短編
- ナノ -


 新世界にて


 そこは完成された理想の具現だった。
 悲願で、幸福で、桃源郷だった。違う、あらゆる恐れも、侮蔑もない、正された世界。正しき血が正しき道を歩ける陽の世界。
 背後に控える、幼き頃より慕い奉ってきた絶対的な神。それが永劫に己の元にいれば、時間の神も空間の神も指一本で支配できるし、影の中に潜む神も愉悦に堂々と回遊する。つまりは、あらゆることが思うがままだった。
 酷く満悦で楽しい日々である。正しき血を祀りひれ伏す人間達に、同じく己に付き従うポケモン達。自らの身分を弁えて時に食べ物や金品を携えて参じ、またある時は教えを頭を垂れながら乞う。頂点とはこのこと。

 明くる日も、そのまた明くる日も、清々しい気分で目が覚める。最早悪意に晒された昔日はこの世から潰えた。凶暴なポケモンや雨風雪と暑気から身を守る生活はとっくに夢幻となり、清潔な空間で神々しい朝日を浴びることも出来る。食べる物に困ることもせず、寧ろ差し出される立場にある。迫害など最早露のような概念と成り果てた。

『ウォロさん、疲れたでしょう。一緒に眠ろう』

 夢に淵にて何か見て聞いた気がしたが、瞼を開くと同時に底へと沈んでいく。朝の静謐さと、眩くも心地良い光と、清潔な布が身をくるんでくれている。何より、その傍らに控える、雄々しく凛々しい、己だけの神。

「なんてすばらしいのだろう、ワタクシの世界は」

 恍惚が口の端から滲んでいた。泥とボロ布を被って眠った記憶ももう要らなかった。とうとう手にした自由と力さえあれば、雲の流れすら操れるのだ。夢を現実とした新世界のなんたる素晴らしきことか。

「シンオウ様」

 幼少から拝した絶対的な、この世をくれた神と共に、崇め奉る有象無象を導くのもまた務めである。かしづく頭の前にて、日々優しく教えを説いてやる。この身に継いだ、脈々と続くヒスイの正しき血のこと。誠のヒトとは我らのことを指すこと。そして神をも従える己こそが、真に神に近しい存在であること。神になりたかったわけではなかったものの、こうして世界の中心にもいざ立ってみれば、それは神と同義になることと後々気付いて、恐れ戦くばかりか享楽の如く血肉がわき踊ったのは記憶に新しい。正しき血の、正しき扱いはこうあるべき。天冠の山麓の玉座にて、それを祝福するように陽がいつでも包み込んでくれた。

『もう、眩しいよ……。戸はちゃんと閉めて』

 眩しいことなどあるものか。あれは瑞光に等しい。己は正しき世界にいるのだ。
 これが本来在るべき光景なのだ。

「好きにすればよかろう。これはもう、そなたの世界じゃ」

 せっかく残したその人は、それだけを言い残して早々に姿を消した。なんやかんやで隠遁生活に慣れてしまった可哀想な人間だ、今更崇められることに辟易したのかもしれない。しかし引き止める口実もないため、そちらこそ好きにすればよかろうと、消した姿を探すこともなかった。


 険しい山路を進み、拝謁を求める有象無象の中には、記憶の中に薄っすら残る顔が稀にあった。噂を聞きつけヒスイの外から渡ってきたらしい彼等の名は、それぞれ今やどうでもいいものですぐ忘れ去ったが、いつの間に誕生したのか覚えのある忌々しい青い頭や黄色い頭が、恭しく己を見上げる様はかなり気分が良い。なにせ直接ではなくとも、間接的に彼等の祖先のせいで古代シンオウ人はヒスイを追われたのだから。その昔、広大で神聖な土地を我が物顔で占領した不届き者たち。それぞれに拝する神を持たぬせいか二つに分かたれてはいないが、今となれば些末である。彼等にその歴史と記憶がなくとも、裁かれるべき罰を持たぬとも、己がその罪を知っている。だから、彼等の頭を見下ろすのは一際格別だった。
 この世界に英雄はもう存在しない。あるのは神と同格となった己だけ。空から降って来た子供など創造の際に消え失せている。端からなかったことにされた子供のことなどいたくどうでもよいことだ。そのことについても己だけがまた覚えている。憎々しい子供の、敗北の末に絶望を映したあの滑稽なかんばせだけは、高揚と共に体の中にありありと残っていた。成す術を失くして、地に膝をついた、哀れで蟻のような矮小な存在。ただし拝した神とまみえることが叶ったのはあの子供の功績でもあるため、あの最期の顔くらいは記憶に留めておいてやっている。

『嬉しそう。ウォロさんが嬉しそうだと、私も嬉しいね』

 有象無象を見下ろしている最中、また煩わしい声が聞こえた。追憶の彼方から呼び鈴のように届く音だ。いつだって偽りの名を呼ぶ。それしか知らないから。しかし瞬く間に再び底へと沈んでいく。
 嬉しいだなんて、これはもうそんな短絡な一言では片付けられやすまい。それすらも超越したこの歓喜をどう言葉に起こせばいいものか、ましてや人の作った言葉だけでは収まるものではない。迫害も、差別も、暴力も、もう己の敵ではない。この先永劫どこかへ追いやられる必要も微塵もない。望んだ世界が目の前にどこまでも拡がっているのだ。本当に、なんて頭の足らない女だったのだろう。

 変化のない日々ではあったが、満悦には至っていた。これでいいのだ。慣れてくれば、いくらか代わり映えのない世界につまらなさを爪先くらいは感じることもあったが、理想の世界にいるのだから罰当たりな考えである。ただ、本当に変わらない日々ではある。汗水垂らしながら険しい山路を上ってくる有象無象達。身の回りを任せている、不敬がないようにと滅多に口を開かない従者達。かしづく神と呼ばれたポケモン達。燦々と陽が続けば天の恵みをもたらし、新たな命が芽生えれば祝福を与え。慰みが欲しくなればいつでも手に入る。種をばらまく趣味はないので限られてはいたが、困ることも全くない。

『眠れないの?いいよ、ここ、おいで』

 この頃、眠れない夜は確かにあった。満悦に至っているのに、どうしても寝付けない夜がいくつか。不思議でたまらなかった。快適な温度の空間で、外敵の心配もない柔らかくて清潔な布団に毎夜横たわっているにも関わらず。欲しい物は何もかも手に入る、己の世界になったのに。
 誰もが己を、己の血に連なる者たちを、崇め、奉り、拝している。これこそヒスイの正しき在り方。もう誰も己を追い立てようとするものはいない。恐れるものなど何一つとて。
 なのに、時折、広く心地の良い布団の中に、冷たい風が吹く錯覚がした。

「恐悦至極に存じます」

 有象無象の中で頭を垂れるその顔に、まさかと、驚く程動揺した。気を逸るがまま面を上げるよう命じれば、恐る恐ると手をついたまま顔を見せる。けれど、それは他人の空似だったようで。声も顔の作りも似ていたが、これは違う。一気に冷めかけたが、また呼び鈴のような涼やかな声がどこからか蘇ってきて、目眩がしそうだった。
 その女を暫くの間慰みに使った。神と同様に奉る己に最初はびくびくとしていたが、女の体の扱いはわかっているため、次第にだらしのない顔になる。けれど嬌声が耳に馴染まずに布団へと顔を押し付けて声を殺させた。それすらも嬉しそうだったが、顔も見なくて済んだので、以降はそうするようにした。けれど、どれだけ慰みに使っても、どこも埋まった感覚がなかった。それは夜のことだけではなく、有象無象と相対しているときも、この身に流れる尊き血を説いている時でさえも。可笑しな体をどうにかしようと殊更女を慰みにしても、埋まるどころか拡がっていく一方に思えた。それもまた可笑しな話でもあった。何を埋めようと、しているのか。何が、拡がっていくというのか。

『ウォロさん』

 この世ではないような彼方から声が、聞こえる。それがまるで、ぴたりとこの体に寄り添うように。

『大丈夫だよ、ウォロさん』

 その名は偽りだ。偽りしか知らない無知な女。尊き血のことも、迫害も、暴力も、悪意も、何も知らず呑気にいた。己の本当の野望すら知ることができない頭の足らない女。
 けれどそれが、いつの間にやらその唇に慰められることが、いつだか、酷く安堵できた。瞼に、頬に、唇に。戯れに額や頭に。柔らかいその感触。小さな手に握られるのも、どうしてだか。彼方に置いてきたものが、少しずつ、少しずつ、滲んでくる。

『私、ここにいるよ。ウォロさんが見えるところに、ちゃんといるからね』

 そう、寒くて、眠れない夜に、そんなことを囁きながら、横たわる体を、受け止めたのだ。己の頭を抱えながら抱き締めて、母親のようにそれを撫でながら、守るように、そうして。素肌すらも幾夜と明け渡して、無知で馬鹿なくせに、穏やかに掬い取ろうとしていた。

「――様ッ」

 布団の中からかろうじて聞こえたくぐもった声。突き出した尻をくねらせる、違うと理解しながら使っていた慰み物。
 こんな顔ではなかった。こんな体ではなかった。これは全く違う。声も、作りも、あらゆるものが似て非なる。これではない。それは、あれが呼んだ名前ではない。今しがたが真の名であるのに、無意識に呼ばれることを望んでしまった名は、耳に優しかったのは、それではない。
 あれはもう、この世界には存在しない。
 要らなかった筈だ。望んだのは他の誰でもない己で、そういうつもりで懸命に生きてきた。泥の中で卑しくも啜りながら命を繋ぎ止め、悲憤の下で神を手に入れる計画を幾年もかけて編み、ようやくヒスイへ戻り、そして、そこにあれがいた。要らないものだった。だからこそこの正しき世界にはいない。
 今あるもの全てを無に帰し、新たな世界と歴史を作るために泥濘の中を無様でもかきわけて進んできたのに。とうとう悲願を叶え、夢見てきた世界を生み出したのに。足らないものなど欠片もなく、誰もが己を正しく認識し、正しい扱いをする。至極満足しているのだ、今に。慣れもつまらなさも些事だ。冷たい風も、幻なのだ。そうでなくてはならない。新たな大地と己に従う有象無象にポケモン達。要らないものを排し、必要なものだけを生んだ、己の。
 これこそが、在るべき姿であるのに。

『ウォロさんのこと、好きだよ』

 弾かれるように、己の意志など知らぬように、体が一人手に神を仰いだ。


  ◇◇


「どうしたの?」

 耳に優しい声に導かれるように瞼を開ければ、ジブンを覗き込むイリスがいた。なまじ夜目の利くものだから、これでもかと眉を下げているのがこの暗さでもわかり、思わず笑いそうになった。相変わらず、頭の足らなさそうな顔をしている。

「……何がです?」
「なんか魘されてたから。汗もかいてる。待ってて、今拭くもの持ってくるから」
「いいですこんなの、すぐ乾きますから」
「放っておいたら風邪引いちゃうよ」

 同じ布団の中から抜けようとするから、咄嗟に手首を引いて留めた。目を丸くするイリスを、そのままぐいっと抱き寄せて、小さくて丸い頭を抱え込む。不思議そうに見上げるイリスの頭に鼻を埋めたら、寝汗をかいていたのかほんの少し汗の匂いがした。ああ、人間の匂いだ。

「か、嗅がないで」
「嫌です」
「む、ぅ……なんで、かお、揉むの」
「品のない顔だなぁと思って」
「ひど……」

 掌で挟んだ頬をぐにぐにと揉んだり、輪郭をなぞったり、その造形を手繰るのにジブンの大きな手では余るが、その分細部に渡って拾うことができた。身を捩っても離してやらない。ジブンも汗臭いかもしれないが、気にしていられなかった。

「怖い夢でも見た?」
「……そうですね」
「そっか。怖い夢はやだね」

 安心させるように薄っすら微笑んで、頬を指で撫でてくる。夜着の袖で残っている汗を拭ってから、張り付いた髪を後ろに流して、解いているそれを梳くように。何度かそうされると心地良さに瞼がまた重たくなってきた。夜着の中にある肌の温度が絶妙で、それを更に求めるように首筋まで頭を下ろした。

「くすぐったい」

 声音は柔らかかった。戯れの類だとわかっているのだ。

「ウォロさん」

 名前を呼ばれたら、少しばかり体の力が抜けた。朝でも、昼でも、夜でも、耳によく馴染む音だ。

「大丈夫、寝よう。くっついてたら、きっと怖い夢も見ないよ」

 伸ばされた腕に誘われるがまま、胸元に顔を寄せて、その背中に腕を巻き付け直す。足でもとらえてやった。ちょっと苦しいなんて笑いつつイリスも、ジブンの頭を守るように抱き寄せながら、今度は自分が頭に鼻を埋めた。終いには数度頬を擦りつける。文句など言わない。
 寄せた先にある胸元から心の臓の鼓動がする。耳をつけたら、ジブンの音と重なって、余計に眠気を呼んだ。

「明日の朝はウォロさんが好きなもの作ろうか。ナバナさんがね、豊作だってたくさん野菜くれたんだよ」
「まだコトブキムラに通ってるんですか」
「だって、お世話になってた場所だし。もう新しいムラに移って結構経ったけど、やっぱりナバナさんとこの野菜が一番美味しいから」
「他の男からもらったものを平気で口にするんですね」
「ただの食材に罪はないでしょ」

 軽口にいつも通りくすくす笑うイリスは、眠気も混じっているせいか、あまりに呑気そうだった。だから、抱く力を込めた。

「おやすみ、ウォロさん」

 イリスの小さくて握れば簡単に潰れそうな、やわい手がジブンの頭を最後に撫でた。
 薄い布団なのに、どうしようもなく温かかった。


20231005