか。
 知らず、やるせなさに唇を噛み締めていた。

「いま、そのひとのことをかんがえていますね」

 ぴく、と片眉が跳ねた。大分目線を下げて隣を見やれば、フードの陰で見えない筈の少女の幻の瞳が怪しい光をたたえ、俺を真っ直ぐに射貫いているような気さえした。
 不思議な子だ。初対面の大人の男相手に――立場柄最初から面割れしているかもしれないが――物怖じせず、突拍子もないことを言い出したかと思えば今度は的外れとも言えないことを指摘してくる。ダンデと言わずお兄さんと頑なに呼び続けていることには気付いていたが、ここでダンデだぞ、と暗に促したところでこの子供はよその子供のようにはしゃいだりしない子に見えた。

「……トップシークレットで頼むぜ、占い師くん」
「とぷ?」
「内緒ってことさ」

 人差し指を自分の唇の前で立てて教えてやると、言葉の意味を知らないから首を傾げたその反応は、一気にその謎めかしい少女を子供らしく見せた。
 りょうかい、と手で俺の真似をして色好い返事が貰えたので笑いながらその頭を撫でてやると、突然くたっと肩の力が抜けた。一心に頭が撫でられる心地良さに浸っている様子に、ちょっと可愛いなと、そんなことを考えてしまうくらいに、あまりの無防備さだった。一人目は女の子がいいかもしれない。

「……おっと、はなしがそれました。こほん。さて、ほんだいです。うらないしのことばはきちんときくように」
「まだ続くんだなその設定」
「つづくもなにも、わたし、りっぱなうらないしですので」
「水晶やタロットカードは?使わないのか?」
「そんなのなくても、わたしにかかればぜんぶちちんぷいです」
「……」

 本当に、途端に子供じみた。
 自分の中では発言の全部が繋がっているようで。余計な茶々を入れない限り、この少女はこの舌ったらずな口で子供特有の前後が怪しいすっ飛んだ話をするのだろう。

「しそう。しそうがでています」
「俺の恋人に?」
「はい。このままだと、しにます」
「それは怖いなぁ」
「……む、しんじていませんね」

 むすり。かろうじて見える口元がホシガリスのように膨らんだ。わかりやすく拗ねて見せる少女だが、生憎成長していない小さな子供の言うことを真に受けるような人間ではない。
 確かにイリスの存在を歩く俺を見ただけで気取ったのは凄いかもしれないが、こんなのあてずっぽうとも言えるし、たったのそれだけでファンタジーを平気で現実と信じられる歳の言葉は、すんなりと胸には響いてこない。

「ならば、しょうめいしてみせましょう」
「証明?」
「そうです。わたしがなにもかもをしるいだいなそんざいであると」
「アニメや絵本が好きなのかな?」
「そう、そうです。まいしゅうにちようあさ8じからたたかっているまほうしょうじょはとてもゆうかんかつかわいく……もう!!じゃました!!」

 悪いがどうせ架空話の影響をもろに受けているのだろうとほのめかしたが、すぐに我に返ってぷんすか怒りだした。
 と、そのぷんすかをほぼ真上から見下ろし、そこで不思議な感覚を覚えた。なんだろうか。この子の怒り方に、どことない既視感がある。

「こほん。れいせいに、くーるに。ふー……。あなたのこいびとは、しがつうまれですね」
「!」

 思わず、目を見開いた。なにせ少女の言葉は、正解だった。

「しゅっしんはきるくすたうん。おとうとがいます。ようじょがすきなやろうです。あうたびにあたまをぐりぐりしてせっかくママがきれいにしてくれたへあすたいるがみだされる。おこです」

 途中から言葉の意味はよくわからなかったが、それも正解だ。キルクスタウンの生まれで、会ったことはないが一つ下の弟がいると言っていた。

 ――この少女は、なんだ?

「すきなたべものはやきにく。それはもうごうかいにやきます。きらいなたべものはナス。じぶんもたべられないくせにひとにはたべろとおしつけてくる……うっ、おもいだしたらきもちわるくなった」
「……」
「しつれい。あとは……ちょっとねぞうがわるい」
「……君は、」
「ねざめもわるいです。めざましはさいだいおんりょうでないとおきません」
「君は、なんだ」

 当てずっぽうではない、これは、全て。いつの間にやら、そう考えていた。
 段々と、この少女が本当に年相応の子供なのか怪しいとさえ思えてくる。まるで実際に見聞きしたような口をきく少女が得体の知れない存在のような、闇の向こうより出でたヒトではない魔的なもののように見えてくる始末。
 だが、落ち着け。そういう人間はさほど少なくないという。事実、カントーやイッシュなど、各地方にいるらしいそういう人間のことは風の噂で聞いたことがある。オニオンも、その部類と言えるのかもしれない。サイキックの家系だってあるのだ。
 常人では持ちえない、先天的か後天的か、超常の力。

 しかし当の少女は、認めたくはないが小さな子供相手に胡乱な感情を抱き出した俺に、けろりと答えた。

「だからうらないしですよ」

 いえい。顔の横でピース。
 こちらが馬鹿らしくなるくらいに子供のくせ泰然とした態度に、ハアアと腹から空気を全て吐き出して顔を覆った。なんだかどっと疲れた。

 そうか、占い師。占い師かぁ。

「……失礼を詫びるよ。認めよう。君は立派で偉大な占い師なんだな」
「さいしょからそういっていますよ」

 何で占っているのかはさっぱりわからないが、とにもかくにもこの子の語ったことの全てが事実だった。
 少女はようやっと認められたことが嬉しいのか、地面からは程遠い小さな足をブラブラと宙で漕いでいる。

「……というわけで、さいしょにもどるです」
「最初…。……!」

 死相。このままだと、死ぬ。
 ザッと顔が一瞬で青ざめた。二人にまとわりつく外気にはなんら変わった様子はないのに、俺の体温だけが低くなった気がする。

「まて、どういうことなんだ」
「ことばどおりです。このままだと」
「二度も言わないでくれ!」

 ――なんてことだろう。

 痛む頭がガンガンと喧しく、顔を覆った手が吸い付いたように離れなくなる。
 虫がいいが子供を認めなければよかった。あてずっぽうだと決めつけていれば、こんなゾッとしなかったのに。
 イリスが、死ぬ。春の陽射しのように朗らかな、愛らしい笑顔を向けてくれる、彼女が。

「まぁおちついて」
「落ち着いていられると思うか!?」
「いまからかいひほうほうをおしえます」
「回避方法なんて!……回避方法?」
「はい」

 子供らしからない鷹揚とした頷きに、ついポカンと口を開けてしまった。

「あなたのこいびとは、これからわるいひとにねらわれます」
「なんだと!?」
「あっ!まだ!まだだから!」

 少女の言葉を聞いた途端じっとしていられなくなり感情のまま立ち上がると、服の裾を小さな指が掴んで引き留めようとしてきたが、あまりに勢いよく立ち上がったために軽い体がすんなりと持ち上がってベンチの上にこてんと倒れた。少し引きずってしまったためにベンチから半ば落ちかけている。
 まだ。慌てたように追い縋って来た二文字になんとか今にも走り出しそうな足を踏ん張り、倒してしまった可哀想な少女の体を抱き起こした。

「その悪い人が、彼女を殺すというのか?」
「そうです。でもまだじかんはあります」
「しかも今夜……くそ!」
「ああだからいかないで!どこにいるかもわからないでしょ!!」
「そこまで知っているのか?」
「しっています。だからとりあえずすわってください」

 ぺしぺしと紅葉手が自分の隣のスペースを、俺が今しがたまで座っていた場所を叩く。
 これで呑気でいろと言う方がよっぽど酷だろう。お気楽にも程がある。
 恋人が今夜殺されると言われて、しかもそれが根拠はなくても信憑性を持つ人間からもたらされた言葉であるのに、どうしてじっとしていることなどできようか。

「いまからおしえるのでまぁおすわりください」
「……」

 子供らしからぬ悠然とした素振りに、本当にまだなんだな?としつこく確認をして、首がきちんと縦に振られたのをしっかり見届けてからのそりと重たい腰で座り直した。

「まず、じかんはいまからにじかんご。ばしょは10ばんどうろのにしのがけうえ。そこでおいつめられて、つきおとされてそのままとうしします」
「その前に助ければいいわけだな。殺害の理由は?彼女は一般人だ。あの性格だし、人の恨みを買うような人間とは思えない」
「……」

 そこで少女は一度躊躇う気配を見せた。もにょもにょ唇を動かして言い淀む様に理由を知らない、という訳ではなさそうだった。
 やがて意を決したのか小さな拳を握り締め、そこに向けてぷくりとする唇を開く。

「……こいびとではないです。げんいんは、あなたです」
「俺?」
「そうです。えいゆうを、あなたのそんざいをじゃまだとおもうひとたちがいるのです」

 言葉少ないそれだけでも、十二分に納得でき得る素材だった。
 十年。十年チャンピオンとして大衆の上に立ち続けた。それを経て今はバトルタワーオーナーだけではなく、リーグの責任者でもある。どちらかと言えば後者の点で厄介な感情を向けられることもしばしば。俺の人格的な面ではなく、邪な連中の邪な利益の面で、だ。
 チャンピオンであった時からそうだったが、欲に目がくらみ企む人間というのは、実は周囲に少なくはない。

「彼女を俺の弱みと見ているワケか。つまらん頭の奴だ」
「まさにそれです。なので、かならずたすけてください」
「言われずとも当然だ。俺は……あ、」

 そこで、ようやく喧嘩していたことを思い出した。
 些細なことをきっかけに大きく発展したそれに、この少女と出会う直前まで怒りを鎮められずにいたことも。

「……実は、喧嘩しているんだ、今」
「は?」
「それで、先程家を飛び出していった」
「は、はああああああ!?おかしいとおもった!だからおそいじかんにひとりだったんだ!!いっつもよるひとりにしないくせに!!ばかばかばかばか!!ひげもじゃ!!」
「もじゃじゃないぞ!」
「じょりじょり!!」
「じょりじょりじゃ……しているか」
「むぅー!!」

 感情が言葉に繋げられないのはまだ諸々未発達な子供らしく、急に癇癪を起こしたように隣に座る俺の足を殴り出した。ポカポカと殴る力はまぁ子供なので強くはないが、人の目から逃れる暗闇の世界のひっそりとした生き物のような雰囲気を醸し出していたくせに、こうやって急に脳味噌がまだ小さい子供の姿になるのだから、本当におかしな子だった。

「……とりみだしました。しつれい」
「いいや。そうしている方が子供らしくてかわいいぞ」
「こどもではありません、びゅーてぃふるなおとなです」
「はいはい」

 なんだか、少しだけ力が抜けた。あと二時間経てば彼女が襲われると気ばかり焦り今にも体が駆け出しそうだったのに、もちろん今も気が逸って落ち着かないが、なんだかこの子供に親近感のようなものすら抱き始めていた。
 怒り方が、どことなく彼女に似ているのだ、この子。

 イリスも、怒る時は最初小さく癇癪を起こす。普段はにこにことしてふんわりと笑っているのに、導火線に火が点くと一気に爆発する。いつもなら一頻り爆発すればおさまるのに、今日はおさまらなかった。
 ようやく、それくらい溜め込んでいたのだと、そうさせていたのは自分だったのだと、反省することが出来た。
 細かい文句をうるさく言わず、俺が疲れていればそっと労わってくれて、温かい料理を食べさせてくれた。いつでも俺を最優先にして、献身的に支えようとして。だけど、その分多くのことを我慢させていた筈だ。
 彼女に関する記憶の大半は朗らかで優しい笑顔ばかりで、そういう顔ばかりしていたから頭の中のアルバムにはそういう顔がほとんどだった。
 絶対、死なせるものか。失ってたまるか。本来は今頃イリスにプロポーズを成功させている筈だったのだ。愛する彼女を救い出して、嫌だと言ってもほそっこい指を掴んで指輪を嵌めてやる。

 改めて自分を奮い立たせていると、隣の少女が何かに気づいたようにさっと顔を上げて、次いで耳に掌を当てた。
 数秒そのまま沈黙していたが、今度は「え!?」と驚いたような大声をあげたではないか。

「なんで!?だってまだ……そんなぁ!」

 悲痛そうな声に、馬鹿みたいに心臓の鼓動が速くなる。この子の焦りが滲む声音からもあまり楽観していい様子ではなさそうだったから。

「どうした」
「……やつら、もう、うごきだしたって。そんなぁ……」
「やつら……彼女を狙う輩か!」
「うん……」
「今直ぐ行かなくては!」
「あっ、だめ!リザードン、リザードンでとんで!ひとりではしっちゃだめ!」
「確かにその方が速いな!」
「そうじゃないけどそれでいい!」
「あっ、でも君が一人になってしまう、君もおいで!」
「すぐむかえがくるからだいじょうぶ!きにしないで!」

 立ち上がってリザードンの入るボールを片手に掴みすぐさま宙に放ろうとして、ふととある気持ちが沸き上がった。一秒も無駄にはできない状況に急がなくてはならないが、それでも礼節は尽くさねばならない。
 後ろにいる少女を振り返り、あわあわとしている少女の頭に手をなるたけ優しく置いた。

「ありがとう、小さくも偉大な占い師」

 全部ひっくるめた礼だった。急いでいるので最低限な言葉であることは容赦してほしい。
 少女は恐る恐る、小さな紅葉の両手で、頭の上の俺の手にそっと触れた。失礼ながら魔的だとか暗闇のひっそりとした生き物だとか思ってしまったが、触れる小さな手は、ひだまりのようにあたたかだった。

「……こいびとのこと、だいすき?」
「?ああ、もちろん」
「けっこんする?」
「ああ、嫌だと言われても絶対にな」
「ちゃんと、ちゃんとけっこんしてね。たいせつにしてあげてね。まいにちだきしめてあげてね。まいにちあいしてるしてね。あとね、おひげもまいにちきれいにととのえてね。ぼつぼつしてるといたいの」
「ああ」

 するりと撫でると、きゅっと小さな唇が引き結ばれた。

「君の名前を聞いてもいいかい?今度きちんと礼がしたいんだ。二人で会いに行くよ」
「……このあと、とおくにいくから、いい。それに、なのるほどのようじょではないのですよ」
「そこは占い師ではない、でなくてもいいのか?」
「う、まちがえた」

 恥ずかしそうに唇を噛んだ少女の頭を名残惜しいが最後にもう一撫でして、今度こそリザードンを出して背に回る。当然飛行は事前申請していないがバレなきゃいいだろう。
 リザードンは少女を見て何やら首を傾げていたが、飛んでくれと頼むと勇ましく鳴いて身を低くした。

「それじゃあ!本当にありがとう!」
「ぜったいたすけてね!!」
「ああ!約束しよう!」

 祈るように二つの手を握り締める少女に最後ににっかりと笑いかけた。間もなく、リザードンが彼方にいる彼女の為に上空へ上がっていく。
 空へ向かうにつれて地上の少女がどんどん小さくなっていく。ぽつねんと暗い場所に置き去りにすることには少しばかり懸念も残っているが、迎えが来るという言葉を信じるしかない。
 やがて点とすら認識できない距離までくると、名残惜しく地上へ向けていた顔を正面に戻す。そこでふと、少女のとある言葉を思い出した。

 髭を整えてねなんて、どうしてあの子がそんなこと気にするのだろう。





  ◇◇



 ――急に昔のことを思い出したのは、一体どうしてだろう。
 多分、壁も天井もない程に広大な幸せを感じているからだ。
 声や細かな応酬は時の流れのせいで忘れてしまったが、あの夜、不可思議ながらも小さく偉大な占い師の言葉を信じて良かったと痛感して、感謝している。そのお陰で、今、彼女は俺の側で優しく笑っているのだから。
 洗い物をする彼女の指には、シンプルなシルバーリングを嵌めてある。

「ぱぱ、だこ」
「おいで」

 薄くて軽い体を持ち上げると、はしゃいで可憐な花のように笑う、宝物。朝八時からやっているアニメの女の子の真似をするのがブームの、大切な子。
 少しでも髭が不揃いだと痛いのか見苦しいのか、うへぇと顔をひしゃげさせる。その顔は妻にとてもよく似ていた。

 ほんの数年前に誕生したこの愛しくてたまらない宝物は、まだ言葉がほとんど話せない、親戚中に猫可愛がりされる、妻に似て感情豊かで、俺と同じ金色の瞳を持った女の子だ。


20200730