短編
- ナノ -


 私はさいあく-6


 目が覚めた先にダンデがいて、しかもぎゅうっと抱き締めてくれているってわかったら、静かに泣いていた。それぞれのシュラフに入っているから体というよりも頭を引き寄せられているだけに近いが、練習の時も、この前の手酷かった夜も、終わったらすぐ解散だったから、こうして向かい合って朝を迎えるなんて初めてのことだった。髭の伸びた顎や頬を起こさないよう細心の注意を払いながら撫でる。眠っているから高い体温の体を、撫でる。体がほとんどシュラフから出てしまっているが寒くないのだろうか。でも、寝ている間も私に触れてくれていたことがたまらなく嬉しい。まだ起こしたくないけれど、ずりずりとシュラフごと這って、その首元になんとか擦り寄って自分からもう一度巻かれ直しに行った。
 ダンデが起きるまで寝た振りをして、睫毛が長いなぁと先程思った瞼が持ち上がって数秒後、目を合わせたらおはようと囁き合うのがくすぐったくてまた泣きそうになったが、どうにか堪える。私は本当はそういうのに喜んじゃいけない立場だから。でもダンデが、体は痛くないか?なんて労わってくれるから結局泣いてしまった。途端にダンデが目を見開いたままあたふたしているのが可笑しい。光が目に染みるんだよって不細工だろうけど笑った。

 シュラフやらテントやらの片付けを二人でしている間は、何度かダンデに心配されたが、ほんとに平気だよって誤魔化し笑いを続けた。お終いにしたくないけれど、ここに留まり続ける理由はないし、何より着替えも何もないのだからもう一泊も難しい。たったの一晩だったが、体のべたつきは水で濡らしたタオルで拭いただけだから、シャワーだって頭から浴びたい。

「持つ!」
「体痛いんだろ、無理するな」
「痛くない」
「泣いてたじゃないか」
「だから目が染みただけだから……いいから!はい!」

 纏め終えた荷物をこれまた当たり前な顔をして全部持とうとするので、私は両手を伸ばした。押し問答が暫し繰り広げられる。駅で待ち合わせた時のリプレイみたいな光景だが、やはりダンデは渋る顔をする。その末に、やはり一番小さくて軽い荷物を私の腕に引っかけてくれる。これも行きと同じ鞄である。

「辛くないか。返してくれていいんだぜ」
「座ってるんだから問題ないよ」

 エンジンシティの駅までは確かに手に抱えていたが、今はもう列車のシートの上だ。何をどう見たら重くて悲鳴を上げているように見えるのだろう。思えば行きもエンジンシティではなくシュートシティの駅で待ち合わせすればよかったのだ。そうすればダンデだけ長い移動中に重たい荷物を抱えてこなくて済んだのに。でもそれは、きっと私を気遣わせないためだったのだろうと、昨日から見ていて気が付いた。急にダンデにか弱い女の扱いをされているようで変な気持ちである。今までこうして気遣われたことなんて、ほとんどないと言っても過言ではなかったから。私は、女としてダンデに見られていなかった。

「なあ、キャンプ、楽しかったか?」

 ふと会話が丁度途切れた瞬間に。一泊置いてから、ダンデがそう訊ねてきた。

「うん。すっごく」

 贖罪でもなんでもいい。ダンデと過ごせるだけで、私はとても幸せだ。
 でも、キャンプは本当に楽しかった。ダンデと子供みたいにはしゃいで、初めてのキャンプだったけれどその醍醐味みたいなものもたくさん味わえたし、それに、ただのセックスをして、幸せだった。
 いよいよシュートシティに着いてしまったら、急に私の足が後方へ引っ張られるように遅くなった。改札を抜けたら、お終いなのだ。

「タクシーを呼ぼう。すまない気が回らなかった」
「え?」
「野外で寝た後に、こんな人混みを歩いていくのは大変だろう。本当は送って行きたいが、俺がこの状態じゃ却ってイリスが気にするだろ。待ってろ、今呼ぶから」
「ま、まって」

 確かに疲れはかなり感じてはいる。アウトドアの趣味はないのでただでさえ慣れない環境に疲労はつのっているし、昨夜の、そこそこ回数を重ねたセックスの尾も引いている。堪えてはいるが、あんなに酷使した体のあちこちが痛い。だからと言って私だけ楽して帰るのは気が引けた。

「いいっ、いいよそんなの」
「こういうのは素直に甘えてくれよ」
「私、私も荷物一緒に運ぶよ。ダンデの家ここからそんなに離れてなかったよね?ダンデだけ歩かせられない」

 このまますぐお終いにしたくない。だからと言って何か打開を考えていたわけではないものの、咄嗟に言い訳を考えてついそう縋ってしまったら――ダンデの眉がぴくりと反応して、やがて顰められた。それに、さっと血の気が引いていく。

「あ、……えと、そ、の」
「……連絡するから、待っててくれ」

 背を向けたダンデはスマホからタクシー会社へ電話をかけ始めた。私はその背に手を伸ばしかけて、だけど冷たくなった指先はそこに辿り着けない。
 面倒だって思われたかもしれない。家まで着いていくって言ったようなものだ、あれじゃあ。直後の顰められた顔が、やたらと瞼に焼き付いていて、幸せな気持ちから一変して悲痛さに泣きそうになった。私を家に、あげたくない。そう返されたも同然で、どこか調子に乗っていた自分が瞬く間に地面へ叩きつけられて、声も上げられずに痛みに呻いている。

「イリス、すぐ来るそうだ」
「……ちが、うのっ、あのね、違くて、わたし、別に、」
「……疲れているだろ。帰ったら家でゆっくりするんだ。また、後で連絡するよ」

 違うんだよ、ダンデの迷惑になりたいわけじゃなくて、ただ、何度もダンデに重たい荷物運ばせるのは申し訳ないなって思って、だけど本音は、ただもう少し一緒にいたかっただけで。そんな一方的な言葉なんて到底言葉にできなかったから、引き攣った喉のつっかえつっかえな、言葉になりきれない単語ばかり吐き出してしまったが、ダンデは、私の目元を指でそっと拭ってから、頭の横を撫でてくれた。
 また、嬉しさなのか悲しさなのかわからない感情が渦巻いていく。あの顰められた一瞬と、今しがたの落ち着いた声音が私の中で。連絡って、どういう連絡だろう。練習は終わりにした筈だけど、もしかしてまた遊びに行こうって誘ってくれる気なのだろうか。それとも、やっぱりまだ練習したいってことなのだろうか。ダンデはもう練習なんか要らないくらいうまくなったよって下世話な賛辞をごくりと飲み干す。混乱すると余計な言葉まで衝いて出てきそうになるものだ。それに、別に、いいじゃないか、また練習だって言われたって。そうだ、それってもう、ここまでくればセフレみたいなものだ。いいじゃないか、それでも。私はただ、ダンデと一緒にいるだけで有頂天に上り詰める、単純で、さいあくな女なのだから。

「ま、た」
「ん?」
「また、会って、くれる?」

 ダンデは息を呑んだ後、何も言わなかった。ただ、慰めるように私の頭やら、肩を撫でるだけ。恐ろしくて顔は見れないからずっと俯いていた。また、あんな冷たい思いはしたくない。でも、ダンデから離れるのもしたくない。どんな理由であれ、求めて欲しかった。傷付くのが痛くて一度逃げたくせに。
 その時、スマホのバイブ音がどこからかした。私のではない、これはダンデのだ。音につられて顔を上げた私の前でポケットからそれを取り出すと、ほんの一瞬、瞬きの間くらい、ダンデの顔色が変わった。それに、舌を噛み切りたくなった。
 あの人からなんだ。

「出て、いいよ。私、行くから。タクシー呼んでくれてありがとう」
「いや、でも」
「タクシーそろそろ来るだろうし。発着場にいないと。荷物、はい。ありがとう、色々と用意してくれて。お陰で楽しかったよ。凄く凄く、楽しかった」

 震えるスマホを見つめたまま動かないダンデに、引き攣っていたのが嘘かと思う程、私の口は淀みなく動いた。躊躇うダンデに持ったままだった荷物を預けたら、笑いかけた。頑張って、笑った。

「家に着いたら……いや、すまない。気を付けて。見送れなくて悪い」
「ううん。じゃあ、ばいばい」

 またねは言えない。練習の前までなら言えたけれど、もう言えない。またが、私にはあるかわからない。連絡はくれると言われたが、それだけだ。
 ダンデが呼んでくれたタクシーに乗り込んで、窓から外を見るかどうか、くだらないことに少し悩んだ。でも結局窓から顔を出せなくて、あの人と電話するダンデは見なかった。

 それから数日。ただダンデからの連絡を待っていた。待つことしかできないから。


  ◇◇


「彼女に謝ってきたんだ」

 ――中途半端に開けた口が閉じられなかった。だって、仕事帰りにダンデが待っていただなんて、どうしたら夢見られるだろう。待つ役割は、私の筈なのに。
 はたしてこれって現実でいいのかと、有り得ないことに自分であれこれ疑ってみるけれど、どこをどう見ても目の前で私と対面しているのはダンデで、私がダンデを間違えるわけもなくて。会社を出てすぐに声を掛けてくるのが他の誰でもなくダンデだってことが、少し、信じられなかっただけで。

「だん、で?」
「謝らないと、イリスに会えないと思ったから」

 移った路地で、ダンデは真面目な顔をしていて、私との差が著しい。でも、構わずダンデは続けている。茶々を入れる気にもなれず、かといって会えて嬉しいって尻尾を振って体を寄せる雰囲気でもない。約束はなかったよな、と必死に記憶を辿ったが、やはりない。なんなら、連絡は取っていなかった。キャンプから帰った数日後に、この前は楽しかった、と当たり障りないメッセージが来たくらいだ。社交辞令みたいだなと項垂れつつも、ダンデから何でもないメッセージが来るのが天にも昇る気持ちになるお手軽な頭なので、嬉しさを欠片も感じなかったわけではない。
 けれど、その時しか連絡は来ていなかった筈だ。私がダンデからの連絡を一つだって見落とすはずがない。時間さえあれば、いや時間がなくても連絡が来ないかとスマホを見ていたのだ。最悪あの人と進展があった報告が来る可能性だってあったが、それでも習性のようにやめられなかった。

「え、と。謝った?何か、しちゃった?あ、なんか、失敗しちゃったの?好きだって言うタイミング間違えたとか、その……練習の成果、出せなかった、とか」
「違う。好きだったけれど、気付けば気持ちが変わってしまったと。だから謝った」
「は?」
「もしかしたら本気のそれではなかったのかもしれない。だって、気持ちがこうして動いてしまったんだから」

 全く言われている意味がわからなくて、多分目が点になっている。ぱかりと空いた口も間抜けだが閉じる余裕がない。可笑しい。私がダンデの一言一句逃すわけないのに。
 意味がわからない。

「相当怒られた。癇癪を起されて、最低だと謗られた。叩かれてしまった。時間を返せとも言われた。俺も、そう思う。弄んだような結果になってしまった」
「でっ、でも、別に付き合ってたわけじゃないんだし、ダンデが悪いわけじゃないと思う、よ」

 多分プライドが傷付いたんだろうなと、ダンデには教えないが薄っすら理解した。遠からずそうなるだろうと思っていたのにあろうことか相手から断られて。あの人はそういう人だ。でも、そうしても可笑しくない程綺麗で、自分を魅せる人だ。それより、わざわざ好きだったけどもう好きじゃなくなったとか、二人の関係が進展していなかったのなら本人に直接口にするべきではないと思うのだけれど。まぁでもダンデらしいなと言えばらしいなと思わなくはない。

 ――あれ。好きじゃ、なくなった?

 今頃になってダンデの言葉を反芻すると、絶句した。だから、そういうことを面と向かって言うものではないよ、なんて偽りだが経験を積んだ者のように、練習の時に振る舞ったようなあたかも上級者じみる小言は言えなかった。
 ある意味真っすぐすぎるダンデの、あまりにぶっ飛んだ行動に。私があの人だとしたらたまったものではないだろうが、私はあの人じゃないから。ダンデの好きな人が、好きな人じゃなくなった。それはつまり、私が嫉妬する対象が、消えたことを意味する。もうダンデがあの人の話を笑顔ですることがないのなら。

「な、なんで?だって、あんなに、あの人のこと」

 私の周りにだけ花吹雪でも待っているような。叫んで走ってこの喜びを喚きたい気持ちを懸命に抑え込みながら、隠すように早口で問うてしまった。そんなの聞いたところで薬にも毒にもならないが、喜びの隠れ蓑くらいにはなるかと思って。

「……他に、好きな人ができたから」

 どん。舞い上がっていた自分が、一気に地中深くにまで叩きつけられて埋められた。花吹雪が塵になる。遅れて、気持ちが動いたから、と言っていたことを思い出した。あれはただ好きではなくなったという単純な意味ではなく、矛先が変わったと言う意味だったらしい。

「そ、なんだ」

 早鐘を打つ鼓動は、別に期待が募ったからではない。ぬか喜びしてしまった羞恥と、結局、私がまだダンデに手が届いていないことを痛感する苦しみのせいだ。なんて勝手なのだろう。あの人から奪おうとか不遜なことを企んでダンデに練習を持ち掛けたわけではなかった。でも、どこかで、私のことを見るようになってくれやしないかと、奇跡みたいなことを望まなかったと言えば、嘘になってしまう。好きに嘘の好きを返してもらって本物じゃない幸せに身を浸らせながら、本物になることをいつも願った。
 罰なんだと思った。さいあくな女になった私に対する、私のことなんか好きじゃないダンデの優しさを利用した私への。

「あ、じゃあ、これからはその人とうまくいくように、しないとだね。は、はっ。うん、あるよ、気持ちが変わっちゃうこと。恋愛ってほら、簡単なことで始まって終わっちゃうものだし。うん、ダンデ、可笑しくないよ。怒られることじゃないよ、うん。うん」
「……そうなんだな。可笑しく、ないんだな」
「うん。他に好きな人ができたから、別れるとか、よくあることだよ。可笑しくないよ。ダンデとあの人は、そういう関係になる前だったけど。でもやっぱ、わざわざ白状するようなことじゃないと、思うよ。別れたくて、とか、そういう理由じゃなかったんだし」
「もう遅いとは思うけれど、誠実でいたかったんだ。違う、そういう俺になりたかった。散々、利用してしまった相手だから」
「りよう……?あ、まさか、あの人と同時進行だったの?え、ええ?それはどうなんだろ、というか、だったら早く、教えてくれればよかったのに、ダンデってこう、なんだろ、経験ないって言ってた割に案外大胆なんだね。まさか好きな人が二人いたなんて、思ってもみなかった、よ」
「最初からそうだったわけじゃないんだ。いつの間にか、頭から離れなくなった。笑った顔よりも、最近は泣き顔ばかりで、どうしたら笑うのかって、考えてばかりだ。この前も、そうだ」

 とんでもないことのオンパレードで、へえ、へえ、と壊れた人形みたいにぎこちなく笑っては身の入らない返事をした。もうなんだか、自棄になっている気がする。まさか、ダンデの心を動かした女が他にいただなんて。私があの人の代わりに練習台になっている間に、私に気付かれないようにダンデに擦り寄って、その気持ちに手をかけた女がいるだなんて。もちろんどうやってダンデと関係を築いたなんて露も知らないが、イメージは良いものではない。ダンデに気持ちを向けられるってだけで羨ましくてしょうがないのだからプラスになるわけがない。
 どんな女なんだろう。なにせあの人からダンデの心を奪った女だ、よほど美しくて、性格がよくて、立派な人間なのだろう。これでもし男だったら、それこそどうしたらいいんだろう。そうなれば私じゃもう、成す術がない。

「ふと気が付いたら、その人のことばかり、気にするようになっていた。でも一度酷いことをしてしまったんだ。彼女に素気無くされた後で苛立っていて、そもそも苛立ったのも、以前ほど彼女の側にいたいと思えなくなっていたことが自分でもよくわからなくなったからだった。ぶつける先が多分欲しかったんだ。だからその人に、直接ぶつけてしまった。だけど、とても後悔した。泣きながら笑って、笑いながら泣くその人は、最後まで、いいやその後も、俺を責めなかった」

 ダンデの言葉に、息を止めた。
 は、とまた口が開きっぱなしになった。空気ばかり入って咥内から水分が逃げていく。

「正直、最初は興味がなかったんだ。練習だなんてとんでもないことを言いだすと軽蔑した。でも、都合良く甘えて利用してしまった。だから、罪悪感のせいで気にしているのだとも考えた。だけど、ついこの前、やっとはっきりしたんだ。楽しいって笑ったその人の笑顔が、もっと見たいって」

 体の横に垂らした手が震えていて、咄嗟に握り締めた。

「俺が好きなことを楽しいって笑ってくれたその人に、悲しそうに泣かないでほしいんだ」

 喉が潰れそうだった。頭が殴られているように痛かった。

「だから、」
「……っその女は、優しさにつけこんだだけだよ!」

 とうとう黙っていられなくて金切声で叫んだ。ダンデは驚いて口を閉ざしたが、二の句を継ぐ前に頭を振った。丸めた拳に爪が食い込んで、ネイルなんかするんじゃなかったと後悔した。ダンデに少しでも可愛いって思ってほしくて施したやつだ。

「ダンデは利用したんじゃない、利用されただけだよ、体だけでもほしくて、繋がりが欲しくて、そうやって、利用されたんだよ」

 ふぅ、ふぅ、と呼吸が乱れて、口の中が渇いているのも相俟って、とても辛かった。

「ほんと、は、ただ抱き締めてほしかっただけで、見てほしかっただけで、だけどほんとは、ほんとは、体だけじゃ、なくてッ……。だ、だからっ、ダンデが気にするようなものじゃなくて、ば、か、だったじゃん、そういう馬鹿な女に振り回されただけなんだよ、ダンデは。こういうのなんだっけ、あ、ねとり、だ、ダンデは嫌なやり方で惑わされただけ、なんだよっ、かわいそう、情が沸いて絆されちゃったんだね」

 馬鹿でいたかった。最低でさいあくなことに気付いてほしくなかった。この期に及んで、そうして。
 だって、もっと最低でさいあくな自分が首をもたげてしまったから。期待、して、でも防御していたくて、覚えてしまった期待を砕いて欲しかった。望み通りじゃないか、と笑う自分の横で、でもその望みをどう叶えたのかとしおらしくする自分がいる。ずっとずるい自覚を持っていたから、ここで手放しに笑えなかった。こうまでして、私は悪い人間にはなりたくないらしい。
 後悔があるわけではない。ダンデの初めてになれたことも、その後も何度も練習と称して抱いてもらったことも。その全てのきっかけは自分の浅薄すぎる、後先を考えない衝動だった。こんなことになるなんて、こんな気持ちになるなんて、こんなにも身勝手な人間になるなんて、微塵も想像つかなかった。

「その女、は、さいていっ、で、さいあくっ、で、ずるい、今もそんな自分を知られたくなかった、女なんだよ……ッ」

 素直に抱き着きたいのに、抱き着いたら。ダンデ、私だけを見てよって、ずうっと胸の中で唱えてきたくせに。いざとなったら、自分を守ろうとする。違う、汚い部分も一緒に受け入れてほしいから。それもまた盛大なずるさだ。もし否定されるのなら、終わりまでさいあくでいたい。

「俺も、ずるいだろ」

 ダンデが私の手を取った。同時に滲んだ視界が現れる。いつの間にか開いた拳で顔を覆っていたのだと、それで初めて知った。

「もしかしてその人は、なんて思いながら、練習って言葉に乗っかって。慕う人がいるのに別の人と。気持ちを利用したのと同じだ。それで、いつの間にか、気持ちが変わるなんて。……でも、重たく考えるものじゃないんだろ?みんな真面目だけで恋愛しているわけじゃないんだろ?だったら、変わることだって。情が沸いて絆されたというのなら、それもただの結果だ。もう、その結果にばかり気持ちが揺れるんだ」
「……」
「……この前、どうして家にまで連れて行かなかったか、わかるか」

 キャンプ帰りの日だ。そんなの、好きじゃない女にテリトリーに入られたくなかったからじゃないの。けれど詰まった喉は開けなかった。

「帰したくなくなると思ったから。我慢できる自信がなかった。練習とかそんなのもうどうでもよくて、触れたくなるに違いないから。でも、それじゃだめだと思ったんだ。あの帰りの時点ではまだ、けじめがつけられていなかったから」

 ぎゅうっと瞼を瞑った。しゃくりあげているせいで口がへの字になっていると思う。だめだ、期待でいっぱいになるな。予防線も消せない。

「あの電話の後に、彼女に直接会って、謝った。あちらには思わせぶりな結果になってしまったから本当に申し訳ないけれど、でも、その上でイリスに訊かなきゃならないことがあるから」

 ずるしたの。さいあくなの。最低なの。なけなしの反発で小さく零したら、俺もだって、とダンデはぎこちなく笑った。逆の立場だったら、状況によっては俺もそうするかもしれない、などと嘯く。

「……俺に、おまじないを教えてくれただろ」

 ぶわりとたくさんの光景が蘇った。練習だ、手解きだ、と称して私を好きじゃないダンデに何度も触れた。触れてもらった。満足だった。満足で、でもその満足は空いた穴からどんどん落ちていくばかりで、一向に満たされない。貪欲にしかならなくて、だけどこれから先も傷付くだけだと十二分に理解したから、自分から終わりを告げてしまった。
 でも、欲しがるのは終われなかった。

 現実としていざやってきたら、足がすくむのに、羽でも生えたような。

「あれは、本当に、ただのおまじないか?おまじないじゃないなら、俺も、これからは本当の言葉を伝えるよ」

 耳を撫でてくれる優しすぎる声に、また涙が溢れた。


20231012