短編
- ナノ -


 キュートアグレッション


「ぎゃうっ!」

 無防備に垂らしていた腕がびゅんっと跳ねて、胸の高さくらいにまで持ち上げたところで中途半端に止まる。なんなら体は一瞬宙を飛んだと思う。ぶるるっ、と震えが背中から首の後ろ、それどころか頭の天辺まで駆け抜けた。目の前にいるヤローさんの目がこれでもかと見開かれて今にも零れ落ちそうだった。

「ひっ、え、?」
「真っ白だな」
「ぐわ!」
「はは、ぐわっ」

 両肩にとん、と大きな両手が乗った。同時に固まる。また出くわしてしまったのかと絶望が大寒波のように全身を襲った。
 顔の横からにゅ、とダンデさんが顔を覗かせて、私をじとりと見つめた。どこか上機嫌そうで、なのに口はぴったりと閉じる、妙な顔つきである。私は顔からたらたらと汗を垂らしているのに対して、こんな顔つきのくせしてその肌は平然としている。
 なんてこった。まさか、背後から急に首の後ろに噛みつかれるだなんて誰が想像できただろう。ここはダンデさんが高確率で出現するシュートシティではないし、私はただ、偶然にも思い付きで遥々足を運んだヤローさんの農園で野菜を買っていただけなのに。ちょっと暑いかもなぁ、と呑気に考えて髪をアップにしたのが仇になるとは。だってどうしたら、突然背後にダンデさんが現れて首の後ろに噛みつかれるだなんて予想できただろうか。

「え、と……その、お二人は、そういうご関係で」
「違います!!!」

 私の絶叫が辺りにこだまして、木の上で微睡んでいたココガラたちが一斉に飛び立っていった。ぎゅう、とダンデさんが後ろから私を抱き締める。それは決して甘い所作ではない。今にも手の中の缶でも潰さんとする、暴力的な抱擁である。



 私の日常に平穏はない。唯一安心できるのは社内で仕事をしているときくらいだ。しかし、あろうことかそれすらも崩れ去ってしまったのだと、悟った私はその場で石像のようになり、纏め終えたばかりの資料を全部落としてしまった。

「あーあ、だめじゃないかちゃんと持っていないと」
「なっ」
「な?」
「なにゆえぇ」
「はは、なにゆえ」

 これからホッチキスで留める寸前だった書類は、それはもう一枚一枚好き勝手に舞い落ち、順番もバラバラになって床に散らばってしまった。本当、留めて提出するだけだったのに。それもこれも全てダンデさんが悪いのだ。この悪の権化が、唯一安寧とできた私の会社にあろうことかいきなり出没したのだから。

「イリス!チャンピオンの前で何やってるんだ!」
「す、すいましぇ……」
「そんな怒らないでやってください。急に私が目の前に現れたから驚いてしまったんだろう?すまないな」

 ダンデさんの後ろからリーダーが慌てて飛び出してきて、さっさと拾えとジェスチャーしてきた。だったら手伝ってくれよ、と半泣きで急いで拾い始めるも、動揺のあまりうまく紙を摘まめない。するとどうだ、私には絶対見せないにこにこ爽やかな笑みを浮かべるダンデさんが、あわてんぼうだなぁ、なんて口で嘯きながら拾うのを手伝ってくれる。振りを始める。証拠にリーダーに見えない角度で、紙を摘まむ私に指をきゅ、と軽く抓ったのだ。ひええ、と心の中だけではなく声に出して子供みたいに泣けたらどれ程楽だろう。ようやく拾い終えた紙を適当に束ねて胸に抱いて冷や汗かきながら俯くしかない私に、ダンデさんはそうっと顔を寄せて、やっぱりリーダーに見えない角度で、私の手の甲に微かに爪を立てて、にこっと笑った。

「これから、よろしくな」

 その後聞かされた話では、我が社とマクロコスモスの共同企画が進められており、暫くの間ダンデさんが私の会社と関わるらしい。なので、打ち合わせのために今日のように時折顔を出すとのこと。周囲は当然のように色めき立っている。なにせ、有名人たるご本人様が我が社に直接来る必要はそもそもないのだから。なのに何故わざわざ顔を出すのかと言えば、本人曰くその方がスムーズだから、らしい。笑顔でみんなに説明してくれたダンデさんはずっとにこにことしていて、恐ろしさにその場で蹲りたくなった。
 せっかくの私の安寧の地が。こんな出現率アップイベント嬉しくもなんともない。



 ――ダンデさんは、多分、私が気に食わないのだと思う。だって顔を合わせたら必ず何らかの攻撃を仕掛けてくるからだ。
 手の甲だったり腕だったり、この前なんかは首の後ろに噛みつかれてしまったし。何か反感を買うようなことを知らぬうちにしていたのかと、最初は恐々と問うてももみたし、なんかよくわからないけどごめんなさい、ととりあえず謝ったものだが、当の本人は首を傾げてすっ呆けて見せる。

「別に、何もないぜ」

 何もないのに他人に爪や歯を立てるのか、この人は。正に未知の生物。少なくとも私の理解できる範疇の外の人。嘘か真かはわからないが、ダンデさんはそうのたまって、私ににかりと笑いかけた。奇しくも、勝利インタビューでメディアに見せる完璧なスマイルで、である。

「強いて言えば、そうしたくなるからだぜ」

 この人本能だけで生きてるの?とまた絶望した。いい歳をした大人の子供染みて、野性染みた発言に、やっぱり理解できないと目の前が真っ暗になった。だけど何の理由もなく人にそんなことをするわけは、どう考えても可能性としては薄いと思うのだ、私は。だから、口ではああ言って人畜無害そうな笑みを向けてはいたが、何かしら気に食わないことがあるに違いないと。そうでないのなら赤の他人に爪や歯を立てるわけがなかろうと、無理くりにでも落としどころを見つけるしかないわけである。とは思いこむ一方で、小さな子供が玩具につい乱暴してしまうみたいな、そういうものと似ている気もするが、それ程無邪気な顔をダンデさんはしていた。

「も、もしかして人の肉を食べて……っ!?」
「イリスは妄想豊かだなぁ」

 あ、これは小馬鹿にされている。察して口を閉じてみたが、お構いなしにダンデさんは私の頬を甘噛みし、ぎゅうぎゅうに抱き締め、みぞおちに圧をかけて物理的に落とそうとしてくる。やめてくれ、そんなことをされたらさっき食べ終えたアイスが出てしまう、とどうにか身を捩って逃れようとするも、そうすればそうするだけみぞおちにダメージが入るため、あの世を見たくないのなら遺憾ながら大人しくやり過ごすのが賢明かと思われた。

「はぁ……柔らかい」
「うえええ」
「はは、うえええ」

 わざとらしく物真似をして茶化すダンデさん。頬を薄っすら染めて、目を嬉しそうに細めて、そしてまた頬を一噛み。危機回避を発動したかったが、私は残念なことにグソクムシャではない。人間に生まれたことをこれ程にも悔やむ日が訪れようとは、神は何故私に人型を与えたもうた、と悲嘆に暮れるばかり。
 せっかくの休みだったのに。家にいたらいたでいつダンデさんが突撃してくるかわかったものではないので、雑多に紛れてしまおうと今日も今日とて恋しいベッドに別れを告げ、敢えてごった返す繁華街ゾーンをそろりそろりと歩いていたと言うのに。そうして案の定人の群れのあちら側に見慣れてしまった紫色の頭を発見したため、頭を低くしながら人の影から影へ移動し回避を試みたものの、いつの間にやら背後にぴったりくっついていたダンデさんに腕を抓られ、私の休日は晴れて終わりの鐘を鳴らした。ダンデさんは目と鼻といった五感が恐ろしく発達しているのか、一握りの痕跡を見逃さず、どう頑張って回避をしようとしても、最終的にはこうして私に辿り着くのだ。ダンデさんはチャンピオンではなく狩人になるべきだったと思っている。

「あ、あの、やっぱり何か気に障ることをしたんでしょうか……すいません……謝るので許してください……」
「やっぱり想像力が豊かだなぁ」
「自分で気付けってことですか……?」
「さっきから何を言っているんだ?」

 ファンデーションが口に入って美味しいわけがないのに、そんなこと知ったことではないと言わんばかりに、ダンデさんは私の頬を噛むのをやめない。噛んで、吸って、柔らかいなぁ、と恍惚染みた声を漏らす。面白いのは、こうして無理矢理人のいない隅っこのベンチに座らせて私のみぞおちを決めようとしてくるくせに、人が通りかかる際にはぱっと離れて何もしていない風を装うのだ。ヤローさんの前でも平気で噛みついたくせに、全くの他人に見られたらまずいと自覚があるのなら何もしないでもらいたいのだが、私が立とうとすればぎゅうう、と手を握りこんでくるので、私はこの握力に勝てないでいる。
 誓って言うが、私とダンデさんはそういう関係ではない。ではないのに、出会った時からダンデさんは私にこうして容赦なく爪や歯を立ててくるのだ。おっかなさすぎるので今後死ぬまで関わりたくないのに、狩人も羨む五感で私を見つけ出しては満足いくまで抓ったり引っ掻いたり噛みついてくる。

「うまそうだな……」
「オイシクナイデス」

 頬の片方を甘噛みしながら、もう片方をむぎゅむぎゅと抓り、揉んで。このままでは私の顔が変形する。いい加減やめてくれと声を上げようとした矢先、ビックリするほど甘ったるく、腹の底から深々と出したような、そんなセリフが飛び出てきた。身震いして、必死に否定するしかなかった。なんだやはり人の肉に興味があるんじゃないか。



「終わった……」
「始まったばかりだぜ?」

 とうとう例の企画が全て終了したので打ち上げと称した飲み会にて、のっけから私の魂は天に召されかけた。チャンピオンは来られないって、と残念がる同僚から聞いていたので嬉々として羽を伸ばそうとしていたのに、さあ乾杯しようとした瞬間に目の前にエール片手に登場。仕事が早く終わったんだ!と満面の笑みと同時に周囲からの沸くような大歓声。片や打ちひしがれる私。この仕打ち、もしや前世で何かやらかしたか、これが背負った業なのかと、現実逃避も最早慣れたものである。

「ううううっ、飲まなきゃ……飲まなきゃやってられん……」
「わ、もう出来上がってんの?」
「まだです!でも飲まなきゃ!そしてさっさと帰ります!」

 ダンデさんがトイレに行ったので訪れた僅かな解放の間に、潰れてさっさと帰してもらおうと準備を始めたちゃんぽんに、通りがかった先輩が口を引き攣らせた。そしてさり気無く私から酒のグラスを遠ざけ、どうした、よしよし、と私の背中を撫でてくれる。あまりの優しさに涙で溺れそうだった。
 なにせ、つい今しがたまでダンデさんからまたも爪を立てられていたのだ。その上みんなに見えないようテーブルの下で、私の横腹をつまんだり、足先を軽く踏まれたり、二の腕の内側を抓ったり。呻きを殺す私をついと目を細め、舌なめずりまでしながら。みんなみて!この人の顔見て!とつい指を指したくなったのを見計らったように、指を掴まれて、がじ、と噛んで、噛んだ箇所をなぞるように、まさかの、舌で。もちろん周囲からは見えないよう角度を調整して、である。卒倒した私は悲鳴すら上げられなかった。今日はなんだかいつもよりねちっこくて、それは酒のせいもあるかもしれないが、店内が暗いのも相俟ってかダンデさんの纏う気配が重たいのだ。そのせいで喉も潰されたに等しい。

「にしても、チャンピオン来られてよかったよねぇ」

 お世辞でもそうですね、などと同意できなかったのでグラスを奪い返して一気に喉に流した。あーあ、と先輩は呆れるも、私は酒に呑まれたいのである。

「知ってる?チャンピオンって、他社の案件だとうちみたいにわざわざ顔出さないんだって」
「へえ」
「そもそも忙しいじゃん。どうせ決まったことを相手がお願いするだけなんだから、一々企画進行に関わったりしないらしいし。だから今回はラッキーだよね、チャンピオンと直接関われて」
「へえ」

 全くもってチャンピオンの仕事スタイルなど興味がないが、だったら何故今回に限ってちょこちょこ私の安寧の地を脅かしたのかと憤りが頭を焼いた。いつ現れるかわかったものではないからこちらはいつもびくびくとしていたのに。やはりどう考えたって解せない。理解の範疇を超えた変な人。天才と言うのは感性が独特と俗に言われているし、ダンデさんもその口なのだろう。人生の中で、あんな風に訳も分からずいきなり爪と歯を立てる人間を他に知らない。加えて、人のことをうまそうだなどと。よくもまぁ平気で言えたものである。

「こら、飲み過ぎだぜ」

 お喋りに現を抜かしてしまっていたからか、ダンデさんが戻ってくるまでに潰れることもできず、その後も常に私の隣をキープしてくるせいで帰るタイミングも失ってしまった。先輩は他の人に呼ばれて入れ替わる形でこの場を去ってしまったので、これはもう完全にやらかした。

「はは、真っ赤だ」
「うう〜〜」
「クラボの実みたいだ。面白いな」

 またも人のほっぺを摘まんで引っ張って。性質が悪いのが他の人からは見えないよううまく自分の大きな体で隠していることだ。中途半端な酔いが回っているせいで力が中々入らず、抵抗らしい抵抗もできないまま、ただただ大の大人の男に頬を好きにされている私、なんと哀れなこと。そんな現実逃避をしている間にも、ダンデさんの手が存分に私の頬を蹂躙していた。そう、これは正しく蹂躙である。私の許可もなしに引っ張り、摘まんで、揉んで、それはもう好き放題である。その顔は酷く楽しそうにしていて、なんと腹立たしい。

「……本当に、うまそうだなぁ」

 ――しかし、その瞬間、嫌な寒気が背中を走って、ぴたりと私の息が止まった。
 今、隣にいる人は正真正銘ダンデさんなのか?と疑ってしまう程に、いつもと声音に詰まったものが違った。同じセリフは既に耳にしたことがあるのに、どうも声音に孕まれたものが、違った。恐る恐るダンデさんの顔を見上げて、即座に後悔する。むかむかと渦巻いていた腹立たしさなど裸足で逃げて行ってしまった。

「イリスは本当に、かわいくて、うまそうで」

 顔を見てしまったことを末代まで後悔するのだろう。その眦は楽しそうに笑うせいで弧を描いているが、歪んでもいた。それは、私へある種の感情を宿すがために。背後を店のスタッフが早足で通っていったが、その足音がどこか別世界のものに聞こえた。心臓が冷えている。

「君は、どんな味がするんだろうなぁ」

 頬を摘まんでいた指が、ゆるゆると移動して、下唇と上唇を順になぞって、仕上げとばかりに下唇の真ん中を押し込んだ。もう片方の手が、腕を抓る。けれど、普段とは変わって、そこを指先で優しく撫でた。
 弓なり、とまではいかなくても、心から楽しそうな目と、口をしていた。テレビで観たチョロネコが企んだ顔となんとなく似ている。うっとりと高揚を示す赤い頬。今にも唾液を垂らしそうな唇が、あぐあぐと空想を咀嚼する小さな動きを見せていた。その瞳は薄暗い店内でもわかる微かなきらめきを持っていて、そこには間抜けに口を半開きにしている私しか映っていなさそうだった。
 結局そういうことかぁ、と今更すぎる自分の能天気な迂闊さと考えの浅さに絶句した。もっと直情的で、もっとわかりやすい人間しか相手してこなかったものだから、一種の無邪気さを纏ったダンデさんの行動や表情にまんまと。子供のような軽さと無邪気さにばかり注目してしまったつけが今である。この人は、最初から男だった。


20231107